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昭和博覧会⑤ 公職追放

2022-12-05 17:53:05 | Bibliomania
この放送の10日前には、天皇がアメリカ大使館を訪れてマッカーサーと会見し、その2日後、天皇がマッカーサーと並んだ写真が日本全国の新聞に載りました。日本の歴史を通じて、これほど大きな影響力を持った写真はないと私は思います。よく、アメリカを変えた何冊の本とか、日本を変えた10冊の本とかいいますが、私は戦後の日本を変えた本は1冊もないという信念を持っているんです。しかし、もし日本を変えた写真というのがあるとすれば、これじゃないかという気がします。要するに誰が日本の本当の支配者かということを、この1枚の写真が一目瞭然のうちに日本国民に教えたのであります。
それにしても、敗戦後2ヵ月もたたないうちに、日本を占領することになった敵国の司令官の姿の中に人間らしさを見出して、このような人物が司令官としてやってきたのは、日本の将来にとって幸福なことであると言い切る神経というのは、よくいえば、どんな悪い状態からでも自分にプラスになることを取り出す、そういう心理作用といいますか、考え方だろうと思います。しかしこれは、下手するといわゆる事大主義になるわけです。既成事実によりかかって、起きてしまったことは仕方がないとして、それをできるだけ正当化し意味を見つけ合理化していく、そういう態度につながっていくと思うのです。



20万人の追放者の中で意外に少ないのが官僚です。いくつかのカテゴリーで、わずか1,809人となっています。その7割近くが武徳会関係です。占領軍は日本の官僚をだいたいにおいて温存したわけです。というのは、日本占領は間接占領であったということです。普通、占領というものは地上戦闘が行なわれた後で始まる。具体的な戦闘が行なわれて負けた国の現政府は崩壊する。その後、占領軍が軍政府をつくって、現住民の中から信用のできる者を少しずつ登用していって、行政機構を再建していく、こういうプロセスが普通です。つまり占領というのは普通、直接占領なのです。
ところが日本占領の場合は、本土決戦をやっておりません。しかも日本占領の最高方針は、現存の政府を支持はしないけれども、利用して統治を行なうということだった。現存の政府関係者を全部追放してしまったのでは統治機構が崩壊しますから、どうしてもかなりの程度残さざるを得なかったわけです。
それと追放の実施そのものが、日本の側に任されたことから、決定に当たっては官僚の影響力がどうしても強くなる。自分の仲問に対する被害を最小限に食い止めようとするのは、自然というものでしょう。それからもう一つの要素は、占領軍が日本をそれほど知らなかったということです。
もし占領軍が日本をすみからすみまで知っていれば、日本の専門家が占領軍あるいはGHQの中にたくさんいれぱ、それほど日本人に頼らなくてもすんだかもしれません。しかしそれでもやはり問接占領の場合には、既存の官僚制に頼らざるを得ないわけです。したがって官僚は大半生き残る。戦争中に大臣をやったとか長官をやったとかいうような、特に上層部の人は追放されましたけれども、それ以外の官僚はほとんど生き残った。それが戦後日本をになったのか、引きずったのか知りませんけれども、戦後日本が官僚国家になっていく、その原因がそこにあるわけです。 ─(秦郁彦・袖井林二郎/日本占領秘史/ハヤカワ文庫1986・原著1977)



元ドイツに交換教授として派遺されていた荒木光太郎教授と、芸術家のその夫人は、2人とも戦争当時ドイツの外交官仲間と特に親しくしていたというので、一般日本人よりも特に厚遇を受けていた。
この荒木光太郎は、画家荒木十畝の子で、その夫人が、のち郵船ビルで個室を与えられ、歴史の編纂に従事していたという荒木光子である。光子がウィロビーの厚遇を受けて「郵船ビルの淀君」と噂されたのは、ケーディスと親しかった子爵夫人鳥尾鶴代や、その学習院グルーブの存在とは別のケースである。荒木夫人はその手腕をウィロビーに高く買われたが、鳥尾夫人の場合は愛情でケーディスと結ばれた。楢橋渡は、烏尾夫人を通じてケーディスに働きかけ、追放を早く解除になった、と一般に信じられている。

GSが「追放」という武器を持っているのに対して、G2はCICという「諜報」武器を持って対抗した。従って、CICが下部傭員に情報活動に有能な元特高警察官を傭い入れたことは不思議ではない。ここにおいて、占領後最初に追放された特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織されたのであった。GHQのこうした動きを、被追放政治家たちが見逃す筈はない。彼らは早くもG2とGSの対立に眼を着け、ひいては、それがアメリカの日本管理政策の本質だと覚ったのである。これはさらに、米ソの対立が安全保障理事会などで顕著になるに及んで、G2の線を本筋のものだと確認するようになった。
政治家たちは、自分が事実上の追放を免れる唯一の救い道は、追放を指定したGSに対立するG2に気に入られることによって、GSの連中をうち敗かすにある、と考えついたのであった。彼らはまた、追放の指定は止むをえないとしても、別な立場で、つまり実際上、追放されない前と同じような権利を確保しようとしたのである。

(中略)占領軍の追放指定の無知は、無力な小物を罰し、狡知にたけた大物を跳梁させる結果になったのであった。(中略・自由党の)鳩山一郎の場合は、GSとよかった楢橋渡がその陰謀を行なったと一部に信じられている。(中略)当時の政局は、どの党も絶対多数を取れなかったため停頓をしていた。鳩山は社会党と連繋するつもりだった。彼にすれば、事前にも手を打ってあることだから出来ると考えていた。ところが、社会党は92名を取って昂然とし、鳩山の提携申し出にも動かなかった。幣原首相は、楢橋書記官長と進歩党幹事長の犬養健らの手で、現職のまま進歩党の総裁になることに決った。しかし鳩山は社会党との連立を中心と考えていたし、進歩党と連繋する気持は少しもなかった。
もし、檎橋の鳩山追放工作が真実とするなら、居坐りを画していた幣原内閣のために鳩山追放は行なわれたといえるのである。ここに問題なのは、日本の政党同士の駈引きや闇討ちのことではなく、そのような工作にGHQが荷担したということである。これを逆に云えぱ、G2とGSの相剋につけ入った日本人が、それを利用することによって対手を追い落したり、己れを浮び上らせたりしたのである。 ─(松本清張/日本の黒い霧/文藝春秋1960)
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