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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『戦没農民兵士の手紙』

2014年08月06日 | 戦争

中国電力本社の前に右翼の街宣車何台かいて、何かがなっていた。
何を言ってるのかと思って耳をすますと、電力は足りている、原発は不要だということだった。
その右翼の人に、核兵器の保有についてはどう考えているか聞いてみたかった。

岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(1961年刊)は、農家出身の戦没兵が家に出した手紙を集めたもの。
名前の下に略歴が書かれている。

及川一男 岩手県江刺郡田原村出身。田五反八畝、畑四反、原野三町歩の農家の長男。妻と子供二人。昭和十四年八月七日・北支山西省汾陽の陸軍野戦病院で戦病死。二十二歳。陸軍上等兵。

多くの兵士は妻子を残して死んでいる。
妻子はその後どうやって生活したのだろうかと、手紙の内容よりもそちらのほうが気になった。
略歴には実家の田畑の広さが書かれている。
田畑二町四反、貸付二反、山林三十町歩の人は裕福だったと思うが、田二反、畑一反の人もいて、農業だけで食べていけたのか、妻と子供一人はどうしたのかと心配になる。
岩手県農村文化懇談会からの呼びかけに応じて手紙を提供したということは、戦後それなりに生きてこられたのだろうが。

二つほどご紹介します。
佐々木くりさん(佐々木清美の母)

「カアサン カアサン
稼セガネデノンキニシテクロ」
清美ハソウ言ッテ征ッタノス
ワラシハ清美一人ダデ、我ソウ思ッタノス
ヘイタイサイカネデスムモノナラ、ゼニッコ
ナンボ出ステモヨ、ナントカスベトオモッタノス

佐々木清美さんは農家の一人息子、結婚二か月で出征、二十五歳で戦死。

岩手県和賀郡藤根村出身の衛生兵が戦地から持ち帰った中華興記製資有限公司用牋に書かれたもの(筆者不詳)

グンイドノハヤクアゴヲ
ツケテ下サイ、ミンナト一ッシ
ョウニゴハンヲタベラレル
ヨウニシテ下サイ
グンイドノフネハイツ
クルデス
ゴハンガタベタイナ
タンヲトッテ下サイ
ダンヲトッテ下サイ
クチノナカノチヲフイテ
下サイ
モウネリタクナイ
ヒトリデ小便マリマス デ
ベンキカシテ下サイ
スマナイカ角ザトウヲ一ツ二ツモラ
ッテクレナイカネ

善行キャンペーン

2014年07月22日 | 戦争

アメリカ軍の善行キャンペーンについて、屋良朝博『砂上の同盟』に書かれてあります。

陸海空の全軍が人道支援活動(医療チームによる一般診療、工兵部隊が学校や公共施設の建設・修繕など)を展開している。
テロとの戦いに力で押さえつけるだけでなく、善行によってアメリカに好意を持つ人を増やそうとするのが目的である。

太平洋陸軍は、2008年上半期にバングラデシュ、カンボジア、インドネシア、マレーシアを訪問、白内障100人、聴覚障害30人、口蓋破裂30人に手術を施した。
1週間の医療チーム派遣の費用は7万ドル。

太平洋海軍は病院船を巡航、2006年は5万件、2007年には3万件の治療を行った。
2006~2008年で経費は2500万ドル。

ベトナムの医療支援は年間600万ドルを投じ、診療所やラボの建設、現地医療スタッフの教育、トレーニングを行っている。

一方、グアム島のアンダーセン基地の2008年度予算は3億4500万ドル。
巨大格納庫の建設、滑走路の補修工事、病院、体育館、学校、住宅などの生活インフラ、さらには刑務所の新築など。
2015年までに10~20億ドルの予算をつぎ込む予定。

人道支援活動のほうがものすごく安上がり。
集団的自衛権の行使を認めることで、日本を戦争のできる国にするよりも、自衛隊が善行キャンペーンをするほうがよっぽど日本の評価を高めることになると思う。

もっとも屋良朝博氏の名言

軍にとって平和とリストラは同義語だ。

ということを考えると、戦争がなかったら困る人がいるわけで、ウクライナ紛争を喜んでいる人は少なくないと思う。
アメリカ軍がウクライナに行くことになったら、自衛隊も派遣されることになるんでしょうね。


集団的自衛権に関する防衛省・自衛隊の見解

2014年06月17日 | 戦争

秘密保全法に反対する愛知の会の「集団的自衛権を容認する解釈壊憲に反対する声明」というチラシを知人からもらいました。
そのチラシに防衛省・自衛隊のHPにある「憲法と自衛権」に集団的自衛権についての説明が引用されていました。

(4)集団的自衛権
 国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているとされています。わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然です。しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています。


