私は日蓮宗の寺院で生まれ育ちました。
それを知ると珍しがって生活の様子を聞かれることも珍しくありませんでした。
普段全く考えることがありませんが、日本にも少数ながら牧師の家で生まれ育った人もいるわけです。
お寺のように世襲が当たり前なのかどうか知りませんが、父親の跡を継ぐ者もいるのでしょう。
その場合、少なくとも表面的には、キリスト教の教えを信じているように振る舞わなければ、食いっぱぐれてしまいます
しかし現代の日本に生まれ育った場合、神による天地創造だとか、最後の審判だとかいうSFちっくな概念を頭から信じることは難しいように思います。
わが国の空気を吸って普通に育てば、進化論が正しいと思うでしょうし、天国も地獄も存在しない、まして神様なんて存在しないと思うのが一般的でしょう。
そもそも私にはキリスト教徒の知り合いが一人もいません。
彼らがどんなふうに世界を見て、解釈しているのかなんて知る由もありません。
もしキリスト教が説くような絶対的な神様が存在するのだとしたら、ずいぶん意地悪なことをするものだと思います。
世に争いの種は尽きないし、凶悪犯罪も後を絶ちません。
飢えや貧困に苦しむ人々もあまたいます。
しかし神様は、大いなる沈黙を守り続けるのみです。
今日、「神のふたつの貌」というミステリーを読み終わりました。
牧師の家に生まれ、当然のように牧師になり、教会を継いだ男の生涯を描いた物語です。
神のふたつの貌 (文春文庫) | |
貫井 徳郎 | |
文藝春秋 |
少年時代、学生時代、それに牧師となって妻子をもった後の3部構成ですが、男は幼少の頃から神の存在を信じつつも神の沈黙を不満に思い、どうにかして神の声を聴きたい、と願います。
それが動機となって、男は不可解な行動に出ます。
殺人です。
連続殺人ではなく、少年時代に1回、学生時代に1回、牧師となって妻を亡くし、大学生の息子と二人で暮らす時代に1回。
それはつまり、障害のある者や重大な罪を犯した者にこそ神は福音をもたらすはずだという魔術的思考に陥った結果であり、それに加えて神の許に旅立ったほうが幸せだと思われる人物を狙うという、まさに悪魔的な思考が彼の背を押します。
主人公による神と人類、さらには神と生物に関する長いモノローグや、他の信者との神学論争めいた会話が綴られ、いわゆるミステリーというよりは、ドフトエフスキーのような哲学的な趣を醸し出します。
ドフトエフスキーと異なるのは、キリスト教になじみが薄いわが国の人々がキリスト教に抱くであろう疑問を丁寧に描いていることです。
ここがこの小説の肝と言っても過言ではありません。
それでいてエンターテイメントとしての役割である読みやすさや面白さを保っているのは、大した筆力だと思います。
ご一読をお勧めします。