無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今日は昔体育の日だった日だ。東京五輪49周年。祝日はみんなハッピーマンデーに移行しちゃったなぁ。

例によって、七年後の東京五輪の開会式に出て欲しいミュージシャンの話題が出ている。昨年のロンドン五輪はポール・マッカートニー御大まで担ぎ出してきたんだから日本でも、という事なのかもしれないがちょっと待て。イギリスという国はロックというジャンルを生み支えてきたのだから音楽家を新旧取り混ぜて披露すれば様になるが、日本はそうはいかない。サザンもB'zもミスチルもユーミンもドリカムもあゆもみんなみんな基本的には日本国内でしか人気がない。開会式の会場に来た人たちは彼らが出てくれば楽しいだろうが、全世界への生中継という意味では甚だ心許ない。というか「何これ?」と思われてチャンネルを変えられるだろうなぁ。坂本九が生きてればまだ違ってたかもだが、生きてたとしても何歳だよ。いや、それはおいても勿体無い事をした…。

もしかしたら、現状から推察するに七年後の開会式のステージで演奏していちばん人気が高いのはDir en greyになるんじゃ…大丈夫か。ポップ・アーティストに限らなければ居なくはないか。小澤征爾とか久石譲、最近では管野洋子も知名度を上げている。七年後にはもっと、という期待も掛けられよう。

しかし、やはりいちばん有り得るのは七年後にUtada Hikaruが全世界でブレイクしている事だ。10年間一切ブレずに私は言い切り続けているが、Hikaruが英米のチャートでNo.1を取っても私は全く驚かない。音楽的実力から考えればただの当たり前であって、どんな状況であれ「やっとかよ」という感想しか出てこないだろう。こればっかりはファンの欲目ではなく客観的事実である。しかし今それを言っても単なる負け惜しみだろうなぁ。

という訳で、もし次の七年でHikaruが地球規模でブレイクしてしまった場合は、東京五輪の開会式で歌って欲しいという機運が高まるだろう。そうなったら嬉しいね。いや、出て欲しいという意味ではなくて、そういう空気が出来ていたら、扁桃腺をまた痛めるまでになった「This Is The One」の頃のHikaruの努力が報われる事になるなぁ、と。それを想像したら何だか嬉しくなってしまった。努力の成功体験って、本当に大切だからね。そうなるといいね、ヒカル。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




UTADAの活動の何が羨ましかったかってファンとの距離感の違いだろう。いきなり売れてしまった宇多田ヒカル様は奥に隠されて直接触れ合う機会なんてなかった。UTADAの方はそんなこともなく…というのは言い過ぎだが、中止や延期になったものも含め所謂日本で言う"インストア・イベント"なるものが繰り広げられた事は、日本のファンから羨望の眼差しで…ってそれ自体あんまり把握されてないような気もしなくもないが。

お陰でわかったのは、本人が案外サインするのは嫌じゃない、寧ろ嬉しい位だという事だ。日本だとそんなことしようもんならキリがない、と止められていたらしいが、Hikaruは満更でもなかったらしい。まぁ確かに二万通を超えるぬりえ総てに目を通す根性の持ち主なので、「くまー」と挨拶して色紙を出せば喜んでサインしてくれそうではある。色紙の端っこにスーパークマンズのイラストなんかをちょこっと書いておけばばっちり食いついてくれるだろう。あんまり上手く掻きすぎると「この色紙くれない?」と訊かれてしまうだろうな。なんちゅう本末転倒。でもそうなったらそれはそれで。

そういう、"極普通の"アーティスト活動が出来ていたのが「This Is The One」の頃で、地道な取材、テレビラジオ出演、上記のようなイベント開催、Webでのコンテストなど、非常に順調な活動の延長線上というか集大成だったのがツアー「In The Flesh 2010」だった。同ツアーでは、ファンのテンションが非常に高かった事も話題になったが、英米欧のファン気質に加えて、こういった地に足のついた活動の成果が出た結果だった、という事もいえるのかもしれない。足で稼いだファン層はやはり体質が違い、物見遊山は少なく、非常に熱心だ。日本では、地上波テレビのような巨大メディアに依拠した売れ方もした為、結局そういった「足腰の弱さ」が見え隠れするようになったかと思う。出来れば、名義がUtada Hikaruとなった今後は、日本以外のみならず日本でも、気軽にサインに応じて貰えるような活動を期待したいもんだが、うーん、流石にそれは無理なのかなぁ。ソフトが売れなくなっても、一度栄華を極めた名声は消える事がないのだから…


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この間照實さんがハイレゾ音源リリースを検討中と発言してくれてやや色めき立っている。その暁にはハイレゾ対応プレイヤーを購入して迎え撃つ所存。どうせ一生聴き続ける音楽なのだから死ぬまでいい音で聴き続けたい。どうでもいいが何故うちの携帯は「おと」と打つと「音」より先に「男」を持ってくるのだろうか。あんまり普段その単語打たないんだけどなぁ。お陰でここでも何度か致命的なタイポをしているのだがまぁそれは自分の注意力不足ですわね。それはさておき。

色めき立った私はTwitterで直接質問をぶつけた。ヒカルがデビューして長らく、彼はヒカルのいちばん近くに居るずっと遠い人だったのだが今やどうだ。直接取材敢行してそれに答えてもらってしまえるぞ。といっても最近のリプライ・クイーンはバカリズムラブな女子高生さんなのだけど。

でだ。照實さんが言うにはヒカルのマスター音源は最高でもサンプリングレート48kHz、ビットレート24bitらしい。検索してもらえればわかるが、今時のハイレゾ音源はこれより音質がいい。96bitとかみたい。となると、いざハイレゾってうたい文句で売り出しても、あんまりインパクトがないような。何しろ、CDの44.1Hzですら人間の可聴域を超えた高周波数だというのに、果たして48kHzとかそれ以上に意味があるのか?

