
〈協会資金〉650万円に手をつけた二重生活
【火宅のウクレレ】 「牧伸二」の愛人と隠し子
ウクレレ漫談家・牧伸二(享年78)の自殺を受けて噴き出たのは、東京演芸協会の資金に手をつけていたのではないか、という疑惑。その背景事情を探ると、愛人と隠し子の存在に行き当たる。演芸会の大スターは、長らく火宅の人として二重生活を続けていたのだ。
死の約12時間前─。
牧の姿は、東京・台東区の「上野広小路亭」にあった。牧が会長を務める「東京演芸協会」に所属する芸人、ミスター梅介が楽屋に入ったのは4月28日正午すぎである。すでに楽屋入りしていた牧に挨拶した後、湯島出身のミスター梅介はこんな軽口を叩いた。
「子どもの頃、ここらへんでよく万引きしましたよ」
それを聞いた牧は嬉しそうな表情で、
「いやぁ、俺も万引き、よくやったもんだよ」
と頷き、自宅で孫にお金を盗まれたことなどを話題にしたというが、ミスター梅介を真に驚かせたのは、牧が発した次の言葉だった。
「盗み、しちゃうよな。お金なんてあれば使っちゃうし、盗んじゃうよなぁ」
ミスター梅介が言う。
「普段はこういったことを絶対に言わない方なので本当に驚きました。"いいじゃない! 使っちゃっても!"と言いたかったような感じでした。会長はその日の夜に予定されていた演芸協会の理事会で、協会の金の問題について説明するため通帳を持ってくることになっていた。理事会は会長にとってものすごい負担になっていたと思います」
普段は絶対にしないような"盗み"に関する会話。そこに自殺の予兆が現れていたのではないか、とミスター梅介は見るが、一方で牧の周囲からは"全く異変に気付かなかった"との声も多々あがる。
葛飾区・青砥にあるスナック『T-Space』のママもその1人だ。牧は数年来、協会所属の芸人らと共にこの店で月1回のお笑いライブを催しており、それは4月26日にも行われた。
「あの日、牧さんは午後8時半頃いらして、生ビールを1杯飲み、カウンターでライブを見ていました」
そう振り返るママによれば、いつも通りに、牧はライブのトリを務め、最初に「やんなっちゃった節」、その後オリジナルの曲をウクレレで歌ったという。
「それ以外に、最近牧さんが出した『ひとめ惚れ』というデュエット曲を歌ってくれました。形だけ私が隣に立って。それがお客さんにウケて、牧さんがニコニコしていたのが印象に残っています。店からタクシーでお帰りになったのは23時頃。来てから帰るまで、牧さんには特に変わった様子はありませんでした」
だが、件のライブに出演した芸人の1人は全く別の見方をする。牧の様子は明らかに変だった、と─。
「いつもならライブの後、牧さんは出演者に"ご苦労さん"と声をかけるのですが、あの日はそれをしないで、虚ろな目で一点をボーッと見つめていた。私は帰りのタクシーでも一緒だったのですが、全く話をしないし、変な雰囲気でした」
そして迎えた28日、「上野広小路亭」での出番を終えた牧は、午後4時10分から浅草「東洋館」の舞台に立つ予定だった。
【自殺理由を巡る謎】
「上野での出番が終わった後、牧会長に"この後、時間潰すのが大変ですね"と声をかけたら、"浅草に行って、楽屋にずっといる"と言っていました。"それでいいんだ、俺は"と言う会長はどこか寂しげでした」(ミスター梅介)
しかし、牧が"楽屋にずっといる"ことはなかった。午後2時頃に東洋館に一旦移動したものの、近所の喫茶店を出た後に行方をくらませ、出演時間になっても姿を見せなかったのだ。夜の協会理事会も無断欠席した牧が次に目撃されるのは、29日午前0時15分頃、場所は大田区の牧の自宅から約2キロ離れた、多摩川にかかる丸子橋である。
通行人が、丸子橋の欄干を乗り越えて十数メートル下の川に飛び込む牧の姿を目撃し、近所の交番に通報。駆けつけた田園調布署の署員が川に浮かんだ牧を発見したが、搬送先の病院で死亡が確認された。
丸子橋に残されていたのは、2002年に脳出血で倒れて以来愛用していた杖のみ。遺書はなかった。
自殺の背景事情を巡ってスポーツ紙などが一斉に書きたてたのは、牧が会長を務める東京演芸協会の「資金流用疑惑」である。報道によれば、コトの概要はこうだ。同会には、歴代会長から引き継がれ、会長が保管する資金がある。その額は約650万円とされ、いつごろからか、それを牧が私的に流用している、との噂が会員の間で囁かれるようになった。牧は総会などで度々会員から突き上げられ、4月28日夜の理事会で、資金が入っている通帳を開示する予定だった─。
