玉串料奉納について、首相は官邸で記者団に「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対する感謝の気持ちと尊崇の念の思いを込めた」と述べた。(略)
参拝すれば中韓両国の反発は必至で、米国側の懸念も高まると判断。(産経新聞8月16日)
朝日新聞社説「68回目の終戦の日だったきのう、安倍首相は靖国神社への参拝を見送った。尖閣、竹島や歴史認識の問題で、中国や韓国との関係が冷え切っている折である。ここで参拝すれば、両国との関係改善はさらに遠のく。見送りは現実的な判断と言えるだろう」
靖国神社への参拝に関する安倍首相たち政治家の発言、新聞の報道を見ると、外国にだけ目が向けられているように感じる。
戦死者や遺族のことを本当に考えているのかと思う。
木村隆『演劇人の本音』で、澤地久枝氏はミッドウェー海戦を調べていく中で、一兵卒までの全員の生死を明らかにしようとするアメリカに対して、日本にはそういう態度のなかったことを指摘している。
澤地「日本とアメリカの軍隊生活ってもの、それから戦死した人の扱いっていうものが同じなのか違うのかを知りたいと思った。あんなに有名な海戦だから当然何人が戦死してそれは誰だったかわかっていると思った。そうしたら概数しかわからない。厚生省は一切協力しなかった」
木村「戦死者とは常に概数なのですか」
澤地「ほとんどが概数です。日本の戦争というのはいつだって末端の兵士がどのように死のうとわからなくて平気なのね。よく「一銭五厘」って言うでしょ。一銭五厘は葉書の値段。いくらでも連れて来られるからって馬よりもひどい目に遭わせた。そのくらい軽い命の死んだ後なんか調べませんよ。でも、国は残務処理をする義務があると思う。赤紙で連れて行かれ、死んだ。死んだ兵士と遺された家族の思いを考えたらね。アメリカ側は、海軍、海兵隊、陸軍と個々に調べないといけないのですが、戦闘中戦死、それから行方不明になり一年前に戦死と認定のMIAとか、俘虜になりのち虐待死とか、ちゃんと番号が全部つけられて一目瞭然にわかる。遺体が帰った戦死者、帰らなかった戦死者もね」
戦死者をひとまとめにして神として祀るよりも、一人の人間として大切にすべきだと思う。
そして、産経新聞の社説の「靖国神社には、幕末以降の戦死者ら246万余柱の霊がまつられている。首相が国民を代表して参拝することは、国を守る観点からも重要な責務である」ということ。
「国を守る観点」とは、中曽根元首相の「戦没者を祀る靖国神社を国の手で維持しないで、これから先、誰が国のために死ねるか」という発言のように、戦争になった時に喜んで死ぬ人を再生産するために靖国神社は必要だということだと思う。
靖国神社の政治利用である。
植木雅俊『仏教、本当の教え』に、「怨親平等」ということから靖国神社を批判している。
「わが国では戦争の後に敵と味方を分け隔てなく平等に弔うことが行なわれていた」
たとえば、蒙古襲来で元軍が日本に攻めてきたが、追善供養が営まれて日本と元の人たちの両方の遺体が葬られている。
島原の乱でも同じ。
「島原の乱があって島原半島南部の農民たちはほとんど全滅してしまった。その数は三万人前後と言われている。このときも、盛大な法会が催され、敵味方の区別なくキリシタンと幕府軍の両方の戦没者が弔われている」
「ダンマパダ」の「この世において諸々の怨みは、怨みによって決して静まることはない。けれども、(諸々の怨みは)怨みのないことによって静まるのである」という文章を植木雅俊氏は引用するけれど、敵をも追善供養するのは御霊信仰だと思う。
それはともかく、植木雅俊氏はV・E・フランクル『意味への意志』の「いま必要なのは、悪の連鎖を断ち切ることでしょう。あることにそれと同じもので報いること、悪に報いるに悪をもってすることではなく、いまある一回限りの機会を生かして悪を克服することです。悪の克服はまさに、悪を続けないこと、悪を繰り返さないことによって、つまり「目には目を、歯には歯を」という態度に執着しないことによってなされるのです」と紹介し、靖国神社信仰を批判する。