あるんですねぇこれが。僕らは直接関係ないけれど、Hikaruの耳は超音波を捉えるのだ。彼女が昔猫避け(あれ、ネズミだっけ?)の超音波発振機に悩まされた事があるのは皆さん御存知だろう。彼女のそんな高性能の耳を納得させる為にも、ハイレゾ音源による過去作品のリリースは意味がある。

でもそういえば、確認するのすっかり忘れてたけどWILD LIFEのBlurayってサンプリング周波数48kHzじゃなかったっけ? だとしたら一応既にヒカルの"ハイレゾ相当"な音源はリリースされている事になる。もうひとつ忘れてはいけないのが桜流しで、あれの最高音質はEVAQのBlurayのエンディングで聴けるのだ。付属サントラでCD音質で聴けるのみならずBlurayの高音質は案外見落とされているかもしれない。桜流しファンはEVAQのBlurayは必携である。

この他、少なくともウタユナとインフレ(だからそう略すなとw)もHDで撮影している筈だからこちらもハイレゾ相当の音質での(再)リリースが期待できる。うーむ、どこまでの規模のプロジェクトになるかわからないが、結構期待に胸膨らませてしまうなぁ。率直に言って、楽しみです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エディットの人、というのは誤解されやすい。そうなったのはテレビの影響も大きいのかな。生放送で反射神経よく面白い事を言う人間がわんさと居て感覚が麻痺している。収録でも、クイズ番組や雛壇スタイル、そしてニュースには特にそれを感じる。時には、テンポを維持する為にその場を取り繕うような発言が出てきてまるで嘘という事もある。バラエティーなら笑い話で済むが、ニュースだとそうもいかない。つくづく、情報提供はテレビに向いていないと思う。

音楽は、その"テンポを保つ"事が至上のジャンルである。如何に詰まらずミス無く演奏するか。その点がどうしても注目されてしまう。生演奏だとある意味当然なのだが、創作活動とは対局にある。尤も、即興演奏の中で新しいものを生み出す創造性というものもあって、話はややこしくなるんですが。

創作とは、一歩立ち止まって「待てよ、ここをこうすれば…」という時に生まれるものなのである。走り抜けるのではない。だから休息とは創作に不可欠な要素だ。「これは休養ではない」とヒカルは強調していたが、人間活動は、アーティスト活動を主軸にものを見るならば、大きな意味での創作の一環であろう。そうやって立ち止まって一歩退いて全体を眺めてみる時間。その時の「手直しの集積」が創作であると言い換えてもいい。

「手直し」とは編集の事である。生放送や即興演奏では一度駆け抜けた時間には二度と戻らないが、編集作業は一度通った時間を幾度となくやり直す事で成立する。トライアル&エラーの連続。即ちその殆どのやり直しの時間は失敗だらけである。これが「失敗は成功の素」の意味であろう。ただの失敗には意味がない。その時間を何度もやり直す事で徐々に何かに近付いていくのである。

残念ながら人生はやり直しが効かない。我々以下の世代には「リセットボタンはない」という表現がしっくり来るかな、その意味で、何度もやり直しを重ねていくうちにその何かは得体の知れないものに膨れ上がっていく。アートとはその時間軸のメビウスの輪なのだ。それを、二度と戻らない時間の流れに戻す事を"大衆化"といい、音楽でいえばそれはPopular Musicである。ヒカルがPopsに拘るのは、その時間の性質を知っているからかもしれない。その視点でテイク5やPassionを聴き直してみると、何か新たな発見があるかも。聴き手もまた、何度もやり直す事で新しい何かに辿り着いていくのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




一週間後には熊淡のオンエアだというのにこのBlogでは一向にラジオの話が進まない。何故かをよくよく考えてみたら、私、今は余計な事を言いたくないみたいだ。

次の放送がどんなものになるか、勿論興味がない訳ではない、どころかそこにしか興味がない(世の中で他に何が起こっていようがどうでもいい)とすら言えるのだが、今回に限っては放送されたものをただ受け入れるだけだから、特に予測や期待や妄想を準備する必要がない。欲しいのは、聴いた後の解釈だけだ。

ならば過去4回の放送を復習しようといつものようにアーカイブスを聴き直してみると―そこには未来を知らないHikaruが居る。これから母を喪う事になるとは知らないHikaruが。それが、何ともいたたまれない。

まるで、2013年8月22日を境に、世界が変わってしまったかのようだ。何か、間違った世界に足を踏み入れてしまった感覚すらある。しかし、我々の人生は最早こちらにしかないのだから、ここを歩くのみである。時間の上は引き返せない。いつものように、賽子の出た目に合わせて動くだけ。人は生きて死んでいくのだ。

