哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

確かな存在と不確かな存在

2007年12月28日 | x4それでも科学は存在するのか

物質ではないそれらはなぜあるのか? それは、そういうものがあるという錯覚を起こす仕組みが、人間の脳の中にあるからなのではないだろうか?

多くの人が持っているふつうの直感と現代科学との矛盾を調べていくと、拙稿のような議論になってしまいました。どうしてそうなってしまうのかを前章まで、いろいろな観点から書いてきました。分かってくれる人も、かなりいるだろうと思います。「私も実は、そうじゃないかと思っていた」と言ってくれる読者もいるでしょう。

結局、物質として目で見えるものしかこの世界には存在しない、という言い方を拙稿は好んで使う。それは次のような考え方から来ています。

ものごとは、自分の目だけに見えるのではなく、だれの目にも見えなければ、間違いなく存在するとは思えない。逆に、いつでもだれの目にも見えるならば、それは確かに存在する、と感じられる。また、今ここで目に見えなくても、それが見えるところに行けばだれもが見ることができる場合も、それは存在するといえる。また、それがあるとしなければ理解できない現象がいつでもだれにでも観察できるならば、それは存在するといってよい。だから、だれの目にも見えるものたちから理論的に存在を証明できるものは、それも存在すると感じられます。そういう存在について、人々と話が通じれば、もうそれは間違いなく存在するとしか思えません。

そういうことで、こういう条件を満たすすべての物質、たとえば原子、電子、電波、素粒子、小惑星イトカワ、私の一円玉、近所のおばさん、日本の総理大臣、南極大陸の最高峰、などは確かに存在する、と思える。つまり、私たちがいま自分の目の前に見ている自然の物質と、私自身は今目の前に見ていなくともだれもが認めている遠くの物質たち、それに加えて、科学が描く理論的な宇宙の物質たちは、間違いなく存在することになる。

結局拙稿では、科学が存在するとしているものは確かに存在すると言い、一方、宗教や哲学や法律や、ふつうの日常会話では存在するとされているけれども目には見えない多くの重要なものたち、たとえば命や心や意思や生死や自我や私の借金は、それらがはっきりと存在しているとは言いがたい、と言っているわけです。

拝読サイト:冬休みにやっと入った初日ゎ・・・

拝読サイト:総理大臣

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