「明治政府は、この「怨親平等」から逸脱してしまった。明治維新の際の戦で亡くなった人のうち、官軍の死体はすべて収容されて招魂社に祀られたが、明治政府に敵対し賊軍と呼ばれた人たちの死体は野ざらしにされ、祀られることはなかった」
靖国神社は最初から政治的存在なのである。
和田稠『信の回復』に、靖国神社国家護持法案の問題は、神道と国家が合体し、再び国家神道が復活する危険だとある。
つまり、国家による宗教干渉、精神支配のために靖国神社は存在する。
1,天皇―神道―国家の不可分関係
2,靖国神社とならんで伊勢神宮の非宗教法人化、各府県の護国神社の公営化。祭政一致の国家神道復活。
3,神道主義による国民教化
私は『信の回復』を読みながら、勘ぐりすぎだと思ったが、以下の引用を読み、決して和田稠師の深読みではないとわかった。
「神社新報」(昭和40年4月)「靖国神社国家護持の真の目的は神社の財政援助でもなければ、遺族待遇の世俗的問題なのでもない。日本国そのものの精神的姿勢を正す問題である」
「神社新報」(昭和44年8月)「急激に日本経済は発展しているが、その反面、精神的弱さがある。それを克服できるのはキリスト教や仏教では不可能、神社神道以外にはない」
「日本遺族通信」(昭和47年3月)「基本的には、靖国神社に英霊は厳として神鎮まるとする民族的信念と、靖国神社は、憲法でいう宗教とは別個の特別の神社であるとする国民多数の良識が健全な限り、法律といえども手続にすぎず、それによって魂が生まれるか、なくなるかということ自体無意味に近いといえよう」
神社本庁「神道教化概説」
教化の根本方針「健全なる祖国の再建は正しき神道精神の昂揚を伴わずしては達成し得ない」
実践目標「人間至上科学万能的現代思潮を是正し、以て本来の神道的霊性の開発に務めること」
「教育のあらゆる分野を通じて、わが国の精神的伝統を恢復する務めること」
具体的には「拳法をはじめ占領下法制化改正に関しその世論を喚起するとともに、神社界の主張を反映せしめることに務めること」
靖国神社参拝は決して心の問題ではない。
政治家の伊勢神宮への参拝も同じである。
だから、安倍首相は「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対する感謝の気持ちと尊崇の念の思いを込めた」と語っていても、本音は別のところにあるのではないかと勘ぐるわけです。
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氏神さまは、私たちが住んでいる地域を守っている神社です。氏神さまは、鎮守さま、産土さまともいいます。氏神さまに対して、その地域に住んでいる人すべてを氏子といいます。たとえば、○○神社は××町の氏神、××町の住民は○○神社の氏子というような表現をします。
と、いうことで、日本人全員が氏子なんです
自分の意思にかんけいなく、知っていても知らなくても氏子です
日本はほんとうに村社会だと思います
日本村であり、原子力村であり、その他多数の○×村・・・
村の者(氏子)は仲間です、それ以外の村を認めない者は敵なんです
氏子である限り、村は居心地がいいものです
新興住宅地以外では祭りで繋がれて、自分の意思の入り込むところがありません
政治も政(まつりごと・まつり)同じですわ
これが日本人の大好きな、絆なんでしょうね
私は「絆」という言葉が大嫌いです
民主主義という偽名の下に村社会が構成されている日本
知らず知らず、村の絆で繋がれて、なにも気付かず平和で気分よく過ごしている日本人
ああ、おそろしい
そういえば靖国神社もそうですね。
頼んだわけでもないのに、戦死したら神として祀られる。
遺族が合祀を取り消すよう頼んでも応じません。
靖国神社を国家護持しようという人は、日本人の心を管理しようとしているわけです。
>私は「絆」という言葉が大嫌いです
絆が強調されるようになり、絆には「しがらみ、呪縛、束縛」の意味がありますが、なんだか束縛されているようで、私もイヤだなと感じています。