Hikaruは今感情に蓋をしている状態だ。少しでも緩めると溢れ出す。本来、出る時に出す方がいいのだが、それに耐えられるかどうか。もう、どこにも急ぐ必要は転がっていないのだ。その感情とは、ゆっくり対峙していけばいい。

しかし音楽は。音楽は、人に感情を思い出させる。特に、心が音で出来ている我々は、古い音楽も新しい音楽も知ってる曲も知らない歌も何もかもが懐かしい。いい曲を聴けば聴く程感情が暴れ出す。折角無感情を押し通そうとしているのに音楽は。音楽は、寝ている子を起こすのだ。出来れば子守歌でも聴いてもう一度眠りに就いて欲しいのだが。

ラジオは、だから、今のHikaruには酷である。でも前に言ったように、人間活動を遂行中の身なのだから、その主義に則るのなら、やはり今回の放送は飛ばす訳にはいかない。忌明け後なんだし、人と約束した仕事はしなくては。

それに、番組のライトファンが離れる可能性が出てくる。ただでさえ、月イチで思い出してもらい難いのに、このままでは2ヶ月に1回という感じになってくる。ちょっと、違うかもしれない。

勿論私は、Hikaruが辛いんであれば存分に休めばいいとは思っている。ただそうなると、"人間活動"という看板はそっと下ろさないといけないかな、とは思う。

ミュージシャンは普通の人より感情が激しい。それを瞬発力として創作をするのだから、殊更エモーショナルな出来事があった時は、人よりも回復に時間がかかったりする。その空気を察してか、不幸に遭ったミュージシャンが長い長い休暇に入るのをファンはじっと見守り、ずっと待っている。

でも普通の勤め人は一週間か10日もすれば元通りに働き出す。それが"人間"の方の常識だ。それをHikaruがどう捉えているかである。


つまり私は、人間活動という看板を撤回しても構わないと思っている。今までのHikaruの活動の意義がなくなる訳では全く以てないのだし。

泣いたって何も変わらないって…

ラジオの一回や二回、という気持ちもあるのだが、何だかずっと不登校だった子が新学期にやっと登校してみようかと思った、みたいな状況が頭に浮かぶ。それなら始業式に出ないと、また行きづらくなっちゃうよ~、って。周囲は言うほど気にしてないのだが、本人の気持ちの動きはそうではない。内容はどうであれ、声を出して録音しておけばそれで何とかなる。そんな気持ち。こうやって駄文を連ねている間に、納品報告のツイートが来てはないですかね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




音楽家Hikaruはマイクロフォンなしでは生きていけない存在である。歌唱法は根本的にマイク有りが前提となったものだ。小さい頃からスタジオで宿題をしていたような身にとっては、それは自然な事なのだろう。

歌だけではない。ラジオも勿論、マイクの存在無しには成立し得ないメディアである。Hikaruはレコードデビューする前の1998年10月からラジオDJとして仕事をスタートさせており、ミュージシャンとしてよりDJ/パーソナリティとしてのスタートの方が早いのだ、というエピソードはKuma Power Hour開始時に語られていたので皆さん御存知かと思われる。

折しも、今日10月8日はそのHikki DJスタートからちょうど15年経った日で…と書こうと思って1998年10月8日の曜日を調べてみたら木曜日だった。InterFM「Hikki's Sweet&Sour」もNorth Wave/Cross FM「Warning : Hikki Attack」も日曜夜の番組の筈なのに…。途中で放送曜日が変わったのか、それとも単にどこかで日付が間違っているのか。謎である。それにしても15年間誰もBiographyの記述に突っ込まなかったというのは、どこかで整合がとれているかもしれないな。どちらにせよ些細な問題なので構わないんだが。

という訳でマイクロフォンありきのHikkiが、まずはラジオのマイクの前に戻ってきた、というのが今年のKuma Power Hourの目玉である。自分はラジオを聴かないのに、テレビよりラジオの方が好きと公言してしまうのは、単にカメラに慣れていなくてマイクには慣れている、という事なのかもしれない。さいたまもNYもカメラの入ってる日に限ってツアー中いちばん調子が悪い、という…。いやWILD LIFEなんかストリーミングで全世界に生中継だったけどあの出来だったんだから単なる巡り合わせなのかもしれないけれど、そう勘ぐりたくなるほどHikaruは「マイクの人」なのである。

それと同時に、編集(エディット)の人でもある。今回のKuma Power Hourは、Hikaru自らが編集を手掛けている点が大きい。基本的に、"LIVE/ナマ"よりこっちの"EDIT/編集"の方が向いている人なのだ。だからマイクで録音したものを編集しているのが性に合っている。

編集とは、文章でいえば推敲の事だ。自分で為した事を再確認し批判を加え再検討しながら、徐々によりよいものに仕上げていく過程。こちらが本質ならば、生演奏や生トークなどは、向いてないとは思わないけれど、あんまりHikaruの本分ではないのかなと思わされる。それは恐らく、上記の通り、作品を文章のように、文字に書いたもののように捉えているからではないか…という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




もう先々週になるのかな、最速の地域だと。春夏2クールに渡って放送されたテレビアニメ「進撃の巨人」全25話が終了した。好き嫌いは抜きにすれば、漫画・アニメ両分野で今年2013年の顔といえばこの作品、と言い切るのに異論は少ないと思う。漫画の売上はONE PIECE等に、円盤の売上は物語シリーズ等には、数字の上では及ばないが、その話題性とインパクトは格別のものがあった。

