現実的なことをいえば,同じ戯曲であっても演出家の演出次第で上演のあり方は変化します。したがって,ファン・ローンJoanis van LoonがフォンデルJoost van Voendelの戯曲の上演を観劇したことがあった,それも複数回にわたって観劇したことがあったとしても,そこにどのような演出があったかということは異なった筈であって,フォンデルの戯曲が上演されるときの共通の演出というのがあったかどうかは分かりません。ですからフォンデルの戯曲であるかのように上演したという表現は,表現としては不適切だと僕は思います。なのでこの部分は不自然であると思いますが,ファン・ローンがそう書いたのかヘンドリックHendrik Wilem van Loonがそのように書いたのかは別として,このような表現になり得るということは理解しますので,この点について深く詰めることはしません。ローンが書いてもこのような表現にはなり得るだろうし,ヘンドリックがフォンデルの戯曲を観劇したことがあったかどうかは不明ですが,ヘンドリックがフォンデルはこの当時のオランダにおける著名な詩人にして戯曲家であったということさえ知っていれば,このような表現をすることもあり得るでしょう。いい換えればこの部分を詰めて考えても,ヘンドリックが完全に創作したか,何らかの資料に依拠したかということは分からないと思います。
もっと不自然に感じられるのは,アリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙Βάτραχοι』を上演するにあたって,何らかの台本があったと仮定されていないことです。ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの古い写本が出てきたとは書いてありますが,アリストファネスの書いたものがヨットの中にあったとは書いていないのです。もしもそうしたものがなかったのなら,一行は台本もなしに『蛙』を上演したと解さなければなりませんが,そんなことが本当に可能だったのかはかなり疑問です。『蛙』というのがとても有名な話で,だれでもそのあらすじを知っているような戯曲であったとしても,上演するのであれば台詞の段取りなどがなければならないのであって,定まった台本なしにそれができたかは疑問です。いい換えればこの場合は,一行のだれかが,簡単なものであったとしても何らかの台本を作成したのでなければならないと思います。
設定自体が不自然ではなく,大筋のプロットに対する肉付け部分の説明が真実らしく思われないというのは,その作品が創作物であるということを強化する要素になります。しかし僕の考えでは,まさにこの点が,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』が純粋な創作物であるということを疑わしくさせるのです。その理由は,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作物であると仮定したときに,ヘンドリックがそれをどのような意図で著したのかということと関係します。
ヘンドリックはこれを,自身の先祖に当たるファン・ローンJoanis van Loonが書いたものであるとして,それを自身が翻訳したとしています。つまり,実際の著者はファン・ローンで,ヘンドリックではないという前提で,ヘンドリックはこれを発刊しています。そしてファン・ローンが書いたとされているのが,『レンブラントの生涯と時代』です。したがってその内容はファン・ローンが見聞きしたことであって,ファン・ローンが見聞きしたことである以上,それは史実であるということもまた前提されているとしなければなりません。
このような前提でこれをヘンドリックが書いたのだとしたら,ヘンドリックはその内容をリアルなものとして書くことになるでしょう。前提がリアルな史実であるということなのですから,内容もまたそうしたものとして創作しなければなりません。もちろんこうした創作の中にはいくらかの脚色が入りますが,そうした脚色というのは作品の内容が史実であるということを失わせるようなものとなることはあり得ず,むしろそれを強化するものにならなければおかしいのです。ところが実際は,それが脚色であるとすれば,リアルな出来事であったということを失わせるような脚色が多く入り込んでいるのです。これは単にヘンドリックが作家として無能であったというか,そうでなければ実際にはそれは脚色ではなく,ヘンドリックが実際にあたった資料に,そのままではないとしてもそれに近いことが書かれていたからかのどちらかでなければなりません。しかしヘンドリックは吉田がいうように,職業作家として生きていたのですから,作家として無能であったということはできないでしょう。
『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』には,一読するだけでその信憑性を失わせるようなエピソード,創作であると仮定すればプロットが数多く含まれています。そしてそうしたものにはある共通の特徴が含まれています。ここからその代表的な部分として,三箇所を示します。スピノザに関連することがひとつで,スピノザと関連があったファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenおよびメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelに関連する部分がひとつずつです。このようにプロットの主人公を別にすることで,特徴というのがいかなるものかがよく理解できると思います。訳出されている順に紹介していきましょう。
ひとつ目は,おそらく1670年の4月ごろの出来事です。前述しておいた通り,ファン・ローンJoanis van LoonはコンスタンティンConstantijin Huygensの仲介でスピノザのアドバイスを受けたのですが,これは効果が出てきたころです。ローンはすでに恢復しつつあったので,コンスタンティンおよびスピノザも含めた6人の一行で旅行をしました。これは船での旅行で,コンスタンティンがローンに気晴らしをさせる目的であったとなっています。ところが出発して3時間もしないうちに,6人が乗ったヨットが故障してしまいました。これは突風のためだったとされています。
