千葉市文化センターで行われた新春能を鑑賞してきました。
どこかから補助金が出ているのか、2,500円と格安です。
曲は狂言が「金籐左衛門」。
大蔵流が演じます。
山賊の金籐左衛門は山道で女を脅して身の回りの持ち物を奪いますが、奪った袋の中の小袖や鏡に見とれて油断しているうちに、女に長刀をこっそり盗られてしまいます。
逆に女に身ぐるみはがされるという筋書きで、弱い善人が強い悪人をやっつけるという、狂言によくある逆転劇です。
気楽に観られる喜劇で、悲劇である能と喜劇である狂言とをセットで上演し、双方を総称して能楽と呼ぶわが国の舞台芸術の文化は、極めて洗練されていると言えましょう。
喜劇と悲劇は裏表ですからねぇ。
能は、「田村」です。
金春流の井上貴覚がシテを務めていました。
この人、いわゆる御曹司ではなく、サラリーマンの倅だったところ、高校時代に能の魅力に取り付かれ、法政大学の能楽研究所を卒業してから金春流に弟子入りしたという異色の経歴の持ち主です。
彼の目の付け所が良かったのは、弱小の金春流に弟子入りしたこと。
大所帯の観世流や宝生流では、生涯シテを務めることは出来なかったでしょう。
金春流も彼を看板にすることで、素人にも開かれた流派というイメージで勢力を拡大したいご様子。
両者の思惑が一致したのですね。
「田村」という曲は、清水寺を創建した坂上田村麻呂を主人公にしたもので、前段は童子の姿になった田村麻呂の幽霊が登場して、訪れた僧の清水寺の縁起をはなし、夜桜を見るなどし、後半はたくましい武将姿の田村麻呂が観音様のご加護を得て鬼神を退治するなど明るく祝祭的な雰囲気です。
いわゆる修羅物(殺生に明け暮れる武士は修羅道に落ちるとされ、それを供養する能)ですが、平家などを題材にした負け修羅ではなく、数少ない勝ち修羅で、私は初めて勝ち修羅を鑑賞しました。
正月ということで、負け修羅は縁起が悪いということになったんでしょうね。
シテを務めた井上貴覚、童子姿での弱々しい舞と、武将姿での荒々しく激しい舞を見事に分けて舞っていました。
まだ40代前半ということで、これからますます活躍するであろう能楽師です。
能を観るといつも思いますが、そのファッション性、舞台の洗練度、緊張感において、世界広しといえども並ぶものの無い優れた舞台芸術です。
歌舞伎をハリウッドの娯楽作とするならば、能は芸術的な文芸作品といったところでしょうか。
それぞれに魅力的ですが、美しさという点において、能に勝る舞台芸術はこの世に存在しないでしょうねぇ。
良い目の保養をさせてもらいました。
田村 (能の友シリーズ (2)) | |
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