テレビアニメの成功の理由は色々ある、というか総てが理由、総合力の勝利としかいえない(レコード会社の担当さんが図抜けて優れていたのがいちばん大きいかな、ここだけの話)のだが、いちばんの売りのひとつは「立体機動」と呼ばれる兵士たちのアクロバティックな動きをアニメーションで表現してしまった事だろう。いやはや、あの多彩なアングルとスピード感は、アニメーションならではの魅力といえる。原作を読んでストーリーを知っている人間も、あれ見たさに毎週チャンネルを合わせていたのではないか。ここまで漫画原作でアニメ化の意義があった作品も珍しい。ONE PIECEなんてアニメが完全に原作の迫力に負けてるもんね。まぁありゃしゃあないけど。

で。ふと考える。我々は立体機動をテレビの平らな画面でみる。あれが3Dの"体験"になったらもっと凄いんじゃなかろうか。いや、今巷にある「飛び出す絵本が動くヤツ」ではない。本当に周囲360°(というか立体角4πか)全部があの映像になったり、いやもっといえば、あの巨人が実物大で闊歩するアトラクションの中で、あのカメラワークの動きそのものに帯同できたらスリル満点ではなかろうか。いや勿論危険だし巨人あのサイズで走らせる技術も実際に立体機動を操る技術も現実にあるけれど、もしそんな"体験"が出来たら、テレビアニメで観た時の興奮の比ではないだろう。宙を舞うようなジェットコースター。あれ怖い。(←うちのおばあちゃんの口癖(でした))

という訳で。アニメーションというのはどこまで行っても"疑似体験"であり、そういった"よりリアルな体験"には及ばない代替手段でしかない。つまり、空を飛べたらこんな景色が見れるだろうなぁ、とか宇宙に行ってみたいなぁ、とか、まさに"こんなこといいな・できたらいいな"こそアニメーションの一つの真髄であり魅力である。早い話がこのジャンルの表現とは"夢"なのだ。

前置きが長くなった。本文は短く纏めよう。一方、音楽という娯楽は突き詰めればただの現実である。我々は普段インターネットや配信やCDやTVやラジオや何やかんやで音楽に親しんでいる。それらは大体が「録音」であり、どこかで鳴らされた音の記録だ。つまり、突き詰めればその録音場所、録音時間に辿り着く。その時その場に居合わせる事が出来たなら、我々は最上の、というか"それ以上ない"体験をする事になる。上記の例でいえば、家でCDを再生するのはアニメーションで立体機動を観るようなもの、生演奏を観るのは、巨人が闊歩する世界で実際に立体機動を操った時の視界を体験するようなもんだ。かなり、いや途轍もなく違う。

しかし、そこまでの"違い"を生み出せる音楽家は非常に少ない。それは別に音楽家達の怠慢ではなく、録音と編集と再生の技術が極端に上がった為だ。「家でCD聴いてた方がまし」状態である。特に、マイクロフォンとスピーカーに頼った音響の場合、生演奏の凄みを伝えるにはかなりのPA技術が要る。

その点、クラシックの演奏会は凄い。オペラ等をスタジアムで演ずる際は流石にマイクロフォンとアンプとスピーカーのお世話になるが、基本的には数千人規模の聴衆を相手に、電気の力は使わず(といっても大抵室内なので空調と照明で電気のお世話になるのだが)、総て人力で音を出して聴衆を魅了する。特に歌手の皆さんは驚異的で、道具(楽器)すら使わない。あの声量は間近で聴くと本当に吃驚である。

どうしてもクラシックというと堅苦しく、親しみにくい音楽性で、なかなか演奏会に足を運ぼうという気にはならないかもしれないが、何かの機会があれば一度行ってみる事をお勧めしておく。本当に凄いんだから。

さて、ではマイクロフォンを手放せないUtada Hikaruは…という話の枕のつもりだったんだが、流石に長くなり過ぎたのでまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru まであと一週間少しだが、えぇっと、納品報告はまだだな。残念だが今回飛ばしてしまうとファンの間ですら不信感が広がってしまうから、なんとか踏ん張って放送して欲しい。Twitterは照實さんが隙間をキッチリ埋めてくれているので、寂しくはない。(?) 「笑っていいとも」みたいなもんだろうかね。

光も随分落ち着いたとは思うが、深い哀しみはある時不意を突いて襲ってくる。その時は膝から崩れ落ちてしまうかもしれない。それは、時といえどなかなか癒せるものではない。心理構造自体が母の死を受け入れるまでには、なんだろうな、やっぱり時間はかかるけれど、それ以上に、自分の中に母とか親とかを育む心意気が芽生える必要がある。生きてりゃ得るもんばっかりだが、彼女はもう何も得られない。


朝からしんみりしとるな。テレビの改変期のお陰か3ヶ月ごとに生活のサイクル…とまで言うと言い過ぎかもしれないが、かなりのものが入れ替わる感覚がある。あれだけ毎日タイムラインを賑わせてくれた#あまちゃんタグも、すっかり影を潜めてしまった。放送終わったんだから当たり前なんだけど、こういう切り替え、入れ替わりの時期に乗っかっておかないと、11月から復帰ではちょっと敷居が高いかもしれない。月イチだと余計にね。