安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会という長ったらしい名前の安倍首相の私的懇談会が、現行憲法の下で集団的自衛権を行使することは可能だとの解釈を示しているにもかかわらず、防衛省・自衛隊のHPではいまだに「集団的自衛権の行使」は「憲法上許されない」とあるのはどうしてか。
私なりに考えてみました。

1 HPの担当者が集団的自衛権を行使すべきではないと考えているから
2 HPの担当者が集団的自衛権の行使を認めない憲法はおかしいと考えているから
3 首相、防衛大臣、防衛省・自衛隊の人たちは防衛省・自衛隊のHPにこんなことが書かれてあることを知らないから

3という気がします。
いつ変更されるのかが楽しみです。
説明が変更したなら、変更した理由が書いてあればうれしいです。

(追記)

7月7日に防衛省・自衛隊のHPを見たら、「憲法と自衛権(現在、記述を修正しています)
」とありました


マイケル・ジョーンズ『レニングラード封鎖』

2014年02月02日 | 戦争

デイヴィッド ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』という、ドイツ軍によって封鎖されたレニングラードが舞台の小説がすごく面白くて、それでレニングラード攻防戦に興味を持ち、マイケル・ジョーンズ『レニングラード封鎖』を読みました。

レニングラードはドイツ軍によって1941年9月8日から1944年1月27日までの872日間封鎖され、当時、約300万人の人口のうち約100万人の市民が死亡した。
気温がマイナス40度に下がった1941年12月半ばから1942年3月半ばまでの三か月の餓死者は80万人を超すと推計されている。
レニングラードの人々はどのようにして生き延びたのか。

『レニングラード封鎖』を読みながら、災害時には人々は助け合うことを検証したレベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を思い出した。
レベッカ・ソルニットは「災害時には二つの集団がある」と言う。
・利他主義と相互扶助の方向に向かう多数派
・冷酷さと私利優先がしばしば二次災害を引き起こす少数派
多数派は一般市民であり、少数派には権力者・エリート・メディアが含まれる。

レニングラードでも同じだった。
『レニングラード封鎖』によると、三者に分けられると思う。
・人間的価値を保ち続けようとした人たち
・生き延びようとして自己を見失った人たち
・私利私欲しか頭にない人たち

1942年1月と2月の公式死者は20万人。
1日に7000人、あるいは8000人が死亡している。
3月には赤痢が発生し、1日の死者数は2万~2万5000人に達したと推定される。
そういう状態の中でも、他人を助けたいという思いが、人々に生き延びようという気を起こさせた。

イリーナ・スクリパチョーワ

他人を助けることが生き残る鍵になった。

見ず知らずの人から援助を受けるといった、助け合いと犠牲の精神も現れた。
マカロニの配給の長い行列で、老婦人が小さい子供がいるエレーナ・コーチナに最後のマカロニを譲ってくれたり、体調を崩したエレーナ・コーチナの叔母に同僚が配給券を届けてくれた。

ダニール・グラーニン

他人を救った人たちは、自分自身を救った。芸術と文化がそれを助けた。

封鎖中でもいくつかの劇場とコンサートホールはずっと活動を続けており、飢えに苦しむ市民たちは展覧会やコンサートに出かけた。

もっとも、献身的行動ばかりではなく、生き延びるために醜い行動へ追い込まれた人たちもいた。

アナトリー・モルチャノフ

ほかの人たちと交際しなかった人はもたなかった。そしてわれわれは市内で多くの人がろくでなしになり、いつも他人の不幸から利益を引き出そうとしているのを目にした。

エレーナ・コーチナ

どんなことをしてでも自分の命を救うことを追求する人たちがいる。彼らは配給券を盗む。通行人の手からパンをひったくり、拳骨の雨の中でそれを食らう。子供をさらうことまでする。彼らは飢えと死の恐怖のために狂いながら市街をうろつく。毎日、数えきれない悲劇が起き、この都市の沈黙の中へと消えていく。


食べるために肉が切り取られた死体が少なくなかった。
組織された人食い団が活動していた。

ドミトリー・リハチョフ

肉を手に入れて売るために人を殺した悪党どもがいた。

封鎖中に少なくとも300名の市民がカニバリズム(人肉食)のかどで処刑され、1400名以上が同じ罪状で投獄された。

しかし、食糧がなかったわけではない。
1941年12月には、凍結したラドガ湖を通ってトラックが毎日食糧と補給品を運び込んでいた。
1942年2月10日ごろは、食糧の輸送量は1日3000トンに達している。
『卵をめぐる祖父の戦争』で描かれているように、市、党、軍隊の幹部には食糧や衣類などは十分にあったが、市民への配給は増えなかった。
一般市民よりも権力を持っている人がかえって怖いと『災害ユートピア』にあるが、レニングラードでも同じである。

