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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

バンディ・リー編『ドナルド・トランプの危険な兆候 精神科医たちは敢えて告発する』(1)

2020年01月05日 | 

2016年の大統領選挙からまもなく、トランプ大統領の精神状態に危機感を持ったジュディス・ルイス・ハーマンとバンディ・リーは、懸念を記した手紙を精神科医や心理学者に出して署名を求めた。
しかし、返事の大部分は署名拒否だった。
政府から無形の報復が心配なので拒否すると述べた人もいた。

ゴールドウォータールールといって、直接診察しない人物に診断を下してはいけないという決まりがアメリカの精神医学の世界にある。

1964年に「ファクト」誌が当時の大統領選で共和党の候補だったバリー・ゴールドウォーターについて精神科医たちの診断意見を掲載した。
回答した精神科医の大多数は、ソビエトへの核兵器使用を是認するゴールドウォーターはパラノイア、あるいは妄想型統合失調症だという意見だった。
ゴールドウォーターは名誉毀損訴訟を起こし、「ファクト」誌は敗訴した。

このことがきっかけで、アメリカ精神医学会は、有名人については直接診察しない限りはコメントしたり診断名を述べたりすることを禁じた。
そして後に、ゴールドウォータールールを拡大し、診断名だけでなく、どんなコメントも述べてはならないと決定した。

それにもかかわらず、2017年4月にイェールカンファレンスが行われ、その記録をもとに28人の精神医学・心理学の専門家、ジャーナリストたちが起稿したのが『ドナルド・トランプの危険な兆候』です。

大統領選での得票数はヒラリー・クリントンのほうが約300万票ほど多かったのに、それは不正があったからだ。
大統領就任式の参加者数は史上最高だった。
オバマがトランプタワーを盗聴している。
こういった明らかな嘘をトランプは言っています。
トランプは「人は他人を信頼し過ぎる。私は他人などまず信頼しない」と自著に書いています。

トランプについて多くの人が持っている疑問。
単にクレージーなのか、クレージーを演じているだけなのか。
病んでいるのか、単に悪い人間なのか。
自分が嘘を言っていることも自覚しているのか、自分の嘘が真実だと思い込んでいるのか。
他人を不条理に非難する時、被害妄想的になっているのか、演技であって、自分の悪行から注意をそらそうとしているのか。

人間とは、病んでいて、かつ、悪い人間であることがあり得る。

トランプの自伝作者「私はトランプと知り合ってからすぐに、彼の内面は危険に対して常に過敏な状態にあることに気づいた。気分を害されたときには衝動的かつ防衛的に反応し、自己を正当化する嘘の話を作り出し、常に他人に責任転嫁していた」
ホワイトハウスの元スタッフ「トランプの世界観は、人は誰もが自分の利益のためにだけ生きているというものだ」
ロバート・ジェイ・リフトン「トランプは極端に歪曲した現実を作り出す。自分が作り出した現実こそが正しい現実だと言い張る。そして人々がそれを受け入れるのが当然だと思い込む」
ダグラス・プリンクリー「トランプの世界では、どんなにコストを払ってでも勝つことだけがすべてだ」


精神医学・心理学の専門家はトランプについて、自己愛性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害、妄想性パーソナリティ障害、妄想性障害、悪性ナルシシズム、認知機能障害などの可能性を指摘しています。
これらの障害を私なりにまとめました。

・ありとあらゆる場面において特別扱いされることを強く求める。
・自分は特別であるという思いがとても強く、自分以外の人々をチェスの駒のように互いに戦い殺し合うものとして扱う。
・自分の欲する物を得るために、嘘で他人を騙して操り、人を傷つけても意に介さない。
・自分を特別視するために他人を相対的に悪くする必要、たとえば他人の評判を落とす必要があれば、そうすることを厭わない。
・他人への嫉妬にあふれており、その嫉妬は言動に表れる。
・他人の中に常に悪意を見出し、出来事の中に常に危険を見出す。
・感情的で大袈裟。
・他者への思いやりや共感を欠如しがち。
・反証があっても揺るがない確信を持つ。

外見は魅力的で優しく見え、自分の悪行を巧妙に隠蔽し、人を押しのけて高い地位に上りつめる、成功した社会病質者もいる。

ヒトラーやスターリンのような悪性ナルシシズムの指導者が支配者になれたのは、過度のナルシシズムが彼らを自信満々で大きく見せ、世界に必要なものが何かを知り尽くしているように思わせたからである。

独裁者(金正恩、アサド、フセイン、プーチン)を賞賛するトランプは、絶対的な専制政権が夢で、自分が独裁者になりたいと思っている。

心を病める人が権力を握れば、それは腐敗するだけでなく、病を悪化させたり、新たな病を生むことさえある。

今でもなお、トランプが理性の声を聴き自らの行動をあらためるのではないかという希望を抱いている人がいる。精神医学・心理学の専門的見地からすれば、それはあまりに甘い観測であるということができる。


ただし、トランプが精神疾患かどうかが問題なのではなく、危険(核戦争など)か否かが問題なのである。

トランプ氏のように精神不安定な人物は、人の生死を握る大統領という職責には不適格である。


アメリカはイラン革命防衛隊のガセム・ソレイマニ司令官を殺害し、そして中東に3500人の部隊を派遣します。
たしかに危険です。


若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』

2019年12月19日 | 

ずっと以前はパチンコに時々行ってましたが、機種がフィーバーになり、あっという間に玉がなくなってしまうようになってからは足が遠ざかってしまいました。
今はやり方すらわかりません。

韓国では2006年にパチンコを禁止したことを知り、それで若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』を読みました。
2010年の本ですから、今とは状況が違っているかもしれません。

パチンコといっても、韓国ではメタルチギといい、日本の中古パチンコ台を輸入して、盤面と液晶はそのままで、クギは根本から切断してある。
メダルを台の中央部に設けられた皿に流し込んでスタートボタンを押し、大当たりになると商品券が出る仕組み。
ネットでメタルチギの画像を見ることはできますが、どういう仕組みになっているかチンプンカンプンです。
http://kyoumomake.blog.fc2.com/blog-entry-880.html

