ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

花束

2013年01月21日 | その他

 今日は同居人の誕生日。
 44歳になります。

 21年前出会った時、彼女は23歳で私は22歳でした。

 ずいぶん時が流れましたが、子どもがいないせいか、あるいは苦労していないのか、年のわりには保存状態は良好です。

 一緒に暮らし始めてからもうすぐ15年になります。

 柄にもなく、仕事帰りに駅前の花屋で花束を購入して同居人へのプレゼントとしました。
 
 圧倒的多数の男は花束をもらっても喜びません。
 食えるわけではなし、一週間もすれば枯れてゴミになってしまうような物、なんでもらって嬉しいのか、私には謎です。

 しかし女性の多くは花束を貰うと喜ぶということくらい経験的に知っているので、過去、何人かの女性に花束を贈りました。
 すると大抵、贈ったこっちがびっくりするくらい喜ぶのですよねぇ。

 花束なんて五千円も出せば見栄えの良いものが買え、しかも効果は絶大というわけで、費用対効果の面から言って、これほど効果的なものはありません。

 じつに不思議です。

 日頃クールでドライな印象を与えるわが同居人も、こと花束贈呈となると例外ではないのが不思議です。

 花というものには、男には分からない独特の魅力があるとしか思えません。

 多分私には生涯分からないのでしょうけれど。

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さっさと死ねるように

2013年01月21日 | 文学

 麻生副総理兼財務大臣、なかなかイカした発言をかましてくれちゃったようです。

 「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」

 だそうで。

 これ、死期が近付いたご当人が言うならともかく、他人が言うことじゃないですねぇ。
 まるで姥捨て山みたいな発言です。

 財務責任者としてそんなことを思う気持ちは分からないでもないですが、それ言っちゃあおしまいよみたいな感じです。

 死期が近付いて、覚悟を決める人もいるでしょうが、自分だけはそう簡単に死なないと思いこむのも人情です。

 ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを

 と詠んだのは存原業平でした。
 「伊勢物語」に見られます。
 希代のプレイボーイの辞世としてはありきたりな感じがしますが、多分偽らざる心境だったのでしょうねぇ。

 名画「楢山節考」では、寒村の掟に従って老いた母を山の上に捨てに行く様子が描かれます。
 一面人骨だらけの山の一隅で、老いた母は雪の中静かに端坐し、手を合わせて死を待ちます。
 鬼気迫る場面でした。
 この母は黙って掟に従いますが、なかには抵抗する老人もいて、老いた父親を籠に閉じ込めて背負って山を登る途中、父親が背中で暴れるので山から突き落として殺害するという残酷なシーンもありました。
 
 この作品でも覚悟を決めた者と生き残りをかけて暴れる者が対比されています。

 死という事態、生きている者には全く未知の世界で、死んでしまった者はもう死がどういうことなのかを語る術を持ちません。

 未知だからこそ人は死を怖れ、神道では死を穢れと見るのでしょう。

 そのような多くの人が恐怖する事態を、高齢者だからと言って怖れなくなるなんてことはありますまい。

 いつまでも元気で生きていたいのが、人間だけでなく生きる者すべての究極の願望でしょう。
 だからこそ、古来、権力者は不老長寿の妙薬を必死で探したわけです。

 自分の死をめぐる切ないばかりの人々の気持ちを、麻生副総理兼財務大臣は、いかにも易々と切って捨てたものです。

 国家財政の窮乏は多くの国民を不幸にするでしょうが、それ以上に、高齢者には早く死んでもらいたいと思う政府高官の存在は人々を精神的に追い込むに違いありません。

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アルジェリアのテロ事件

2013年01月21日 | 社会・政治

 ここ数日、アルジェリアで起きたテロ事件のニュースが混乱気味に逐次飛び込んできています。
 アルジェリア政府が情報隠ぺいともいうべき態度を取ったまま、情報は錯綜し、何が本当なんだかわからないまま、わが国をはじめ関係各国は苛立ちを募らせています。

 アルジェリア政府は前のめり気味にテロリストの掃討作戦に走り、多くの人質が犠牲になった模様です。
 日本人の犠牲者は9人というのが現時点での最新情報です。
 しかし、実際にはどれだけの犠牲者がでたのか、まだ分からないというのが実情のようです。

 一体何が起きたんでしょうねぇ。

 フランス軍がマリの内戦に介入したのが原因とも、仲間のテロリストの解放を求めているとも言われていますが、それもはっきりしません。

 真相は闇に包まれています。

 現代社会においては、イスラム過激派のテロが、世界を混乱に陥れる最大の危険要素になっています。
 庶民の幸せを願い、恒久平和を求めるべき宗教が、なぜ過激なテロ行為の原因になってしまうのでしょう。
 穏健なイスラム教徒は、テロリストを正統なイスラム教とは似て非なる者だと決めつけます。

 しかし、イスラム教の開祖、ムハンマドは、「殺人は良くない。しかし、イスラム教を信じないのはもっと良くない」と宣言して、自ら軍を率いて異教徒と戦いました。
 キリスト教にも原理主義者がおり、仏教にも過激な一派が存在しますが、少なくともイエスもブッダも自ら闘うことはしませんでした。

 また、わが国の仏教は様々な宗派に分かれ、かつてはかなり激しい宗論を闘わせ、対立もしましたが、仏教徒同士が殺し合いをしたことも、わが国古来の信仰である神道や、戦国時代に入ってきたキリスト教と戦ったこともありません。

 一向一揆というのはありましたが、それは宗教弾圧を行った権力者に抗議するもので、自らが信じる教えを盲信し、それを広めようとしたわけではありません。

 それらを考えると、イスラム教というのは、開祖自らが殺し合いを行った、特異な宗教であると考えざるを得ません。
 その出自からして、好戦的であったわけです。

 現代人は、そのような人々ともうまくやっていかなければならないという、業を負っています。

 多様な価値観や信教の自由を認めるというのは、自由主義社会では普遍的な価値とされていますが、それらを普遍的な価値とは認めず、世界のイスラム化こそが世界に平和と繁栄をもたらすのだと信じているとすれば、もはや話し合いは不可能です。
 原理原則が異なる人々といくら話し合っても、何も合意できないでしょう。

 しかしそれでも、自由主義社会は根気強く話し合いを続けるしかありません。
 テロ行為には強い態度を取らざるを得ませんが、テロリストにシンパシーを感じる一般のイスラム教徒とは、まだ話し合いの余地があると思います。

 世界情勢は複雑怪奇と言わざるを得ません。

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