先日、亡父の蔵書の中から、久しぶりに小難しい哲学書を読む機会に恵まれました。
ドイツの哲学者、ヤスパースの「歴史の起源と目標」です。
中学生の頃、同じ作者の手になる「哲学入門」というのを読んで、非常に混乱した覚えがあり、それ以来、この作者の著作は敬して遠ざけてきました。
しかしこの「歴史の起源と目標」、なかなかぶっ飛んでいて素敵です。
ヤスパースは、人類はひとつの起源とひとつの目標をもつという信念をもっていました。
起源と目標の間を、わけもわからず漂っているのが人間の歴史だというのです。
これはキリスト教やイスラム教にみられる、天地創造と最後の審判という考え方によく似ていますね。
ヤスパースの素敵な点は、これを一つの宗教の問題ではなく、全人類の問題に敷衍しようとしたことにあります。
そのため、枢軸時代という概念を持ち出します。
紀元前500年頃、世界のあちこちで、互いを知らぬまま、巨大な思想的運動が同時並行的に起きたというのです。
中国においては老子や孔子、インドにおいては釈迦やウパニシャッド哲学、中東においてはゾロアスター教やユダヤ教、ギリシャにおいてはソクラテス、プラトン、アリストテレス、などなど。
ヤスパースはこれらの事実から、西洋のキリスト教中心の思想史から脱し、西洋と東洋の区別なく、すべての人間が精神的故郷と感じられるような時代として、枢軸時代と呼んだのです。
枢軸時代以降、人間精神の運動は著しく進展し、しかもそれは未だに互いを知らぬままの同時並行でした。
枢軸時代には未開であった西欧の民と、日本人とが、中世、不思議な精神的シンクロを見せていることに、ヤスパースは驚いています。
親鸞上人の絶対他力や悪人正機、妻帯を認めたことなどが、後のルターの宗教改革と驚くべき一致を見ていると指摘しています。
核兵器開発などの科学技術の面でも、なぜか同時期に各国で同じような開発が行われることは周知の事実です。
しかし哲学の限界と言おうか、あるいは哲学の魅力と言うべきか、これら枢軸時代を設定するという考えは、証明不可能です。
むしろ直観的に感じた、神学的とも、超自然的とも呼べるものでありましょう。
ヤスパースはこのことを自覚していて、最終的には、「問題は信仰だ」と述べています。
それはもちろん、キリスト教とか仏教とかいう個別具体的な宗教を信仰することを指すのではなく、人類は起源から目標へむかって意味もわからず漂う生き物であること、そして枢軸時代と名付けた全人類共通の精神的故郷を持つことを信じる、ということでありましょう。
私はこの著作を興味深く読むとともに、一種の神秘主義哲学ではないか、という疑問を持ちました。
私は高校から大学にかけて西洋神秘主義哲学を学ぶことによって、一足飛びにこの世の秘密に迫ろうと考えていました。
やがてそれは一種の自己欺瞞であると考えるようになり、浪漫文学など、作り物めいた美的世界に遊ぶほうが現実逃避的な隠微な快楽だと知り、そちらに乗り換えました。
全人類共通の精神的故郷を設定することは、とても魅力的ではありますが、それをすることによって得られる果実は、決して多くは無いと思うのです。
それよりも、人類は荒野の地平を見ながら人生を歩むしかないのだと、覚悟を決めることです。
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