2006年8月、韓国ではパチンコによる依存症の危険性を認識して禁止に踏み切り、パチンコ台を約100万台没収した。

韓国が健全なのは、被害が多くなれば迅速に対処する誠意を持っていることである。対処するスピードが日本と比べたら格段に速い。パチンコも、あっという間に禁止してしまった。


人口が日本の半分の国で、日本と同じくらいの店数があった。
禁止になる前は、認可を受けた店だけでも全国で1万5000軒はあり、無認可の店を含めると2万軒はあったという説もある。
一方で、パチンコがらみの自殺や犯罪が増えて社会問題となった。

2006年、不当な高配当が出るように変造した機械の許認可、禁止されている換金行為をめぐる贈収賄事件が発覚し、当時の盧武鉉大統領の甥の関与が疑われ、野党やマスコミによるパチンコ批判が高まった。
8月に警察庁がパチンコ台の一斉撤去の命令を通達し、同年中にはほぼすべてのパチン台が撤去された。
2007年には、ゲーム機(パチンコ台)の製造・販売業者も逮捕起訴され、実刑と、販売で得た金の没収を命じる判決を下している。

韓国がパチンコを禁止したことによる経済効果は、消費に対しては間違いなくあった。
ゲームセンターの売り上げが約3兆円もあったのだから、禁止によって一般消費に3兆円が流れた。
特に車の販売額が伸びた。

ところが、韓国でパチンコが禁止されたことを報じた日本のメディアは皆無だった。
若宮健さんは、ギャンブル依存の問題は韓国よりも事件が多発している日本のほうが深刻だ、年金受給者、生活保護者、主婦、社会的な弱者がターゲットになっていると指摘しています。
韓国では、ゲームセンター(パチンコ店)利用者の42.7%が月収200万ウォン(約20万円)以下の低所得者。

日本のパチンコ店には「打ち子」というサクラがいて、打ち子の報酬は1日で1万5000円から2万円ぐらい。
角の目立つ台に打ち子を座らせ、ドル箱を20箱を積ませて、客をその気にさせる。
今は遠隔操作と顔認証システム。
遠隔操作はパソコンでできるので、経営者が自宅にモニターを設置して、自由に出玉を操れる。
顔認証システムとは、店の入り口にカメラを設置して、客の顔を検知すること。
顔画像をデータベース化し、他の店と共有すると、最近勝っているか、負けているかなど、正確な情報を知ることができる。
これじゃ客が勝つわけがありません。

パチンコの問題に、この国(日本)の政治、行政、マスコミの病根が凝縮されている。一言でいえば、「数千人の莫大な利益のために、数百万人を泣かせる行為」が、パチンコなのである。この国では、一部の人間の利益のために、法的には違法なバクチが、長年放置されてきたのだ。
日本のマスコミは、パチンコ依存症による犯罪が多発しても、ほとんど問題にすることはない。日本の新聞で、パチンコ業界を批判する記事は、ほとんど見ることはない。

ギャンブルがらみの事件、事故が絶えず、被害が大きなパチンコの問題に対して、正常な国であれば、韓国のようにマスコミがキャンペーンを張り、世論が共鳴し、政治家を動かし、パチンコ禁止に追い込んでいるはずである。
それなのに、韓国よりも事件が多発している日本では、マスコミからはパチンコを糾弾したり、禁止の声がほとんど上がらない。
パチンコ店が何事もなかったように営業でき、違法な賭博を放置している国は、世界中で日本ぐらいだろう。
若宮健さんの慨嘆はもっともです。

2009年1月のデータでは、年間の広告宣伝費の1位がトヨタで4845億円。
パチンコ機械大手のSANKYOの2010年3月期の広告宣伝費が67億9000万円。
パチンコ店の最大手のマルハンの2010年3月期の売り上げが2兆1209円。
広告収入がほしいマスコミにとって、パチンコ業界は大切なわけです。

パチンコの経営者を小作人とするならば、パチンコ台のメーカーが地主で、その上に悪代官という警察が君臨している。


警察だけでなく、行政全般がパチンコ業界に甘いようです。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/a334b95d32ceeb19213d3ca5d59a1de9

パチンコ店にATMを設置する店が多い。金融庁監督局では、ATMの設置場所について届出などは必要がないとしている。

違法な賭博場に、ATMの設置を認めるなどは、日本の常識が世界の非常識と言われても仕方がない。金融庁も警察も、関係する機関はすべて黙認なのである。
ATMまで設置して、国民をバクチ漬けにする国がまともな国とは思えない。


ソウルのCBS放送のプロデューサーの発言。

業界には、政治家からマスコミ、官僚たちがぶら下がっています。これまたお金です。お金が手に入るならば、マスコミも官僚も政治家も、国民の不幸を考えようとしません。


日本はカジノを解禁しました。
行政、民間、業者のいずれも金が儲かればいいという考えなわけで、これは原発と同じです。
2003年、韓国に江原ランドというカジノがオープンした。
「韓国速報」2008年10月14日の記事。

江原ランド開場以後、カジノ関連自殺者と路上生活者、および詐欺・窃盗が毎年増加し、売春まで行われるなど、社会的副作用が深刻化していることが明らかになった。


韓国がパチンコを禁止できて、なぜ日本はパチンコを禁止できないのかと思うし、ましてやカジノを公認するなんて狂気の沙汰です。
日本より韓国のほうがましなのかと思ってしまいます。


松沢裕作『生きづらい明治社会』(2)

2019年12月01日 | 

松沢裕作『生きづらい明治社会』によると、都会での貧民の生活はこんな感じです。

長屋に住んでいても、布団を持たない世帯も珍しくない。
木賃宿の滞在者には家族連れもいて、10畳から15畳の大部屋に3~5家族が滞在していた。
毎日、布団を借りるより布団を買ったほうが安上がりだし、木賃宿より長屋を借りるほうがまし。
しかし、まとまったお金がないので、それができない。
少額のお金が入っては、毎日出ていくのが彼らの生活だった。
土木や建設の現場で働く日雇い労働者は、雨の日は仕事がないので、手持ちのお金があっても、その時に使いはたしてしまう。