確かに、どんなトーンで入ればいいかわからないかもしれないが、それはこっちだっておんなじだ。いや、こっちがHikaruの出方を窺っているというか。だから、そういうトーンなんだ、とこっちに知らせてくれるだけでよい。あとは、なんとかなるだろう。

プロデュースと演出というのは、そういう捉えどころの薄い、あやふやな感覚から出発する。後から、それをどう具体的に落とし込むかというプロセスに入る。Hikaruは番組制作を通じて、今の自分の心理状態を客観的に見つめ直す機会を得るだろう。前も言ったように、それはセラピーになるかもしれないし、新しく傷をつける事になるかもしれない。しかしいずれにせよそれは社会的人格の話である。プライベートはまた―全く、というほどじゃあないにしろ―別である。その線引きと、ロールプレイによって、両輪がしっかり回っていくように、祈っている。無理に明るくしていたり、ひたすら暗かったり、また無表情だったり、どれがいいかな…普通に楽しくやるのがいちばんだろうな。Hikaruのラジオを聴くのはいつだって楽しいから。そうならなかったら、そうなのねと言うだけの話だ。案外すんなりである。そこらへんのことは。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




具体的な型を持たないHikaruの音楽は、著作権フリーな環境において後続を刺激しやすい。メロディーの強さは天下一品な為、二次創作もやり甲斐があるだろう。

単純に、Hikaruはどちらが嬉しいんだろうか。どちらも嬉しい? まぁ、そうだわな。ただ、お金に執着は無さそうなので、どちらかといえばクリエイティヴなインプレッションの方を重視するようにも思う。ちょっとしたジレンマかもしれないが、Hikaruは自分の音楽が某かの音楽的影響を何処かで及ぼすかもしれない、なんて全く考えていないだろう。普通の人だって考えないけど。

ただ、宇多田ヒカルが赤松健のように二次創作OKのサインを"公式に"提示したらどうなるだろう、という興味はある。どれ位新しいものが生み出されるか、ね。

UTUBEの存在は、かなりアグレッシヴである。スマホ世代の人は宇多田の代表曲は「ググればフルで見れる/聴ける」ものとなった。PCでは言わずもがな。照實さんは「PVはPromotion Videoだから」と言うが、その怒涛の再生回数に見合うだけの収益をあげているかというと、ねぇ?

二次創作には遠いが、このUTUBEは直接商業的効果には結び付かないがヒカルの存在を印象付け続けるには十分な効果を発揮している。要は、ここからどうするか、である。

桜流しは3日間でショートバージョンになった。今も確かそのままな筈である。これがフルコーラスにまた戻る日が来るとしたらいつだろう。発売からちょうど一年経った位が適当だろうか。ただ担当者が忘れているケースも考えられる。けれどもUTUBEのコンセプトを考えればいつかはフルコーラスにするしかない。でなくば桜流し以降のPVは総てショートバージョンに? 不自然過ぎる…。

私はつまり、ここから一歩踏み込んで、PVを素材にした二次創作にGOサインを出してみるのはどうかとかそんな話をしてみたかったのだが、ひとつ大きな障害がある。ヒカルは「げいのうじん」扱いされているのだった。悪意のある編集が待ち受けているだろう。これが普通の音楽家の作品なら、作者の日常生活とかホントどうでもよく、映像や音楽のクォリティーの話になるのだが、げいのうじん宇多田ヒカルはゴシップの餌食となる。つくづく、途轍もない知名度と50億だかなんだかというバカデカい金額の収入と引き換えに失ったものの大きさを痛感する。痛し痒しである。まぁゴシップは、どんなジャンルでも飛び抜けて有名になってしまえば逃れられない運命ではあるのだが。


やっぱり、Hikaruはメジャーレーベルに籍を置き、純粋に消費者に向けて良質で真摯なPopsを送り出し続けるのがベターなのかな、と色々考察した挙げ句に思う今である。何か、何故か悔しいので、いつか別の方法論を提示してやるぜと心に誓う週末の夜でしたとさ。あれ、今週熊淡のエントリーいっこも書かなかった。…(涙)

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




著作権法があってもなくてもクリエイターの作品は後続を刺激するが、そのありようは些か異なってくる。

法的な縛りが強い時は、まずもうそれだけで自発的に創作する事を促される。例えばアニメのある場面で久石譲の音楽を使いたい、と思った場合は彼に著作権料を払わなければならないが、ここで自前で"久石風"の音楽を作って当ててしまえば、逆にこちらに著作権使用料が転がり込んでくる。このマイナスとプラスの差はデカい。勿論、"風"といっても限度があり、似すぎているとパクリだ盗作だと騒がれる事になるので注意が必要だが。

そういう時に、新たに創作する側が利便性を感じるのはオリジナルの方に模倣しやすい"型"があるかどうか、だ。例えば、チャック・ベリーのメロディーをそのまま使ったら盗作だが、彼の使っているコード進行やリズムパターンを援用して異なったメロディーを乗せればそういった謗りさ免れ得る。この場合の"型"は大抵"ロックンロール"と呼ばれていて、この半世紀ありとあらゆる場面で用いられてきた。誰もが模倣し易く、一定の効果があり、かつ著作権侵害にならないもの。"型"の強みはここにある。


