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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

オールスター競輪&ミリアムとイサーク

2024-08-19 18:55:11 | 競輪
 平塚競輪場で行われた昨晩の第67回オールスター競輪の決勝。並びは新山‐佐藤‐守沢‐渡部の北日本,松井‐郡司の神奈川,窓場‐古性の近畿で真杉は単騎。
 郡司と古性がスタートを取りに行き,内の郡司が譲る形で古性が誘導の後ろに入り,窓場の前受け。3番手に松井,5番手に新山,最後尾に真杉で周回。残り2周のホームの入口から新山が上昇。窓場は一旦は突っ張る構えを見せましたが,バックで引き叩いた新山が打鐘から先行。5番手に窓場,7番手に松井,最後尾に真杉の一列棒状に。バックから窓場が先んじて捲り発進。最終コーナーで佐藤が牽制したのですが,窓場が乗り越えました。マークの古性が窓場を差して優勝。窓場が1車輪差の2着で近畿のワンツー。逃げ粘った新山が4分の1車輪差で3着。近畿ラインを追って外を捲り追い込んだ松井がタイヤ差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は5月の函館記念以来の優勝。ビッグは昨年10月の寛仁親王牌以来の8勝目。オールスターは初優勝。このレースは窓場の前受けになりましたが,郡司はたぶん新山が前受けしにきたら譲らなかったと思います。狙いは窓場が新山と先行争いをするか,飛びつくかで隊列が短くなったところを捲ろうというもので,真杉も似たようなことを考えていたので,新山ラインを追走しなかったのでしょう。これは結果的に他人任せの作戦といえ,今回は失敗になりました。この開催を通しては2着になった窓場の充実ぶりが目立っていて,もうトップ選手の仲間入りを果たしたとみていいのではないかと思います。窓場も強いレースでしたが,マークの古性が現時点では上回っていたということでしょう。

 スピノザの父であるミカエルの最初の妻はラヘルといいます。妻ですが,ミカエルの従妹にもあたります。ラヘルが死んだ日ははっきりしていて,1627年2月21日です。このラヘルとミカエルとの間には子どもは産まれませんでした。
 2番目の妻がハンナで,この人がスピノザの母です。ということはスピノザの兄であるイサークの母でもあり,姉のミリアムの母でもあります。このうちミリアムは,1650年6月に結婚した時点で21歳ですから,1629年に産まれたことになります。そこで,もしもイサークがミリアムの兄であったとしたら,イサークは当然ながらそれよりも前に産まれたのでなければなりません。しかもミリアムの結婚時の年齢からは,1629年産まれのミリアムは,その年の6月より前に産まれたのでなければなりません。そしてミカエルが前妻と死別したのが1627年2月ですから,もしイサークがミリアムの兄であるならば,イサークはラヘルが死んでから半年後にはハンナと結婚して,すぐにハンナが妊娠したとしなければなりません。人間の妊娠期間からすると,そうでないとミリアムの前にイサークが産まれる時間的なゆとりか,イサークが産まれてからミリアムが産まれるまでの時間的ゆとりのどちらかが不足してしまうからです。
                           
 さらに,最初の妻であるラヘルはミカエルの従妹でもあったわけで,その従妹と死別してから半年で再婚してしまうのは,イサークの気持ちの面からも難しかったのではないかと吉田は推測しています。そして,ハンナと再婚した後に最初に産まれた子どもがミリアムであったとして,それが1629年の半ば。スピノザの生命がハンナに宿るのが1632年1月とすれば,その間にハンナが妊娠ししてイサークを出産するという時間的なゆとりは十分にあることになります。こうしたことから,吉田はミリアムが姉でイサークは弟ではなかったかと推定しています。これはあくまでも推定ですから,それが歴史的な事実であったということはできません。ただ,吉田が示している論拠からは,それが歴史的な事実であった可能性も十分にあるということは理解できるでしょうし,僕もそう思います。
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道後温泉杯争覇戦&給湯器のリモコン

2024-08-11 19:21:52 | 競輪
 松山競輪場で争われた道後温泉杯争覇戦の決勝。並びは新田‐飯野の福島に宿口,片岡‐坂本の西国,真鍋‐吉田‐福島‐原の四国。
 スタートを取りに行ったのは福島と新田と吉田。枠の通り,福島が誘導の後ろに入り,真鍋の前受け。5番手に新田,8番手に片岡で周回。残り3周のバックの出口から片岡が上昇。誘導との車間を開けて待ち構えていた真鍋がホームから突っ張ると,片岡はあっさりと引きました。ここから新田がインを上昇。先行してしまうかの勢いでしたが真鍋は内を閉めていたので打鐘からそのまま先行。新田は引いて吉田の内で粘る形に。その後ろに福島と原が続きました。ホームからバックにかけてのコーナーで新田が吉田をどかして番手を奪取。そのままバックから発進。福島と原が続き,新田をマークしきれなかった飯野が外から自力で追い上げ。直線に入って踏み直した新田が福島の差しを凌いで優勝。マークとなった福島が半車輪差で2着。両者の中を割ろうとした原が1車輪差で3着。外の飯野は1車輪差の4着。
 優勝した福島の新田祐大選手は1月のいわき平記念以来の優勝でGⅢ13勝目。2014年3月に当地の記念競輪を優勝しています。このレースは新田の脚力が断然で,負けられないといっていいくらいのメンバー構成。ただ四国勢は二段駆けが見込める並びでしたので,それでどこまで対抗できるかという図式。インを回って番手を取りにいくというのは僕には意外な作戦選択であったのですが,新田としては二段駆けの上を捲るのは無理と考えていたということでしょう。四国勢も新田がこのようなレースをしてくるということはあまり予想しておらず,やや油断があったかもしれません。

 11月9日,木曜日。給湯器のリモコンが不調になってしまったので,給湯器を購入した会社に電話をしました。
                    
 リモコンといってもこれはテレビやエアコンのリモコンとは異なり,室内に設置されているものです。ガスを利用するのはキッチンと浴室なので,それぞれに設置されています。このとき調子が悪くなったのは浴室のリモコンの方で,ボタンを押しても反応がなくなってしまいました。ふたつのリモコンは通じていますので,シャワーを浴びることはキッチンのリモコンを利用することで可能だったのですが,浴槽に湯を溜めるとか,追い炊きをするといったことはできませんでした。シャワーからはお湯が出るので,シャワーを浴びることはできましたし,シャワーの湯を利用して浴槽に湯を溜めるということはできたのですが,それらをすべてキッチンのリモコンを利用して行わなければならないのはとても不便でした。なので電話で連絡を入れたのです。翌日に調査に来てくれるとのことでした。
 11月10日,金曜日。午後1時に給湯器を購入した会社から電話があり,今から行くとのことでした。調べてもらった結果,浴室のリモコンに繋がっているコードが引きちぎられているということが判明しました。ネズミの仕業ではないかとのことでした。そもそも電源が繋がっていないのですから,リモコンが反応しないのは当然です。なので新しいコードを引いてもらう工事をしてもらうことにして,見積もりをしてもらい,その場で工事の予約をしました。もう引きちぎられるということが生じないように,高いところにコードを引いてもらうことにしました。これらすべてのことは午後2時5分に終わりました。
 11月11日,土曜日。前日に予約を入れた工事はこの日に施工されました。工事の作業員が到着したのは午前9時で,10時50分には工事が終了しました。妹はこの日は土曜レクリエーションでした。ボーリングのようなゲームをしたようです。
 11月13日,月曜日。総講のためお寺に行きました。
 11月16日,木曜日。妹のグループホームの家賃をコピーしました。午後は妹を通所施設へ迎えに行きました。
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燦燦ダイヤモンド滝澤正光杯&謬見

2024-08-04 19:17:46 | 競輪
 松戸記念の決勝。並びは平原‐阿部の東日本,新村‐深谷‐岩本‐和田の南関東,取鳥‐清水‐月森の中国。
 清水がスタートを取って取鳥の前受け。4番手に平原,6番手に新村で周回。残り3周のホームから新村が上昇。平原が一旦は牽制しましたが,コーナーで新村が外を乗り越え,バックで取鳥を叩いて前に。取鳥は後ろまで引かず,深谷の内での競りを選択。その後ろも清水と岩本の競りになりましたが,この競りはホームであっさりと清水が奪い,岩本は後退。バックに入ると平原が踏み込み,打鐘で新村を叩いて先行。ずっと取鳥の外を並走していた深谷がバックから発進しようとしましたが,さすがに力が残っていませんでした。競りの後ろにいた清水が深谷の外から捲っていくと,楽に捲り切り,後ろを突き放して優勝。マークしきれませんでしたが何とか追ってきたマークの月森が3車身差で2着に流れ込み,中国ラインのワンツー。月森を追うような形になった和田が4分の3車身差で3着。
 優勝した山口の清水裕友選手は2月の静岡記念以来の優勝で記念競輪12勝目。松戸記念は初優勝。このレースは新村の先行が有力。経験は浅い選手なのでうまく駆けられるかが不安だったのですが,叩くことには成功しました。取鳥は前受けが作戦だったようですから,飛びつきは予定だったのでしょう。これで隊列が短くなったのですが,平原が打鐘から叩いて先行していくのは意外でした。清水はあくまでも取鳥マークのレースを続けていましたが,バックで見捨てて自力で発進。脚力は深谷と並んでこのメンバーでは上位ですから,深谷が脚を使ってしまった以上,快勝になったのも自然だと思います。南関東ラインを苦しめるような作戦を選択したのもうまくいきましたし,簡単に岩本の位置を奪えたことが最大の勝因となりました。

 『国家論Tractatus Politicus』の第七章第二七節では,人間に内在する様ざまな悪徳を庶民だけにみられるものとしている人びとが批判されています。これは人間の共通の本性essentiaという観点からの批判です。すなわち人間に共通の本性はひとつですから,それは本当はすべての人に共通するのです。したがって様ざまな悪徳が帰せられなければならない人びとと,そのような悪徳を帰さずともよい人びとが存在するわけではありません。もし庶民に悪徳がみられるのであれば,庶民を支配する支配者にもそうした悪徳はみられるといわなければならないのです。ところが僕たちは,たとえばXをなすことはAという人間には許されるけれどBという人間には許されないという見方をします。これはなす事柄が異なっているからそういわれるのではなく,なす人が異なっているからそのようにいわれるということは明白でしょう。支配者には傲慢がつきものなのであって,そうした傲慢さからこのようにいわれるのだとスピノザは指摘しています。
                         
 人間は理性的に生活するのが好ましいというのが『エチカ』の結論のひとつです。これと同じように,国家Imperiumも理性的に統治されるのが望ましいというのはスピノザの政治論の結論のひとつです。ですが,だから国家は常に理性的であるとは限りません。スピノザがいっているのは,国家が理性的に統治されることを目指すべきであるということにすぎません。なので,第二章第六節でいわれていることを,人間を国家と同様に理性的であるとみなす謬見を糾そうとしていると読解することは誤りerrorなのです。人間は常に理性的であるわけではありませんから,人間を常に理性的なものとみなすのが謬見であるというのは事実です。しかし国家が理性的なものであるとみなすのも謬見なのであって,それは国家の統治形態の目標であると解さなければなりません。
 ここで國分の考察を進める前に,僕の方から指摘しておきたいことがあります。國分が引用した『国家論』の第二章第六節では,多くの人びとは愚者は自然の秩序ordo naturaeに従うよりもこれを乱す者と信じているという意味のことがいわれていました。僕はこの部分だけを抽出していっておきたいことがあるのです。
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オランダ王国友好杯&悪の根拠

2024-07-29 19:04:25 | 競輪
 昨晩の別府記念の決勝。並びは中釜‐古性‐浅井の近畿中部,松浦‐岩津の山陽,伊藤‐阿部の九州に松谷で武藤は単騎。
 阿部と古性がスタートを取りにいき,内の阿部が誘導の後ろを確保。伊藤の前受けとなり,4番手に武藤,5番手に中釜,8番手に松浦で周回。残り3周のホームの出口から松浦が上昇開始。バックで中釜の外まで上がると,併走のまま残り2周のホームに戻りました。そこで中釜が引いたので松浦はインを進出。武藤をどかして松谷の後ろに入りました。バックに入るとそのまま伊藤が発進して打鐘。引いた中釜が叩きにいったもののこれは不発。古性が下りて浅井に迎え入れられる形で松浦の後ろに入り,前から伊藤‐阿部‐松谷‐松浦‐古性という隊列に。松谷との車間を開けた松浦がバックから発進。阿部が番手捲りで対応すると阿部マークの松谷が松浦を牽制。松浦はいいスピードだったのですがこの牽制でコーナーで外に浮いてしまいました。番手捲りとなった阿部がそのまま優勝。マークの松谷が4分の3車身差の2着でこのラインのワンツー。松谷と浮いてしまった松浦の間から伸びた古性が4分の3車輪差で3着。
 優勝した大分の阿部将大選手は先月の高知のFⅠ以来の優勝。その直前のミリオンナイトカップ以来となるGⅢ4勝目。記念競輪は4月の高知記念以来となる2勝目。このレースは中釜と伊藤の先行意欲が高そうで,先行争いもありそうなので,それをみる松浦が有利なのではないかとみていました。先行争いとはなりませんでしたが,先行ラインの4番手を取った松浦には悪くない展開。実際に捲れそうな勢いではあったのですが,松谷の牽制が誤算でした。阿部と松谷が連携するというのはたぶん今回が初めてで,この後もないのではないかと思いますが,後ろを回った以上はその仕事をするという松谷の奮闘が,阿部を優勝に導いた面が大きかったように思います。阿部は優勝を量産していますから,これからも注目でしょう。

 たとえば現実的にAという人間が存在していて,Bという人間から殴打されると仮定します。このことによってAの身体corpusを構成する部分の関係が変更されるということが生じるとすれば,AはAのコナトゥスconatusを維持することができないことになります。これは國分が示したみっつの水準からの帰結です。すると,AがBに殴打されることは,Aにとっての悪malumになります。これはBの殴打という行為によってAの構成関係が乱されるという理由によります。これに対して,Bが憎しみodiumに駆られてAを殴打したとあれば,第四部定理五九備考にあるように,Bにとっての悪であるということになります。これは,憎しみに駆られて殴打するというその行為が,Bが有徳的である状態から離れていくことを意味しているからです。
                                   
 このように,殴打という行為は,こうした関係性を離れてそれ自体でみれば,やはり第四部定理五六備考にあるように,virtusであり,善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打に限らず,現実的に存在するすべての人間の身体humanum corpusの所作に妥当します。しかしそうした行為は,このような関係性を含めて考えれば,善にもなるし悪にもなるのです。そしてそれは,たとえば殴打が悪になるという場合に,だれにとっての悪であるとのかということは,それぞれの人間のコナトゥスに応じて,あるいは同じことですが現実的に存在する各々の人間の自己の利益suum utilisに応じて結論付けられなければならないのです。憎しみに駆られてBがAを殴打し,Aが怪我をするということが生じるとすれば,このことはAにとっても悪であるしBにとっても悪であるということになります。しかしそれがなぜAにとっての悪であり,またBにとっての悪であるのかということの根拠は,Aの場合とBの場合では同一であるわけではなく,Aの場合はAの自己の利益に反するから悪であり,Bの場合はBの自己の利益に反するから悪であるといわれなければならないのであって,一般的規則としてそれは悪であるというような観点から結論されるのではありません。だれにとってなぜ悪であるのかということは,それが単一の行為であっても,その行為に関係する個々の人間の利益から測られるのです。
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不死鳥杯&身体の所作

2024-07-23 19:21:19 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは新山‐竹内の北日本,脇本勇希‐脇本雄太‐稲川‐東口‐藤井の近畿で根田と山田は単騎。
 脇本勇希がスタートを取って前受け。6番手に新山,8番手に山田,最後尾に根田で周回。残り2周のホームの入口から新山が発進。誘導との車間を開けていた脇本勇希が突っ張ったのでてこずりましたが,脚力の違いで打鐘では新山が脇本勇希を叩きました。山田がこのラインに続き,脇本雄太は脇本勇希を捨てて山田の後ろにスイッチ。バックから山田が発進。ホームで山田との車間を開けていた脇本雄太は山田の発進をみてさらに外を捲る形。山田は新山はあっさり捲りましたが,外の脇本雄太が直線の入口では前に。そのまま抜け出して脇本雄太が優勝。山田が3車身差で2着。脇本から離れてしまった稲川は4分の3車身差の3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は3月のウィナーズカップ以来の優勝。記念競輪は昨年4月の武雄記念以来の優勝で14勝目。福井記念は2014年,2015年,2017年,2018年,2020年と優勝していて4年ぶりの6勝目。このレースはラインの厚みが違いますので,どういう展開になっても脇本雄太の優勝は確実で,ラインを引き込めるかどうかが焦点とみていました。新山は脇本勇希には先行させないという競走。とくに脇本勇希にアシストをしなかったのは,先行争いがよい経験になるとみてのものでしょう。脚力通りに新山の先行にはなったものの,叩くのに脚を使いましたから,失速は止むを得ないところ。脇本勇希が叩かれてからの脇本雄太は,自身の優勝だけを目的とした競走になったこともあり,稲川がマークしきれませんでした。ただこれは稲川の脚力の問題であって,ラインで上位を独占できなかったのも無理のないところでしょう。根田が山田に続いていれば,2着,3着の争いはもっと激化したかもしれません。

 この後で國分は『はじめてのスピノザ』でも例示していた,第四部定理五九備考について検討しています。
 まず前提としていっておかなければなりませんが,殴打という動作は,それ自体でみられるなら善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打がそうであるというより,人間の身体humanum corpusの所作はすべてそれ自体でみられる限りでは善でも悪でもないのであって,殴打もそのような所作とみられる限り,善でも悪でもあり得ないということです。一方,それが徳virtusといわれるのは,人間の身体の力potentiaを表現している限りにおいてです。したがってこのことも殴打に限られるのではなく,もし人間の身体のある動作が,その人間の身体の力の表現とみられる限りでは,すべて徳であるといわれなければならないのです。
 しかしこうしたすべての動作は,善にもあり得るし悪にもなり得るのです。たとえば同じ備考の中でいわれているように,殴打という所作が憎しみodiumから発生するとすればそれは悪といわれなければなりません。もちろんこの部分でいわれていることも,殴打という所作に特有に適用されるわけではありません。ある人間の身体の動作が,憎しみに代表されるような悪しき受動感情から発生しているときは,それらはすべからく悪といわれるのです。悪しき受動感情がいかなるものであるのかということは,第四部定理四五系一に列挙されている通りです。
 ではなぜその場合は悪といわれなければならないのでしょうか。それは第四部定理四五で憎しみは善であり得ないといわれているからなのですが,鍵となるのはこの定理Propositioを証明するときに,第四部定理三七にスピノザが訴求している点だと国分はいいます。この定理は,徳に従っているということは,自分のために欲求する善を,他人にも欲求することであるという主旨のことをいっているのです。つまり規準は自分のために欲求する善にあるのです。その善を他人に対して欲求しないような状態になることは,有徳的であるということから離れていくことなのです。このゆえに憎しみから他人を殴打することが悪といわれることになります。僕たちは憎しみによって他人に殴打されることを自身の善として欲求しないからです。
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WTミッドナイト&第四部定理一八備考

2024-07-20 19:10:44 | 競輪
 18日に佐世保競輪場で争われたウインチケットミッドナイトの決勝。並びは久田‐松本‐隅田の四国中国,後藤‐岩谷‐阪本の九州で平原は単騎。
 岩谷がスタートを取って後藤の前受け。4番手に平原,5番手に久田で周回。残り3周のバックに入ると後藤が誘導との車間を開けて後ろを牽制。残り2周のホームに入って久田が発進しましたが,待ち構えていた後藤が突っ張りました。バックに入ってまた久田が叩きにいったものの,そのまま打鐘になり,3番手と4番手,4番手と5番手の車間が開いて周回中と同じ隊列のまま。ホームに戻ってまた久田が発進しましたが,バックに戻って岩谷が番手から発進。久田は不発で松本が自力に転じました。追いついてきた平原が阪本の内にいき,直線の入口では2番手が平原,阪本,松本で併走。外の松本がそのまま外を追い込み,フィニッシュ寸前で岩谷を差して優勝。岩谷が8分の1車輪差で2着。岩谷マークの阪本が4分の3車身差で3着。内の平原が4分の1車輪差の4着で松本マークの隅田が8分の1車輪差の5着。
 優勝した愛媛の松本貴治選手は2021年1月の松山記念以来となるGⅢ2勝目。このレースは平原と松本の力が他と比べて圧倒的上位。松本は久田の番手となったので難しいところもあるかと思っていましたが,後藤の果敢な先行で久田が不発となり,わりと早めの段階から自力を出すことになったので,ぎりぎりで優勝に手が届いたのだと思います。それでみれば後藤はもう少しだけ引き付けた方がよく,よいタイミングで駈け出せていれば,優勝は岩谷の方だったのではないでしょうか。

 ここまでのことを踏まえた上で,いよいよ國分の考察を詳しく追っていくことにします。
                                        
 スピノザは第四部定理一四で,善bonumの認識cognitioも悪malumの認識もただそれが真verumであるというだけではどのような感情affectusも抑制し得ないといっています。もしも善も悪も理性ratioによって認識するcognoscereことができるのであれば,それは道徳的なひとつの結論となり得るでしょう。ところがその認識が感情を抑制し得ないのであれば,結局は第四部定理八の様式で僕たちが善をまた悪を認識することを抑制し得ないことになります。このために,単に善ならびに悪を十全に認識するということは,道徳的な結論とはなり得ないのです。
 これを解決するためにスピノザは自己の利益suum utilisといういい回しをして,それを追求することの重要性を説くのだと國分はいいます。第四部定理二〇第四部定理二四を國分はその代表的な定理Propositioとして示していて,さらに第四部定理一八備考もあげています。その備考Scholiumでいわれているのはある意味で決定的といえますので,ここでも示しておきます。
 「理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ,したがって理性は,各人が自己自身を愛すること,自己の利益・自己の真の利益を求めること,また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、―一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めること,を要求する(Cum ratio nihil contra naturam postulet, postulat ergo ipsa, ut unusquisque seipsum amet, suum utile, quod revera utile est, quaerat, et id omne, quod hominem ad majorem perfectionem revera ducit, appetat, et absolute, ut unusquisque suum esse, quantum in se est, conservare conatur)」。
 これらの部分でいわれている自己の利益の追求というのがエゴイズムとは関係がないということは,事前に僕が説明しておいたことから明らかです。ではなぜスピノザがこれらの部分で自己の利益を追求することの重要性を説くのかといえば,自己の利益を追求することこそが他人にも善をなすことに繋がっているからです。これは第四部定理三七でみられる考え方です。
 國分はこの関係を考察しています。つまり,現実的に存在する人間が理性に従って自己の利益を追求することが,なぜ他人に善をなすことに繋がるのかということを考察しているのです。僕はそれを,第四部定理三五を援用した主体の排除という観点から一般的な規則として説明したのですが,國分はそれをもっと具体的な仕方で示そうと試みています。
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サマーナイトフェスティバル&目的

2024-07-16 19:29:47 | 競輪
 松戸競輪場で開催された昨晩の第20回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは真杉‐吉田の栃木茨城,北井‐郡司‐松谷の神奈川,脇本‐古性の近畿で新田と山口は単騎。
 古性がスタートを取って脇本の前受け。3番手に真杉,5番手に山口,6番手に北井,最後尾に新田で周回。残り3周のホームの出口から北井が上昇を開始。脇本は突っ張りましたが,ホームに戻って北井が叩いて先行。ただ叩くまでに時間が掛かったので,郡司が古性に阻まれ,単騎の先行に。古性に阻まれた郡司は真杉にも飛ばされてレースから脱落。残り1周のホームに戻ってから脇本が発進。ただ北井との先行争いで脚を使っていたためそれほどスピードが上がらず,このラインの後ろを追走した真杉がバックから捲っていくとあっさり捲り切り,そのまま優勝。古性の牽制を乗り越えたマークの吉田が4分の3車身差の2着に続いて栃木茨城のワンツー。後方からの捲り追い込みになった新田が外から4分の3車輪差で3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は西武園記念以来の優勝。ビッグは競輪祭以来の3勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。このレースは北井の先行意欲が最も高そうでした。脇本が前受けしたのは,北井が抑えに来たら突っ張るという心積もりがあったからで,実際に激しい先行争いになりました。このために神奈川勢と近畿勢が共倒れのようなレースになり,その争いを虎視眈々とみていた真杉によい展開となったということでしょう。北井はレースのパターンが限られていますから,相手が対応しようとするのはそれほど難しいことではありません。その対応がどのようなものになるかによって,レースの展開は変わり,その変化に応じて結果も変わってくることになるでしょう。各選手がどのようなレースをするつもりであるのかということを読み切ることは,車券を的中させるための重要な要素のひとつですが,その比重が大きくなりつつあるように感じます。

 ここでもう一度,第四部定義七の文言に注目してみましょう。そこでいわれているのは,我々をしてあることをなさしめる目的finisが衝動appetitusであるということです。ところが,実際には衝動いうものが先にあるのであって,目的が先にあるのではありません。つまりこの定理Propositioでいわれているのは,僕たちに何かをする目的というものがあって,それを衝動というという意味ではないのです。そうではなく,僕たちが何かをなすときに,それをなす目的があるというように意識したら,その目的が衝動であるということです。つまり僕たちは衝動を意識するとそれを目的と認識するcognoscereようになるから,もしも目的が意識されるならそれは衝動のことであるといわれているのです。つまりこの衝動の定義Definitioは,國分のいい方に倣うなら,僕たちの意識conscientiaの転倒を利用したような定義であることになります。なので,この意味において目的は元来は衝動であるということになるのですが,衝動は本来的には目的ではありません。単に目的であると意識される,もっといえば目的であると錯覚されているだけなのです。そしてそうした意味がこの定義に中に含まれている限り,この定義は確かに國分が指摘している通り,目的論批判の文脈が含まれているといえるでしょう。ここでいわれている目的というのは,意識化された衝動そのものであって,それが目的という別の概念notioに錯覚されているだけだからです。よって僕たちは何らかの目的があるからそれに向かって衝動を感じるのではありません。それはこの定義の解釈としてははっきり誤謬errorであるといわなければなりません。僕たちはある事物に衝動を感じるから,その事物を自身にとっての目的であると思うようになるのです。
                                   
 この部分の考察はここまでです。また次の課題の探求に移ります。
 やはり第六章において,スピノザの道徳論に類することが説明されています。これは,『はじめてのスピノザ』の中でも語られていた,第四部定理五九の殴打という行為についての考察と重複する部分があるのですが,入門書の『はじめてのスピノザ』よりも当然ながら詳しくまた深く検討されていますから,ここでまたより詳しく探求し直すことにします。
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阿波おどり杯争覇戦&感情の意識

2024-07-07 19:09:14 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは新田‐佐藤の福島,犬伏‐小倉の徳島,嘉永‐山田‐山口の九州で深谷と清水は単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。2番手に新田,4番手に犬伏,6番手に嘉永,最後尾に清水で周回。残り3周のバックから嘉永が上昇。コーナーでは犬伏に蓋をしましたが,ホームに戻って再上昇。深谷を叩きました。山口の後ろで深谷と清水が併走。車間が開いて新田。また車間が開いて犬伏という隊列になって打鐘。ここから深谷は内を進出。山口の位置を奪いにいきました。バックに入って新田が発進。この勢いがよかったのですが,最終コーナーで山田が大きく牽制。外に浮いた新田は失速。後方からの捲り追い込みになった犬伏は新田のさらに外を回らなければならなくなりましたが,直線で大外から豪快に差し切って優勝。新田は浮いてしまいましたが山田の内から差し込んだ佐藤が1車身半差で2着。犬伏マークの小倉が山田の外から追い込んで8分の1車輪差で3着。山田は4分の1車輪差の4着。
 優勝した徳島の犬伏湧也選手は1月に久留米のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は昨年3月の大垣記念以来の優勝で2勝目。このレースは脚力上位の深谷と清水が単騎になりましたので,展開が重要でした。深谷はわざわざ山口に競っていく必要はなかったと思いますが,いかないと清水と競りになる可能性があったために,そうなったのでしょう。清水はその後ろになったので悪くありませんでしたが,新田が仕掛けてきたことでスパートのタイミングを逸しました。新田にとって最もよい展開だったのですが,山田に審議となるほどの牽制されては失速も致し方ありません。そのさらに外を回らされることにはなったものの,勢いは削がれずに済んだ後方の犬伏に順番が回ってきたという印象のレースです。

 この部分の國分の指摘は有益であることは間違いないのですが,僕自身はそれに全面的に賛同しているわけではありません。この関係から僕自身の考察が錯綜してしまった感はありますが,僕がいっておきたかったことはすべていうことができました。そちらを主眼に置いたために,國分の議論の展開については端折ってしまった面がありますので,そちらの方に興味があるのであれば,ぜひ『スピノザー読む人の肖像』の該当部分をお読みになってください。これでこの部分の考察は終了して,次の部分に移ることにします。
                                        
 第六章で,第四部定理八が探求されているのですが,そこで良心conscientiaと意識conscientiaの関係が説明されています。これは今回の考察の中ですでにみておいたところではありますが,ここでは別の観点から改めて探求します。
 第四部定理八が意味しているところは広大で,そこには思想史的な背景が含まれていると國分はいっています。そこでまず,この定理Propositioに関して最低限のことを確認しておきます。
 感情affectusは何度もいっているように,スピノザの哲学では特徴的な意味をもつ語句で,身体corpusのある状態と,その状態の観念ideaの両方を意味します。つまり感情というのは,身体のある運動motusであると同時に,その精神mensのある思惟作用の両方を意味することになります。この定理ではその感情が意識されるといわれていますが,僕は意識というのを観念の観念idea ideaeと解しますので,その路線でここも解釈します。したがってある感情が意識されるというのを,ある感情の観念の観念がその感情を有する人間の精神mens humanaのうちに発生するという意味に解します。これは感情というのを,延長の様態modiとみた場合にも思惟の様態cogitandi modiとみた場合にも成立すると僕は考えますが,身体のある状態の観念の観念と解するのが,ここでスピノザがいっていることが何を意味しているのかを正しく理解するという観点からは分かりやすいと思います。要するに現実的に存在するある人間の身体が喜びlaetitiaなり悲しみtristitiaなりを感じているときはその人間の精神も喜びや悲しみを感じているのであり,その状態の観念が同じ人間の精神のうちにあるとき,その人間は自身の悲しみや喜びを意識するといわれるのです。
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水戸黄門賞&ふたつの契約

2024-06-30 19:14:52 | 競輪
 取手記念の決勝。並びは小林‐坂井‐吉田‐吉沢‐芦沢の関東,脇本‐山口の近畿中部で守沢と松本は単騎。
 芦沢がスタートを取って小林の前受け。隊列が決まるのにかなり時間を要しましたが,6番手に守沢,7番手に松本と単騎のふたりが入って8番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなく,誘導が退避するタイミングから小林がスパートして打鐘。脇本は7番手の松本からも離されました。小林の番手の坂井は車間を開けていたのですが,残り1周のホームではそれが詰まってしまい,そのまま番手から発進。このラインの後ろを回っていた守沢は,最終コーナーで吉沢をどかして吉田の後ろに。直線に入ってから踏み込んだ吉田がそのまま抜け出して優勝。最後は吉田マークとなった守沢が1車身半差で2着。脇本がバックの入口手前で浮いてしまったので,そこから自力に転じて捲り追い込んだ山口が4分の1車輪差で3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は5月の小田原のFⅠを優勝して以来の優勝。一昨年9月の青森記念以来となる記念競輪6勝目。取手記念は初優勝。このレースは関東勢が5人で並びましたから,そこから優勝者が出ることが濃厚。吉田が優勝したので作戦が失敗したとまではいいませんが,同じラインから2着も3着も出せませんでしたから,成功したともいい難い面はあります。吉田自身は今年は好調で,FⅠでも4度の優勝があり,日本選手権でも決勝に進出しています。今はその好調を維持している状態で,それがこの快勝に結び付いたものでしょう。近況だけでいえば今後ももっとやれるのではないかと思います。

 現実的に存在する人間がDeusと契約pactumを結んだとしても,その人間は自然権jus naturaeを放棄したわけではないので,その契約に従わないこともできます。いい換えれば,神を愛さずに生きていくこともできますし,隣人を愛さずに生きていくこともできるのです。ただこの契約は,その契約に基づいて生きた方がよいことを人に教え,その人がそれを内面化する限りでは,その人は確かにその契約に従い,神を愛しまた隣人を愛するように生きていくことになるでしょう。
 このことから分かるように,この契約は神が現実的に存在するある人間と個別にする契約です。社会契約はそのようなものではなく,国民全体の自然権を社会societasに,たとえば国家Imperiumに委託する契約です。このために,神との契約と社会契約は矛盾することなく両立するとスピノザはいいます、そしてこのとき,社会契約は至高の力potentiaですから,力の強度を比較するなら,社会契約は神との契約を上回ることになるでしょう。よって社会契約によって形成された社会は,その社会自体が神との契約を無視するだけの力をもつことになります。つまり社会は神を愛さないこともできますし,隣人を愛さないこともできるのです。ただし,そうすることによって危険や損害が発生するのであれば,その危険も損害も社会で引き受けなければならないことになります。したがって,神との契約を内面化している市民Civesが多ければ多いほど,社会がその契約を無視することによって生じる危険も損害も,その分だけ大きなものになるでしょう。
                                        
 つまり,神との契約と社会契約は,実際には相互に規定し合う関係を保ちながら現実社会を構成していくと考えなければなりません。これが國分がいう社会契約の二重化が具体的に意味するところです。社会契約によって生じる至高の権力は,人びとの信託を得てはいます。だから社会は宗教religioについても様ざまな規定を行うことができますし,社会の構成員はその規定に従わなければなりません。しかし神との契約は,至高の権力がその個々の信託関係を破らないように命じています。ですからふたつの契約は,表面的には対立するのですが,補い合いながら円環を構成し,他方の独走を阻止し合うのです。
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中野カップレース&矛盾

2024-06-25 19:00:00 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは新山‐菅田‐阿部の北日本,松浦‐田尾の中四国,伊藤‐嘉永‐山崎の九州で森田は単騎。
 菅田と阿部がスタートを取りにいって新山の前受け。4番手に松浦,6番手に伊藤,最後尾に森田で周回。残り3周のバックから伊藤が前との車間を開け始めると,新山も誘導との車間を開けて対応。残り2周のホームに入って伊藤が発進すると新山も突っ張って先行争い。バックで外から伊藤が叩き,森田も4番手に続いて打鐘。5番手に新山,8番手に松浦という一列棒状に。ホームから松浦が発進していきましたが,前に届く前にバックで嘉永が番手捲り。このラインに続いていた森田が単騎で発進。嘉永と森田の競り合いは森田が制して前に。嘉永マークの山崎は森田にスイッチ。このあおりで追い上げてきた松浦が外に浮いてしまい,内に戻ろうとしたところで菅田と接触して菅田は落車。単独の先頭で直線に入ってきた森田を,スイッチした山崎が楽に差して優勝。森田が半車身差で2着。松浦マークから直線で伸びた田尾が4分の3車身差で3着。
 優勝した長崎の山崎賢人選手は昨年4月にいわき平のFⅠを優勝して以来の優勝。2018年の取手記念以来となる記念競輪2勝目。2018年というのはまだ新人選手賞の権利があった頃で,そのカテゴリーの選手が記念競輪を制するというのはなかなかの快挙なので将来に期待していました。その後は大きな実績を残せていなかったのですが,競技を中心に。今年の競輪の初出走がこの開催でしたから,競技に集中したことがプラスに作用したのではないかと思います。この開催のレースをみると,以前よりも器用に立ち回れるようになったという印象なので,また競輪でも注目できるのではないでしょうか。嘉永は展開は絶好でしたが,捲って出たときのスピードがいまひとつで,そこは課題でしょう。森田はいいレースをしたと思いますが,現状は力で山崎に及ばないということなのではないでしょうか。

 自然権jus naturaeを放棄するということと,自然権を自制するということが同じ意味になってしまっているということは,ホッブズThomas Hobbesの『リヴァイアサンLeviathan』における議論に該当させると,設立によるコモンウェルスと,獲得によるコモンウェルスとが混同しているということであると國分は指摘しています。僕はここではホッブズの国家論について考察するつもりはまったくありませんから,國分がそのように指摘しているという以上のことは何もいいません。それがホッブズの探求に照合させたときに妥当なものであるのかないのかということに関心がある場合は,ご自身でお考えになってください。いずれにしても,放棄することができない力potentiaを放棄せよということをホッブズがいっているのは事実なのであって,その点でホッブズの議論に曖昧さが残ってしまっているのは間違いありません。もし自然権に対して人びとがなし得ることが,その力の行使を自制するということだけだとなると,たとえ国家Imperiumが成立したとしても,その国家の成員が自然権を行使してしまう可能性が残ることになります。これはホッブズがいうところの自然状態status naturalisにほかならないのであって,国家の状態においても万人の万人に対する闘争状態が解消されていないことになります。
                                        
 ホッブズはこのことを恐れていて,スピノザはその矛盾を見逃さなかったと國分はいっています。ホッブズが自身の議論の曖昧さを恐れていたかどうかは何ともいえませんが,スピノザがそこに矛盾があることを見抜いたのはその通りだといえるでしょう。
 この矛盾から目を背けないということは,各人が自然権を放棄することはできないということを前提として国家論を構築するということです。ですからスピノザは,自然権に反することなく社会societasが作られることを目指します。いい換えればそれは,ホッブズが指摘したこと,すなわち法lexの概念notioと権利の概念を分けなければならないということに従いつつ,その概念をホッブズとは違った仕方で,國分のいい方に倣えばホッブズよりも上手に扱って,より整合的な解釈を提出することになるのです。
 このことによって最も影響を受けるのは,社会契約の概念であることになります。
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能登支援 万博協賛 高松宮記念杯競輪&第四部定理五四備考

2024-06-16 18:58:22 | 競輪
 岸和田競輪場で開催された第75回高松宮記念杯の決勝。並びは新山に桑原,郡司‐北井‐和田の神奈川,脇本‐古性‐南の近畿で小林は単騎。
 郡司がスタートを取って前受け。4番手に新山,6番手に小林,7番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなかったので,誘導が退避するタイミングから前受けした郡司がそのまま全力で駆けていきました。脇本はそこから動いていきましたが,打鐘から最終周回のホームに掛けて外に浮いてしまい不発。新山がホームから発進すると郡司の番手の北井が合わせて発進。北井が合わせきったので新山も不発。新山の動きには続かなかった小林が和田の後ろになり,脇本が不発に終わったので小林の後ろにスイッチした古性までの4人が優勝圏内。直線も北井が粘り切って優勝。マークの和田が4分の3車輪差の2着に続いて神奈川のワンツー。小林は郡司と和田の間に進路を取り,古性は郡司と小林の間に。バランスを崩しましたが古性が半車身差の3着に入り小林は微差で4着。バランスを崩していた古性はフィニッシュのところでは落車寸前でそのまま落車。優勝した北井が巻き込まれてフィニッシュ後に落車しています。
 優勝した神奈川の北井佑季選手は先月の奈良のFⅠを完全優勝して以来の優勝。昨年9月に向日町記念を優勝して以来のグレードレース制覇でビッグは初優勝。ここは総合力では手厚い近畿勢に神奈川勢がどう対抗するかというレースでしたが,この並びならば郡司が捨て身で駆けていくことはみえみえ。北井が躊躇なく番手から出ていくことができれば,脇本と古性といえどもさらに上を捲るのは難しいだろうと思えました。前受けの郡司が駆けていくのはみえみえなのですから,だれも抑えにいかなかったのは,ただ脚を浪費するだけになってしまいますから仕方がないでしょう。新山の捲りに合わせての発進ではありましたが,北井は前をあまり気にせずに出ていきましたので,そこが優勝の大きなポイントになりました。新山の捲りを合わせきった上で,後ろに差させなかったのですから,内容的にも強かったと思います。

 第四部定理四七,第四部定理四七備考から理解できるように,スピノザにとって希望spesと不安metusはあくまでも一体化した感情affectusで,そのために各々の感情に対する評価は同等になります。このことは第四部定理五四備考の文面でも一貫しています。そこでも希望と不安が等置され,これらふたつの感情は理性ratioに矛盾するけれども有益であるといわれているからです。ところが,この備考Scholiumの文面は,実は希望と不安とを分けていて,不安の方だけを害悪より利益を齎す感情とみているように読むことができます。同じ備考で次のようにいわれているからです。
                                   
 「もし精神の無能な人間がみな一様に高慢で,何ごとにも恥じず,また何ごとをも恐れなかったとすれば,いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統合されえようか」。
 この文章は,精神mensの無能な人間が何も不安を感じなかったら,かれらは社会的紐帯によって結合され得ないといっていて,つまり社会的紐帯によって結合するためには,精神の無能な人間が不安を感じることが有益であるといっているわけです。そしてこの感情というのは不安でなければならず,希望であってはならないというように読解できるでしょう。最も単純にいえば,法律を犯すような行為に対して,それに不安を感じるというのはそれが露見することに不安を感じるという意味であって,この不安によってその人間はその行為を断念することになるので,社会的紐帯に対して有益であるといえます。一方,法律を犯すような行為に対して希望を感じるというのは,それが露見することはないだろうと感じることにほかならないのであって,その場合はその人間はその行為をなすということになるでしょう。したがってこれは社会的紐帯によって結合することに対して有益どころかむしろ害悪を齎すといわなければなりません。
 希望と不安が表裏一体の感情であるということは僕も認めますが,各々の感情がその人間を同じ行為に向かわせるわけではないのであって,希望を感じればXに,不安を感じればXとは正反対のYにというように,その人間を向かわせ得るのです。なので希望と不安を完全に同一の感情としてみることはできません。
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万博協賛ミリオンナイトカップ&第四部定理二五

2024-06-10 19:23:05 | 競輪
 函館競輪場で行われた昨晩のミリオンナイトカップの決勝。並びは大川‐坂本‐菊地‐竹村の北日本A,酒井‐桜井の北日本B,菊池‐杉本の関東で阿部は単騎。
 菊地と菊池がスタートを取りにいきました。内の菊地が誘導の後ろに入って大川の前受け。5番手に阿部,6番手に酒井,8番手に菊池で周回。残り3周のホームの出口から菊池が上昇。バックで大川の外に並びました。残り2周のホームまで併走のまま周回し,誘導が退避するタイミングで大川が突っ張ると菊池は引き,周回中と同じ隊列に戻って打鐘。残り1周のホームを通過してから菊池が巻き返しにいきましたが,単騎の阿部がバックで先捲り。これで菊池は不発。坂本が番手捲りを敢行して阿部に対抗しましたが,直線で阿部が抜け出して優勝。坂本が4分の3車身差で2着。阿部を追走するようなレースになった酒井が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大分の阿部将大選手は前回出走の別府のFⅠを完全優勝していて連続優勝。4月の高知記念以来となるGⅢ3勝目。このメンバーでは脚力は圧倒的に上位。単騎の戦いになりましたので位置取りが鍵でしたが,大川が先行するとみてそのラインの後ろに。大川の突っ張り先行になりましたので,その判断も確かでした。坂本の番手捲りの上をさらに捲って勝ったのですから,確かに力を見せつけての優勝だったといっていいでしょう。

 理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoは最高の満足ですが,表象imaginatioから生じる自己満足は,狂気ともなり得るのです。これは,自己満足が,自己の能力potentiaを観想するcontemplariことによって生じる喜びlaetitiaであるといわれるとき,観想するということが,自分自身だけを見つめるということも意味し得るし,自分自身を他と比較して表象するimaginariということも意味し得るからこそ生じるのです。いい換えれば自己満足は,自分自身だけを見つめたときには最高の満足であり,他と比較したときにもその当人にとっての最高の満足であるのですが,前者は他からみても何も問題のない満足であるのに対し,後者は他からみた場合には狂気ともいえるような,迷惑を及ぼす満足であるということになるのです。
                                   
 こうしたことが生じる事情というのを一般的にいえば,第四部定理二五でいわれていることが基になると僕は考えます。
 「何びとも他の物のために自己の有を維持しようと努めない」。
 これはコナトゥスconatusが各々の個物res singularisの現実的本性actualis essentiaであるという第三部定理七から明白です。つまり各々の現実的本性が与えられれば,そのものはそのもの自身の有esseを維持しようと努めるconariという第三部定理六でいわれていることが必然的にnecessario帰結するのであって,これを帰結させるためにほかの事柄に訴求する必要はありません。いい換えれば他のものの本性に訴求する必要はないのです。よって現実的に存在する人間が自己の有を維持しようとする傾向conatusを有するのは,それ自身の本性のためであり,ほかのものの本性のためではありません。そしてこれは,現実的に存在する人間はほかのもののために自己の有の維持に努めるわけではないといっているのと同じです。
 しかしこのことはスピノザが論証Demonstratioでいっている通り,第四部定理二二系からもっと簡単に証明することができます。もしも現実的に存在する人間がほかのもののために自己の有の維持に努めるとすれば,virtusの第一の基礎はそのほかのものであるといわなければなりません。しかしそれはこの系Corollariumに反します。ゆえにそのようにいうことはできないのであって,現実的に存在する人間が自己の有の維持に努めるのは,それ自身のためであるといわなければならないのです。
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大阪・関西万博協賛競輪in奈良&意図

2024-06-09 19:15:07 | 競輪
 奈良競輪場で行われた大阪・関西万博協賛競輪の決勝。並びは佐々木‐菅原の神奈川,中井‐元砂の奈良,松岡‐松川の熊本に三宅で佐藤と大矢は単騎。
 元砂がスタートを取って中井の前受け。3番手に松岡,6番手に佐藤,7番手に大矢,8番手に佐々木で周回。残り3周のホームから佐々木が上昇を開始。ゆっくりとした上昇で,バックの出口で中井を叩きました。だれもこのラインには続いていなかったので,3番手に中井,上昇した大矢が5番手で松岡が6番手,最後尾に佐藤という隊列になってホームを通過。バックで佐々木が内を開けたので,内から中井,外から松岡が上昇。中井を打鐘で叩いた松岡の先行に。中井は引かずに松川の内から競りにいきましたが,これは松川が守りました。バックから大矢が単騎で発進。松川に競り負けた中井の後ろの元砂は大矢にスイッチ。直線は粘る松岡の外から大矢,そしてスイッチした元砂が両者の中を割って3人の争い。外の大矢が制して優勝。マークになった元砂が4分の3車輪差で2着。逃げ粘った松岡が4分の3車輪差で3着。
 優勝した東京の大矢崇弘選手はこれがS級での初優勝。初めてS級に昇級したのは2017年の6月ですから,S級では頭打ちだったといっていいクラスの選手で,最近はFⅠでも決勝に進出できていませんでしたから,単騎での優勝は正直いって驚きました。展開としてはそこまで楽だったわけではありませんから,これくらいの力はあったということで,たぶんレースで自身の力を十全に発揮するというような形に持ち込むのが苦手というタイプなのではないでしょうか。発進したときの加速にもやや課題があるようには感じます。

 自己の能力potentiaの観想contemplatioは,最高の満足でもあり得るのですが,他者との比較という表象imaginatioが介入すると,あまりにもつまらない不快事になってしまうとスピノザは第三部定理五五備考でいっています。そしてこうしたことをいいたいがために,スピノザは第三部定理五三を,この部分では第三部定理五五の前振りとして使ったと國分はいっています。本当にスピノザがそのような意図を有していたか僕には分かりません。ただ,この部分の文脈の流れがそのようになっているのは確かだといえるでしょう。
                                   
 これに関連して僕の方からいっておきたいことがあります。
 第四部定理五二は,理性rationeから生じる最高の満足が自己満足acquiescentia in se ipsoであるといっています。では受動的な満足のうち最高の満足は何であるかといえば,それも受動的な自己満足であろうと僕は考えます。ただこのことは,それを感じるその当人にとってそうであるというだけで,人間が協働して生活を送っていくということを考慮した場合は,その最高の満足がかえって他者に対して迷惑を及ぼすこともあるでしょう。スピノザが第三部定理五五備考のようなことをいうのは,そうしたことも考慮に入れている,というかむしろ人間は共同で生活していくものだということを念頭に置いているからだといえると思います。たとえば人間は他者の力potentiaと自身の力を比較して,自身の力を過大に評価することによって喜びlaetitiaを感じるということがあります。これは自分の力を観想するcontemplari,表象するimaginariという意味ではありますが観想することによって感じる喜びですから自己満足にほかなりません。一方,ここでは自身の力を過大に評価するということを前提としているわけですから,自己満足のうちとくに第三部諸感情の定義二八にある高慢superbiaであるといえるでしょう。この定義でいわれている自己への愛philautiaというのは自己愛philautiaなのであって,スピノザはとくに受動的な自己満足についてそれを自己愛といっているからです。ですから高慢というのは,人間が受動的に感じる喜びの中では,最高の満足のひとつであるといっていいでしょう。ところが第三部定理二六備考では,この高慢が狂気といわれているように,きわめて否定的に評価されているのです。
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能登支援・万協三山王冠争奪戦&観想する

2024-06-04 19:04:08 | 競輪
 前橋記念の決勝。並びは真杉‐小林‐佐々木の北関東,森田‐平原の埼玉に佐藤,窓場‐村田の近畿で橋本は単騎。
 佐々木がスタートを取って真杉の前受け。佐々木の後ろは内に森田,外に橋本の競り合い。佐藤の後ろに窓場という隊列で周回。残り4周のバックから窓場が上昇。残り3周のホームで真杉と窓場の併走となりましたが,バックで真杉が突っ張り,窓場は後退。この真杉のスピードアップで佐々木の後ろの競りも決着がつき,4番手に森田,7番手に橋本,8番手に窓場の一列棒状に。ホームから森田が発進しましたが,真杉がスピードを上げて合わせたため,佐々木の横で森田が併走する形で打鐘。競り合いはホームの出口まで続きましたが,森田は浮いてしまい脱落。森田が不発になったのでバックから平原が自力で発進すると小林が番手捲りを敢行。小林はそのまま後続を寄せ付けずに快勝。平原はコーナーで佐々木の内を突き,両者がもつれ合う間に外から差してきた佐藤が2車身差で3着。平原が1車身半差の3着で,平原のすぐ外を強襲した橋本が4分の1車輪差で4着。
 優勝した群馬の小林泰正選手は2月の豊橋のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初優勝。このレースは真杉の自力が上位。その真杉が前受けから駆けてきたふたりを突っ張るという作戦に出ましたので,番手の小林が恵まれました。真杉の後ろが地元のふたりだったということで,このような作戦になったのでしょう。小林は記念競輪の決勝までは乗ってくる選手ですが,ここは真杉の力を借りてのものですから,それほど評価はできません。自力で記念競輪の優勝を掴むのがひとつの目標になってくるでしょう。

 人間の精神mens humanaによるすべての認識作用は,概念conceptusか知覚perceptioに分類されます。したがって,これ以外の認識作用について言及されるのであれば,それは概念の一種か知覚の一種か,そうでなければ概念の場合もあり知覚の場合もあるということになります。たとえば人間の精神が何かを表象するimaginariといわれるなら,これは知覚の一種であって,人間の精神が何かを現実的に存在すると知覚するのであれば,それは表象するといわれるのです。一方,いくつかの定義Definitioで解するintelligereといういい方をスピノザはしていますが,この解するというのは理解するという意味で,概念の一種です。いい換えれば解するというのは理解するという意味で,たとえば第一部定義六を例にあげれば,無限に多くの属性からなっている実体substantiam constantem infinitis attributisを概念するconcipereとき,それを神Deumという語で理解するという意味です。つまり解するというのは,ある語を何らかの概念によって理解するという意味であり,この意味において概念の一種であるということになります。
                                   
 それでは,観想するcontemplariというのはどのような思惟作用を意味するのでしょうか。
 観想するというのが知覚の一種であるということは疑い得ません。これは第二部定理一七から明白で,ここではある表象像imagoを観想するといわれています。表象imaginatioは知覚の一種なのですから,表象像を観想するのは知覚の一種だといわれなければなりません。では観想するというのは知覚だけを指すのかといえば,そうではありません。第三部定理五三で観想するといわれる場合は,この後の國分の指摘をみれば分かるように知覚でもあり得ますが,概念でもあり得るからです。僕たちが事物を十全に認識するcognoscereということは僕たちの精神の力potentiaなのであって,その力を観想するときには,僕たちは自身の力を知覚しているのではなく概念しているからです。それまで理解していなかったことを理解することができるようになったとき,喜びlaetitiaを感じたことがあるという方は多いのではないかと思いますが,それは第三部定理五三でいわれている喜びにほかならないのであり,これはそれ自体で明らかなように知覚ではなく概念であるといえるからです。つまり観想するは,概念でも知覚でもあり得るのです。
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能登半島支援・五稜郭杯争奪戦&第三部諸感情の定義一説明

2024-05-20 19:08:33 | 競輪
 昨晩の函館記念の決勝。並びは松井‐郡司の神奈川に佐藤,古性‐三谷‐東口の近畿,岩津‐棚橋の岡山で小倉は単騎。
 三谷がスタートを取って古性の前受け。4番手に岩津,6番手に松井,最後尾に小倉で周回。残り2周のホームを出てから松井が上昇。バックで古性の前に出て打鐘。ここで松井がペース駆けに持ち込んだので,古性は引かずに郡司の内での競りを選択。必然的にその後ろも三谷と佐藤で競り合い。この競り合いの影響で佐藤の後ろに続いていた小倉が落車。古性と郡司の競りは残り1周のバックの入口まで続き,ここで古性が番手を奪取。郡司は東口を阻んで三谷の後ろに。さらに佐藤との競りで三谷が苦しくなり,古性の後ろが郡司になりました。岩津はバックで自力で発進しましたが,これは不発。直線は番手を奪取した古性が松井を差して優勝。逃げた松井が1車身差で2着。三谷からは離れましたが郡司を追って外を追い込んだ東口が半車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は3月の松山記念以来の優勝で記念競輪11勝目。函館記念は初優勝。このレースは松井が先行1車だったので,どのような先行をするかがまず焦点。前受けの古性を叩いてすぐにペースを緩めましたから,ラインでの決着よりも自身の優勝を強く意識した走りになりました。2着には残っていますので,悪くはなかったと思いますが,番手を古性に奪われてしまったのは誤算だったでしょうから,ペースを緩めるにしても,ラインで出きってからにした方がよかったかもしれません。あるいは後ろが競っているなら,ペースアップするのをもっと遅い段階にするという策も取れたのではないでしょうか。松井のペース駆けになっては古性も優勝のチャンスが少なくなるでしょうから,番手に飛びついたのがよい判断であったと思います。

 第三部の最後に第三部の中で論じられてきた感情affectusを定義するにあたって,第三部定理九備考と一転して第三部諸感情の定義一のように欲望cupiditasを定義した理由は,スピノザ自身が説明しています。これはこの定義Definitioの後の説明に書かれているのですが,この説明はとても長いものですから,ここでは必要なことを簡潔にまとめます。
                                   
 スピノザは,欲望を意識された限りでの衝動appetitusといったのですが,衝動自体は意識されようとされまいと同一の働きactioをなします。いい換えれば,ある衝動が意識されたからといって,その衝動が別の衝動に変化することはありません。このために,欲望と衝動との間の差異というのは,それが意識されるかされないかという点にのみ存するのであって,それを排除すれば衝動と欲望は同一です。もしもある衝動は必ず意識されてある衝動は絶対に意識されないというならば,衝動と欲望の間に差異を求めることは可能です。必ず意識される衝動だけを欲望といい,そうではない衝動は欲望といわずに衝動といえばよいからです。ですが実際はそのようになっているわけではなく,ある衝動が意識される場合もあれば意識されない場合もあります。なので衝動と欲望は,それが意識されるのかされないのかという相違があるだけであって,事実上は同一のものであるという結論になります。
 このために,もしも欲望を衝動によって定義してしまうと,衝動は欲望と変わるところはないのですから,欲望を欲望によって定義することになってしまいます。これでは欲望に限らず,ものの定義になり得ません。だからスピノザはここで欲望を定義するにあたって,それとは別の仕方での定義を模索したのです。そのことについてはこのようにいわれています。
 「欲望を,我々が衝動,意志,欲望または本能という名称をもって表示する人間本性の一切の努力をその中に包含するような仕方で定義しようとつとめた」。
 このような意図をもって定義されているのが,第三部諸感情の定義一であるのです。國分はこの欲望の定義について,『エチカ』のうちにいくつかあるターニングポイントのひとつであるといってよいと指摘しています。なぜなのかを検討していきましょう。
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