明治23年(1890年)に施行された大日本国憲法には、憲法25条(「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)に相当する条文はない。
生活が困難になってしまった人が国家から保護を受ける権利は、アジア・太平洋戦争以前の日本では保障されていなかった。

現代でも、アパートを借りることができず、ネットカフェで寝泊まりする人がいます。
アパートを借りるには保証人が必要だし、敷金・礼金もいる。
毎月の家賃を払うためには安定した仕事がないといけない。
食事にしても、外食よりも自炊のほうが安くつくが、一日中働いているから、買い物をして食事を作るという余裕がないので、外食に依存する度合いが高まる。
貧しければ貧しいほど、貯蓄の余裕がなくなり、あらゆるものを少額の現金でその都度購入しなければならなくなる。

生活保護へのバッシングがあります。
生活保護を受ける資格がある世帯の約80%は生活保護を利用していない。
不正に利用された生活保護の額は、生活保護として使われた金額の1%以下。

本当は、日本の生活保護制度の問題は、生活保護からこぼれてしまっている人の多さにあるのに、ごく一部の「ずるをして生活保護をもらっている人」のことばかりが注目されてしまっているのです。


松沢裕作さんは、「通俗道徳」という考えが我々に深く根づいていると書いています。
よく働き、倹約して、貯蓄さえすれば、人間はかならず一定の成功を収めることができる、人が貧困に陥るのはその人の努力が足りないからだ、という考え方のことを日本の歴史学界では「通俗道徳」と呼ぶ。

勤勉に働けば豊かになる。倹約をして貯蓄をしておけばいざという時に困ることがない。親孝行をすれば家族は円満である・・・。しかしかならずそうなるという保証はどこにあるでしょうか。勤勉に働いていても病気で仕事ができなくなり貧乏になる。いくら倹約をしても貯蓄をするほどの収入がない。そういう場合はいくらでもあります。実際のところ、個人の人生に偶然はつきものだからです。
ところが、人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。

通俗道徳をみんなが信じることによって、すべてが当人の努力の問題にされてしまう。
ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人ががんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となる。
自己責任ということです。

その結果、努力したのに貧困に陥ってしまう人たちに対して、人びとは冷たい視線を向けるようになります。そればかりではありません。道徳的に正しいおこないをしていればかならず成功する、とみんなが信じているならば、反対に、失敗した人は努力をしなかった人である、ということになります。経済的な敗者は、道徳的な敗者にもなってしまい、「ダメ人間」であるという烙印をおされます。さらには、自分自身で「ああ自分はやっぱりダメ人間だったんだなあ」と思い込むことにもなります。
これは支配者にとっては都合のよい思想です。人びとが、自分たちから、自分が直面している困難を他人のせい、支配者のせいにしないで、自分の責任としてかぶってくれる思想だからです。

こうして、貧困から逃れるためには、通俗道徳にしたがって必死で働くことが唯一の選択肢となった。

助け合いも政府の援助も期待できない社会では、成功した人はたいていが通俗道徳の実践者。
その結果、貧困層や弱者に「怠け者」の烙印を押す社会ができあがった。
通俗道徳は江戸時代からであり、通俗道徳の「わな」に人々がはまってしまったことを安丸良夫さんが指摘したそうです。

明治13年(1880年)、東京府会では施療券を存続させるか、廃止するかが議論になった。
当時は公的な健康保険制度がなく、貧困者は医療を受けることが難しかったため、病気にかかった貧困者が申請して施療券を受け取ると、指定された病院で無料の治療を受けられるという制度だった。

沼間守一府会議員は「施療券をもらって入院をもとめる貧困な患者をみると、自己管理ができていなくて、体を大切にしなかった結果のようなものもいる」と批判している。
病気は自己責任だという考えである。
翌年の東京府会で、貧困対策の費用は削減され、施療券制度は廃止された。

大倉喜八郎が70歳をすぎた明治44年(1911年)に『致富の鍵』という回顧談を出版している。
その中に、「人間は働きさえすれば食うだけのものはチャンと与えられるように出来ている」とある。
「富まざるは働かないからである。貧苦に苦しむは遊惰の民である」とも述べている。
一見するとまともな通俗道徳の教えは、「ダメ人間にならないためには、どんな手段をつかっても、他人を蹴落としても成功しなければならない」という過酷な競争社会を生み出してしまう。

日露戦争(明治37年~38年)の戦死者と戦傷者は11万8千人で、当時の世帯の1.3%。
本人や家族はほとんど何らの補償も受けられなかった。
日露戦争の講和条約への不満から日比谷焼き打ち事件が起き、主に警察署と交番が襲撃された。

その後、似たような事件が次々と起きた。
1906年の電車運賃値上げ反対運動、1908年の増税反対運動、1913年の桂太郎内閣打倒運動、1914年のシーメンス事件、そして1918年の米騒動。
明治末から大正初期の東京では、数年おきに暴動が起きている。
参加者の6~7割が15歳から25歳の若い男性だった。
この若い男性の職業は、職人、工場労働者、人力車夫、日雇い労働者の比率が高く、都市の下層民が中心だった。
生活が苦しく、いくら頑張っても豊かになる道を閉ざされている若い男性のやりきれなさが噴出した。

日本では大きな災害などがあっても、暴動や略奪が起きないと言われています。
しかし、かつての日本人は暴動という形で政府に抗議していました。
格差がさらに広がると、百年前のように抗議行動が頻発するかもしれません。


松沢裕作『生きづらい明治社会』(1)

2019年11月25日 | 

司馬遼太郎さんの影響なのか、明治の日本を美化する人がいます。
しかし、松沢裕作『生きづらい明治社会』を読むと、貧しい暮らしを強いられている人が大勢いることがわかります。

大隈重信によるインフレ政策で、農家のなかには土地を担保にして借金し、経営規模を拡大しようとした人たちがいた。
ところが、明治14年(1881年)、大隈重信が失脚して松方正義が大蔵卿に任命されると、緊縮財政を行い、間接税の導入や増税を行なった。
松方デフレで繭の価格や米の価格などの農産物価格が下落し、農村の窮乏を招いた。
繭の価格の下落は激しく、借金を返せなくなった農家は土地を失ってしまった。