そもそもドイツ軍にあっさりとレニングラードを封鎖されたのは、ソ連軍北西戦域軍総司令部総司令官ヴォロシーロフ元帥が無能だったからである。
1937~1938年の赤軍粛清では、5人の元帥のうち3人が銃殺、軍司令官16名のうち15名、軍団長67名のうち60名、師団長169名のうち136名が粛清され、軍隊に事実上指揮官がいなくなったのだが、粛清の中心にいたのがこのヴォロシーロフである。

春が近づき、雪の下のたくさんの死体や大量の排泄物が出てきて、伝染病の感染源となる恐れが生じたので、女性住民に道路清掃をするよう命令が出た。
衰弱して動けない人が逮捕されることもあった。
しかし、市民は自ら進んで清掃するようになり、集団作業は生き延びるという決意をもたらし、市民に連帯感、使命感が生まれた。

1942年の春から事態は好転するが、市の当局者は検閲を強化し、自分の日記に状況を素直に書いたことだけで、逮捕される人が続いた。

ドミトリー・リハチョフ

電気も水道も新聞もなかった時でさえ、当局はなおもわれわれを監視し続けていた。

当時のレニングラードの党指導者ジダーノフはスターリンの腰巾着で、戦後にジダーノフ批判といわれる文化人や知識人への抑圧をした人。

だからソ連はダメなんだと思うが、しかし考えてみると、封鎖下のレニングラードは世界の縮図ではないだろうか。
世界中にはレニングラードのように戦争や飢餓で苦しむ人が大勢いるが、それは政治の無策ためだし、持てる者が食糧を抱え込んでいるからである。


昭和天皇の戦争責任

2013年12月29日 | 戦争

赤坂真理『東京プリズン』を読みながら、小説を書くということは過去の自分を受け入れるための一種のセラピーなのかもしれないと思った。
というのも、赤坂真理氏は15歳の時に渡米しているそうだ。
母と「私」(作者)との関係の修復。
そして、天皇と国民との関係の修復。
赤坂真理氏の天皇観と思われる汎神論的天皇、円の中心にある虚無としての天皇は、現実の歴史的な存在としての天皇とは違うと思う。

『東京プリズン』は天皇の戦争責任についてのディベート小説かと思っていたら、441ページある中の342ページからディベートが始まる。
の最後、主人公の高校生はディベートの場で聴いた天皇の声を伝える。

『彼らの過ちの非はすべてこの私にある。子供たちの非道を詫びるように、私は詫びねばならない。(略)前線で極限状態のものは狂気に襲われうる。彼らが狂気のほうへと身をゆだねてしまったときの拠り所が、私であり、私の名であったことを、私は恥じ、悔い、私の名においてそれを止められなかったことを罪だと感じるのだ。私はその罰を負いたい。(略)
積極的に責任を引き受けようとしなかったことが、私の罪である望んでトップにまつりあげられたわけではなかった。担ぎ上げられたとも言える。が、それは私がこの魂を持ちこの位置に生まれついたのと同じ、運命であり、責任であったのだ。巡りあわせであり、縁あって演じることになった役割だ。それには私の全責任があるはずであった。戦争前に、戦争中に、そう思い至らなかったことを悔いている』。

二重カギになっているのは、天皇の声だということなのか、それともタネ本があるということか。

赤坂真理氏は「彼ら(兵士)の罪は、私(天皇)の罪である」と書いているが、実際はどうなのか。
昭和天皇はマッカーサーとの会見「自分が全責任を負う」「自分はどうなってもいい」と語ったとされているが、実際は違うらしい。
昭和天皇にとって一番大切なのは国体護持なんだと思う。

梯久美子『百年の手紙』に、昭和天皇、皇后が皇太子に出した手紙が紹介されている。
昭和天皇の手紙(昭和20年9月9日)

戦争をつづければ 三種の神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである。

「三種の神器を守る」=国体護持である。

マッカーサーには「戦争に関する一切の責任はこの私にあります」と言ったとされるが、息子には敗因を軍人のせいにしている。

敗因について一言いわしてくれ(略)軍人がバツコして大局を考えず 進むを知つて 退くことを知らなかったからです。

前にも書いたが、昭和天皇は知らされていたわけではないし、軍人の言いなりになっていたわけでもない。

梯久美子『昭和の遺書』に、2.26事件で死刑になった磯部浅一についてこのように書かれている。

磯部の遺書を読むと、天皇への罵詈雑言といってもいい言葉の向こうに、ある種の甘えが見え隠れしているのがわかる。若く清廉な天皇のことを本当に理解できるのは、醜く老いて重臣たちではなく、同じように若く清廉な自分たちであるとの自負が、磯部にはあったに違いない。

