哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

竹の実と口裂け女

2010年08月29日 | xx3人類最大の謎

Leighton_captive_andromache

言葉として語るものが、はっきりと仲間と共有できているとき、その言葉ははっきりと存在する物事を表します。逆にいえば、物事がはっきりと存在するということは、それをどう感じるかを、はっきりと仲間と共有できているということです。こういう場合、適切な言葉を選ぶことによって、いくらでも正確に語ることができます。目の前のリンゴについて話すときなどそうです。話し手がリンゴを見て感じることを聞き手も同じように感じている。リンゴを見て感じることを二人は共有しています。

しかしだれも見たことがない果物について話すときなどはどうか? 百年に一度くらいしか実らないといわれる竹の実について友達と話してみましょう。どんな味か? というか、どんな形なのか? だれも知らない。

「見たことないけど、竹の実、おいしいかな?」「え、竹に実がなるの?」というような会話になって、お互いの頭の中でその言葉の内容がどういうふうに存在しているのか、さっぱり分からない。しかしそれでも、友達どうしの会話は続いてしまいます。「口裂け女」の怪談を聞いて、夜道でそれに出くわしたら怖いな、と思う。実はその口裂け女とは何なのか、話し手も聞き手もさっぱり分かっていない。それでも、話はうまく伝わっていく。友達どうし楽しく会話することができる。

拝読ブログ:竹(メロンカンナ)の実

拝読ブログ:飛鳥凛

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