そこで6人は小さな村に上陸し,ヨットを修理しなければならなくなったのですが,小さな村だったために資材の入手が困難であったため,そこで3日を過ごさなければなりませんでした。そしてその最後の晩に,その村の人たちを集めて,アリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙Βάτραχοι』という作品を,オランダの著名な劇作家の作品であるかのように上演したとなっています。このときにスピノザはロープ,というのは船のロープではないかと思われますが,ロープで急造した大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。劇中でスピノザはヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演し,ことばが分からない村人に対しては言語であるギリシア語だと説明し,村人はとても喜び,スピノザはアンコールに応えなければならないほどでした。
これがひとつ目ですが,ここはスピノザと直接的に関係しますので,このエピソードに関しては後で別の観点から説明し直します。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』はスピノザを主題に据えた書物ですから,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全訳を掲載しなかったこと,いい換えればスピノザおよびスピノザと関係があった人物について書かれた部分だけを訳出したのは当然のことといえます。そして僕はその部分しか読んでいません。しかし主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnであるなら,内容の信憑性はレンブラントについて書かれている部分がどの程度まで史実に適合しているのかという観点から判断されるべきなのです。したがって本来的には,レンブラントの研究者がこれを精読して,どの程度まで信用に値するのかということを判断するのが好ましいといえるでしょう。
この本は実は全訳を読むことができるようにはなっています。とはいえ僕がそれを読んだところで,僕はレンブラントについては何もといっていいくらい知りませんから,それがどの程度の信憑性を伴なっているのかということは分かりません。ただ,レンブラントの研究者がこれを読んで,それなりの信憑性があると判断できるのであれば,それ以外の部分もそれと同程度の信憑性を有しているということになるでしょうから,スピノザやスピノザと関係がある人びとについて書かれている部分も,その程度の信憑債があるというべきです。一方で,レンブラントについて書かれている部分が知られている史実と著しく反していて,まったく信用に値しないというなら,スピノザやスピノザと関係があった人びとに関する記述も,信用するにはまったく値しないといわざるを得ません。
僕自身はこの観点からは『レンブラントの生涯と時代』の信憑性を判断することはできません。ただ,信憑性自体の第一の規準はレンブラントについて書かれた部分にあると考えますから,吉田のように,単に作者が作家だから創作だということで,その信憑性を否定するのはあまりよくないのではないかと思います。
ここまでのことを前提として,『レンブラントの生涯と時代』を純粋な創作とみるのは困難であるという僕の考えの根拠を説明していきます。僕は渡辺の抄訳しか読んでいないのですから,レンブラントに関わる部分はその根拠には含まれていません。
レベッカRebecca de Spinozaが提出されたとされる嘆願書に対して,裁判所がどのような判断を下したのかは分かりません。ただ,レベッカがその後も遺産相続人を主張するならスペイクに支払うべきであった費用を支払わなかったということは確実です。スペイクの方はそれを取り戻す必要がありましたから,スピノザの遺品を競売にかける権限を得て,実際にそれらを競売にかけたのです。この権限が,公的機関から得たのか,それとも遺産の相続人であったレベッカおよびダニエルDaniel Carcerisから得たのかは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』からははっきりしません。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの方ではハーグDen Haagの裁判所から権限を得たとなっていますから,支払いを拒むレベッカに対して業を煮やしたスペイクが裁判所に訴え出て,権限を与えられたということなのだと思います。
競売が実際に行われた期日をナドラーSteven Nadlerは11月としか表現していませんが,これはコレルスの伝記にある通り,11月4日のことであったと思われます。この競売には多くの参加者があったと書かれていますが,これはおそらく売り上げからのナドラーが類推したことでしょう。ナドラーもこの競売によって借金に充てる以上の収益があったとみています。
一方で,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通して,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用と家賃は弁済されていました。このこともナドラーは史実であるとみています。したがって,競売によって得た収益は,そうした費用に充足させる必要はなかったものと思われます。なので,スピノザにそれ以外の借金があって,それに充てるための費用をスペイクがなお必要としていたのでない限り,借金に充てる以上の収益があったというのは,単純に収益のほとんどがスペイクの手許に残ったという意味にしか僕には解せません。すべてといわずにほとんどというのは,競売を実施するにあたっても費用というのが必要だったのであって,そうした費用についてもこの収益の中から支払われたとみるのが妥当であると思うからです。ただレベッカはたとえ相続してもスペイクには支払わなければならなかったわけですから,わずかな収益を遺産として相続する必要はないと判断したのでしょう。
フロイデンタールJacob Freudenthalは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して『エチカ』の遺稿の買取りを打診しているという事実を重視して,このようなことはシュラーの独断ではできないので,遺稿集Opera Posthumaの編集者たちの間の総意として,スピノザの遺稿の売却というのがあったとみています。しかし後に編集者たちは考えを改め,遺稿集として出版することを決意しました。だから遺稿の売却も断ることになったということです。これもまた,シュラーとライプニッツの間の書簡のやり取りからの解釈です。
ただ,この説明には不十分なところがあります。編集者たちがなぜ考えを改めたのかがまったく説明されていないからです。編集者たちが遺稿の売却を考えたのは,スピノザの遺産からその発行のための費用が十分ではなかったからだとフロイデンタールはいっています。ということはその資金について何らかの目途が立ったから遺稿集の出版へと舵を切ったと考えるのが自然でしょう。しかしその目途というものがどのようなものであったのかということがまったく説明されていないので,僕はその点に疑念を感じてしまうのです。
フロイデンタールの説明が示しているのは,もしシュラーが独断でライプニッツに対して遺稿の買取りを打診したのであれば,それは遺稿集の編集者たちの総意ではなかったということです。いい換えればその場合は,少なくともシュラー以外の編集者たちは,最初から遺稿集を売却しようなどというつもりは毛頭なく,それを何とかして出版しようと考えていたということになります。この路線で説明しているのが『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』です。もちろんこれはスチュアートMatthew Stewartによる創作が入ったものですから,史実がどうであったのかを確定するためにはあまり有益ではないという一面があります。しかしこのことに関しては,スチュアートがいっていることにも一理あるし,こちらの方が正しいのではないかと僕には思えるのです。
ライプニッツがオランダを訪れて以降,ライプニッツとシュラーの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。だから少なくともシュラーは,ほかの編集者たちの知らないところで,遺稿の買取りを打診することはできました。
繰り返しになりますが,スペイクと面会したレベッカRebecca de Spinozaは,自身がスピノザの遺産の相続人であると申し出ました。しかしレベッカが葬儀費用と借金の前払いを承諾しなかったので,スペイクは公正証書を作らせ,その証書を基にレベッカにその代金を請求しました。正確にはレベッカとダニエルDaniel Carcerisに請求したのです。ところがレベッカもダニエルもその請求に従いませんでした。これが法的に問題なかったのかどうかは分かりません。ただ,相続した遺産が葬儀費用および借金を上回れば,それを支払うことはできるわけですから,先に相続できる遺産の額をレベッカが知りたかったという点は,理解できないわけではありません。したがってレベッカは,もしも葬儀費用と借金を支払った後に残る遺産の額が僅かであったり,むしろ支払わなければならない額の方が多くなった場合には,当初から遺産を相続する権利そのものを放棄するつもりであったものと僕は思います。
レベッカが請求を拒絶している間に,スペイクはハーグDen Haagの裁判所から,スピノザの遺品を公売所で競売に出す権限を与えられました。なので実際に多くの品物を競売に付しました。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,この競売が行われたのは1677年11月4日であったとされています。つまりスピノザが死んでから9ヶ月弱後のことになります。レベッカとダニエルが請求に応じなかった期間というのも,それと同じだけのものであったと考えてよいでしょう。この競売の売上金はスペイクに届けられたのだけれども,その場でレベッカに差し押さえられたと書かれています。これがどういう意味なのかも分かりません。文章の全体からは,スペイクが依頼して公売所で競売が行われ,その売上金がスペイクの家に届けられたというように読めるのですが,その届けられた売上金をレベッカが差し押さえたのだとすれば,スペイクの家で差し押さえたということになりますが,そんなことが可能なのかとても疑問に思えるからです。したがって差し押さえたということの意味は,その売上金をスペイクが使うことを禁止したとか,そのような法的命令を用意してスペイクに伝達したというようなことなのかもしれません。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの遺産相続および年金支給の件が,あたかもスペイクの目前で行われたように書かれています。しかしそれはあり得ません。フリースは1667年に死んでいて,スピノザがスペイクの家に住むようになったのは1670年になってからだからです。スペイクとフリースを繋ぐのはスピノザだけですから,フリースとスペイクが顔を合わせたことはなかったと解するべきです。
ただし,フリースの死後にスピノザがフリースの遺言によって年金を贈られていたということは,スペイクは知っていたと思われます。フリースとスピノザの関係は,家の貸し手と借り手の関係ですから,スピノザに一定の収入がないのであれば,家を貸すということはできません。ですからスピノザは自身の収入源が何であるかということについてスペイクに話した筈であり,その中にフリースからの年金が入っていたものと思われます。つまりスピノザがフリースからの年金を受け取っていたということは事実なのであって,しかしそれが決定されたのがスペイクの目前であったというわけではなかったというように解するのが適切でしょう。
前もっていっておいたように,スピノザの葬儀が執り行われたのは2月25日です。スペイクは葬儀代だけでなく,その他諸々の代金を肩代わりして支払ったということが,コレルスJohannes Colerusの調査によって明らかになっています。たぶんリューウェルツJan Rieuwertszがスペイクに送ったものは,そうしたものも含んだ分であったと思われます。
スピノザの葬儀には6台の馬車が随行し,多数の名士が葬列に加わったとされています。この部分は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の中で,みすぼらしかったとされるライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの葬儀と比較されている部分の根幹をなします。ただ,スペイクはスピノザについては誇張してコレルスに伝える可能性があるのですから,そのまま信じていいのかは分かりません。ただ,この時点でまだスペイクが生きていたように,スピノザの葬儀に参列した近隣住民で存命の人がいたでしょうし,葬儀に参列しなかったとしても,それがどの程度の規模のものであったのかを知っている人もまだ生きていたでしょう。
老いた鶏を用意したのがだれであったか定かでありませんが,とにかくスペイク家の家人,たぶんスペイクの妻はそれを調理してから礼拝に向かいました。午前中の礼拝が終わってスペイクが妻とともに家に戻ると,スピノザはそのスープを食していたそうです。午後も礼拝があったので,スペイク家の人びとは揃ってまた出掛けたとあります。
スペイクは妻とふたりで暮らしていたわけではありません。子どもがありました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,おそらく1670年にスピノザがこの家に住むようになったとき,すでに3人の子どもがいて,さらに1677年までには4人の子どもが産まれたとありますから,早逝してしまった子どもがいなかったならこの時点で6人ないし7人の子どもがいたことになります。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaだと前日の予備の説教と,この日の午前中の礼拝はスペイクと妻だけで出掛け,午後の礼拝だけ一家総出で出掛けたと読めるようになっています。ただ実際にそうであったかは分かりません。最後の部分は,アムステルダムAmsterdamから来た医師とスピノザのふたりだけがスペイクの家に残ったことを強調するためにこのように書かれている可能性があるからです。とくに,1677年に産まれた子どもというのがこの時点でいたなら,この子は乳吞児ということになりますから,いくら教会に行くとはいえそういう子どもを残していくのは考えにくいように思えます。
スペイクの一家が礼拝から家に戻ると,アムステルダムから来た医師がスピノザが死んだことをスペイクに伝えました。出掛けるときは老いた鶏を調理したスープを食していた人が,礼拝から終わって帰ったら死んでいたのですから,スペイクにとって,あるいはスペイク家の人びとにとって,これは驚くようなことであったと思われます。医師はスピノザが机の上に置いておいた金貨ひとつといくらかの小銭,それから銀の柄のついたナイフをポケットに入れて,そのままその日の夕方発の船でアムステルダムに帰ってしまいました。二度とスピノザのことを顧みなかったとされていますので,その後の葬儀にも顔を出すことはなかったとスペイクはコレルスJohannes Colerusに伝えたかったのでしょう。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaを扱うときには気をつけておかなければならないことがいくつかありますので,それを改めて確認しておきます。 コレルスJohannes Colerusは1679年にアムステルダムAmsterdamにルター派の牧師として派遣されました。そして1693年にハーグDen Haagに移っています。スピノザがハーグで死んだのは1677年2月ですから,コレルスがオランダに派遣された時点ですでにスピノザは死んでいましたし,ハーグに移った時点では16年が経過していたことになります。したがってコレルスはスピノザと面識があったわけではありません。ですからコレルスが書いているスピノザの伝記は,コレルス自身が見たことではなく,コレルスが調査をした結果がすべてだったことになります。
ハーグに移った時にコレルスが住んだのが,ウェルフェという寡婦がかつて住居としていた家です。スピノザはスペイクの家に移る前に,そこに住んでいたことがありました。ただウェルフェはこの時点で死んでいたので,コレルスはウェルフェからはスピノザについて何かを聞くことはできませんでした。しかし牧師としてハーグで活動し始めたコレルスのところに,スペイクが説教を聞きに来たため,コレルスはスペイクと知り合うことになりました。スペイクはまだスピノザの存命中から牧師の説教を聞きに行くことがあったようですから,牧師がコレルスに変わっても引き続き説教を聞きに行ったということでしょう。スピノザはウェルフェの家を出た後はスペイクの家に間借りしていたわけですから,スペイクはスピノザのことをよく知っていました。なのでコレルスはスペイクからスピノザのことを聞き取ることができました。つまりコレルスの伝記の主要部分は,スペイクからの聞き取り調査によって構成されています。
スピノザは遺稿集Opera Posthumaが即座に発禁処分を科されたことからも分かるように,無神論者として悪名高き人物でした。なのでハーグに移る以前から,コレルスがスピノザのことを知っていたという可能性はあると僕は思っています。ところがスペイクから聞いたスピノザの様子は,とても無神論者から程遠いものであったので,たぶんコレルスは意外に感じたのではないでしょうか。