一方、そういった法的縛りのない世界ではどうなるか。オリジナルのメロディーはそのまま援用・流用され、リミックスやリプロダクション、マッシュアップといった手法が主流になっていく。この場合、必ずしも援用し易い"型"が揃っている必要はない。フレーズをそのまま幾らでも使えるのだから、みんなが知ってる"あの曲のあのメロディー"をそのまま使って、そこに自分独自の何かを加えていく。著作権法の心配がないのだからオリジナルを使いたければそのまま使えばいいのだから、何らかの加工を施したがる人は必ずそこに自分独自の何かがある筈である。斯くして、直接的に繋がり合いながら創作の輪が広がっているのが法的縛りのない世界である。


今みたとおり、著作権法の有無や多寡は、創作意欲の増減というよりは寧ろその質、ありようを変えるように思われる。いずれの場合も創作活動を促す結果になる、という点は踏まえておきたい。

さて、では、明確な"型"を持たないまま数々の名フレーズを生み出してきたUtada Hikaruの場合はどうなのだろうか―という話題からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルの場合、市場でのキャラクターとして、後続のクリエイターを刺激するというよりは、エンド・コンテンツとしてのPopsを提供する立ち位置に居ると思う。即ち、アウトプット能力のある人間を励起させる力よりも、アウトプット能力が無い層に"表現"そのものを与える立場。つまり純粋な消費者を相手にしており、どういう事かというと、ヒカルの許にお金が集まる。エンドコンテンツとはそういう事だ。そしてそれは、つまる所Popsなのだ。

一方、後続を刺激するようなクリエイティブ…作品の質は考えず、システムに絞って考えようか。ある著作物が著作権フリーとして公開されていた場合、多くの人たちが"無断で"二次使用をし、新たな作品を生み出す。しかし、この場合著作権フリーであるがゆえにオリジナルのクリエイターにはお金が入らない。勿論、評判がよければまわりまわってそれが宣伝効果を発揮してオリジナルさんの収入が増える事もあるだろうが、それは二次的な効果に過ぎない。

どちらがいい、という訳でもない。ただ、インターネットの普及によって、即ち、受信と送信の非対称性が崩れた事で、後者の活動が非常に盛んになっている。直接的な商業性は低いが、長い目でみれば文化の育成に一役買う事になるだろう。

Popsは少し違う。そこで終わりである。アウトプットをしない"大衆"に"消費"させる為の音楽。これによって人々は"濡れ手に粟"で"表現"を手に入れる事が出来る訳だ。

ヒカルは、どちらがお望みなのだろうか。やはり、そこなのだろう、な。Popsミュージシャンとして、大衆に向かって歌う歌手、作曲家なのだろう。だから作り終わった曲は殆ど聴かないのかもしれない。自分で聴く為に作ったんじゃないから。ヒカルはクリエイターで、幾つも表現手段を持っている。そういう曲は「お呼びでない」のだ、完成してしまった後は。完成させるまでが彼女の仕事。

となると、ただの音楽ファンとしてのヒカルは、何が好きなのだろう。Kuma Power Hourで時折、ひとの楽曲を聴いた時に「今後に活かしたい」的な発言があるが、あれは消費者としてより供給者としての視点である。それは、仕事モードなのだろうか、それとも、普段からそんな事を考えながら生きているのか。どうでもいい事ながら結構重要である。家に居る時位は、リラックスして自分の趣味に走りたい、なんて風に思うのは普通だと思うのだが、ヒカルはどちらなのだろう。確かに、たとえばコクトー・ツインズが大好きだからといってヒカルの書く音楽にその影響が直接みられるケースはほぼ皆無である。だからといって、まるっきり仕事を離れて、という訳でもなさそうだ。うーん、多分これは結論が出ないな。暫く置いておくとしよう。しかし、次の熊淡で、ヒカルが単なる消費者目線で選曲しているかそれともクリエイターとして"参考"にしてるっぽいかは、逐一チェックを入れておいてもいいかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ひっくるめて言えば、二次創作の話である。この無意識日記の目次欄にも動画のリンクが張ってある。YouTubeとニコニコ動画において日々「宇多田」か「Utada」のワードを含む動画をワンクリックでチェック出来て便利なのだが、本当に毎日々々、なんらかのHikaru関連動画がUPされている。

その殆どは、「歌ってみた」即ちカラオケで、他に独自のリミックスやインストバージョンもちらほら見受けられる。既にお馴染みになっているが、著作権的には相変わらずグレーなままだ。ニコニコに関しては、包括契約があるんだかないんだか知らないが。

少し前のニュースになるが、漫画家赤松健が所謂「二次創作OK」のロゴマークを使用し始めて話題になった。読んで字の通りであるが、コミックマーケットをみればわかるように、漫画界における二次創作の作品はとんでもない規模に及んでいて、大衆文化としては日本でも、ひょっとすると世界規模でも有数の生産量となっている。そこまでになっていたのに相変わらず法的な整備は進んでおらず、こうした"公認"の取り組みがつい最近まで浮上してこなかった現実に驚きを禁じ得ない。それだけ、創作活動と法的整備というのは水と油なのだろう。