確かに、協会所属の芸人、ミスター梅介が先に話した通り、この理事会への出席が牧にとって"負担"になっていたことは間違いないだろう。会員から繰り返し責め立てられ、会長としてのプライドはズタズタになっていたかもしれない。それでも、650万円さえ用意できれば、会員たちをある程度納得させられたはずだ。しかし彼は金を用意することなく、死を選んだ。自分で資金を捻出する力がなかったのなら、誰かに頼ることはできなかったのか。例えば、妻の良子さんに…。その謎を解き明かすには、牧の来歴と私生活における知られざる"裏の顔"に触れなければならない。
【隠し子の名前は…】
〈娘はディスコで 朝帰り 息子は酔っ払って 朝帰り 女房は浮気で 朝帰り 亭主はあきれて 里帰り あーあ、やんなっちゃった あーああ、驚いた〉
ウクレレ漫談「やんなっちゃった節」で一世を風靡した牧は1934年に東京・目黒で生まれている。小学5年の時に疎開先で終戦を迎えたのち、東京中学を経て東京高校の定時制に進んだ。高校入学後に職工として勤めたのが大田区にある温度計製造会社「東亜計器製作所」で、後に伴侶となる良子さんは同社の社長令嬢であった。そして、牧のその後の人生を決定付ける"出会い"があったのも高校在学時。牧野周一(故人)の漫談を聞いてファンになり、素人の寄席番組などに出演するようになった彼が牧野に弟子入りしたのは57年。デビューからそれほど時をおかずして、師匠のアドバイスで始めたウクレレ漫談で一躍大スターに。63年から司会を務めた「大正テレビ寄席」(テレビ朝日系)は以後15年続く長寿番組となり、その後もテレビにCMにと活躍を続けた牧の芸能人生は、まさに順風満帆だったと言えそうだ。私生活では62年に良子さんと結婚、翌年には長女が生まれている。また、99年には東京演芸協会の会長に就任、後進の育成に当たってきた。
これが、「戦後演芸界の救世主」とまで言われた男の"表の経歴"であり、"表の顔"である。そんな牧の"裏の顔"、それは「火宅の人」としての顔だ。
牧には、40年来の付き合いの愛人がいた。そして、彼女との間に、今は30代になっている娘までもうけていたのである。
「愛人は元芸者だという話で、現在、70歳くらいになっていると聞いています。娘の下の名前は、彼の芸名と同じ"マキ"らしい。そして、いつまで続けていたのかは分かりませんが、少なくとも数年前までは毎月、生活費を渡していたはずだと小耳に挟んだことがあります」(事情通)
彼と親しかった後輩芸人は、彼が楽屋に愛人を連れてきているのを何度か見かけたことがあると言う。
「もう40年近く前でしょうか。身長は160センチあるかどうか。着物を着ていて、非常に綺麗な女性でした」
さる演芸関係者も、
「牧さんに長い付き合いの愛人がいることは知っていました。一時期は家も2つあり、完全な二重生活を送っていましたよ」
30年ほど前、愛人との家は中野にあった。
「当時、中野には牧さんの実姉が経営する小料理屋があって、そこに愛人と娘さんがよく来ていたそうです。お姉さんや店のお客さんは娘さんのことを可愛がり、"マキちゃん、マキちゃん"と言って抱っこしたりしていたとか。牧さん本人が話さなくても、彼がその子に"マキ"と名づけたことが分かり、客がお店で大笑いしたこともあったそうです」(先の事情通)
十数年前には、牧が周囲にこう漏らすのを複数の関係者が聞いている。
「(愛人の存在が奥さんに)バレた。参ったなぁ」
しかし悲壮感は全くなく、次のように続けて関係者を笑わせたという。
「本妻と愛人が1週間、それぞれ家にこもって出てこない。しかも外出するわけでもないのに着物を着て化粧をして待っている。何をしている、と2人に聞くと、不倫の事実を嗅ぎ付けた週刊誌の取材がいつ来てもいいように準備しているのよ、と言うんだ。ただ、結局、誰も取材に来なかった」
自らの火宅ぶりをも笑いに転化させてしまうあたり、さすがは一時代を築いた芸人といったところだが、
「愛人の娘さんが小さい頃には、牧さんが学芸会に顔を出すこともあったし、地方公演の旅の帰りにはお土産もよく買っていたという話です。基本的には奥さんと別居することなく暮らしていたようですが、旅に出るなんて言っては、愛人の所に通っていたのでしょう」
と、関係者は語る。
「牧さん本人はこんなことも言っていたそうです。彼が40代か50代の頃、"愛人のところでやって(セックスを)帰ると、疲れているのでバレてしまう。だから家に帰るとすぐジョギングに出る。それで疲れているのを誤魔化すわけだ"と。本当に茶目っ気のある人でしたね」
【知らん顔しています】
笑いを取るために話が誇張されているフシがあるのはさて置いて、この40年来の愛人の存在について、牧の妻・良子さんに問うと、
「そう(事実)だと思います。元々、熱海で暮らしていたと思います。だから芸者ってことになるんじゃないですか」
─子どももいる?
「知っていますけど、会ったことはございません」
─その娘さんに"マキ"と名付けたと聞いたが?
「…知らないです」
─愛人と娘の存在は誰から聞いたのか?
「誰ってこともないけど。(夫から)聞いたような気もするけど、もう私は知らん顔しています」
牧と付き合いのあった女優の浅香光代が言う。
「牧さんに芸者の愛人がいることは知っていたよ。あんまり大きな声では言えないから、知っている人は芸者をひっくり返して"シャゲの女"なんていう言い方をしていた。でもさ、芸人なんだから女が1人や2人いてもいいじゃない」
確かにそういう考え方もある。が、果たして妻の良子さんに同様の受け止め方ができたか否か。良子さんは協会資金650万円の問題を「知らなかった」と言うから、生前、牧はその件について妻に相談しなかったのだろう。いや、相談できなかった、というべきか。
「やはり普通に考えれば、牧さんは協会の650万円に手をつけ、女に注ぎ込んだということになるのでしょう。しかし、その相手は元芸者の愛人1人とは限らない。会長の女好きは有名で、最近までバイアグラを愛用していたほどですから。協会内部でも女関係の噂は絶えず、実際、巨乳の女芸人を口説いているのを見たことがあります」
と、協会所属芸人の1人。別の演芸関係者も、
「酒も好きで、02年に脳出血で倒れるまではよく朝方まで飲んでいた。カラオケの十八番は"津軽海峡 冬景色"の替え歌で"だんべ海峡 冬景色"。だんべ、とは津軽弁で女性器の意味です。地方で飲みに行ったスナックで、おもむろにポケットから帯付きの100万円の束を取り出し、女の子たちに1万円ずつ配っていたこともありました」
だがそれは、牧の健康状態が良く、仕事も順調だった"古き良き時代"の話。
「牧さんがおかしくなってきたのは、99年に協会の会長に就任してから数年が経った頃。当時から、今回問題になっている会長資金の件は取り沙汰されていたのですが、それ以外にも、文化庁から毎年協会が受け取る数百万円の助成金や、グッズ売上げなどに関する会計に不明朗な点があるのではないか、との声が会員から上がり始めたのです」
と、協会関係者は話す。
「07年には、数名の協会所属芸人が牧さんに対して資金の現状説明を求める要請書を提出。すると、協会側は彼らを除名処分にした。その後、処分された芸人は協会員としての地位確認の裁判を起こし、最高裁まで争って勝訴しています」
数年前からは、年に1回行われる総会で公然と"会長資金は今どうなっているのか"と追及する声が上がるようになったという。
「協会の運営は年々厳しくなり、芸人へのギャラが減額されたことで皆不満を募らせていたのです。追及の声は大きくなり、昨年にはとうとう"実際に通帳がどうなっているのか見たい"との提案が出た。しかし牧会長は通帳を持ってこず、のらりくらりとかわし続けていたのです」(同)
牧の自殺前、最後に協会理事会が行われたのは3月下旬のことである。
「そこでも会長は"預金通帳はない。金は自宅の金庫にある"と要領を得ない言い訳をした。理事たちから"お金のことをいつはっきりさせるのか、明確にして欲しい"と詰め寄られると、会長は"(5月の)総会の前までにはきちっとやります"と答えた。今思うと、この言葉が会長にとっては命とりになったのかもしれません。命を絶つという形をもって"きちっと"したのですから」(協会幹部)
牧は生前、雑誌のインタビューにこう答えている。
〈僕の頭の中には、4行詩専用の原稿用紙がある〉
詩の4行目に"オチ"をつければ、それがそのまま「やんなっちゃった節」になるわけである。死の直前、橋の欄干を乗り越えようとする牧の頭には、起伏に満ちた来し方を振り返って、どのような「4行詩」が浮かんだのだろうか。 ─(週刊新潮2013年5月16日号)

泉ピン子(65)、死してなお師匠牧伸二さん(享年78)を「許さない!」
【消えぬ47年憎悪=弟子時代の屈辱の日々。師匠の元を一方的に去り、脳梗塞で倒れたときも見舞いにも行かず…】
多摩川に身を投げ、自ら命を絶った牧伸二さん。その彼を師匠とし、付き人をしていたのが泉ピン子だ。しかし、ピン子にとってはその8年間は「消し去りたい過去」となっている。訃報に際しても拭えないほどの憎悪を生んだその師弟の関係とは─

芸歴56年─そんな大御所の突然すぎる訃報だった。
4月29日の深夜0時、東京・大田区の丸子橋から多摩川に身を投げて亡くなった牧伸二さん(享年78)。自殺とみられており、通夜と告別式は家族葬の形で、親族約20人のみが参列するひっそりとしたものだった。
牧さんが会長を務める「東京演芸協会」で約650万円の運営資金が行方不明になっており、会員から牧さんの責任を追及する声が高まっていた。この一件が自殺の原因ではないか、という報道もある。
牧さんが漫談の世界に飛び込んだのは1957年、彼が23才の時のこと。2年後、牧さんはウクレレ漫談という独自スタイルを生み出し、「あ~あ、やんなっちゃった」のフレーズで社会を風刺する「やんなっちゃった節」で一世を風靡する。その後は、司会業にドラマ出演など、幅広い分野で活躍した。02年に脳梗塞で倒れたが、翌年には舞台に復帰し、同年には文化庁長官賞を受賞している。
そんな彼の突然の死に、藤村俊二(78才)やミッキー・カーチス(74才)ら、生前親交のあった著名人が次々と追悼コメントを出す中、ひとりだけ沈黙を守る女性がいた。かつて牧さんの愛弟子だった泉ピン子(65才)である。
訃報の翌日に開かれた『渡る世間は鬼ばかり 2時間スペシャル』(TBS系)の取材会でも、ピン子は師匠の牧さんについて、一切触れることはなかった。彼女にとって、牧さんと過ごした日々は、"消し去りたい過去"のようなのだ。
芸能界に憧れて高校を中退し、「三門(みかど)マリ子」の芸名で劇場の前座歌手として歌っていたピン子が、漫談歌手の道に入ったのは66年、18才の時だった。牧さんが所属する事務所の社長に声をかけられたのがきっかけで、この時「泉ピン子」の芸名を与えられ、牧さんの付き人になった。
しかし、それはピン子にとって、過酷すぎる日々の始まりだった。
「当時、牧さんはいわば神様のような存在で、誰も彼には逆らえませんでした。ピン子さんは雨のときでも傘をさすことすら許されず、牧さんの荷物持ちをさせられていました。地方キャバレーのドサ回りの際も、彼女には宿も用意されませんでした。寝泊りはキャバレーの楽屋なんです。当時、ピン子さんはまだ20代。夜な夜なキャバレーの経営者が夜這いに来るので、ビール瓶を片手に、震えながら寝ていたそうです」(芸能関係者)
地方キャバレーでは、ピン子もステージに立った。ところが、漫談を披露しても、客からは「ブス、引っこめ!」と野次が飛び、テーブル上の料理を投げつけられることも日常茶飯事だった。
当時のピン子の給料は月8000円。住んでいた四畳半のアパートの家賃が8000円だったため、家賃を払うと一銭も残らない。付き人をする一方で、深夜に飲食店の皿洗いのアルバイトをしてなんとかしのいでいた。しかし、手元に残るお金はほとんどない。空腹のために眠れない夜も少なくなかったという。
しかし牧さんは「そんなことは当たり前」といって、彼女を突き放した。
「牧さんは"芸人をつくるのには10年かかる"が口癖で、ピン子さんには苦労を味わってほしいという親心から、あえて彼女を助けなかったそうです。でも、そんな思いもピン子さんには伝わらなかったのか、"師匠は何もしてくれない"といつも嘆いていました」(前出・芸能関係者)

【師匠の名前を口にすることも嫌がった】
こんな生活が8年も続いた頃、ピン子に大きな転機が訪れる。75年、情報番組『テレビ三面記事ウィークエンダー』(日本テレビ系)のリポーターに抜擢されたのだ。一躍、人気者となり、ようやく牧さんの付き人から解放された。
そのすぐ後の雑誌のインタビューで、ピン子はその際、牧さんにこう言われたことを告白している。
《実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな、というように、売れても礼儀を忘れるんじゃない》
しかし…。
83年、女優としてNHKの連続テレビ小説『おしん』に出演し、大ブレーク。同作の脚本家・橋田壽賀子さん(87才)に認められ、"橋田ファミリー"の一員として、ピン子はその後、橋田作品に数多く出演するようになる。が、一気に売れたことで、この頃のピン子は金銭感覚がマヒしていた。
「ブランドにはまってしまい、"全身シャネル"といわれるほどシャネルのバッグや靴を買いあさるようになって…。当時、ブランド品を買うために事務所に借金するのは当たり前で、貸すのを渋ると、"誰のおかげで事務所が食えてるんだ!"と怒りだしたそうです」(前出・芸能関係者)
そんなピン子のことを、牧さんは「あいつは大丈夫か」といつも心配していたという。
だが、牧さんの付き人時代のつらい反動からか、ピン子のブランド品購入はやまず、99年には事務所からの借金総額が3億5000万円を超えたとまで報じられた。
「堪忍袋の緒が切れた事務所側は、それ以上お金を貸すことを拒否し、肩代わりしていた自宅の公共料金の支払いもストップした。これに激怒したピン子さんは、師匠である牧さんにも黙ったまま、事務所を飛び出す形で独立したんです」(前出・芸能関係者)
しかもピン子は00年4月、女性誌のインタビューでこの独立劇をこう告白した。
《ひとり立ちしなくちゃ…ということはずっと思っていました。(中略)自分の仕事のあり方を誰かに託すんじゃなく、切符を買うところから一人で始めてみたい》
金銭トラブルには一切触れず、一方的な言い分で独立を正当化したのだった。
この一件が、ピン子と牧さんの関係を修復不可能にするきっかけとなった。牧さんの知人が話す。
「事務所の許可もなく、勝手に独立を発表したピン子さんに、事務所社長も牧さんもとにかく怒り心頭だったんです」
インタビューには、牧さんを怒らせる別の要因もあった。
「ピン子さんはインタビューの中で"自分にとって恩師は杉村春子先生"と言い、牧さんの名前どころか、漫談歌手時代の話が何ひとつ出なかった。これに牧さんは大きな失望を覚えたようで、"あまりにも恩知らずだ"と、彼女を破門にしてしまったんです」(前出・牧さんの知人)
以来、ふたりは没交渉となり、02年に牧さんが脳梗塞で倒れたときも、ピン子は見舞いにさえ訪れなかったという。
「独立からの13年間、ふたりは完全に絶縁状態で、ピン子さんはあの下積み時代の日々を消し去るかのように、牧さんの名前を口に出すことすら嫌がっていました。あの人のことは絶対許さないっていう思いがずっと心の奥深くに残っていたんでしょう」(前出・芸能関係者)
牧さんの死から数日後の5月上旬、熱海のあるレストランに橋田さんとピン子の姿があった。ふたりは思い出話に花を咲かせていたが、牧さんの話題が出ることはなかったという。
ピン子が牧さんの弟子になった日から47年。
死してなお牧さんは、ピン子にとって、許せぬ"鬼"でしかないのだろうか。

ピン子が"橋田ファミリー"入りのきっかけになった『おしん』。 ─(女性セブン2013年5月23日号)
【火宅のウクレレ】 「牧伸二」の愛人と隠し子
ウクレレ漫談家・牧伸二(享年78)の自殺を受けて噴き出たのは、東京演芸協会の資金に手をつけていたのではないか、という疑惑。その背景事情を探ると、愛人と隠し子の存在に行き当たる。演芸会の大スターは、長らく火宅の人として二重生活を続けていたのだ。
死の約12時間前─。
牧の姿は、東京・台東区の「上野広小路亭」にあった。牧が会長を務める「東京演芸協会」に所属する芸人、ミスター梅介が楽屋に入ったのは4月28日正午すぎである。すでに楽屋入りしていた牧に挨拶した後、湯島出身のミスター梅介はこんな軽口を叩いた。
「子どもの頃、ここらへんでよく万引きしましたよ」
それを聞いた牧は嬉しそうな表情で、
「いやぁ、俺も万引き、よくやったもんだよ」
と頷き、自宅で孫にお金を盗まれたことなどを話題にしたというが、ミスター梅介を真に驚かせたのは、牧が発した次の言葉だった。
「盗み、しちゃうよな。お金なんてあれば使っちゃうし、盗んじゃうよなぁ」
ミスター梅介が言う。
「普段はこういったことを絶対に言わない方なので本当に驚きました。"いいじゃない! 使っちゃっても!"と言いたかったような感じでした。会長はその日の夜に予定されていた演芸協会の理事会で、協会の金の問題について説明するため通帳を持ってくることになっていた。理事会は会長にとってものすごい負担になっていたと思います」
普段は絶対にしないような"盗み"に関する会話。そこに自殺の予兆が現れていたのではないか、とミスター梅介は見るが、一方で牧の周囲からは"全く異変に気付かなかった"との声も多々あがる。
葛飾区・青砥にあるスナック『T-Space』のママもその1人だ。牧は数年来、協会所属の芸人らと共にこの店で月1回のお笑いライブを催しており、それは4月26日にも行われた。
「あの日、牧さんは午後8時半頃いらして、生ビールを1杯飲み、カウンターでライブを見ていました」
そう振り返るママによれば、いつも通りに、牧はライブのトリを務め、最初に「やんなっちゃった節」、その後オリジナルの曲をウクレレで歌ったという。
「それ以外に、最近牧さんが出した『ひとめ惚れ』というデュエット曲を歌ってくれました。形だけ私が隣に立って。それがお客さんにウケて、牧さんがニコニコしていたのが印象に残っています。店からタクシーでお帰りになったのは23時頃。来てから帰るまで、牧さんには特に変わった様子はありませんでした」
だが、件のライブに出演した芸人の1人は全く別の見方をする。牧の様子は明らかに変だった、と─。
「いつもならライブの後、牧さんは出演者に"ご苦労さん"と声をかけるのですが、あの日はそれをしないで、虚ろな目で一点をボーッと見つめていた。私は帰りのタクシーでも一緒だったのですが、全く話をしないし、変な雰囲気でした」
そして迎えた28日、「上野広小路亭」での出番を終えた牧は、午後4時10分から浅草「東洋館」の舞台に立つ予定だった。
【自殺理由を巡る謎】
「上野での出番が終わった後、牧会長に"この後、時間潰すのが大変ですね"と声をかけたら、"浅草に行って、楽屋にずっといる"と言っていました。"それでいいんだ、俺は"と言う会長はどこか寂しげでした」(ミスター梅介)
しかし、牧が"楽屋にずっといる"ことはなかった。午後2時頃に東洋館に一旦移動したものの、近所の喫茶店を出た後に行方をくらませ、出演時間になっても姿を見せなかったのだ。夜の協会理事会も無断欠席した牧が次に目撃されるのは、29日午前0時15分頃、場所は大田区の牧の自宅から約2キロ離れた、多摩川にかかる丸子橋である。
通行人が、丸子橋の欄干を乗り越えて十数メートル下の川に飛び込む牧の姿を目撃し、近所の交番に通報。駆けつけた田園調布署の署員が川に浮かんだ牧を発見したが、搬送先の病院で死亡が確認された。
丸子橋に残されていたのは、2002年に脳出血で倒れて以来愛用していた杖のみ。遺書はなかった。
自殺の背景事情を巡ってスポーツ紙などが一斉に書きたてたのは、牧が会長を務める東京演芸協会の「資金流用疑惑」である。報道によれば、コトの概要はこうだ。同会には、歴代会長から引き継がれ、会長が保管する資金がある。その額は約650万円とされ、いつごろからか、それを牧が私的に流用している、との噂が会員の間で囁かれるようになった。牧は総会などで度々会員から突き上げられ、4月28日夜の理事会で、資金が入っている通帳を開示する予定だった─。
確かに、協会所属の芸人、ミスター梅介が先に話した通り、この理事会への出席が牧にとって"負担"になっていたことは間違いないだろう。会員から繰り返し責め立てられ、会長としてのプライドはズタズタになっていたかもしれない。それでも、650万円さえ用意できれば、会員たちをある程度納得させられたはずだ。しかし彼は金を用意することなく、死を選んだ。自分で資金を捻出する力がなかったのなら、誰かに頼ることはできなかったのか。例えば、妻の良子さんに…。その謎を解き明かすには、牧の来歴と私生活における知られざる"裏の顔"に触れなければならない。
【隠し子の名前は…】
〈娘はディスコで 朝帰り 息子は酔っ払って 朝帰り 女房は浮気で 朝帰り 亭主はあきれて 里帰り あーあ、やんなっちゃった あーああ、驚いた〉
ウクレレ漫談「やんなっちゃった節」で一世を風靡した牧は1934年に東京・目黒で生まれている。小学5年の時に疎開先で終戦を迎えたのち、東京中学を経て東京高校の定時制に進んだ。高校入学後に職工として勤めたのが大田区にある温度計製造会社「東亜計器製作所」で、後に伴侶となる良子さんは同社の社長令嬢であった。そして、牧のその後の人生を決定付ける"出会い"があったのも高校在学時。牧野周一(故人)の漫談を聞いてファンになり、素人の寄席番組などに出演するようになった彼が牧野に弟子入りしたのは57年。デビューからそれほど時をおかずして、師匠のアドバイスで始めたウクレレ漫談で一躍大スターに。63年から司会を務めた「大正テレビ寄席」(テレビ朝日系)は以後15年続く長寿番組となり、その後もテレビにCMにと活躍を続けた牧の芸能人生は、まさに順風満帆だったと言えそうだ。私生活では62年に良子さんと結婚、翌年には長女が生まれている。また、99年には東京演芸協会の会長に就任、後進の育成に当たってきた。
これが、「戦後演芸界の救世主」とまで言われた男の"表の経歴"であり、"表の顔"である。そんな牧の"裏の顔"、それは「火宅の人」としての顔だ。
牧には、40年来の付き合いの愛人がいた。そして、彼女との間に、今は30代になっている娘までもうけていたのである。
「愛人は元芸者だという話で、現在、70歳くらいになっていると聞いています。娘の下の名前は、彼の芸名と同じ"マキ"らしい。そして、いつまで続けていたのかは分かりませんが、少なくとも数年前までは毎月、生活費を渡していたはずだと小耳に挟んだことがあります」(事情通)
彼と親しかった後輩芸人は、彼が楽屋に愛人を連れてきているのを何度か見かけたことがあると言う。
「もう40年近く前でしょうか。身長は160センチあるかどうか。着物を着ていて、非常に綺麗な女性でした」
さる演芸関係者も、
「牧さんに長い付き合いの愛人がいることは知っていました。一時期は家も2つあり、完全な二重生活を送っていましたよ」
30年ほど前、愛人との家は中野にあった。
「当時、中野には牧さんの実姉が経営する小料理屋があって、そこに愛人と娘さんがよく来ていたそうです。お姉さんや店のお客さんは娘さんのことを可愛がり、"マキちゃん、マキちゃん"と言って抱っこしたりしていたとか。牧さん本人が話さなくても、彼がその子に"マキ"と名づけたことが分かり、客がお店で大笑いしたこともあったそうです」(先の事情通)
十数年前には、牧が周囲にこう漏らすのを複数の関係者が聞いている。
「(愛人の存在が奥さんに)バレた。参ったなぁ」
しかし悲壮感は全くなく、次のように続けて関係者を笑わせたという。
「本妻と愛人が1週間、それぞれ家にこもって出てこない。しかも外出するわけでもないのに着物を着て化粧をして待っている。何をしている、と2人に聞くと、不倫の事実を嗅ぎ付けた週刊誌の取材がいつ来てもいいように準備しているのよ、と言うんだ。ただ、結局、誰も取材に来なかった」
自らの火宅ぶりをも笑いに転化させてしまうあたり、さすがは一時代を築いた芸人といったところだが、
「愛人の娘さんが小さい頃には、牧さんが学芸会に顔を出すこともあったし、地方公演の旅の帰りにはお土産もよく買っていたという話です。基本的には奥さんと別居することなく暮らしていたようですが、旅に出るなんて言っては、愛人の所に通っていたのでしょう」
と、関係者は語る。
「牧さん本人はこんなことも言っていたそうです。彼が40代か50代の頃、"愛人のところでやって(セックスを)帰ると、疲れているのでバレてしまう。だから家に帰るとすぐジョギングに出る。それで疲れているのを誤魔化すわけだ"と。本当に茶目っ気のある人でしたね」
【知らん顔しています】
笑いを取るために話が誇張されているフシがあるのはさて置いて、この40年来の愛人の存在について、牧の妻・良子さんに問うと、
「そう(事実)だと思います。元々、熱海で暮らしていたと思います。だから芸者ってことになるんじゃないですか」
─子どももいる?
「知っていますけど、会ったことはございません」
─その娘さんに"マキ"と名付けたと聞いたが?
「…知らないです」
─愛人と娘の存在は誰から聞いたのか?
「誰ってこともないけど。(夫から)聞いたような気もするけど、もう私は知らん顔しています」
牧と付き合いのあった女優の浅香光代が言う。
「牧さんに芸者の愛人がいることは知っていたよ。あんまり大きな声では言えないから、知っている人は芸者をひっくり返して"シャゲの女"なんていう言い方をしていた。でもさ、芸人なんだから女が1人や2人いてもいいじゃない」
確かにそういう考え方もある。が、果たして妻の良子さんに同様の受け止め方ができたか否か。良子さんは協会資金650万円の問題を「知らなかった」と言うから、生前、牧はその件について妻に相談しなかったのだろう。いや、相談できなかった、というべきか。
「やはり普通に考えれば、牧さんは協会の650万円に手をつけ、女に注ぎ込んだということになるのでしょう。しかし、その相手は元芸者の愛人1人とは限らない。会長の女好きは有名で、最近までバイアグラを愛用していたほどですから。協会内部でも女関係の噂は絶えず、実際、巨乳の女芸人を口説いているのを見たことがあります」
と、協会所属芸人の1人。別の演芸関係者も、
「酒も好きで、02年に脳出血で倒れるまではよく朝方まで飲んでいた。カラオケの十八番は"津軽海峡 冬景色"の替え歌で"だんべ海峡 冬景色"。だんべ、とは津軽弁で女性器の意味です。地方で飲みに行ったスナックで、おもむろにポケットから帯付きの100万円の束を取り出し、女の子たちに1万円ずつ配っていたこともありました」
だがそれは、牧の健康状態が良く、仕事も順調だった"古き良き時代"の話。
「牧さんがおかしくなってきたのは、99年に協会の会長に就任してから数年が経った頃。当時から、今回問題になっている会長資金の件は取り沙汰されていたのですが、それ以外にも、文化庁から毎年協会が受け取る数百万円の助成金や、グッズ売上げなどに関する会計に不明朗な点があるのではないか、との声が会員から上がり始めたのです」
と、協会関係者は話す。
「07年には、数名の協会所属芸人が牧さんに対して資金の現状説明を求める要請書を提出。すると、協会側は彼らを除名処分にした。その後、処分された芸人は協会員としての地位確認の裁判を起こし、最高裁まで争って勝訴しています」
数年前からは、年に1回行われる総会で公然と"会長資金は今どうなっているのか"と追及する声が上がるようになったという。
「協会の運営は年々厳しくなり、芸人へのギャラが減額されたことで皆不満を募らせていたのです。追及の声は大きくなり、昨年にはとうとう"実際に通帳がどうなっているのか見たい"との提案が出た。しかし牧会長は通帳を持ってこず、のらりくらりとかわし続けていたのです」(同)
牧の自殺前、最後に協会理事会が行われたのは3月下旬のことである。
「そこでも会長は"預金通帳はない。金は自宅の金庫にある"と要領を得ない言い訳をした。理事たちから"お金のことをいつはっきりさせるのか、明確にして欲しい"と詰め寄られると、会長は"(5月の)総会の前までにはきちっとやります"と答えた。今思うと、この言葉が会長にとっては命とりになったのかもしれません。命を絶つという形をもって"きちっと"したのですから」(協会幹部)
牧は生前、雑誌のインタビューにこう答えている。
〈僕の頭の中には、4行詩専用の原稿用紙がある〉
詩の4行目に"オチ"をつければ、それがそのまま「やんなっちゃった節」になるわけである。死の直前、橋の欄干を乗り越えようとする牧の頭には、起伏に満ちた来し方を振り返って、どのような「4行詩」が浮かんだのだろうか。 ─(週刊新潮2013年5月16日号)

泉ピン子(65)、死してなお師匠牧伸二さん(享年78)を「許さない!」
【消えぬ47年憎悪=弟子時代の屈辱の日々。師匠の元を一方的に去り、脳梗塞で倒れたときも見舞いにも行かず…】
多摩川に身を投げ、自ら命を絶った牧伸二さん。その彼を師匠とし、付き人をしていたのが泉ピン子だ。しかし、ピン子にとってはその8年間は「消し去りたい過去」となっている。訃報に際しても拭えないほどの憎悪を生んだその師弟の関係とは─

芸歴56年─そんな大御所の突然すぎる訃報だった。
4月29日の深夜0時、東京・大田区の丸子橋から多摩川に身を投げて亡くなった牧伸二さん(享年78)。自殺とみられており、通夜と告別式は家族葬の形で、親族約20人のみが参列するひっそりとしたものだった。
牧さんが会長を務める「東京演芸協会」で約650万円の運営資金が行方不明になっており、会員から牧さんの責任を追及する声が高まっていた。この一件が自殺の原因ではないか、という報道もある。
牧さんが漫談の世界に飛び込んだのは1957年、彼が23才の時のこと。2年後、牧さんはウクレレ漫談という独自スタイルを生み出し、「あ~あ、やんなっちゃった」のフレーズで社会を風刺する「やんなっちゃった節」で一世を風靡する。その後は、司会業にドラマ出演など、幅広い分野で活躍した。02年に脳梗塞で倒れたが、翌年には舞台に復帰し、同年には文化庁長官賞を受賞している。
そんな彼の突然の死に、藤村俊二(78才)やミッキー・カーチス(74才)ら、生前親交のあった著名人が次々と追悼コメントを出す中、ひとりだけ沈黙を守る女性がいた。かつて牧さんの愛弟子だった泉ピン子(65才)である。
訃報の翌日に開かれた『渡る世間は鬼ばかり 2時間スペシャル』(TBS系)の取材会でも、ピン子は師匠の牧さんについて、一切触れることはなかった。彼女にとって、牧さんと過ごした日々は、"消し去りたい過去"のようなのだ。
芸能界に憧れて高校を中退し、「三門(みかど)マリ子」の芸名で劇場の前座歌手として歌っていたピン子が、漫談歌手の道に入ったのは66年、18才の時だった。牧さんが所属する事務所の社長に声をかけられたのがきっかけで、この時「泉ピン子」の芸名を与えられ、牧さんの付き人になった。
しかし、それはピン子にとって、過酷すぎる日々の始まりだった。
「当時、牧さんはいわば神様のような存在で、誰も彼には逆らえませんでした。ピン子さんは雨のときでも傘をさすことすら許されず、牧さんの荷物持ちをさせられていました。地方キャバレーのドサ回りの際も、彼女には宿も用意されませんでした。寝泊りはキャバレーの楽屋なんです。当時、ピン子さんはまだ20代。夜な夜なキャバレーの経営者が夜這いに来るので、ビール瓶を片手に、震えながら寝ていたそうです」(芸能関係者)
地方キャバレーでは、ピン子もステージに立った。ところが、漫談を披露しても、客からは「ブス、引っこめ!」と野次が飛び、テーブル上の料理を投げつけられることも日常茶飯事だった。
当時のピン子の給料は月8000円。住んでいた四畳半のアパートの家賃が8000円だったため、家賃を払うと一銭も残らない。付き人をする一方で、深夜に飲食店の皿洗いのアルバイトをしてなんとかしのいでいた。しかし、手元に残るお金はほとんどない。空腹のために眠れない夜も少なくなかったという。
しかし牧さんは「そんなことは当たり前」といって、彼女を突き放した。
「牧さんは"芸人をつくるのには10年かかる"が口癖で、ピン子さんには苦労を味わってほしいという親心から、あえて彼女を助けなかったそうです。でも、そんな思いもピン子さんには伝わらなかったのか、"師匠は何もしてくれない"といつも嘆いていました」(前出・芸能関係者)

【師匠の名前を口にすることも嫌がった】
こんな生活が8年も続いた頃、ピン子に大きな転機が訪れる。75年、情報番組『テレビ三面記事ウィークエンダー』(日本テレビ系)のリポーターに抜擢されたのだ。一躍、人気者となり、ようやく牧さんの付き人から解放された。
そのすぐ後の雑誌のインタビューで、ピン子はその際、牧さんにこう言われたことを告白している。
《実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな、というように、売れても礼儀を忘れるんじゃない》
しかし…。
83年、女優としてNHKの連続テレビ小説『おしん』に出演し、大ブレーク。同作の脚本家・橋田壽賀子さん(87才)に認められ、"橋田ファミリー"の一員として、ピン子はその後、橋田作品に数多く出演するようになる。が、一気に売れたことで、この頃のピン子は金銭感覚がマヒしていた。
「ブランドにはまってしまい、"全身シャネル"といわれるほどシャネルのバッグや靴を買いあさるようになって…。当時、ブランド品を買うために事務所に借金するのは当たり前で、貸すのを渋ると、"誰のおかげで事務所が食えてるんだ!"と怒りだしたそうです」(前出・芸能関係者)
そんなピン子のことを、牧さんは「あいつは大丈夫か」といつも心配していたという。
だが、牧さんの付き人時代のつらい反動からか、ピン子のブランド品購入はやまず、99年には事務所からの借金総額が3億5000万円を超えたとまで報じられた。
「堪忍袋の緒が切れた事務所側は、それ以上お金を貸すことを拒否し、肩代わりしていた自宅の公共料金の支払いもストップした。これに激怒したピン子さんは、師匠である牧さんにも黙ったまま、事務所を飛び出す形で独立したんです」(前出・芸能関係者)
しかもピン子は00年4月、女性誌のインタビューでこの独立劇をこう告白した。
《ひとり立ちしなくちゃ…ということはずっと思っていました。(中略)自分の仕事のあり方を誰かに託すんじゃなく、切符を買うところから一人で始めてみたい》
金銭トラブルには一切触れず、一方的な言い分で独立を正当化したのだった。
この一件が、ピン子と牧さんの関係を修復不可能にするきっかけとなった。牧さんの知人が話す。
「事務所の許可もなく、勝手に独立を発表したピン子さんに、事務所社長も牧さんもとにかく怒り心頭だったんです」
インタビューには、牧さんを怒らせる別の要因もあった。
「ピン子さんはインタビューの中で"自分にとって恩師は杉村春子先生"と言い、牧さんの名前どころか、漫談歌手時代の話が何ひとつ出なかった。これに牧さんは大きな失望を覚えたようで、"あまりにも恩知らずだ"と、彼女を破門にしてしまったんです」(前出・牧さんの知人)
以来、ふたりは没交渉となり、02年に牧さんが脳梗塞で倒れたときも、ピン子は見舞いにさえ訪れなかったという。
「独立からの13年間、ふたりは完全に絶縁状態で、ピン子さんはあの下積み時代の日々を消し去るかのように、牧さんの名前を口に出すことすら嫌がっていました。あの人のことは絶対許さないっていう思いがずっと心の奥深くに残っていたんでしょう」(前出・芸能関係者)
牧さんの死から数日後の5月上旬、熱海のあるレストランに橋田さんとピン子の姿があった。ふたりは思い出話に花を咲かせていたが、牧さんの話題が出ることはなかったという。
ピン子が牧さんの弟子になった日から47年。
死してなお牧さんは、ピン子にとって、許せぬ"鬼"でしかないのだろうか。

ピン子が"橋田ファミリー"入りのきっかけになった『おしん』。 ─(女性セブン2013年5月23日号)