もしそうであれば、実際、私たち人間は、だれも自分の気持ちなどというものは持っていないことになる。私たちの行動は、台風などと同じような、ふつうの自然現象だ、あるいは進化によって自然にできあがった機械的な環境適応行動だ、ということになります。
私たちは、目や耳や皮膚で台風の存在を感じる。台風に吹き飛ばされそうになって踏ん張るときの筋肉の緊張としても感じる。もちろん、テレビの情報からも、人との会話からも台風の存在感を感じる。そうして無意識のうちに感じる存在感を台風だと思っている。
それと同じように、私たちは、目や耳や体性感覚で感じ取った情報から無意識のうちに自分の身体という自然現象の存在感を感じとっている。そうであれば、台風の中に台風の気持ちなどというものがある必要がないのと同じように、私の身体の中に私の気持ちというものがある必要はない、といえる。私というものはこの物質である身体だけだ(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』既出)ということになります。
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