漫画界ですらそんな風なのだから、音楽業界における二次創作に関して何かが進んでいるかといえば、勿論何もない。未だに、「ダウンロード厳罰化一年経っても売上は減少した」とかそんな話題がのぼる位なのだ。とても創作上のデリケートな問題を取り上げる段階にはない。

Hikaruもまた、メジャーレーベルに居る以上、公的見解としては非・商業的な著作物に対しては黙認している感じではある。人力ボーカロイドくらいになると自ら紹介したりしていて、彼女はそういう枷とは無縁なのだが、いっそのこと、漫画界に倣って、公的に二次創作OKのサインでも出してみてはどうか、と思う機会が最近は多い。まずは商用でない創作物に関して、となるだろうがそれはつまりこちら(ミュージシャン・所属事務所・所属レーベル)としても商業的な旨味はない訳で、影響力も勘案するとなかなか難しいものがある。いざやればあっという間なんだろうけれど。

学術論文の価値を測る目安のひとつとして引用回数の多さというものがあるが、音楽家(に限らないが)の影響力を測る点においては、その二次創作の多さや広がりなどを目安にするのも、特にインターネットの普及した現在においては有効だろう。今までは売上枚数という消費活動が明白な基準だったが、カラオケランキングを挟んで、昨今の「歌ってみた」からリミックス、リアレンジへとどんどん創造性が喚起されていく様子をみるにつけ、そういった二次創作活動をどう評価していくかが、業界全体の活力に大きく関わっていくように思われる。

しかし、だからこそ消費活動は…という話はまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




もう発売されて一年近く経つというのに桜流しが相変わらず素晴らしい。最初っから高いハードルを掲げて耳を傾けていたからよかったようなものの、これが全くの新人の作った曲で不意打ちとかだったら発狂してたな。Beautiful Worldの時は「よくもまぁこんなEVAにピッタリの曲を」と感動したものだが、桜流しまで至ってしまっては「EVAもうちょっと頑張れよ…」と6年前からは考えられない台詞を口走ってしまう。破もQも素晴らしいクォリティーだと思うのだが、如何せんHikaruのレベルが上がりすぎた。酷なものだ。このままだと次作は「誰叶と華奢」みたいな事になってしまうかもしれない。主に俺の中で。

前も書いたと思うが、桜流しによって作曲家Utada Hikaruは、人類史上最高レベルのフィールドに辿り着いたと感じる。所謂、大バッハやモーツァルトや、20世紀でいえばThe Beatlesのような、LegendaryとかHistoricalといったレベルの事だ。それ以上上には誰も居ない。勿論、まだまだ彼らより優れているとはいえないが、取り敢えず同じ土俵で論評してよいだろう、という感じはしている。あれだけ高く掲げていたハードルを更に天井(天上?)に押し付ける感じである。

楽曲の出来、注ぎ込まれるエモーションは確かに最高にやってきているが、しかし、Hikaruには相変わらず弱点がある。型がない。逆にいえばよく型無しで今までこれだけ良質な楽曲を作り続けてこれたなぁと不思議がるしか出来ないのだが、何が困るって「他の音楽への影響度で歴史的価値を測る事が出来ない」のだ、これでは。

The Beatlesの偉大さは、その消費されたレコードの枚数(確か10億枚とかなんだよね。キ○ガイか。)だけでなく、供給側、即ち後進のミュージシャンに与えた影響度からも伺い知る事が出来る。型がないHikaruにはこれがない。勿論The Beatlesも自らの型に固執する事なく、特に後期末期には本当に何でもありになっていったが、それでもやはり我々は、彼ら以外のミュージシャンから「ビートルズっぽさ」を感じれる機会が山ほどある。Hikaruには、これがない。まだ現役だからってのもあるんだろうけどね。

こと消費活動に関してはHikaruは母と共に、日本でぶっちぎりの記録を持っている。Fisrt Loveは永遠のNo.1だろうし、世界一にはなれなかったがFlavor Of Lifeも凄まじかった。年間No.1アルバムも4枚かな?持っている。とんでもない親子である。しかし、後続に与えた影響という点では、例えばThe Blue Heartsの足元にも及ばないだろう。彼らの登場以降日本のパンクバンドは総て彼らの通った道を辿るか避けるかしなければならなかったのだから。それもこれも、彼らはパンクサウンドにどう日本語の歌詞を乗せ、どんなメロディーにすればいいかという具体的な方法論を確立したからである。誰でも模倣出来るという意味においてこれはコロンブスの卵なのだが、だからこそ影響力を発揮したのだ。

翻ってHikaruは一世一代のミュージシャンで、毎度異なった方法論で名曲を作る。過去の自分の方法論すら模倣しない。ちょっとストイック過ぎるんじゃないかとは思うが、その結果があの水も漏らさぬ名曲の嵐なのだからぐぅの音も出ない。


ここが、これからの時代に気掛かりな点である。インターネット時代では、如何に供給側を刺激するかもまた1つ大きな価値判断だからだ。それは度々、市場主義や商業主義と相反する。一言でいえば、どれだけ二次創作を刺激出来ているか、である。ここが、(根っこは古いが規模としては)新しい価値基準として台頭してきている点を見逃したくない。次回はここらへんの話から。一応前回から続いてるんですよ~。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回までは音楽を"消費"する立場から語っていたが、"供給"側からみた場合、宇多田ヒカルはどの位置に居ただろうか。

