石ころなど無生物が動く場合は、何かに押されるか引かれるかです。何かに接触している場合は、それに押されているらしいと分かる。地面に向かって加速しているときは、単に落ちている、あるいは、地球の重力に引かれている、と感じます。
私たちが、無生物ではなくて動物や人間が動く場面を見たとすると、それらが何かに押されたり引かれたりして動いている、とは感じずに、自発的に運動している、と感じる。人間の脳は、無生物に働く力を感じるのと同じように直感で、動物の内部に発生する力のような動きの原因、を感じます。自分の身体が動くときは、筋肉が緊張する内部感覚を感じる。運動を開始する動物や他人を見ると、運動の共鳴が起こって自分の筋肉が緊張するかのような運動感覚が感じられる。その運動の原因になっている、動物や人間の内部に起こっているらしい何かを感じて、人間はそれを欲望とか意思とか意図とか言うようになったのでしょう。
近代哲学の開祖といわれる哲学者は、さすがにこのことを見抜いていて、原因とか力とか意思とかいわれるものは、それがあると思われている物体や人物に備わっているのではなく観察者の中にある、と言いました(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出)。その後、ニュートン力学や近代心理学などが広まったためと思われますが、近代から現代の哲学まで、この方向の考え方は忘れられたかのようにあまり発展しませんでした(現代哲学で取り上げている例としては、たとえば一九八七年 ダニエル・デネット『意図的観点』)。
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