江戸時代は年貢の村請制度があった。
年貢は村単位で納めなければならないので、年貢を払えない人がいた場合、豊かな人がその人の分を肩代わりしなくてはいけなかった。
もちろん、豊かな人が喜んで他人の年貢を払ったわけではありません。
仕方なしであっても、ある程度の相互扶助がなされていたそうです。

明治になると、地租改正によって村請制度は廃止され、人びとを無理に助け合わせる仕組みが消滅した。
しかも、金がない政府は貧困に陥った人を助けるための予算がない。
それで秩父困民党のような、借金の返済を延ばすか借金の額を減らしてほしいという負債農民騒擾が各地で起きた。
土地を失った農民は小作農となったが、一部は都市に流入し、日雇い労働や人力車夫などに従事し、貧民窟で暮らすことになる。

貧富の差はきわめて大きいです。
明治10年(1877年)、修史館に勤めた塚本明毅は年給1800円で、それまでの月給250円から減額した。(塚本学『塚本明毅』)
川田剛一等編修官は月に150円あまりで、家の食費と僕婢の雇賃が75円、川田剛の小遣いが30円だと、依田学海の『学海日録』にあるそうです。
明治8年(1875年)の府県巡査の初任給は4円。 4円が現在の16万円だとしても、川田剛のこずかいは月に120万円です。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm

湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』によると、明治20年(1887年)ごろは、遊郭に売られた女性の前借金は80円ないし100円前後で、平成17年の65万円ないし80万円程度だそうです。
しかし、巡査の初任給が明治18年(1885年)に6円、明治23年(1890年)に大工の手間賃が1日50銭、大卒の初任給が18円、国家公務員の初任給が50円ですから、現在はその1~3万倍とすると、庶民の金銭感覚では、娘を売った金額は2~300万円となります。
お金の価値が金持ちと貧乏人とでは全然違うということでしょう。

日清戦争(明治27年~28年)以前、日本政府の財政規模は年8千万円前後だった。
日清戦争の戦費は国家歳入の3倍以上。
清国から日本に約3億円の賠償金が支払われたが、その賠償金を国民の生活のために使ったわけではない。
軍備の増強を最優先し、賠償金の84.7%は軍事費に回され、軍事産業や交通・通信網の整備が進められた。
そのため、明治29年(1896)からの歳出額は3倍に膨れ上がった。
間接消費税が導入され、物価が急上昇した。
明治26年(1893年)を100とした労働賃金は明治31年(1898年)には147に上昇したが、白米の小売価格は100から193へと跳ね上がり、物価の値上がりには追いつかなかった。

明治31年(1898年)、汽車製造会社の職工の賃金は、最高日給が1円10銭、平均50銭。(老川慶喜『井上勝』)
あるサイトによると、明治30年頃の物価と今の物価を比べると3800倍ぐらいだが、小学校の教員や巡査の初任給は月に8~9円ぐらい、大工や工場のベテラン技術者で月20円ぐらいなので、庶民にとっての1円は現在の2万円ぐらいとあります。
https://manabow.com/zatsugaku/column06/

明治45年(1912年)、ある農家は家族5人が働いても年に8円の赤字になる。
小作だと、年に70円の赤字。
地主から5円や10円の金を借りるが、借金が貯まったところで担保となっている土地を取り上げられる。

教育はどうでしょうか。
『明治の結婚 明治の離婚』によると、江戸時代は寺小屋に通う子供が多かったので識字率が高かったと言われるが、自分の名前を書けない者が、明治15年(1882年)に群馬県では男20%、女80%、明治20年(1887年)の岡山県では男34%、女58%もいた。
就学率は、明治6年(1873年)が29%、明治18年(1885年)が50%に達した。
もっとも、これには水増し報告が含まれていたといわれる。
進級・卒業試験が行われており、学年ごとの卒業試験の合格率は平均40%程度。
中途で退学する児童が少なくなく、明治13年(1880年)に小学4年生を卒業できた者は20%程度で、公表されていた就学率40%の半分だった。


門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩すべての罪はわが身にあり』

2019年11月09日 | 

「週刊新潮」は河野義行さんを松本サリン事件の犯人扱いし、ボロクソ書きました。
他のマスコミは謝罪したのに、新潮社は謝罪していません。
1995年に門田隆将氏は週刊新潮の特集部デスクだったそうです。
『オウム死刑囚 魂の遍歴』は松本サリン事件についても触れていますが、「週刊新潮」が河野義行さんを誹謗中傷したこと、いまだに謝罪していないことは書かれていません。
そんな門田隆将氏にオウム真理教について書く資格があるのかと思います。

井上嘉浩さんが逮捕されてしばらくして、公安の警部補から門田隆将氏に電話があり、取調中の井上嘉浩さんのことを警部補から聞いたと、『オウム死刑囚 魂の遍歴』の冒頭に書いています。
警察がマスコミに内部情報をもらしたわけです。
いくら警部補が死んでいるからといって、実名を出すのは職業倫理にもとるのではないかと思います。

坂本弁護士一家が行方不明になった際の捜査がおざなりだったこと、オウム真理教への捜査が遅れたために地下鉄サリン事件が起きたことなど、警察批判も書かれてはいます。

気になったのが、井上嘉浩さんを美化しすぎているように感じたこと。
麻原彰晃に疑問を持ち、批判的だった。
教団の地位はさほど高くなく、影響力もない。
多くの事件について知らなかった、など。

本当だろうかと思ってしまいます。
というのも、裁判における井上嘉浩さんと他の被告の証言に食い違いがありました。
みんなが嘘を言い、井上嘉浩さんだけが真実を語ったのでしょうか。
ウィキペディアを見ると、井上嘉浩さんに批判的なことが書かれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%98%89%E6%B5%A9

