哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

私>物質>脳>私>物質>脳>私・・・

2007年06月29日 | 6この世はなぜあるのか

ここのところは重要です。日常生活では、この世界が物質として明らかに実在して、その中に物質として私の身体があって、その身体の中に私がいる、というふつうの感覚で生きていればまったく問題はありません。そこに人生の苦しみも喜びもすべてがあり、それを力いっぱい生きることにしか人生の意味はありません。

けれども、私とは何かとか、死んだらどうなるか、というような(自己遡及的な)哲学のようなことを考えはじめたら、そのまま素朴な世界の実在を前提に考えてはいけません。それをしたら過去の哲学の間違いにはまり込んでしまいます。

目の前の物質世界は存在しているように感じられるけれども、実際に存在しているかどうかは確かめようがない。私たちは、ただそれを便宜的に存在するものとして扱っているだけだ。そこから出発しなおすしかありません。

その不確かな物質世界の中に私らしい人体が、ひとかたまりの物質としてここにあるように感じられる。けれども物質としてあるらしいこの人体はただの物質だから、私の主体とか、意思とか意識とか、私の心とか、私とは何かとか、死んだらどうなる、とかいうこととは、もともと関係ありません。そういう場合の私のこととはちょっと違います。全然違うといってもよい。目に見える物質世界の中の私は、物質としての人体としか見えません。それが私そのものであると感じればそのようにも思えるけれども、所詮は物質です。その物質の中には原子や分子、つまり物質しかありません。 その私らしい人体の中に、私が今感じている不安、恐れ、苦痛、神秘感、幸福、愛、誇り、思い出、そしてこのバラの美しさ、そしてそれを語っている私の主体、などを見つけようとしていくらその脳細胞を解剖したところで、あるいは分子構造を解析したところで、それは見つからないのです。

今ここに確実に存在しているように見えるこの物質世界は、人間の脳の機構によってこのように見えるけれども、それ以上の意味で存在しているということではない。私たち人間のだれもが、これを存在する、と感じるから、それが存在すると感じられるだけなのです。

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