著作権法があってもなくてもクリエイターの作品は後続を刺激するが、そのありようは些か異なってくる。
法的な縛りが強い時は、まずもうそれだけで自発的に創作する事を促される。例えばアニメのある場面で久石譲の音楽を使いたい、と思った場合は彼に著作権料を払わなければならないが、ここで自前で"久石風"の音楽を作って当ててしまえば、逆にこちらに著作権使用料が転がり込んでくる。このマイナスとプラスの差はデカい。勿論、"風"といっても限度があり、似すぎているとパクリだ盗作だと騒がれる事になるので注意が必要だが。
そういう時に、新たに創作する側が利便性を感じるのはオリジナルの方に模倣しやすい"型"があるかどうか、だ。例えば、チャック・ベリーのメロディーをそのまま使ったら盗作だが、彼の使っているコード進行やリズムパターンを援用して異なったメロディーを乗せればそういった謗りさ免れ得る。この場合の"型"は大抵"ロックンロール"と呼ばれていて、この半世紀ありとあらゆる場面で用いられてきた。誰もが模倣し易く、一定の効果があり、かつ著作権侵害にならないもの。"型"の強みはここにある。
一方、そういった法的縛りのない世界ではどうなるか。オリジナルのメロディーはそのまま援用・流用され、リミックスやリプロダクション、マッシュアップといった手法が主流になっていく。この場合、必ずしも援用し易い"型"が揃っている必要はない。フレーズをそのまま幾らでも使えるのだから、みんなが知ってる"あの曲のあのメロディー"をそのまま使って、そこに自分独自の何かを加えていく。著作権法の心配がないのだからオリジナルを使いたければそのまま使えばいいのだから、何らかの加工を施したがる人は必ずそこに自分独自の何かがある筈である。斯くして、直接的に繋がり合いながら創作の輪が広がっているのが法的縛りのない世界である。
今みたとおり、著作権法の有無や多寡は、創作意欲の増減というよりは寧ろその質、ありようを変えるように思われる。いずれの場合も創作活動を促す結果になる、という点は踏まえておきたい。
さて、では、明確な"型"を持たないまま数々の名フレーズを生み出してきたUtada Hikaruの場合はどうなのだろうか―という話題からまた次回。
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