門田隆将氏は井上嘉浩さんが罪を悔い、償おうとしたことを強調しています。
他の死刑囚は自分の罪を悔いていないのかと思ってしまいますが、そんなことはありません。

それと、井上嘉浩さんは真宗に帰依したそうですが、瞑想などがやっぱり好きなようで、念仏一つだとは思えません。

文句ばかり書きましたが、そうなのかと思ったことが一つあります。
1988年(昭和63年)、麻原彰晃たちがカーギュ派のカール・リンポチェと会った時のことが書かれています。
上祐史浩氏の話。

麻原がリンポチェ師に質問するわけです。自分はこういう体験をした、こんな瞑想体験をした、と。すると、リンポチェ師はそれに対して、すばらしい体験だと称賛するんじゃなくて、体験は解脱ではないんだ、というわけです。体験をコントロールできることが解脱なんだと、くり返し言うわけです。
それに対して、麻原は非常に不服そうでした。麻原オウムというのは、神秘体験中心主義みたいなところがあって、そういうところで麻原は自分の体験を認めてもらいたい、その価値を確認したいという気持ちがあったんだと思うんです。しかし、リンポチェ師に話したら、それは解脱じゃないんだよ、ということで、諭すように言ったわけです。

麻原彰晃が神秘体験を重要視していたことがわかる話です。
同時に、神秘体験と覚りとは別だということもわかります。

それにしても、麻原彰晃は片目が見えず、もう片方が弱視なのに、ヨガなどについてどうやって学び、修行法を編み出したのか不思議です。


ヨハン・ノルベリ『進歩』とハンス・ロスリング『ファクトフルネス』(2)

2019年07月08日 | 

貧しい子供の命を助けると人口が増え続けると思われがちです。
私もそう思っていましたが、実際は正しくない。

女性1人あたりの子供の数が多い国は、乳幼児死亡率が最も高い国々。
貧しい子供を助けないと人口は増え続ける。
親は子供が大人まで生き延びると想定できると、子供の数が減らして子供の教育期間を増やすほうがいいと思うようになる。

1950年には赤ちゃんの15%が1歳になる前に亡くなっているが、2016年は3%。
5歳までに亡くなる子供の割合(乳幼児の死亡率)は、1800年が44%、2016年が4%。
幼児・児童死亡率が1950年以来改善を見せていない国はない。

1人あたり所得1万ドル以上の国で、幼児死亡率2%以上の国はない。
1人あたりの所得が1000ドル以上の国は、1900年には幼児死亡率が20%だったが、2000年には7%で、経済成長していない国でも幼児死亡率は3分の2減った。

1800年頃はイギリスでは児童労働があたりまえで、子供が働き始める平均年齢は10歳だった。
劣悪な環境で働く子供(5~14歳)は、1950年は28%、2012年は10%。

15歳以上の識字率は、1800年が10%、2016年が86%。
安全な飲料水を利用できる人の割合は、1980年に58%、2015年に88%。
1歳児のうちに何らかの予防接種を受けている子供の割合は、1980年が22%、2016年が88%。

女性が教育を受けていると、その子供の生存率が上がる。
避妊について学び、避妊具を入手できるようになれば、子供の数が減り、子供によい教育を受けさせることができるようになり、子供はよい収入の仕事につくことができる。

所得と女性1人あたりの子供の数とは関連する。
女性1人あたりの子供の数は、1800年が6人弱、1965年が5人、2017年は2.5人。
1965年、途上国(125カ国)の女性は子供を平均5人以上産んだ。
先進国(44カ国)でも女性1人あたりの子供の数は3.5人以下。

バングラデシュが独立した直後の1972年は、平均寿命は52歳で、女性1人あたりの子供の数は7人だったが、現在、平均寿命は73歳になり、女性1人あたりの子供の数は2人になった。

アメリカは、1800年に女性1人あたり子供7人、1900年には3.8人、2012年には1.9人に減った。
子供の数の変化は、西洋世界では200年かかったのに、発展途上国では60年で起きている。

災害による死亡者数(10年間の平均)は1930年代が97万1000人、2010~2016年が7万2000人。
自然災害による死亡者数は、100年前に比べると25%になった。その間、人口は50億人増えているから、死亡率は100年前の6%。

2016年に、4000万機の旅客機が飛び、死亡事故が起きたのは10機。
旅客機の飛行距離100億マイルあたりの死亡者数は、1922~33年が2100人、2012~16年は1人にすぎない。

死刑制度がある国は、1863年が193カ国、2016年は89カ国。
合法的な奴隷制度が行われている国は、1800年に193カ国、2017年には3カ国。

とはいっても、やっぱり戦争とか環境とか、世の中が悪くなっている気がします。
ハンス・ロスリング『ファクトフルネス』は「人はなぜ世界を悲観的にとらえ続けてしまうのか?」と問い、「ドラマティックすぎる世界の見方」が原因だとします。
しかし、世界はそれほどドラマティックではない。
「事実に基づく世界の見方」は、時を重ねるごとに少しずつ世界はよくなっている。
「暮らしが良くなるにつれ、悪事や災いに対する監視の目も厳しくなった。しかし監視の目が厳しくなったことで、悪いニュースがより目につくようになり、皮肉なことに「世界は全然進歩していない」と思う人が増えてしまった」

2015年、ネパールの地震で10日間に9000人が亡くなった。
同じ10日間に汚染された飲み水による下痢が原因で9000人の子供が世界中で亡くなっている。
しかし、地震のほうがニュースになりやすい。

アメリカでは過去20年間にテロで3172人が亡くなった。
同じ20年間で140万人が飲酒が原因で亡くなった。
飲酒による殺人や飲酒運転だけに限定すると、1年あたりの犠牲者は7500人。
しかし、アルコールの犠牲者はほとんどテレビに映らない。

1950年代、DDTの危険性が指摘された。
人体にとって有害だとして使用が禁止された。
しかし、DDTのメリットはデメリットを上回る。

「環境保護運動にも、ある副作用があった。多くの人が、まるでパラノイアにでもなったかのように、化学物質汚染を怖がるようになってしまった」
規制が厳しくなる理由の多くは、死亡率ではなく恐怖によるものだ。
こうした間違った、実際とは正反対の話が広まってしまうのは、よいニュースより悪いニュースのほうが話題性があるので、メディアは悪いニュースばかり伝えるから。