昭和天皇34歳、磯部30歳。
天皇なら自分たちの気持ちをわかってくれると信じ込んでいた磯部浅一たちにとって、反乱軍とされることは天皇の裏切りだと感じたのだろう。

ごく若いうちから孤独と重責のなかで思慮を働かせ、経験を積んできた天皇は、青年将校らよりもはるかに現実的な判断力にすぐれ、また老練であった。事が起きたとき、天皇は経済に悪影響が出ること、特に海外為替が停止になることを危惧し、それを避けるためにも早期の解決が必要だと考えたという。一国の君主としてのこうした深慮は、磯部には想像もつかなかったに違いない。

現実主義者の昭和天皇と、理想主義に殉じた磯部たち。

そして、香淳皇后の手紙(昭和20年8月30日)

残念なことでしたが これで 日本は 永遠に救われたのです。

「救われた」とはどういう意味だろうか。


東京裁判・侵略戦争・靖国神社 3

2013年08月17日 | 戦争

玉串料奉納について、首相は官邸で記者団に「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対する感謝の気持ちと尊崇の念の思いを込めた」と述べた。(略)
参拝すれば中韓両国の反発は必至で、米国側の懸念も高まると判断。(産経新聞8月16日)

朝日新聞社説「68回目の終戦の日だったきのう、安倍首相は靖国神社への参拝を見送った。尖閣、竹島や歴史認識の問題で、中国や韓国との関係が冷え切っている折である。ここで参拝すれば、両国との関係改善はさらに遠のく。見送りは現実的な判断と言えるだろう」

靖国神社への参拝に関する安倍首相たち政治家の発言、新聞の報道を見ると、外国にだけ目が向けられているように感じる。
戦死者や遺族のことを本当に考えているのかと思う。


木村隆『演劇人の本音』で、澤地久枝氏はミッドウェー海戦を調べていく中で、一兵卒までの全員の生死を明らかにしようとするアメリカに対して、日本にはそういう態度のなかったことを指摘している。

澤地「日本とアメリカの軍隊生活ってもの、それから戦死した人の扱いっていうものが同じなのか違うのかを知りたいと思った。あんなに有名な海戦だから当然何人が戦死してそれは誰だったかわかっていると思った。そうしたら概数しかわからない。厚生省は一切協力しなかった」
木村「戦死者とは常に概数なのですか」
澤地「ほとんどが概数です。日本の戦争というのはいつだって末端の兵士がどのように死のうとわからなくて平気なのね。よく「一銭五厘」って言うでしょ。一銭五厘は葉書の値段。いくらでも連れて来られるからって馬よりもひどい目に遭わせた。そのくらい軽い命の死んだ後なんか調べませんよ。でも、国は残務処理をする義務があると思う。赤紙で連れて行かれ、死んだ。死んだ兵士と遺された家族の思いを考えたらね。アメリカ側は、海軍、海兵隊、陸軍と個々に調べないといけないのですが、戦闘中戦死、それから行方不明になり一年前に戦死と認定のMIAとか、俘虜になりのち虐待死とか、ちゃんと番号が全部つけられて一目瞭然にわかる。遺体が帰った戦死者、帰らなかった戦死者もね」

戦死者をひとまとめにして神として祀るよりも、一人の人間として大切にすべきだと思う。

そして、産経新聞の社説の「靖国神社には、幕末以降の戦死者ら246万余柱の霊がまつられている。首相が国民を代表して参拝することは、国を守る観点からも重要な責務である」ということ。

「国を守る観点」とは、中曽根元首相の「戦没者を祀る靖国神社を国の手で維持しないで、これから先、誰が国のために死ねるか」という発言のように、戦争になった時に喜んで死ぬ人を再生産するために靖国神社は必要だということだと思う。
靖国神社の政治利用である。

植木雅俊『仏教、本当の教え』に、「怨親平等」ということから靖国神社を批判している。
「わが国では戦争の後に敵と味方を分け隔てなく平等に弔うことが行なわれていた」
たとえば、蒙古襲来で元軍が日本に攻めてきたが、追善供養が営まれて日本と元の人たちの両方の遺体が葬られている。

島原の乱でも同じ。
「島原の乱があって島原半島南部の農民たちはほとんど全滅してしまった。その数は三万人前後と言われている。このときも、盛大な法会が催され、敵味方の区別なくキリシタンと幕府軍の両方の戦没者が弔われている」

「ダンマパダ」の「この世において諸々の怨みは、怨みによって決して静まることはない。けれども、(諸々の怨みは)怨みのないことによって静まるのである」という文章を植木雅俊氏は引用するけれど、敵をも追善供養するのは御霊信仰だと思う。

それはともかく、植木雅俊氏はV・E・フランクル『意味への意志』の「いま必要なのは、悪の連鎖を断ち切ることでしょう。あることにそれと同じもので報いること、悪に報いるに悪をもってすることではなく、いまある一回限りの機会を生かして悪を克服することです。悪の克服はまさに、悪を続けないこと、悪を繰り返さないことによって、つまり「目には目を、歯には歯を」という態度に執着しないことによってなされるのです」と紹介し、靖国神社信仰を批判する。

