
《人体実験リスト:石川技師が持ち帰った8000枚のスライド》
石川太刀雄技師は1943年夏に七三一部隊(以下731部隊)を除隊し、秋に金沢医大の病理学の教授に就任する。翌年「炎症(殊にペスト)に関する研究」を発表した。この論文は彼が部隊での研究に高揚感や誇りを感じていたことを示している。論文はこう始まっている。「昭和15年秋、満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名(石川)はペスト屍57体剖検を行った。之は体数に於て世界記録である」。この高揚感は請われて医大の教授となり最初の学会に臨んだ彼の意気込みの現れである。
石川太刀雄技師は1943年夏に七三一部隊(以下731部隊)を除隊し、秋に金沢医大の病理学の教授に就任する。翌年「炎症(殊にペスト)に関する研究」を発表した。この論文は彼が部隊での研究に高揚感や誇りを感じていたことを示している。論文はこう始まっている。「昭和15年秋、満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名(石川)はペスト屍57体剖検を行った。之は体数に於て世界記録である」。この高揚感は請われて医大の教授となり最初の学会に臨んだ彼の意気込みの現れである。
彼は金沢への赴任に際し、部隊で病理解剖をした約800人分、30種類ほどのスライド(病理標本)を持ち込んでおり、ペストの学会発表がその第一弾だった。敗戦がなかったら、次々に発表する予定だっただろう。敗戦によって学会発表はなくなり、代わりに米軍にそのスライドの存在を知られ、約20種類のレポートを書くはめになった。そのうち3本が米国議会図書館に保管されている。
石井機関での細菌兵器の研究開発と人体実験を調査した結果をまとめた米軍レポートの最終版がヒル&ビクター・レポートと呼ばれる1947年末にまとめられた報告書だ。2人は25の項目について石井機関で人体実験などに関わった医学者たちの面接調査を行っている。25項目のうち人の病気が21項目、細菌兵器についてが2項目、毒物と植物の病気が各1項目だった。
ヒル&ビクター・レポートの目的は731部隊での人体実験によって得られ、1943年夏に石川が金沢に持ち込んだ8000枚のスライドの解読だった。スライドは米国の生物兵器研究基地、キャンプ・ デトリックに送られたが、それを有効に利用するためには各スライドの来歴情報が必要不可欠だった。各スライドは死亡した人の肝臓や肺などの臓器の病変部分を顕微鏡で病理観察するためのものだ。作るのは病理学者で、平房では石川らが着任した1938年3月以降その体制が整った。スライドの分析によって死因をガンだとかペストだとか判定することができる。8000枚のスライドは平房での人体実験のエッセンスだった。そのスライドを作った病理学者は、スライドの主がどのような実験経過で死亡したかを知らされており、各臓器に現れた病変の意味を理解している。そうした来歴が分かって初めてスライドは医学的に意味を持つ。米国は8000枚のスライドとその来歴を人手することで平房での人体実験のエキスを手にした。
石川は京大の病理学の講師から技師として1938年3月に平房に渡り、43年6月24日付で金沢医大の教授に任命された。彼は赴任にあたり平房の部隊が保存していた8000枚のスライドを根こそぎ金沢に持ち込んだ。その経緯について石川の同僚だった岡本耕造技師は「石川博士がスライドを持っているとすれば、彼の独断で人知れず持ち出したものだ。石川がハルビンを去った後の病理標本は約200例だった」とヒルとビクターに答えている。石川が金沢に去った後、部隊の人体実験により作成されたスライドが忽然と消えていた、ということだ。石井は清野の通夜の席で「感染病理に関する心魂こめて作った資料」と話しているが、その本体が8000枚のスライドであり、それは1938年から43年までの間の平房での人体実験の実態を示す物証だった。
なぜ「独断で人知れず持ち出」せたのか。ひとつの背景として目本の医学界では前世紀後半まで、病理標本はそれを作成した病理医の所有物、という悪習の存在があった。その悪習に基づき石川はさしたる疑問を持たずスライドを持ち出した可能性がある。当時の部隊長北野もその悪習を共有していた。その時期部隊を離れていた石井も同じ意識だっただろう。石川のスライド持ち出しは、彼の仕事目的がより効果的な細菌兵器の開発ではなく、自分のキャリアアップだったことを示している。
軍で「お国」のために働いていた医学者が大学に移るに際し、部隊の財産を持ち出し、それを基にして論文を発表した。これは除隊が決まる前から石川の頭の中にあった行動だっただろう。部隊での人体実験データをいずれ大学勤務となった際に、自分の研究に生かそうと準備をして部隊勤務を送っていたのだ。日本の敗戦で石川の夢は破れ、学会発表ではなく米国のために、ヒルとビクターの監視下でこれらスライドの由来や意味などをまとめた。石川がこれらスライドについて何本のレポートを書いたかは分からないが、現在読むことができるのは前記米国議会図書館の3本だけである。 ─(常石敬一/731部隊全史 石井機関と軍学官産共同体/高文研2022)

ヘッダー画像:西里扶甬子/生物戦部隊731/草の根出版会2002