疑問もあります。
福島原発の事故で約1600人が避難後に亡くなったが、死因は放射線被曝ではなく、被曝で亡くなった人は1人も見つかっていない。
ハンス・ロスリングは「人々の命が奪われた原因は被ばくではなく、被ばくを恐れての避難だった」と書いています。
避難すべきではなかったとか、子供の甲状腺ガンが増えているのは原発事故と無関係だと言ってるようです。

ヨハン・ノルベリ『進歩』には、二酸化炭素排出量の抑制する技術や安全な原子炉の技術も進んでいるとあるし、中国では森林被覆面積は年に200万ヘクタール以上も増えているそうです。
ほんとに中国の森林は増えているんでしょうか。

(追記)
緒方貞子さんがインタビューに答えて、このように語っています。

1989年にベルリンの壁が壊され、1990年にドイツは統一されました。今、解決しないと思われていることでも、永遠に解決しないわけではありません。時間はかかるけど、努力を続けることで解決することもあるのです。(「With You」第34号)


以前、公害問題が騒がれていた時、防止対策に費用がかかりすぎて企業がつぶれると言う人がいました。
しかし、車の排気ガス規制は技術革新によって可能になりました。
地球の温暖化防止にしても、真剣に取り組めば新しい技術が生まれることを期待したいです。


ヨハン・ノルベリ『進歩』とハンス・ロスリング『ファクトフルネス』(1)

2019年07月05日 | 

ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』は、主人公が1920年代のパリにタイムスリップしてフィッツジェラルドやヘミングウェイたちと会い、さらにはベルエポックの19世紀末に行きますが、抗生物質がないからイヤだと、現在に戻ります。
ウディ・アレンらしいオチでした。

ヨハン・ノルベリ『進歩』とハンス・ロスリング『ファクトフルネス』を読むと、昔がそんなにいいわけではなく、現在はあらゆる面で状況が大幅に改善されていることがわかります。
https://www.gapminder.org/

何もかもが毎年改善するわけではないし、課題は山積みだが、人類が大いなる進歩を遂げたのは間違いない。
この進歩は17世紀、18世紀の知的啓蒙主義から始まり、19世紀の産業革命で貧困や飢餓が制圧されるようになった。
20世紀後半のグローバリゼーションで技術や自由が世界に広がると、人類を厳しい生活条件から解放した。

2017年、世界の全人口の85%は先進国と名づけられた中に入る。
いまだに途上国と名づけられた中にいるのは全人口の6%、13カ国だけ。
2000年から2011年にかけて、世界の中低所得国の1人あたり所得は倍増した。

食料生産が増加し、衛生状態が改善され、子供の死亡率が低下し、子供の数が減り、親の所得が増え、子供の教育水準が上がり、平均寿命が延びた。

極貧ラインを1日2ドルとして1985年の購買力で補正すると、1820年には世界の94%が極貧生活だった。
1950年は72%、1966年は50%、1981年が44.3%、1999年が29.1%。

1997年頃、インドと中国では人口の42%が極度の貧困だった。
2017年までに、インドでの極度の貧困率は12%、中国では0.7%に低下した。
インドでは1993~94年から2011~12年にかけて、貧困率が24%近く下がったが、ダリット(不可触民)の貧困率は31%も下がった。
ある地区では、電気扇風機を持つ、つまり電気を使えるダリットの世帯は3%から49%に増えた。

過去140年で、10万人以上が死亡した大規模飢餓は106件発生している。
1900年から1909年にかけて、飢餓で2700万人が死に、1920年代から1960年代までの各10年ごとに、1500万人が飢餓で死んでいる。
1990年代には140万人に下がり、21世紀では飢餓の死者数は60万人近く。
100年前から人口は4倍に増えているのに、餓死者は100年前の約2%に減った。

栄養失調の人の世界人口に占める割合は、1945年に約50%だったが、1970年が28%、2015年が11%に減っている。

200年前、英仏の住民の2割はカロリー不足のためにまったく働けなかった。
大人が健康な肉体機能を維持するのに必要なカロリーが手に入れられなかったので、最大でも一日数時間ほどゆっくり歩くのが精一杯のエネルギーしかなく、働けるだけの食べ物を生産できなかった。

人類が豊かになっているのは、まともな生活水準が安上がりになっているから。
農業技術が改善し化学肥料や農薬が使われるようになったので、人口が急増した以上に食料供給が増えた。
国が豊かなら、国民はそれだけ健康になる。

150年前には穀物1トンの収穫と脱穀に25人が丸一日働かねばならなかったが、コンバインを使えば1人が6分働くだけですむ。
19世紀末、アメリカでは一世帯が年間の食料を買うには1700時間の労働が必要だったが、今は260時間もかからない。

1961年から2009年までに、農地は12%しか増えなかったのに、農業生産は300%ほど増えた。
1ヘクタールあたりの穀物生産量は、1961年が1.4トン、2014年が4トン。
そして、機械化により生産性が2500倍に高まった。

18世紀半ばには、英仏で1人あたり1700~2200キロカロリー程度だったのが、1850年には2500~2800キロカロリーになり、1950年の西欧では3000キロカロリー。
現在、1人あたりのカロリー摂取が1日2000キロカロリー以下の国はザンビアだけ。

さらには、貿易の拡大、インフラ整備、安い電力と燃料、食品包装と冷凍技術などにより、食料を余ったところから不足しているところに移動できるようになった。
過去25年で飢餓になりそうな状態から20億人が救われた。

世界の平均寿命は、1800年頃は約30歳で、生まれた子供の半分は成人までに死んだが、1973年は60歳、現在は72歳。
平均寿命が延びたのは子供の死亡率が低下したから。
現在、低所得国に住む人は9%で、それらの国の平均寿命は62歳。
国連によれば、2100年には世界の平均寿命はいまより11年ほど延びるという。


増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

2019年06月14日 | 

増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は701ページ、2段組の分厚い本ですが、面白さにクイクイと読んでしまいました。
またまたお金について。(カッコは現在の金額)
https://westegg.com/inflation/

昭和26年、ハワイでの柔道大会で木村政彦に勝てば500ドル(4,889.07ドル)の賞金が与えられた。
入場料は1ドル(9.78ドル)席と2ドル席。
1ドルが3000円程度とすると、500ドルは200万円弱だと増田俊也氏は書いています。

木村政彦のサンフランシスコでのファイトマネーは1試合500ドルだった。
入場料は6ドル。
日本円だと18万円で、大卒初任給から換算すると、現在の300万円ぐらいと増田俊也氏は計算します。

昭和30年、勤労者世帯実収入(月)2万9000円、国家公務員初任給8700円、大卒初任給1万1000円、大工手間賃(1日)560円。
平成27年、勤労者世帯実収入(月)52万6000円、国家公務員初任給18万1200円、大卒初任給20万円、大工手間賃(1日)1万9000円。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm
だいたい現在の20倍。

9.78ドルは、1ドル100円として、約1000円。
しかし、当時は1ドル360円ですから、20倍すると1ドルが現在の7200円になります。
1試合500ドル×360円×20=360万円
円安のおかげで、日本は輸出で稼ぎ、日本人がアメリカに出稼ぎして家を建てることができたわけです。

木村政彦は結核になった妻のためにストレプトマイシンを買っては送っていた。
値段は1グラム入り10個で9ドル(88.00ドル)。
そのころ明治製菓が売り出した硫酸ストレプトマイシン明治の製品説明書には、通常成人1日1gを筋肉注射し、はじめの1~3ヵ月は毎日、その後週2日投与するとある。
200g必要だから、1800ドル。
1ドル360円なので、当時の金額は38万8800円。

昭和27年、力道山は手紙に、ホノルルでのプロレスの試合は、リングサイドが2ドル50セント、一般席が1ドル(9.57ドル)と書いている。
選手は1人が平均250ドルもらう。

力道山はハワイで稼いだ金でジャガーを5000ドル(47,838.26ドル)で購入した。
増田俊也氏は、現在の日本円に換算すると3000万円ぐらいと書いています。

それからアメリカ本土に渡るが、力道山のファイトマネーは1試合300ドル(2,870.30ドル)。
木村政彦の500ドルよりも少なかった。

昭和28年、力道山がプロレスの団体を立ち上げるために、興行師の永田貞雄は自分の持つ築地の料亭を1800万円で売り払って資金調達した。
現在なら数十億円相当とのこと。

木村政彦は、力道山とタッグを組んで全国を回ってほしいと頼まれ、1試合10万円のファイトマネーを要求した。
東富士の年収が113万円、千代の山が99万円。

昭和29年、力道山はシャープ兄弟と1人1試合7万円で話をつけた。
200ドルとして、現在の金額は10倍の2000ドル、日本円にして20万円強。

プロレスのテレビ放映権料は、日本テレビが17万円、NHKが25万円で契約した。
どちらもシリーズ放映権料で、1日の値段ではない。

木村政彦・力道山vsシャープ兄弟の試合では、二日目にはリングサイド券に1万円の闇値がついた。
そして、木村政彦と力道山の試合はリングサイドA席が2千円で、そのチケットをダフ屋は2万円でさばいた。

昭和30年、木村政彦と力道山が手打ちをすることになり、木村政彦の怪我の見舞金という名目の手打ち金が300万円。
手打ち式に力道山は手付けとして50万円を持ってきた。

その金額を20倍すると、木村対力道山戦の2万円は現在の40万円、手打ち金300万円は6000万円、50万円は1000万円ということになります。
ほんまかいなという大金です。
八百長試合をするという木村政彦との約束を破ったことを力道山が認めたからこそ、これほどの手打ち金を承知したわけでしょう。


A・スコット・バーグ『名編集者パーキンズ』

2019年06月08日 | 

フィッツジェラルドやヘミングウェイを発掘したスクリブナー社のパーキンズの評伝。
フィッツジェラルドの原稿料や収入の金額が載っています。(カッコは2018年に換算した金額)
https://westegg.com/inflation/

1919年、何篇かの短編を1編40ドル(588.59ドル)で売った。
1ドル100円として換算すると約6万円です。

1920年、『楽園のこちら側』が出版された。
フィッツジェラルドの収入は、1919年の879ドル(12,934.33ドル)から1920年の1万8850ドル(239,528.92ドル)に急増した。
2千万円超ということになります。
ところが、妻のゼルダのために新しいコートを買いたいので1500ドル(19,060.66ドル)をパーキンズに都合してくれと頼んだ。
銀行から金を借りていたが、ほかにも6000ドル(76,242.63ドル)相当の請求書が未払いのままだった。
夫婦そろって金遣いが荒かったわけです。
1920年末までに、『楽園のこちら側』の印税として約5000ドル(63,535.52ドル)を受け取っていた。

1921年、ヨーロッパに行く船の切符を買うのに600ドル(8,537.81ドル)が必要だとパーキンズに告げる。

1923年には3万ドル(447,537.09ドル)の収入があり、前年より5000ドル(74,589.52ドル)多かった。
4千万円以上です。
しかし、スクリブナー社には数千ドルの借金があった。
銀行に650ドル(9,696.64ドル)振り込まないと、家具を質入れする羽目になると、パーキンズに頼んでいる。

1924年に出版された『偉大なるギャツビー』の定価は2ドル(29.78ドル)。

1927年、短編1作につき3500ドル(51,309.04ドル)の原稿料を受け取っていた。
500万円以上ということになります。

1928年、ヨーロッパから帰国するが、船の中で200ドル(2,970.56ドル)分のワインをあけていた。

1928年のパーキンズの年収は1万ドル(148,528.11ドル)。
パーキンズ家には料理人がいます。

1929年、短編で2万7000ドル(401,025.90ドル)を稼いだが、単行本では31ドル(460.44ドル)77セントしか収入がなかった。
次作の印税から前借りした金額はおよそ8000ドル(118,822.49ドル)。

1930年、コールドウェルがパーキンズから短編の原稿料を提示される。
パーキンズは2篇で350ドル(5,331.78ドル)を提示するが、コールドウェルは3ドル50セントだと勘違いした。
フィッツジェラルドは短編の原稿料が500万円というのは特別でしょうが、無名の新人の原稿料が25万円というのは高いのか、安いのか。

スクリブナー社の純益は、1929年は28万9309ドル(4,297,051.94ドル)だったが、1932年にはわずか4万661ドル(757,172.47ドル)に減った。
なのに、フィッツジェラルドに多額の前借りをさせているわけです。

1933年、フィッツジェラルドの年収は1万6000ドル(313,957.26ドル)足らずで、大恐慌の後の数年間に得た金額の半分。
それでも3千万円以上と、かなりの金額です。
『夜はやさし』を雑誌に4回に分けて連載する契約料が1万ドル(196,223.29ドル)という契約をした。
契約料のうち6000ドルはスクリブナー社に対する負債の清算にあてられた。
『夜はやさし』は1万5000部ほどしか売れなかった。
ハーヴィ・アレン『アントニー・アドヴァース』は1933年から1934年にかけて100万部以上売れた。

1934年、フィッツジェラルドの短編が雑誌に掲載され、3000ドル(56,931.32ドル)を受け取った。
この金がなければ、フィッツジェラルドはその年を切り抜けられなかっただろう。

1935年、年収は1万ドル(185,142.51ドル)。

1936年、スクリブナー社への借金は7500ドル(137,482.06 ドル)。
母が死に、26000ドル(476,604.48ドル)相当の現金と株券を相続する。
年間の生活費をどうしても1万8000ドル(329,956.95ドル)以下に切り詰めることができなかった。
母の遺産から借金を返してしまうと、数百ドルしか手元に残らなかった。
スクリブナー社やパーキンズ、エージェントにも借金をしていた。

1937年、エージェントがハリウッドのMGMから週給1000ドル(17,693.96ドル)の契約を取りつけた。
週に約200万円です。

1938年、ハリウッドに行き、借金の大部分を返済した。

1939年、短編の連作を『エスクワイア』に売りこみ、1篇について250ドル(4,573.19ドル)を受け取った。
かつて『ポスト』が支払った金額の10分の1以下である。
それでも約50万円。

1940年12月、死亡。
自分の生命保険を担保にして多額の借金をしていたが、それでも4万ドル(724,465.50ドル)が残る。
娘が父親の借金を清算したあと、大学で学ぶ費用をまかなえるはずだった。

晩年のフィッツジェラルドはお金に困っていたと思っていましたが、収入はかなりあったわけです。
それにしても、あまり本は売れていないのに、原稿料が高いし、収入も多いのは不思議です。

もっとも、『名編集者パーキンズ』には、「ユダヤ教徒金米会議(全米会議)」「判れを告げ(別れ)」などなど誤植が多いので、金額が正しいかどうか、ちょっと疑問ではあります。
ヘミングウェイの妻の名前がドイツ語読みのプファイファーとなってますし。

それとか、「パーキンズ」と「マックス」(「彼はパーキンズにフォークナーのことを持ちだしたが、マックスは気乗り薄だった。パーキンズはずっと以前からフォークナーを大家だと目していたが・・・」)、「フィッツジェラルド」と「スコット」、「ヘミングウェイ」と「アーネスト」「ヘム」などと表記されてるので、別人なのかと混乱します。
原本がそうなっていても、統一したほうがいいのに。
小説好きには面白い本なんですが。


カースト制度と不可触民(5)

2019年05月31日 | 

 8 疑問
カースト制について本を読んで、ますます疑問が増えました。
釈尊在世時、身分差別はどの程度きびしいものだったのか。

たとえば、コーサラ国のパセーナディ王はシャカ族の王族の娘を妻に迎えようとしたが、気位の高い釈迦族は卑しいコーサラ国に王族を嫁がせることを拒み、大臣が下女に生ませた娘を自分の子と偽って嫁入りさせたということ。
パセナーディ王の息子ビルリ王子が釈迦国に行ったとき、釈迦族の人たちから侮辱されました。

マウリヤ朝の政治論書である『実利論』は、父親がクシャトリアであっても、母親がシュードラの子供はシュードラと定めているので、ビルリ王子はシュードラということになります。
だから、釈迦族の人たちはビルリ王子を王族とは認めなかったのでしょう。

しかし、釈迦族とコーサラ国は本家と分家の関係らしいのに、なぜ釈迦族がコーサラ国を見下していたのか。
釈迦族はイクシュヴァーク王の子孫だと称しており、コーサラ国もイクシュヴァーク王の子孫だという系譜があるそうですし。

磯邊友美「SardalaKamavadanaに見るチャンダーラの出家」には、「コーサラ国王がマータンガの末商であると伝える記述がLalitavistaraとその漢訳『方広大荘厳経』『普曜経』や『仏本行集経』に見られる」とあります。
先祖がマータンガであれば、コーサラ国の王家は不可触民ということになります。
これには驚きました。
もっとも、磯邊友美氏は「姓としてのマータンガをチャンダーラの一種であるとする理解が一般的になされるが、パラモンの法典類は、両者の関係をはっきりと規定しているわけではない」と書いていますが。

マガダ国が非アーリア人の国だという説があるそうですが、コーサラ国の王族も先住民なのでしょうか。
だとしたら、マガダ国やコーサラ国の王族はクシャトリアではなく、シュードラ、もしくは不可触民だということになります。

もう一つ、釈尊が釈迦国に帰った時、王族の子弟たちが出家しましたが、その時、王族の子弟は「私たち釈迦族は気位の高い者です。床屋のウパーリは私たちの召使いでした。この者を最初に出家させてください。そうすれば、私たちはウパーリに対して、礼拝、合掌をなすでしょう。そうして私たち釈迦族の気位が除かれるでしょう」と言っています。
ビルリ王子が侮辱されたのは、このエピソードの前の話なのでしょうか。

釈迦族は身分差別を当然のことと考えていたのかどうか、そこらも疑問です。