無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルの場合、市場でのキャラクターとして、後続のクリエイターを刺激するというよりは、エンド・コンテンツとしてのPopsを提供する立ち位置に居ると思う。即ち、アウトプット能力のある人間を励起させる力よりも、アウトプット能力が無い層に"表現"そのものを与える立場。つまり純粋な消費者を相手にしており、どういう事かというと、ヒカルの許にお金が集まる。エンドコンテンツとはそういう事だ。そしてそれは、つまる所Popsなのだ。

一方、後続を刺激するようなクリエイティブ…作品の質は考えず、システムに絞って考えようか。ある著作物が著作権フリーとして公開されていた場合、多くの人たちが"無断で"二次使用をし、新たな作品を生み出す。しかし、この場合著作権フリーであるがゆえにオリジナルのクリエイターにはお金が入らない。勿論、評判がよければまわりまわってそれが宣伝効果を発揮してオリジナルさんの収入が増える事もあるだろうが、それは二次的な効果に過ぎない。

どちらがいい、という訳でもない。ただ、インターネットの普及によって、即ち、受信と送信の非対称性が崩れた事で、後者の活動が非常に盛んになっている。直接的な商業性は低いが、長い目でみれば文化の育成に一役買う事になるだろう。

Popsは少し違う。そこで終わりである。アウトプットをしない"大衆"に"消費"させる為の音楽。これによって人々は"濡れ手に粟"で"表現"を手に入れる事が出来る訳だ。

ヒカルは、どちらがお望みなのだろうか。やはり、そこなのだろう、な。Popsミュージシャンとして、大衆に向かって歌う歌手、作曲家なのだろう。だから作り終わった曲は殆ど聴かないのかもしれない。自分で聴く為に作ったんじゃないから。ヒカルはクリエイターで、幾つも表現手段を持っている。そういう曲は「お呼びでない」のだ、完成してしまった後は。完成させるまでが彼女の仕事。

となると、ただの音楽ファンとしてのヒカルは、何が好きなのだろう。Kuma Power Hourで時折、ひとの楽曲を聴いた時に「今後に活かしたい」的な発言があるが、あれは消費者としてより供給者としての視点である。それは、仕事モードなのだろうか、それとも、普段からそんな事を考えながら生きているのか。どうでもいい事ながら結構重要である。家に居る時位は、リラックスして自分の趣味に走りたい、なんて風に思うのは普通だと思うのだが、ヒカルはどちらなのだろう。確かに、たとえばコクトー・ツインズが大好きだからといってヒカルの書く音楽にその影響が直接みられるケースはほぼ皆無である。だからといって、まるっきり仕事を離れて、という訳でもなさそうだ。うーん、多分これは結論が出ないな。暫く置いておくとしよう。しかし、次の熊淡で、ヒカルが単なる消費者目線で選曲しているかそれともクリエイターとして"参考"にしてるっぽいかは、逐一チェックを入れておいてもいいかもしれない。

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