インターネットの登場によって、音楽に限らず、ソフト関連の供給はほぼゼロコストとなった。また、計算機の発達に伴いソフトの制作費用も劇的に下がった。勿論、それなりのクォリティーにする為には結局人力が必要なので人件費はかかるのだが、"市場"の低迷とは裏腹に、今は世界中に音楽が溢れ返るようになった。日本とて例外ではない。

若い世代にボカロ曲がウケるのは、特に音楽的にどうのではなく、タダで聴けるからである。ソーシャルゲーム、ブラウザゲームの人気でもわかる通り、まずは無料面で人を集め、課金はその後というのが今の流れだ。実際、ビッグタイトルはないものの、フィジカルのCDでさえボカロ作品が売上を牽引するケースも今は日常化している。まずは無料で人を集めないと話が始まらない。

尤も、これは今に始まった事ではない。ラジオにしろテレビにしろ、今のインターネットと同じようにタダで幾らでも観れる、聴けるという状況から種々の経済効果を生み出していた。変わったのは、冒頭に述べた通りの供給過剰状態の出現だ。ラジオテレビ時代は送信と受信は非対称な存在だったが、今や送受信は渾然一体である。

その相対化された中で商業的な消費を喚起するのは並大抵の事ではない。難しいのは、世代的に、宇多田ヒカルはラジオとテレビという非対称なメディアから生まれてきたスターである、という点だ。早くからインターネットを活用してきたヒカルだが、インターネットという環境に生み出されたスターではない。インターネットを場というよりツールとしてみる世代、といえばいいか、その世代からの"支持"によってビッグネームを保ってきた。そういう意味においては"旧時代的な"アーティストであるともいえる。

その、昔ながらの体制をこれからどう捉えていくのか。次回はそこらへんから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大人が音楽を消費しない、のはあクマで「超マス」からみた視点である。細かいジャンルのマニアたちを眺めれば、依然日本は音楽大国であるといえる。前回述べたように、スポーツ観戦や映画鑑賞といった娯楽に較べて影が薄いという話だ。地上波テレビのゴールデンタイムに野球中継や映画が流れることはまだまだあるが(野球は減ったみたいだけどね、きっとサンテレビは局が潰れるまでやめないだろう)、誰かのコンサートを2時間生中継することはない。何十というミュージシャンとアイドルを集めてやっと対抗しているという感じだ。それですら、タモリやダウンタウンやとんねるずといったお笑いのトップの人達の助力が要った。そしてそういう時代も終わりつつある。テレビを見るのは今や大人というか年寄りなので、テレビの視聴率というのはこれからどんどん「年寄りの趣味の反映」となっていく。高齢化社会なんだから当たり前なんだけど。

なんか話が逸れてるな。要は、邦楽の問題点はその細分化にあるといえる。プロ野球なら12球団から選べばよいが、ミュージシャンはなかなか誰を選べばよいか難しい。例外的だったのが90年代中期~後期で、あの時期はかなりの年代の人間が「今週は誰のCDを買おうか」というノリを持ちつつあった。その流れの中で、リーサル・ウェポンが宇多田ヒカル、だった筈なのだが…。

邦楽の"凋落"の理由は明らかで、単に業界がインターネットフレンドリーになろうとしなかったからだが(これは日本に限らないが、日本は特に酷かった)、結局この業界は80年代のアイドル重視路線へと回帰した。ある意味、ヒカルはデビューのタイミングが最悪だったのかもしれない。

00年代においても勢いを失わなかったベテランは皆LIVEが強かったが、ヒカルはその意味で支持の"足腰"が弱かった。ソングライター/プロデューサーにそれを求めるのは酷なのだが、過去に松任谷由実という化け物がLIVEとアルバム制作のサイクルを一年周期で成し遂げJ-pop市場を切り開いた歴史があるから、ヒカルはそれに較べればやや物足りない。

あれ、何の話だっけ。ただの復習だなこれじゃ。

ポイントは、そう、時代と世代のサイクルである。レコード&カセットテープからCD&カラオケ、そして次はインターネット…という時期にデビューした事と、15年という月日による世代交代を考えると、ヒカルのファンがほんの数千~数万人しか居ないとしても不思議ではないが、問題は、デビュー時に老若男女を魅了したのなら、当時から大人だった今の大人はなぜヒカルの音楽を買わなくなったのだろう? つまり、何故あんな売れ方をしたのにファン層が世代"交代"なんぞするのか。勿論、入ってくるより出て行く方が多いから正味では減るのだが、10代20代はその時代の旬を追い掛けるから仕方ないとして、今30代以上(つまりヒカルより上の世代)は何をしているのやら。

前回述べたように、既婚者なり何なりの音楽消費習慣を根付かせるキッカケとなり得る数少ないミュージシャンのうちの1人が宇多田ヒカルである事は間違いがない。アイドル勢の活躍は素晴らしいが、そもそも歌が下手な奴らばかりという根本的な問題があり、それは本当に難しい。プロ野球選手は野球が上手いのだが、プロ歌手は歌が下手なのである。ヒカルは世界の何処に出しても一流の歌唱力がある。それが底支えになっている点は、忘れがちだが見逃してはならない。

スパゲティのようにこんがらがった問題を、どう考えるべきか。次は全く違った方向からアプローチしてみたいと思う。熊淡が遠いぜ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »