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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

朝日新聞社杯競輪祭&バチカン写本

2024-11-25 19:02:20 | 競輪
 小倉競輪場で争われた昨晩の第66回競輪祭の決勝。並びは菅田‐松谷の東日本,寺崎‐脇本‐村上の近畿,犬伏‐松浦‐荒井の西国で浅井は単騎。
 スタートを取りにいったのは松浦と荒井と菅田の3人。松浦が誘導の後ろに入って犬伏の前受け。4番手に菅田,6番手に浅井,7番手に寺崎で周回。残り3周のホームの出口から寺崎が上昇。バックで犬伏と併走になりました。ホームで外から寺崎が前に出て,4番手に犬伏,7番手に浅井,8番手に菅田の一列棒状になって打鐘。ホームに戻って犬伏が巻き返していくと脇本が番手発進で対応。追い上げてきた犬伏が脇本の番手に嵌り,その後ろが内の村上と外の松浦で併走に。しかし併走の両者は前をいくふたりとの車間が開いてしまいました。直線に入っても脇本のスピードは衰えず,マークになった犬伏を振り切って優勝。マークの犬伏が1車身差で2着。村上の外を回った松浦が3車身差で3着。
                             
 優勝した福井の脇本雄太選手は9月の向日町記念以来の優勝。ビッグは3月のウィナーズカップ以来の11勝目。GⅠは2022年のオールスター競輪以来の8勝目。競輪祭は初勝利。このレースは寺崎が後ろからの周回になったので,前受けの犬伏を叩きにいくことになりました。そのときに犬伏が飛びつくのではなく,引いて巻き返すという戦法を採ったので,脇本が無風で番手を回れることに。犬伏の発進に合わせて番手から発進し,後ろに犬伏に入られてしまったのですが,小倉で1周くらいの先行であれば,自力型の犬伏に番手に入られてしまっても,余裕で振り切るだけの脚力があるということでしょう。犬伏は自分が勝つための戦法ですから,これはこれで悪くないと思いますが,脇本との差をほとんど詰められなかったのは課題といえそうです。

 第九回の中で,今世紀に入ってから『エチカ』の草稿の写本が発見された事実について,詳しい講義が行われています。ここで改めてどういった事情であったのかということを確認しておくことにします。
 このことが公になったのは,2011年の梅雨入り前であったと吉田はいっていますので,おそらく6月のことであったと推測されます。情報の発信源はオランダの新聞のウエブサイトだったそうです。その一報で明らかにされたのは,2010年の10月に,バチカンにある異端審問関係の資料の倉庫で,スピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊される以前に遡ることができる『エチカ』の手書きの原稿が発見されたというものでした。それは,スピノザ本人の自筆の草稿ではないものの,おそらく自筆の原稿から丁寧に写し取られた写本であるということまでそこでは伝えられていました。
 吉田は話の大筋とは関係ないからということで講義の中では語っていませんが,この写本を書いたのはスピノザの友人でラテン語の優れた使い手であったピーター・ファン・ヘントです。これはヘントがホイヘンスChristiaan Huygensに宛てた自筆の書簡が現存していて,その筆跡によって鑑定された結果ですから,歴史的事実であると解して大丈夫です。実際に写本が書かれたのは,こちらは想定で,1674年末か1675年初めとされています。かなり短い期間に特定されていますので,これも想定とはいえ,ほぼ歴史的事実と解して大丈夫でしょう。このあたりのことは『スピノザー読む人の肖像』に書かれていて,それを検討したときに書いていますので,より詳しいことはその部分を読み直してください。
 この写本,吉田はバチカン写本と命名していますので,僕もここからヘントの手によるこの写本をバチカン写本ということにしますが,このバチカン写本は発見にたずざわったふたりの手によって,2011年の夏に貴重な資料として活字化されました。そしてバチカン写本が活字化されるにあたって,解説が付せられ,その解説によってバチカン写本の発見に関する諸事情も明らかにされたのです。ただしこの諸事情に関してもすでに説明してありますから,ここではそれを繰り返すことはしません。
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施設整備競輪ザ・レオニズカップ&吉田の指摘

2024-11-18 19:21:46 | 競輪
 松阪競輪場で行われた昨日のザ・レオニズカップの決勝。並びは長島‐芦沢の栃木茨城に海老根‐中村の千葉,西村‐笠松の中部,塚本‐堤の西国で伏見は単騎。
 笠松と芦沢がスタートを取りにいき,内の笠松が誘導の後ろを確保し,西村の前受け。3番手に長島,7番手に伏見。塚本は道中から長島の外に張り付き,併走での周回になりました。残り3周のホームに入って塚本の内で併走していた長島が引いたので,3番手に塚本,5番手に長島,最後尾に伏見の一列棒状になりました。残り2周のホームに戻って長島が上昇。誘導が外れて西村が突っ張りました。伏見が内から上昇していったので,西村の後ろで伏見,こちらも動いた塚本,西村マークの笠松の3人が併走。塚本マークの堤を挟んで長島という隊列になって打鐘。ここから長島が再び発進。ホームで西村を叩くと海老根までの3人が出きりました。後ろから自力を使う選手がいなかったのでこのまま3人の争いに。番手から差した芦沢が優勝。逃げた長島が半車輪差の2着。海老根が1車身半差の3着でこのラインの上位独占。
 優勝した茨城の芦沢辰弘選手はGⅢ初優勝。このレースは長島の先行1車。なので西村や塚本が長島の番手を狙う動きがあってもおかしくありませんでした。長島としてはそういう展開にした方が自分の優勝は狙いやすかったと思うのですが,番手の芦沢にも配慮したような先行になり,芦沢が無風で番手を回ることに。その分だけ芦沢の差しが上回ることになったといえるでしょう。ラインのことを考えて先行するのは悪くないと思いますが,先行1車ですから長島に対してはやや物足りなさも感じるような結果でした。

 僕は自然状態status naturalisは,人類史上に存在したことはないと考えています。したがって,『国家論Tractatus Politicus』の当該部分の解釈として,スピノザも自然状態を空想的な状態であると考えているというように理解するのは,牽強付会であると思われるかもしれません。確かに文脈上は,スピノザは自然状態における自然権jus naturaeは空想的なものであるといっているのであって,自然状態についてそのようにいっているわけではないからです。しかし吉田もまた,この部分を僕と同じように解釈しています。ですから確かにこの部分を僕がいったように解釈する余地があるといえるのです。この点に関する吉田の検討をみていきます。
                            
 スピノザは自然状態を自然権を通して規定しています。ところがその自然権が,自然状態においてはないも同然であるとスピノザは断言しています。一方でスピノザは,第三部定理七を通して自然権を規定しているのです。この定理Propositioは前もっていっておいたように現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当する定理です。よって人間が現実的に存在するなら,必ず妥当する定理であるといわなければなりません。これはつまり,人間が自然状態において現実的に存在していようと,共同社会状態status civilisにおいて現実的に存在していようと,同じように必ず妥当するということを意味として含みます。つまり自然権が働くagereということと,人間が現実的に存在しているということは,同じ意味でなければなりません。
 この吉田の指摘はきわめて的確であると僕は思います。もちろん人間には,自然状態においてはなし得ないけれど,共同社会状態においてはなし得るということが,具体的に一つひとつの事象を検討していけばあるかもしれません。他面からいえば,自然状態において有さない力potentiaを共同社会状態において有するということがあるかもしれません。しかし自己の有esseに固執する力というのをひとつの力として抽出するのであれば,現実的に存在する人間は常に自己の有に固執するのであり,この点においては自然状態にあろうと共同社会状態にあろうと同様です。いい換えれば,人間が現実的に存在するということと,自己の有に固執するということは,同じことでなければなりません。
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泗水杯争奪戦&権力の持続

2024-11-12 18:57:52 | 競輪
 10日の四日市記念の決勝。並びは中野‐新山‐佐藤‐大森の北日本,寺崎‐三谷の近畿,伊藤‐井上の九州で柴崎は単騎。
 伊藤と大森がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入った伊藤が前受け。3番手に柴崎,4番手に中野,8番手に寺崎で周回。残り3周のホームから寺崎が上昇。中野の横で併走になりました。バックで中野が引いたので,4番手に寺崎,6番手に中野となって一列棒状。残り2周のホームから引いた中野が発進。バックで伊藤を叩きました。この間に飛びつきを狙った寺崎が,大森の追走を阻んだので,4番手に寺崎。マークの三谷を挟んで6番手に大森という隊列に。バックに戻って新山が中野との車間を開けて待機。寺崎の発進に合わせて番手捲り。この競り合いを制した新山が優勝。捲った寺崎が1車身半差で2着。新山マークの佐藤が1車輪差で3着。
 優勝した青森の新山響平選手は2022年の競輪祭以来の優勝。記念競輪は2020年3月の玉野記念以来となる5勝目。四日市記念は初優勝。このレースは北日本ラインの厚みが他を圧倒していて,それを生かしての優勝。S班に在籍しているように力量は確かで大きく崩れはしないのですが,これが今年の初優勝であり,昨年も優勝がないという勝ち味には遅いタイプ。その点はいささか心配しましたが,さすがにこのラインでこの展開になれば優勝は譲れない選手でした。欲をいえば,このレースは展開的に中野を残すのは難しかったので仕方がありませんが,佐藤を2着に引き込むような走りが必要だったと思います。

 このことに関してはさらに次の点にも気を付けておかなければなりません。
                       
 もし自然法lex naturalisの概念notioをスピノザの政治論に導入するなら,自然状態status naturalisは危険な状態であるから人びとは社会契約を締結して共同社会状態status civilisで生活するようになるということは自然法に属するとはいえず,共同社会状態での権力が共同社会を構成する人びとの利益utilitasを顧みないとその権力が持続することができなくなるということは自然法に属するといえることになると僕は考えます。ただ,権力が共同社会の構成員の実質的利益を考慮するというとき,それは実質的な利益が構成員に齎されているということを必ずしも意味しません。というのは,この場合は社会契約を破棄するのは構成員であって権力者の側ではないので,構成員が自身の利益が保証されていると認識しているのであれば,この権力は継続することになるからです。しかるに現実的に存在する人間は,自身の利益を必ず十全に認識するcognoscereのかといえばそういうわけではありません。混乱して認識するという場合もあるわけです。スピノザの哲学で利益というのはまず自然権jus naturaeの根拠ともなる第三部定理七から図られることになるのですが,実際には自身の利益になっていない事柄を,自身の利益になっていると思い込むことは人間にはあるのであって,そうしたことが共同社会状態の構成員に共有されているのであれば,その共同社会の社会契約は破棄されないので共同社会が継続することになり,権力も持続することになります。逆に,本来は自身の利益である事柄を不利益であると思い込むことも人間にはありますから,その場合はその混乱した認識cognitioの下に社会契約が破棄されてしまうということがあり得るのであって,こうした事情によって共同社会の社会契約が破棄され,権力が移行するということも起こり得るのです。つまり構成員の実質的利益を権力が考慮するということは,権力の持続が構成員の利益になっていると思うような状態にするという意味であり,逆に構成員の利益を顧みないというのは,構成員がそのように思うことに配慮しないという意味です。なので実際は構成員の利益に適っていない権力が持続するdurareことも起こり得るのです。
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周防国府杯争奪戦&自然法

2024-11-11 18:57:21 | 競輪
 4日の防府記念の決勝。並びは吉田‐杉森‐武藤の関東,太田‐清水‐桑原の山陽,松本‐小岩の西国で菅田は単騎。
 清水と松本がスタートを取りにいき,清水が誘導の後ろを確保し太田の前受け。4番手に松本,6番手に菅田,7番手に吉田で周回。残り4周のバックの入口から吉田が上昇開始。残り3周のホームで太田に並びました。太田は引かず,バックに入って誘導が退避するとそのまま突っ張りました。吉田は引いて残り2周のホームでは周回中と同じ隊列に戻っての一列棒状に。そのまま打鐘を迎え,ホームの入口から太田が本格的に先行。引いた吉田が巻き返しにいきましたが,バックの入口から松本が合わせて発進。清水の牽制を乗り越えて捲り切りました。松本はそのまま後ろを離していき優勝。離れながらも食らいついた小岩が3車身差の2着で西国のワンツー。最後尾からインを突いた武藤が1車身半差の3着。
 優勝した愛媛の松本貴治選手は前々回出走の函館のFⅠ以来の優勝。7月のウインチケットミッドナイト以来のGⅢ3勝目。記念競輪は2021年の松山記念以来の2勝目。このレースは地元の清水にとって有利な並びになったのですが,吉田が早めに押さえに来たため,太田の発進が早くなりました。太田も力はありますが,あの段階から駆けては最後までもちません。清水は勝つためには番手から発進するほかなかったのですが,太田が頑張ったのでそれができなかったのでしょう。松本がそこをついての快勝となりました。前受けを狙いに行って4番手を確保できたのが大きかったと思います。

 ホッブズThomas Hobbesは自然状態status naturalisにおける人間が社会契約を結び共同社会状態status civilisに入ることを自然法lex naturalisによって説明しています。そこでこの自然法の概念notioをスピノザの政治論に導入するなら,共同社会状態の成員の実質的利益を顧みない権力あるいは支配者は,その権力を維持することができなくなるということが,自然法によって生じるといえると僕は考えます。したがって,吉田はスピノザの社会契約はホッブズの社会契約より軽いといっていますが,この観点から見れば逆に重いということもできると思います。これは観点の相違で,共同社会状態の支配者からみたとき,ホッブズの政治論ではその支配者がどのような支配をしようと,いい換えれば共同社会の成員の利益を顧みないような統治を行ったとしてもその社会契約が破棄されることはないのに対し,スピノザの政治論ではそのような場合には社会契約が破棄されてしまうので,社会契約を維持するためには成員の利益utilitasを顧みる必要があります。この成員の利益は当然ながら社会契約の実質的な内容として含まれていることになりますから,支配者の側から社会契約の内容を遵守しなければならないという意味になります。したがって支配者の側からみれば,むしろスピノザの社会契約の方が重く,ホッブズの社会契約の方が軽いといういい方もできるでしょう。
                            
 実際にはスピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では社会契約説を展開していますが,『国家論Tractatus Politicus』では何も触れていません。これは社会契約説というのは,国家Imperiumの成立を説明するための概念上の装置であったことが関係していると僕は考えています。実際に現代人は国家という共同社会状態の中で生きているわけですが,だからといって具体的な契約pactumを結んで国家の中で生きているというわけではありません。国家が国民の実質的利益を顧みなければならないということは社会契約説から導き出せますが,まさにそのことを導き出すための概念装置として社会契約説をスピノザは展開したのではないでしょうか。したがってそれが重いとか軽いとかいう以前のこととして,スピノザが政治論の中で社会契約説にそこまで重きを置いているわけではないということもまた事実だろうと思います。
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ゴールドカップレース&台本

2024-10-29 18:59:26 | 競輪
 京王閣記念の決勝。並びは新山‐新田の北日本,小林‐木暮の群馬,真杉‐鈴木の関東,古性‐南の大阪で犬伏は単騎。
 スタートを取りにいったのは古性と小林。古性が誘導の後ろに入って前受け。3番手に小林,5番手に新山,7番手に真杉,最後尾に犬伏で周回。残り3周のバックから真杉が上昇。ただし新山の横で併走し,そのままホームからバックへ。ここから小林が発進。古性を叩くとさらに真杉も発進して打鐘。真杉の逃げになり,3番手に小林,5番手に古性,7番手に新山,最後尾に犬伏という一列棒状になりました。バックに戻って新山が発進するとそれに合わせて古性も発進。古性が前を捲って先頭で直線に。古性より後ろにいた5人の争いとなり,最後尾から大外を伸びた犬伏が優勝。古性の外から捲った新山が4分の3車輪差で2着。古性と古性マークの南が同着で半車輪差の3着。南と新山の間を突こうとした新田は伸びを欠いて半車身差で5着。
 優勝した徳島の犬伏湧也選手は前々回出走の小松島のFⅠ以来の優勝。記念競輪は7月の小松島記念以来で3勝目。京王閣記念は初優勝。このレースは分かれて戦った関東勢が協力したようなレースになったのですが,どうもペースが速すぎたようで,後方に控えていた選手たちの捲り合戦になりました。犬伏は最後尾にいて,真杉が上昇したときにもついていかず,最終周回のバックでもまだ最後尾でしたが,結果的にはだれよりも脚を溜められるレースができ,それが勝因となりました。単騎だったのですが,その他のラインが4つあったこともプラスになったと思います。

 現実的なことをいえば,同じ戯曲であっても演出家の演出次第で上演のあり方は変化します。したがって,ファン・ローンJoanis van LoonがフォンデルJoost van Voendelの戯曲の上演を観劇したことがあった,それも複数回にわたって観劇したことがあったとしても,そこにどのような演出があったかということは異なった筈であって,フォンデルの戯曲が上演されるときの共通の演出というのがあったかどうかは分かりません。ですからフォンデルの戯曲であるかのように上演したという表現は,表現としては不適切だと僕は思います。なのでこの部分は不自然であると思いますが,ファン・ローンがそう書いたのかヘンドリックHendrik Wilem van Loonがそのように書いたのかは別として,このような表現になり得るということは理解しますので,この点について深く詰めることはしません。ローンが書いてもこのような表現にはなり得るだろうし,ヘンドリックがフォンデルの戯曲を観劇したことがあったかどうかは不明ですが,ヘンドリックがフォンデルはこの当時のオランダにおける著名な詩人にして戯曲家であったということさえ知っていれば,このような表現をすることもあり得るでしょう。いい換えればこの部分を詰めて考えても,ヘンドリックが完全に創作したか,何らかの資料に依拠したかということは分からないと思います。
                            
 もっと不自然に感じられるのは,アリストファネスἈριστοφάνηςの『Βάτραχοι』を上演するにあたって,何らかの台本があったと仮定されていないことです。ホラティウスQuintus Horatius Flaccusの古い写本が出てきたとは書いてありますが,アリストファネスの書いたものがヨットの中にあったとは書いていないのです。もしもそうしたものがなかったのなら,一行は台本もなしに『蛙』を上演したと解さなければなりませんが,そんなことが本当に可能だったのかはかなり疑問です。『蛙』というのがとても有名な話で,だれでもそのあらすじを知っているような戯曲であったとしても,上演するのであれば台詞の段取りなどがなければならないのであって,定まった台本なしにそれができたかは疑問です。いい換えればこの場合は,一行のだれかが,簡単なものであったとしても何らかの台本を作成したのでなければならないと思います。
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寛仁親王牌・世界選手権記念&ヘンドリックの意図

2024-10-21 18:57:40 | 競輪
 弥彦競輪場で開催された昨日の第33回寛仁親王牌の決勝。並びは新山‐渡部の北日本,郡司‐小原の神奈川,寺崎‐脇本‐古性の近畿で佐々木と河端は単騎。
 古性がスタートを取って寺崎の前受け。4番手に郡司。その後ろが佐々木と新山の取り合いになりましたが,新山が譲って6番手に佐々木で7番手に新山。最後尾に河端で周回。残り3周のバックに入ると寺崎が誘導との車間を開け始めました。バックを出るとさらにスピードを落として後方を牽制。新山がコーナーから発進すると寺崎も突っ張りました。新山は脇本の外に併走して打鐘。その後ろは内外が入れ替わり,内に渡部で外が古性の併走に。ホームに戻って寺崎の番手は脇本が守りました。ここから郡司が発進。新山が下がった影響で小原が続けず,単騎に。しかしこの動きで脇本がインに包まれてしまい,そのまま郡司が寺崎を捲ったので古性が郡司にスイッチ。追い上げてきたのが佐々木で,それを郡司自身がブロック。このためにインが空き,そこを突いた古性が直線で先頭に立って優勝。郡司から離れたので古性マークになった小原が1車身差で2着。佐々木の動きに乗って大外を追い込んだ河端が4分の3車身差で3着。郡司の牽制を受けてから立て直した佐々木が4分の1車輪差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は8月末からの富山記念以来の優勝。ビッグはオールスター競輪以来で9勝目。寛仁親王牌は昨年が完全優勝でしたので連覇となる2勝目。このレースは寺崎の先行が有力なので,脇本と古性の優勝争いとみていました。新山が叩きにいって脇本の外で併走になるというのは意外な展開でしたが,番手は守れましたので,そこまではよかったと思います。郡司が上がってきたとき脇本は発進するべきだったのですが,内に入ってしまったので不発に。もしかしたらこのようなケースでは寺崎が郡司を牽制するために外に行き,内が空くという作戦があったのかもしれませんが,そうとでも考えないと不可解ではありました。古性はそこで機敏に郡司を追ったのが優勝の要因でしょう。郡司が自身で牽制にいったのでインが空いたのはラッキーでしたが,このラッキーがなくても優勝だったのではないかと思います。レース自体はとても激しく,面白いものでした。

 設定自体が不自然ではなく,大筋のプロットに対する肉付け部分の説明が真実らしく思われないというのは,その作品が創作物であるということを強化する要素になります。しかし僕の考えでは,まさにこの点が,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』が純粋な創作物であるということを疑わしくさせるのです。その理由は,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作物であると仮定したときに,ヘンドリックがそれをどのような意図で著したのかということと関係します。
                            
 ヘンドリックはこれを,自身の先祖に当たるファン・ローンJoanis van Loonが書いたものであるとして,それを自身が翻訳したとしています。つまり,実際の著者はファン・ローンで,ヘンドリックではないという前提で,ヘンドリックはこれを発刊しています。そしてファン・ローンが書いたとされているのが,『レンブラントの生涯と時代』です。したがってその内容はファン・ローンが見聞きしたことであって,ファン・ローンが見聞きしたことである以上,それは史実であるということもまた前提されているとしなければなりません。
 このような前提でこれをヘンドリックが書いたのだとしたら,ヘンドリックはその内容をリアルなものとして書くことになるでしょう。前提がリアルな史実であるということなのですから,内容もまたそうしたものとして創作しなければなりません。もちろんこうした創作の中にはいくらかの脚色が入りますが,そうした脚色というのは作品の内容が史実であるということを失わせるようなものとなることはあり得ず,むしろそれを強化するものにならなければおかしいのです。ところが実際は,それが脚色であるとすれば,リアルな出来事であったということを失わせるような脚色が多く入り込んでいるのです。これは単にヘンドリックが作家として無能であったというか,そうでなければ実際にはそれは脚色ではなく,ヘンドリックが実際にあたった資料に,そのままではないとしてもそれに近いことが書かれていたからかのどちらかでなければなりません。しかしヘンドリックは吉田がいうように,職業作家として生きていたのですから,作家として無能であったということはできないでしょう。
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別府市制100周年記念事業&蛙のプロット

2024-10-16 19:02:08 | 競輪
 14日の別府市制100周年記念事業別府ナイターの決勝。並びは杉森‐山崎の東日本,阿部‐大西‐小川‐園田‐坂本‐山口の九州で山本は単騎。
 阿部がスタートを取って前受け。7番手に山本,8番手に杉森で周回。残り3周のバックから杉森が徐に上昇。ホームで阿部と並びましたが阿部は引かず,突っ張ったので杉森が引いてまた8番手。そのまま打鐘となって阿部の先行。この流れに乗って山本が発進。ホームで大西の横までは上がりましたがそこで大西の牽制が入って失速。この後から発進した杉本が追ってきましたが,大西がバックから番手捲りで対抗。大西と杉森は踏み合いになりましたが踏み勝ったのは大西。大西が先頭で直線に向かうと番手の小川が差し込み,迫ったものの届かず,優勝は大西。小川が4分の1車輪差で2着。園田も4分の3車身差の3着に流れ込み,九州の上位独占。
 優勝した大分の大西貴晃選手はGⅢ初優勝。このレースは阿部の脚力が上位だったのですが,さすがにこの並びでは自分が勝つためのレースをするとは思えなかったので,大西と小川の優勝争いとなるのではないかとみていました。僕の予想通りの展開となり,両者の優勝争いに。格でいえば小川の方が上だと思いますが,阿部と大西は同じ大分で,しかも別府のレースであったのでこの並びに。その分で大西が有利になったということでしょう。

 『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』には,一読するだけでその信憑性を失わせるようなエピソード,創作であると仮定すればプロットが数多く含まれています。そしてそうしたものにはある共通の特徴が含まれています。ここからその代表的な部分として,三箇所を示します。スピノザに関連することがひとつで,スピノザと関連があったファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenおよびメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelに関連する部分がひとつずつです。このようにプロットの主人公を別にすることで,特徴というのがいかなるものかがよく理解できると思います。訳出されている順に紹介していきましょう。
                            
 ひとつ目は,おそらく1670年の4月ごろの出来事です。前述しておいた通り,ファン・ローンJoanis van LoonはコンスタンティンConstantijin Huygensの仲介でスピノザのアドバイスを受けたのですが,これは効果が出てきたころです。ローンはすでに恢復しつつあったので,コンスタンティンおよびスピノザも含めた6人の一行で旅行をしました。これは船での旅行で,コンスタンティンがローンに気晴らしをさせる目的であったとなっています。ところが出発して3時間もしないうちに,6人が乗ったヨットが故障してしまいました。これは突風のためだったとされています。
 そこで6人は小さな村に上陸し,ヨットを修理しなければならなくなったのですが,小さな村だったために資材の入手が困難であったため,そこで3日を過ごさなければなりませんでした。そしてその最後の晩に,その村の人たちを集めて,アリストファネスἈριστοφάνηςの『Βάτραχοι』という作品を,オランダの著名な劇作家の作品であるかのように上演したとなっています。このときにスピノザはロープ,というのは船のロープではないかと思われますが,ロープで急造した大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。劇中でスピノザはヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演し,ことばが分からない村人に対しては言語であるギリシア語だと説明し,村人はとても喜び,スピノザはアンコールに応えなければならないほどでした。
 これがひとつ目ですが,ここはスピノザと直接的に関係しますので,このエピソードに関しては後で別の観点から説明し直します。
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大阪・関西万博協賛競輪in川崎&第一の規準

2024-10-15 18:57:21 | 競輪
 昨日の大阪・関西万博協賛競輪in川崎の決勝。並びは佐々木‐和田‐福田‐鈴木の南関東,藤井‐山口富生の中部,北津留‐山口貴弘の九州で諸橋は単騎。
 山口貴弘がスタートを取って北津留の前受け。3番手に佐々木,7番手に藤井,最後尾に諸橋で周回。残り3周のバックの出口付近から藤井が上昇。これを佐々木が牽制したため,藤井は前に出られず,周回中の隊列のままバックに戻り,ここから佐々木が発進して打鐘で北津留を叩いて前に。引いた藤井も再び発進。ホームで佐々木を叩いて藤井の先行に。藤井と山口富生の間がやや開き,このラインを追った諸橋の後ろに和田がスイッチ。和田がバックから自力で発進。諸橋もそれを制するように踏み込むと,直線で諸橋と和田の間を突いた福田が抜けて優勝。外の和田が4分の3車輪差で2着。諸橋が4分の1車輪差で3着。
 優勝した神奈川の福田知也選手は一昨年10月の道後温泉杯争覇戦以来となるGⅢ2勝目。当時もそうでしたが今回も寛仁親王牌に出走しないメンバーでの争い。二段駆けが見込める和田が最有力でしたが,藤井が頑張ったためにそういう展開にはなりませんでした。それでも和田はうまくスイッチして自力で発進できたのですが,福田の差し脚が優ることに。藤井と山口富生の間がやや開いたのですが,そこが勝負のあやになったような気がします。

 『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』はスピノザを主題に据えた書物ですから,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全訳を掲載しなかったこと,いい換えればスピノザおよびスピノザと関係があった人物について書かれた部分だけを訳出したのは当然のことといえます。そして僕はその部分しか読んでいません。しかし主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnであるなら,内容の信憑性はレンブラントについて書かれている部分がどの程度まで史実に適合しているのかという観点から判断されるべきなのです。したがって本来的には,レンブラントの研究者がこれを精読して,どの程度まで信用に値するのかということを判断するのが好ましいといえるでしょう。
                            
 この本は実は全訳を読むことができるようにはなっています。とはいえ僕がそれを読んだところで,僕はレンブラントについては何もといっていいくらい知りませんから,それがどの程度の信憑性を伴なっているのかということは分かりません。ただ,レンブラントの研究者がこれを読んで,それなりの信憑性があると判断できるのであれば,それ以外の部分もそれと同程度の信憑性を有しているということになるでしょうから,スピノザやスピノザと関係がある人びとについて書かれている部分も,その程度の信憑債があるというべきです。一方で,レンブラントについて書かれている部分が知られている史実と著しく反していて,まったく信用に値しないというなら,スピノザやスピノザと関係があった人びとに関する記述も,信用するにはまったく値しないといわざるを得ません。
 僕自身はこの観点からは『レンブラントの生涯と時代』の信憑性を判断することはできません。ただ,信憑性自体の第一の規準はレンブラントについて書かれた部分にあると考えますから,吉田のように,単に作者が作家だから創作だということで,その信憑性を否定するのはあまりよくないのではないかと思います。
 ここまでのことを前提として,『レンブラントの生涯と時代』を純粋な創作とみるのは困難であるという僕の考えの根拠を説明していきます。僕は渡辺の抄訳しか読んでいないのですから,レンブラントに関わる部分はその根拠には含まれていません。
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火の国杯争奪戦&競売

2024-10-06 19:02:19 | 競輪
 熊本記念の決勝。並びは深谷‐阿部の東日本,町田‐松浦‐隅田の山陽,嘉永‐中川の熊本で,坂井と脇本は単騎。
 スタートを取りにいったのは松浦と深谷と中川の3人。松浦が誘導の後ろに入って町田の前受け。4番手に深谷,6番手に坂井,7番手に嘉永,最後尾に脇本で周回。残り3周のバックから町田が誘導との車間を開けてペースダウン。残り2周のホームの入口の手前から嘉永が上昇。ホームで町田を叩きました。バックに戻って叩かれた町田が巻き返し,嘉永を叩き返して打鐘。嘉永は飛びつけず,山陽の3人が出きりました。ホームから坂井が発進。バックで松浦の横までいきましたが松浦の牽制で失速。松浦はそのまま発進。後方から嘉永と深谷も捲り上げてきました。松浦が先頭で直線に。嘉永は失速しましたが深谷は最後まで伸び,松浦を差し切って優勝。松浦が半車身差で2着。松浦マークの隅田が半車身差で3着。
                            
 優勝した静岡の深谷知広選手は5月の武雄記念以来の優勝で記念競輪21勝目。熊本記念は初優勝。このレースは脚力で上位の脇本と,町田の番手を回る松浦が有力とみていましたが,単騎となった脇本が離れた最後尾となってしまい不発。これは作戦ミスといわざるを得ないでしょう。松浦も展開は有利だったのですが,単騎となった坂井が最初に捲ってきたのが意外で,その分だけ脚を使ってしまったということだと思います。深谷は嘉永よりも後,残り半周を過ぎてからの仕掛けになったのですが,レース展開上はそれがベストのタイミングであったということだと思います。

 レベッカRebecca de Spinozaが提出されたとされる嘆願書に対して,裁判所がどのような判断を下したのかは分かりません。ただ,レベッカがその後も遺産相続人を主張するならスペイクに支払うべきであった費用を支払わなかったということは確実です。スペイクの方はそれを取り戻す必要がありましたから,スピノザの遺品を競売にかける権限を得て,実際にそれらを競売にかけたのです。この権限が,公的機関から得たのか,それとも遺産の相続人であったレベッカおよびダニエルDaniel Carcerisから得たのかは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』からははっきりしません。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの方ではハーグDen Haagの裁判所から権限を得たとなっていますから,支払いを拒むレベッカに対して業を煮やしたスペイクが裁判所に訴え出て,権限を与えられたということなのだと思います。
 競売が実際に行われた期日をナドラーSteven Nadlerは11月としか表現していませんが,これはコレルスの伝記にある通り,11月4日のことであったと思われます。この競売には多くの参加者があったと書かれていますが,これはおそらく売り上げからのナドラーが類推したことでしょう。ナドラーもこの競売によって借金に充てる以上の収益があったとみています。
 一方で,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通して,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用と家賃は弁済されていました。このこともナドラーは史実であるとみています。したがって,競売によって得た収益は,そうした費用に充足させる必要はなかったものと思われます。なので,スピノザにそれ以外の借金があって,それに充てるための費用をスペイクがなお必要としていたのでない限り,借金に充てる以上の収益があったというのは,単純に収益のほとんどがスペイクの手許に残ったという意味にしか僕には解せません。すべてといわずにほとんどというのは,競売を実施するにあたっても費用というのが必要だったのであって,そうした費用についてもこの収益の中から支払われたとみるのが妥当であると思うからです。ただレベッカはたとえ相続してもスペイクには支払わなければならなかったわけですから,わずかな収益を遺産として相続する必要はないと判断したのでしょう。
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善知鳥杯争奪戦&総意

2024-09-30 19:05:25 | 競輪
 昨日の青森記念の決勝。並びは高橋‐新山‐守沢‐永沢の北日本,真杉‐長島の栃木,森田‐宿口の埼玉で佐々木は単騎。
 新山がスタートを取って高橋の前受け。5番手に森田,7番手に佐々木,8番手に真杉で周回。残り3周のバックから真杉が上昇。残り2周のホームで高橋に並んだのですが,高橋が突っ張りました。どうも真杉は最初から高橋を叩くつもりがなかったようで,そのまま新山の横で併走し,高橋の番手を取りにいきました。この間に森田も内から上昇し,番手の競りの後ろが森田,守沢,長島の併走になり,その後ろも永沢と宿口で併走。最後尾に佐々木という短い隊列で打鐘。番手の競り合いは決着がつかないまま残り1周のホームを過ぎてバックへ。ここで高橋が自ら外に浮いたので内から新山が先頭に。新山の後ろには森田が入り,森田を追ったのが守沢。しかしこの間に短い隊列の最後尾を回っていた佐々木が発進。あっという間に前を捲り切り,そのまま後続を突き放して優勝。新山を追った森田が6車身差で2着。守沢が1車身差の3着。
 優勝した神奈川の佐々木真也選手は5月の函館のFⅠ以来の優勝。グレードレースはこれが初制覇。このレースは真杉と新山の脚力が上位で,番手捲りを敢行できそうな新山を真杉が力で上回れるかが焦点とみていたのですが,真杉が思いもよらない作戦を選択したので,結果的に共倒れのようなレースに。このために伏兵だった佐々木の渾身の一発が決まったというレースでした。佐々木はまだFⅠでも2回しか優勝していないのですが,その2回がいずれも今年に入ってからで,少しずつ少しずつ力をつけてきていることは間違いないと思います。

 フロイデンタールJacob Freudenthalは,シュラーGeorg Hermann SchullerがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して『エチカ』の遺稿の買取りを打診しているという事実を重視して,このようなことはシュラーの独断ではできないので,遺稿集Opera Posthumaの編集者たちの間の総意として,スピノザの遺稿の売却というのがあったとみています。しかし後に編集者たちは考えを改め,遺稿集として出版することを決意しました。だから遺稿の売却も断ることになったということです。これもまた,シュラーとライプニッツの間の書簡のやり取りからの解釈です。
                            
 ただ,この説明には不十分なところがあります。編集者たちがなぜ考えを改めたのかがまったく説明されていないからです。編集者たちが遺稿の売却を考えたのは,スピノザの遺産からその発行のための費用が十分ではなかったからだとフロイデンタールはいっています。ということはその資金について何らかの目途が立ったから遺稿集の出版へと舵を切ったと考えるのが自然でしょう。しかしその目途というものがどのようなものであったのかということがまったく説明されていないので,僕はその点に疑念を感じてしまうのです。
 フロイデンタールの説明が示しているのは,もしシュラーが独断でライプニッツに対して遺稿の買取りを打診したのであれば,それは遺稿集の編集者たちの総意ではなかったということです。いい換えればその場合は,少なくともシュラー以外の編集者たちは,最初から遺稿集を売却しようなどというつもりは毛頭なく,それを何とかして出版しようと考えていたということになります。この路線で説明しているのが『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』です。もちろんこれはスチュアートMatthew Stewartによる創作が入ったものですから,史実がどうであったのかを確定するためにはあまり有益ではないという一面があります。しかしこのことに関しては,スチュアートがいっていることにも一理あるし,こちらの方が正しいのではないかと僕には思えるのです。
 ライプニッツがオランダを訪れて以降,ライプニッツとシュラーの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。だから少なくともシュラーは,ほかの編集者たちの知らないところで,遺稿の買取りを打診することはできました。
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長良川鵜飼カップ&差し押さえ

2024-09-24 19:02:32 | 競輪
 岐阜記念の決勝。並びは青野‐小原の神奈川,深谷に三谷,村田‐笠松の中部,松浦‐阿竹の中四国で坂井は単騎。
 スタートは笠松と小原で取り合い。外の小原の方が誘導の後ろに入って青野の前受け。3番手に村田,5番手に松浦,7番手に深谷,最後尾に坂井で周回。残り3周のバックから深谷が上昇していくと,坂井も続きました。誘導との車間を開けていた青野が突っ張ると深谷は引きました。切り替えた坂井が笠松の後ろの7番手に入り,深谷が8番手の一列棒状になって打鐘。ここから村田が発進。これが猛スピードで笠松が離れ,青野も追うことができなかったので大逃げに。青野が第二先行のようなレースに。バックから深谷が捲っていきましたが,その前に松浦も発進。直線にかけて徐々に逃げる村田との差が詰まっていき,差し切った松浦が優勝。深谷も外から届いて半車身差で2着。大逃げの村田が半車輪差の3着に残り,深谷マークの三谷がタイヤ差で4着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は2月末から3月初めのの玉野記念以来の優勝で記念競輪21勝目。岐阜記念は一昨年に優勝していて,昨年は実施されなかったので連覇となる2勝目。このレースは近況から深谷が有力とみていましたが,位置取りの関係で松浦が逆転。このところ怪我なども多く明らかに不調だったのですが,これが復調の契機となるかもしれません。復調すれば脚力は記念競輪ならいつでも優勝候補でしょう。単騎になってしまいましたが村田はいいレースをしたと思います。

 繰り返しになりますが,スペイクと面会したレベッカRebecca de Spinozaは,自身がスピノザの遺産の相続人であると申し出ました。しかしレベッカが葬儀費用と借金の前払いを承諾しなかったので,スペイクは公正証書を作らせ,その証書を基にレベッカにその代金を請求しました。正確にはレベッカとダニエルDaniel Carcerisに請求したのです。ところがレベッカもダニエルもその請求に従いませんでした。これが法的に問題なかったのかどうかは分かりません。ただ,相続した遺産が葬儀費用および借金を上回れば,それを支払うことはできるわけですから,先に相続できる遺産の額をレベッカが知りたかったという点は,理解できないわけではありません。したがってレベッカは,もしも葬儀費用と借金を支払った後に残る遺産の額が僅かであったり,むしろ支払わなければならない額の方が多くなった場合には,当初から遺産を相続する権利そのものを放棄するつもりであったものと僕は思います。
                            
 レベッカが請求を拒絶している間に,スペイクはハーグDen Haagの裁判所から,スピノザの遺品を公売所で競売に出す権限を与えられました。なので実際に多くの品物を競売に付しました。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaによれば,この競売が行われたのは1677年11月4日であったとされています。つまりスピノザが死んでから9ヶ月弱後のことになります。レベッカとダニエルが請求に応じなかった期間というのも,それと同じだけのものであったと考えてよいでしょう。この競売の売上金はスペイクに届けられたのだけれども,その場でレベッカに差し押さえられたと書かれています。これがどういう意味なのかも分かりません。文章の全体からは,スペイクが依頼して公売所で競売が行われ,その売上金がスペイクの家に届けられたというように読めるのですが,その届けられた売上金をレベッカが差し押さえたのだとすれば,スペイクの家で差し押さえたということになりますが,そんなことが可能なのかとても疑問に思えるからです。したがって差し押さえたということの意味は,その売上金をスペイクが使うことを禁止したとか,そのような法的命令を用意してスペイクに伝達したというようなことなのかもしれません。
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共同通信社杯競輪&年金

2024-09-16 19:11:49 | 競輪
 宇都宮競輪場で行われた第40回共同通信社杯競輪の決勝。並びは真杉‐恩田の関東,郡司‐深谷の南関東,古性‐南の大阪,山崎‐北津留‐荒井の九州。
 真杉,古性,郡司,荒井の4人がスタートを取りにいきました。枠なりに真杉の前受け。3番手に古性,5番手に郡司,7番手に山崎の周回に。残り2周のホームを出てから山崎が上昇開始。古性が合わせて動き,真杉の前に出てさらに外から山崎が叩いて打鐘。山崎ラインに続いていた郡司が打鐘後のコーナーで発進。ホームで山崎を叩いて先行。山崎は深谷のインで粘ろうとしましたが,バックに入って深谷が番手を守りました。ここで山崎の番手から北津留が発進。荒井が離れたので古性が北津留を追い,さらに真杉が古性を追う形に。北津留が郡司を捲って先頭で直線に。古性が抜きいくとさらに外から真杉が伸びて優勝。古性が半車身差で2着。真杉マークの恩田が大外から伸びて半車輪差の3着。北津留は4分の1車輪差で4着。
 優勝した栃木の真杉匠選手はサマーナイトフェスティバル以来の優勝でビッグ4勝目。地元となる宇都宮では昨年の記念競輪を勝っています。このレースは山崎の先行が有力でしたが,深谷の前を回った郡司の先行も十分に考えられたところ。先行争いとはならずに郡司の先行となりましたが,これは周回中の位置取りからそういう展開になったというところ。古性がうまく北津留の後ろに入ることができて,展開的には絶好でしたが,北津留の発進がやや早かった分だけ,追ってきた真杉に逆転されたというレース。荒井は北津留の後ろを,南は古性の後ろを守れなかったのですが,そこは真杉や古性の力が上だったということだと思います。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの遺産相続および年金支給の件が,あたかもスペイクの目前で行われたように書かれています。しかしそれはあり得ません。フリースは1667年に死んでいて,スピノザがスペイクの家に住むようになったのは1670年になってからだからです。スペイクとフリースを繋ぐのはスピノザだけですから,フリースとスペイクが顔を合わせたことはなかったと解するべきです。
                            
 ただし,フリースの死後にスピノザがフリースの遺言によって年金を贈られていたということは,スペイクは知っていたと思われます。フリースとスピノザの関係は,家の貸し手と借り手の関係ですから,スピノザに一定の収入がないのであれば,家を貸すということはできません。ですからスピノザは自身の収入源が何であるかということについてスペイクに話した筈であり,その中にフリースからの年金が入っていたものと思われます。つまりスピノザがフリースからの年金を受け取っていたということは事実なのであって,しかしそれが決定されたのがスペイクの目前であったというわけではなかったというように解するのが適切でしょう。
 前もっていっておいたように,スピノザの葬儀が執り行われたのは2月25日です。スペイクは葬儀代だけでなく,その他諸々の代金を肩代わりして支払ったということが,コレルスJohannes Colerusの調査によって明らかになっています。たぶんリューウェルツJan Rieuwertszがスペイクに送ったものは,そうしたものも含んだ分であったと思われます。
 スピノザの葬儀には6台の馬車が随行し,多数の名士が葬列に加わったとされています。この部分は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の中で,みすぼらしかったとされるライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの葬儀と比較されている部分の根幹をなします。ただ,スペイクはスピノザについては誇張してコレルスに伝える可能性があるのですから,そのまま信じていいのかは分かりません。ただ,この時点でまだスペイクが生きていたように,スピノザの葬儀に参列した近隣住民で存命の人がいたでしょうし,葬儀に参列しなかったとしても,それがどの程度の規模のものであったのかを知っている人もまだ生きていたでしょう。
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平安賞&共有

