スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

金亀杯争覇戦&第一論駁

2021-01-24 19:04:59 | 競輪
 松山記念の決勝。並びは郡司に東口,松浦に坂口,島川‐松本‐橋本‐渡部の四国で渡辺は単騎。
 郡司がスタートを取って前受け。3番手に松浦,5番手に渡辺,6番手に島川で周回。残り2周のホームの手前から島川がゆっくりと上昇。東口との車間を開けていた松浦がホームで先に動いて郡司を叩きました。しかし郡司が内から巻き返し,バックでは再び松浦の前に。東口は離れましたが外から追い上げ再び郡司の後ろに。この間に島川が発進し,打鐘前に郡司を叩いて先行。ここで渡部と郡司の車間が大きく開いてしまい,前の4人が抜け出す形。さらにバックに入って松本が番手から発進。このまま郡司も松浦も動くことができませんでした。最後尾になってしまった渡辺が最も勢いよく追い上げてきましたが,前との距離がありすぎ,優勝は松本。マークの橋本が1車身差の2着。渡部も4分の3車身差の3着に続いて地元勢の上位独占。渡辺は4分の1車輪差で4着。
 優勝した愛媛の松本貴治選手は前々回出走の広島のFⅠ以来の優勝。2019年にヤンググランプリを勝っていますが,記念競輪は初優勝。このレースは島川が捨て身で先行して,松本の二段駆けという展開が有力。脚力ではトップクラスの郡司と松浦がそれを捲り切れるのかというのが焦点。さらにもしも松浦が捲ってきた場合に,この開催も含めて連携することが多い四国勢がどの程度まで牽制するのかということにも注目していました。結果的にいうと打鐘前のバックで郡司が後ろの松浦を気にしてスピードを落とし過ぎてしまったために島川に一気に叩かれ,前の4人と後ろの5人が大きく離れてしまいました。この時点で松本が有利に。今日はあくまでも展開面からの優勝ということになりますが,昨年の秋あたりから力をつけてきているようには思えます。

 カテルスJohannes Caterusによる論駁の中心は,自己由来的ということを,積極的に解してはならず,消極的に解さなければならないというものです。おそらく『省察Meditationes de prima philosophia』の中で,デカルトRené Descartesが自己由来的という語を使っていて,それを積極的な意味にデカルトは解しているとカテルスは思ったのでしょう。
 まずこの論駁の意味を,スピノザの哲学と照合させる形で説明します。
                                   
 スピノザは第一部定理一七備考で,結果effectusは原因causaと異なるものであるから結果といわれるという意味のことをいっています。カテルスがいっていることは,このことがあらゆる因果関係に妥当しなければならないということです。したがって,起成原因causa efficiensとその結果は,必然的にnecessario異なるものでなければなりません。しかし,もしあるものの起成原因について,それが自己由来的であるというときに,それを積極的に解するなら,そのものはそれ自身が原因でありかつ結果であるということになってしまいます。カテルスの見解opinioでは,そうしたことがあってはなりません。したがって自己由来的であることを積極的に解することは許されず,それは消極的に,すなわちそのものは外部に起成原因を有さないというように解さなければならないのです。カテルスが,自己由来的なものが存在すると考えていたのかは分からないですが,少なくとも自己由来的であるということの意味は,単に外部に起成原因をもたないという意味でなければなりませんでした。なぜなら,ある起成原因がその外部に結果を生じさせるということが,あらゆる因果関係の基礎でなければならならないからです。
 これは,スピノザのいっていることと同じようでいて,かけ離れています。なぜならスピノザの哲学における自己原因と原因の関係は,自己原因causa suiが本性naturaの上で先行するからです。スピノザは確かに結果は原因とは異なるがゆえに結果といわれるといっているのですが,このような,原因の外部に結果を発生させるものによって自己原因というのが解されるべきではなく,自己原因という概念notioから外部に結果を発生させる原因というのを解するべきだと考えているのです。つまり自己由来的ということが消極的に解されてはならないということになります。
コメント
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