「明治政府は、この「怨親平等」から逸脱してしまった。明治維新の際の戦で亡くなった人のうち、官軍の死体はすべて収容されて招魂社に祀られたが、明治政府に敵対し賊軍と呼ばれた人たちの死体は野ざらしにされ、祀られることはなかった」

靖国神社は最初から政治的存在なのである。
和田稠『信の回復』に、靖国神社国家護持法案の問題は、神道と国家が合体し、再び国家神道が復活する危険だとある。
つまり、国家による宗教干渉、精神支配のために靖国神社は存在する。

1,天皇―神道―国家の不可分関係
2,靖国神社とならんで伊勢神宮の非宗教法人化、各府県の護国神社の公営化。祭政一致の国家神道復活。
3,神道主義による国民教化

私は『信の回復』を読みながら、勘ぐりすぎだと思ったが、以下の引用を読み、決して和田稠師の深読みではないとわかった。

「神社新報」(昭和40年4月)「靖国神社国家護持の真の目的は神社の財政援助でもなければ、遺族待遇の世俗的問題なのでもない。日本国そのものの精神的姿勢を正す問題である」
「神社新報」(昭和44年8月)「急激に日本経済は発展しているが、その反面、精神的弱さがある。それを克服できるのはキリスト教や仏教では不可能、神社神道以外にはない」
「日本遺族通信」(昭和47年3月)「基本的には、靖国神社に英霊は厳として神鎮まるとする民族的信念と、靖国神社は、憲法でいう宗教とは別個の特別の神社であるとする国民多数の良識が健全な限り、法律といえども手続にすぎず、それによって魂が生まれるか、なくなるかということ自体無意味に近いといえよう」

神社本庁「神道教化概説」
教化の根本方針「健全なる祖国の再建は正しき神道精神の昂揚を伴わずしては達成し得ない」
実践目標「人間至上科学万能的現代思潮を是正し、以て本来の神道的霊性の開発に務めること」
「教育のあらゆる分野を通じて、わが国の精神的伝統を恢復する務めること」

具体的には「拳法をはじめ占領下法制化改正に関しその世論を喚起するとともに、神社界の主張を反映せしめることに務めること」

靖国神社参拝は決して心の問題ではない。
政治家の伊勢神宮への参拝も同じである。
だから、安倍首相は「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対する感謝の気持ちと尊崇の念の思いを込めた」と語っていても、本音は別のところにあるのではないかと勘ぐるわけです。


東京裁判・侵略戦争・靖国神社 2

2013年08月14日 | 戦争

先の戦争は自衛のためだったと主張する人がいる。
宮下展夫氏は木村隆『演劇人の本音』で「あの時代を生きてきた人間として、日本は悪くなかったかというと、相当ひどいことをやったんじゃないかという思いがある。日本が満州や、朝鮮半島で何をやったか。あの戦争は何だったのか」と語っている。
こうした発言に対して、サヨクだとか自虐史観だとか非難する人がいる。

かなり古い話だが、「読売新聞」(2005年10月27日)が次のアンケートをしている。

質問:先の大戦については、次のような指摘があります。この中で、あなたの考えに最も近いものを、1つだけあげて下さい。
中国との戦争、アメリカとの戦争(イギリス、オランダ等連合国との戦争も含む)は、ともに侵略戦争だった 34.2%
中国との戦争は侵略戦争だったが、アメリカとの戦争は侵略戦争ではなかった 33.9%
中国との戦争、アメリカとの戦争は、ともに侵略戦争ではなかった 10.1%
その他 1.1%
答えない 20.7%

3分の2の人が侵略戦争だと認めているのである。
正直なところ、日本は戦争に負けてよかったと私は思う。
こてんぱんにやられたから平和憲法を手にすることができたわけだし。
保阪正康『仮説の昭和史』に、日本での原爆製造に関わった理研の研究者が「私たちに製造する能力はなかったのがよかったのです。私は大量殺戮兵器の製造者にならなくてよかった」とつぶやいたことが記憶に残っていると、保阪正康氏は書いている。
彼らは戦後、ほぼ全員が非核運動の有力な一員となったそうだ。

読売新聞のアンケートの結果について、加藤陽子氏はこのように書いている。(「時代の風:「12・8」から70年」毎日新聞2011年12月4日)
「1941年に開始されたアメリカと日本の戦争を侵略戦争だとする人は34・2%。それに対し、37年からの中国との戦争を、日本の侵略だったとする人は、そう思う、ややそう思う、を合わせると68・1%に達する。注目すべきは、日中戦争を侵略戦争ではなかったとする積極的な否定論が、1割程度にとどまったことだろう。
当時も激しかった歴史認識論争の中で、調査結果を読んだが、第一印象として、先の大戦に対する日本人の戦争観は思いのほか穏当なものだと感じたことを思い出す。(略)
戦場や戦争を知る世代が退場してゆく今後が正念場となる」

戦争を体験し、なおかつその体験を他者に語ることができるのは、敗戦時に10歳以上の人だろうと思う。

その人たちは2005年では70歳以上だが、2013年では78歳以上である。
国会議員の84%が憲法改正に賛成し(回答率は62.3%だけど)、参議院議員の28%が核武装検討に賛成(つまりは核兵器保有に賛成ということ)している。
加藤陽子氏は「戦争を知る世代が退場してゆく今後が正念場」と言うが、危惧すべき状況だと思う。 


東京裁判・侵略戦争・靖国神社 1

2013年08月11日 | 戦争

東京裁判は勝者が敗者を裁いたと非難する人がいる。
そんな人には木村隆『演劇人の本音』を読んでほしい。
『演劇人の本音』は演劇関係者へのインタビューしたもの。

演劇評論家の宮下展夫氏は17歳の時に東京裁判でアルバイトをした。

宮下「東京裁判で一番印象に残るのは、あそこまでやるかというくらいにアメリカ人の弁護人が真剣に日本のために弁護したことです。これがまず最初にびっくりでしたね。どうせこの裁判は茶番、馴れ合いだろうと最初は思っていたから。確かウエッブ裁判長がスミス弁護人に対して「あなたの言ってることは要するにアメリカ政府を非難する形ではないか」という意味のことを言ったら、「私はアメリカの悪いところは悪いと率直に言いたいんだ」とはっきり答えていた。ほかにも二、三のアメリカ人弁護人が、たとえ自分の国の不利になるようなことでも弁護人としてはそれを追及するんだと言っていた。その点、僕は率直に言って日本が戦争に勝っていたとしたらあそこまで敵国の弁護を許しただろうか」
木村「逆に日本人が日本人をあそこまで裁けたかということですね?」
宮下「ええ。まあ最終的には判決も全体的には日本の侵略行為とか残虐行為を非難した形で出ているし、裁判長が日本に有利なものを却下しよう、却下しようというところもあったけれども、これは木下(順一)さんも書かれているが、ある程度条理を尽くした裁判ではなかったのか。それまでの軍国教育を受けた日本人としては、「日本じゃとてもこんな弁護はできないな」と思った」
木村「東京裁判を頭から否定する向きもある現代ですが…」
宮下「それはね、木下さんが言っていることが正しいと思うのだけれど、東京裁判には、戦勝国が、負けた国を裁いたという一方的な面がなかったとは言えない。でも、だから東京裁判はダメだというのなら、では日本人はなぜあのときのことについて、自分たちで裁くことをしないのだという言い方も逆にできるのじゃないか。あの時代を生きてきた人間として、日本は悪くなかったかというと、相当ひどいことをやったんじゃないかという思いがある。日本が満州や、朝鮮半島で何をやったか。あの戦争は何だったのか、その責任は誰が持つのかということについて日本は全部向こうに任せちゃった」
木村「今からだって本当はできることですよね」
宮下「そうね。日本人はあの戦争がよかったのか、悪かったのか。悪いとすればどこが悪かったのかという追及をしないまま来てしまった」

もしも日本が戦争に勝って米英を裁いたとしたら、宮下展夫氏が言うように敗戦国の弁護なんてまともにはしなかっただろう。
それどころか、莫大な賠償金を要求し、権益をむしり取ろうとしたと思う。

ホーソンは『伝記物語』スウェーデンのクリスチナ女王を取り上げているが、6歳で即位したクリスチナ女王はわがままで、女らしさがなく、寂しい人生を送ったとボロクソである。

私はそれが事実だと思っていたが、菊池良生『戦うハプスブルク家』を読むと、実際は違っている。
ウェストファリア条約(1648年締結)では、スウェーデンは三十年戦争の戦勝国であるにもかかわらず大幅に譲歩している。
スウェーデンは当初、戦勝国として膨大な要求を敗戦国に突きつけたが、クリスチナ女王が「臆病な講和」という国内の反対を押し切って寛大な譲歩を貫いたことで、講和が成立した。

クリスチナ女王は「私の全願望はキリスト教諸国民に平和をもたらすことである」と使節に訓令を送っている。
「女王は単に戦争を終わらせるだけではなく、戦争そのものの原因の除去につとめた。宗教対立がそれぞれの宗派のドグマ化に拍車をかけ、全てを敵か味方かで判別する精神的狭量に人々を追い込む。この精神的狭量が政治力学に絡んで、それぞれの普遍主義が現実世界のなかに持ち込まれ、正戦が始まる。正戦は非寛容的殲滅思想に染まっている。女王は寛容な譲歩を示すことで、この正戦の意味を根底から奪い去ろうとしたのだ。正戦、すなわち無差別な殲滅戦などあってはならないのだ、と」

ホーソンがクリスチナ女王を非難したのは、女王がカトリックに改宗したかららしい。
クリスチナ女王は無能ではなく、平和を願い、カトリックとプロテスタントの融和を説き、キリスト教の安寧と言う高貴な理想を抱いていたという。

クリスチナ女王はともかく、連合国の寛容さが日本にあったとは思えない。
現在の日本でもクリスチナ女王のような政治姿勢を持って行動する政治家がいるだろうか。


スタッズ・ターケル『「よい戦争」』3

2013年04月05日 | 戦争

原子爆弾によって被害を受けたアメリカ人たち。
マーニア・セイモア「原子爆弾製造工場」
夫はテネシー州オークリッジにある原爆製造工場で働いていた。
工場で働く夫婦のうち、セイモアたち18組の夫婦のほとんどは子どもがいない。
セイモアには4人いるが、2人は障害を持って生まれた。
「ぜんぜん警告されなかったって? そりゃ、もちろん、ぜんぜんよ。悪意があったとは思わないけどね。ようするに知らなかったのよ」
友人がたくさんビキニでの実験を見にいったが、ほとんどは癌になってるか、癌で死んだかである。

「私たちはものすごくカッコいい気分だった。
その私たちが、その後どうなったと思う? コネティカット州のニューキャナーンに住んでたんだけど、ノーマン・カズンズが広島乙女を何人か連れてきて、私たちはこの不虞にされた、ケロイドの女性たちにむかいあわされたの。スーパーマーケットでよくみかけるたびに、ああ、これが私たちがカッコいいと思ってることがしたことなんだってね。ときどき泣けてしまう……
アメリカ人は世界のことを知らない国民だったのを気づくべきよ。孤立した大国だったのよ。日本人のことも日本の文化のこともたいして知らなかった。黄色で、目つきが悪く、みんな悪人だった。日本人は映画のなかで、かならず悪人だったでしょ。こそこそ歩きまわって、陰険なことをする役よ。人間としてじゃなく、撲滅するべき黄色いちびにすぎないと思いはじめちゃう。ドイツ人とはちがうっていう感じだった。もし、X人の捕虜しか救えない。それで、たとえば、五十人の日本人と五十人のドイツ人だったとすれば、だれを見殺しにして、だれを救うか。そういわれれば、私はドイツ人を救ったでしょうね。すくなくとも私の知識では、ドイツ人のほうが文明的だったからね」

ジョン・スミザマン「ビキニ原爆実験」
スミザマンは全米原爆復員兵協会(NAAV)の会長。
会員は1万5千名強。
ジョン・スミザマンは両足を切断しており、左手は普通の五倍の大きさ。

1945年17歳で海軍に入る。
1946年7月のクロスローズ作戦(ビキニ環礁の実験)に参加した。
標的艦船のインディペンデンスの消火作業をした。
危険だということは知らされていなかったし、何の注意も受けなかった。
泳いだり、礁湖からとった水を飲んだりしたが、規制は何もなかった。
放射能のことは何も聞いていない。

8月末に、50セント銀貨ぐらいの大きさの赤いヤケドみたいなものが両足にでき、一週間ぐらいして、両足が腫れる。
1947年に、医療のために除隊する。
1977年に両足を切断した。
左手も切断しないといけない。

ビキニであびた放射能はこんな障害をおこすほどじゃないと、復員軍人局は病気が軍務に関係していることを認めない。
1982年には、集まった募金で日本で治療を受けた。
しかし、アメリカに帰ってから同じ治療をつづけられない。
「放射線にさらされた兵隊っていうのは、まるで目のまえに敵がいて水平撃ちされたみたいなもんでしょ。逃げられないんですよ。三十年、四十年たたないと障害がでてこない」
「私としては、みんながモルモットとして使われた感じなんですよ」
ジョン・スミザマンは1983年9月11日に死去。

広島・長崎への原爆投下は被害がどれだけになるかという実験が一番の目的だったと思う。

そして、意図していたかはともかく、アメリカは自国民も「モルモット」にしたということである。
30年、40年たたないとわからないということでは、福島原発も同じである。

加藤倫教「『愛国』と『愛国家』をすり替えているのが権力者で、あんたがたが言うのは『愛国』でなく『愛国家』でしょうと言うんだけど。国家を愛しなさい、国家に忠誠を誓いなさいであって、国を愛しなさいじゃないでしょう。ほんとうに国を愛しているのなら、田舎が荒廃していくのを黙って見ていることはせんでしょうと」(朝山実『アフター・ザ・レッド』)


スタッズ・ターケル『「よい戦争」』2

2013年04月01日 | 戦争

原子爆弾の製造に関わった研究者へのインタビュー。
フィリップ・モリソン「マンハッタン計画の核物理学者」
戦争中、モリソンは核物理学者だった。
「原爆をつくるのは正当だという雰囲気だった。いまでは、もちろん、正当だとは思わない。だけど、もしもう一度やらなきゃならないとしたら、同じことをするだろうというのが正直なところだ。ナショナリズムというのは恐るべき力だよ」

「ファシズムをくいとめるために我われは戦った。しかしそのために、ファシズムに反対する社会も変容してしまった。ファシズムの属性のいくつかを自分のものにしてしまった」

ジョン・H・グローブ「核化学者」

グローブはマンハッタン計画に加わった科学者のひとり。
広島に原爆が落ちたことを知ったとき。
「私のとっさの反応は大得意だったよ。それから次の反応が起こる。(ささやき声で)ああ、なんていうことだ! 都市に落とすなんて! ボスの部屋に入っていって、(ささやき声はどなり声になる)原爆を十万人とかの大都市に落としやがった。なんで、東京湾か、トラック島のでかい海軍基地に落とさなかったのか。なんで、民間人のたくさんいるところへ落としたのかってね。ボスはユダヤ人でホロコーストのことを知ってる男だよ。それが「なんだっていうんだ。連中はジャップじゃないか。犬畜生だぜ」っていう。私はショックだった。彼にたいする尊敬はいっぺんになくなってしまった」

原子爆弾を投下した人。
ビル・バーニー「ナガサキへの飛行」
長崎に原爆を落とす飛行に加わった乗員のひとり。
ターケル「この話題になるたびに質問されると思うんだが、あなたも、他の乗組員も悩まなかったかってね」
バーニー「おれの知るかぎり、そういうのはぜんぜんいない。世間にさわがれたのが一人いただけだ」
その一人とは『ヒロシマわが罪と罰』を書いたクロード・イーザリーである。
イーザリーは以前から精神的に病んでいたという。

ジョージ・ザベルカ神父「テニアン基地従軍司祭」
ザベルカ神父はテニアン島から出撃する搭乗員を祝福していた。
「搭乗員を祝福するのは習わしだった。飛行機をじゃなく。爆弾をじゃなくだがね。私は自分に何度もこの問題をなげかけたんだ。しかし、乗員は私たちの教区の一員だった。危険な任務についていくんだ。我われの男児、若者たちで、死の危険にさらされている。島のラジオが教えてくれるまでは、どんな爆弾を落としてるのか私は知らなかった。それで、ショックだよ。突然、八万の人びとが、あの一発で殺されたんだ。(略)
恐ろしさを、クリスチャンとしては、司祭としては、感じるべきだったのに、感じてなかったんだ」

「感じなかった理由は、教会が、宗教指導者のだれもが、声をあげなかったからだ。焼夷爆弾の非道徳性。ドレスデンで、日本で。スペルマン枢機卿はテニアンにきたことがある。私はおぼえているよ。終戦まぢかの大きなミサのときだった。彼は、諸君戦いつづけよって力説するんだ。我われは自由のために、正義のために、パールハーバーで日本人がなした恐怖をうち負かすために戦っているとかだ。ヒットラーをうち負かすために戦ったようにね」

ターケル「他の従軍牧師はどうなのかね? その問題はもちだされたことがあるのかな?」
ザベルカ「原爆投下の道徳問題にはけっして立ちいらなかった。たぶん私たちみんなが、ひどいことだが必要だと感じてたんじゃないかな。忘れちゃいけない、我われは無条件降伏を要求したろ。これも聖アウグスチヌスの「正義の戦い」の原則に反する。つまり、相手方が降伏の準備があるときに戦闘をつづけてはならないんだ」

「原爆」を「原発」に置き換えてみてもいいと思う。
原発の建設に関わる人たちは「原爆をつくるのは正当だ」と思ってるだろうし、作業員が被曝しても「なんだっていうんだ」という程度だろうし、原発事故は「ひどいことだが(原発は)必要だと感じてたんじゃないか」。

1945年10月、ザベルカ神父は日本行きを命ぜられる。

「九州で私は、広島からきた何人かのシスターや宣教師たちにあった。長崎にはすでにいっていて、廃墟をみて、被爆者の数人と話していたんだがね。何千人もが「原爆症」になっていたよ。思えば、私がほんとにわかりはじめたのは、このときだね。ここに、戦争とは何の関係もない小さな子どもたちがいる。その子どもたちが死んでいく、多くのものは静かに、ほんとにおとなしく。ただ静かで、ただ死んでいくんだ。良心の虫がうごめきはじめる」
現実に被害を受けている人を知るということが大切だと思う。