2024-09-08 19:07:05 | 競輪
 向日町記念の決勝。並びは脇本に武藤,窓場‐山田の京都に大森,清水‐松岡の西国で大槻と松谷は単騎。
 大森がスタートを取って窓場の前受け。4番手に脇本,6番手に松谷,7番手に清水,最後尾に大槻で周回。残り3周のバックの半ばから清水が上昇を開始。大槻も続きました。清水はコーナーで脇本の外に並び,そのまま併走。バックの手前からそのまま発進し,窓場を叩いて打鐘から先行。最後尾になってしまった松谷が内を進出。ホームで大槻の後ろに入りました。バックに入って窓場が発進。後方から脇本も捲ってきて捲り合戦に。大槻はインを突きましたが松岡と接触して直線の入口で落車。窓場が一旦は先頭に立ちましたが,大外の脇本が僅かに差し切って優勝。窓場が8分の1車輪差で2着。この両者の間に進路を取った武藤が4分の3車身差の3着でその外の山田が4分の3車輪差で4着。脇本よりも外を回った大森が半車輪差で5着。
                            
 優勝した福井の脇本雄太選手は福井記念以来の優勝で記念競輪15勝目。向日町記念は2021年2022年に優勝していて2年ぶりの3勝目。このレースは窓場と脇本が別々に戦うことを選択したので,あまり強固なラインが結成されませんでした。清水が先行するのは意外な展開でしたが,前受けした窓場にとっては悪くなかったと思います。松谷に入られてしまったのはたぶん誤算で,その分だけ発進のタイミングはやや遅れてしまったかもしれません。それでもやや離れた後方から前をまとめて捲り追い込んでしまった脇本が強かったというほかないでしょう。別々に戦ってワンツーですから,その選択も悪くなかったといえそうです。

 書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六は編集者たちの手許に残りましたので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。ただしこれら3通は,宛先が伏せられて掲載されたのです。当然ながらこれはフッデJohann Huddeに対する配慮であって,宛先を示してしまえば書簡の内容からフッデとスピノザの間で書簡を通しての交流があったということが明るみに出てしまい,フッデの要望を満たすことができなくなります。だから宛先を伏せた上で,編集者たちはこれらの書簡を遺稿集に掲載したのです。これは実際に有効だったのであって,これらの書簡はスピノザがホイヘンスChristiaan Huygensに出したものであると想定されてきた歴史があります。
 フッデに対する配慮はほかにもあったのですが,それは後で説明します。僕の考えでは,フッデに対する配慮がこのように行き届いたものとなり得たのは,フッデの要望がどういうものであるかということについて,編集者たちの間で共有されていたからです。編集者たちがどのような役割をもっていたのかは分からないのですが,それぞれの編集者がそれぞれの役割を果たすことによって,スピノザとフッデとの関係が分からないような形で遺稿集の発刊が可能になったのだと僕は思うのです。
 フッデと同様の要望を有していたのがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizです。ライプニッツに対しても編集者は配慮をしています。
 書簡四十五書簡四十六を読むと,スピノザとライプニッツとの間で哲学や神学を巡る書簡上の議論があったことが推測できます。また現にそういう議論が交わされたということは,書簡七十および書簡七十二の内容から確定的に史実として解してよいように思います。スピノザとライプニッツとの間で交わされた議論ですから,本来であれば遺稿集に掲載するに値する内容をもっていたということが容易に推測されます。ところがそれらの書簡は,何通あったかは分かりませんが,遺稿集には掲載されませんでした。また,そうした書簡があったことを確定させる内容の書簡七十と書簡七十二の2通も,遺稿集には掲載されていません。これはライプニッツがスピノザと交流があったことを秘匿したいと思っていて,編集者がそれを知っていたからだとしか思えません。
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瑞峰立山賞争奪戦ウインチケット杯&スペイク家

2024-09-02 19:23:46 | 競輪
 昨日の富山記念の決勝。並びは新山‐菅田‐守沢の北日本に内藤,石塚‐古性の近畿に井上‐香川の西国で吉田は単騎。
 古性がスタートを取って石塚の前受け。5番手に吉田,6番手に新山で周回。残り3周のバックに入ると石塚が誘導との車間を開けて待機。新山も吉田との車間を開けました。残り2周のホームから新山が石塚を叩きにいくと石塚も発進。新山が古性の横あたりまで上がったところで打鐘。古性の牽制はあったのですが,新山は屈せず,残り1周のバックで石塚の前に出ようかの勢い。古性が石塚と新山の間を突いて自力で動くと新山は一杯。古性マークの井上は古性に続けず,新山マークの菅田が古性にスイッチ。しかし古性が後ろとの差を広げて優勝。菅田の後を追った吉田が直線で菅田を差して1車身半差で2着。菅田が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手はオールスター競輪から連続優勝。記念競輪は5月の函館記念以来となる12勝目。富山記念は初優勝。このレースは石塚と新山のどちらが前受けするかが最初の焦点。枠は守沢の方が内だったのですが,発走後のスピードが違いすぎて古性が誘導の後ろに入ったため,石塚の前受けとなりました。石塚と新山では脚力には差があるのですが,前受けした石塚の突っ張り先行が残り半周くらいまでいきましたので,古性には有利に。狭いところを突いて自力を出さなければならなくなりましたが,古性自身には余裕があったように感じられました。脚力は上位で展開も有利でしたから,当然の優勝といえるでしょう。

 老いた鶏を用意したのがだれであったか定かでありませんが,とにかくスペイク家の家人,たぶんスペイクの妻はそれを調理してから礼拝に向かいました。午前中の礼拝が終わってスペイクが妻とともに家に戻ると,スピノザはそのスープを食していたそうです。午後も礼拝があったので,スペイク家の人びとは揃ってまた出掛けたとあります。
                            
 スペイクは妻とふたりで暮らしていたわけではありません。子どもがありました。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,おそらく1670年にスピノザがこの家に住むようになったとき,すでに3人の子どもがいて,さらに1677年までには4人の子どもが産まれたとありますから,早逝してしまった子どもがいなかったならこの時点で6人ないし7人の子どもがいたことになります。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaだと前日の予備の説教と,この日の午前中の礼拝はスペイクと妻だけで出掛け,午後の礼拝だけ一家総出で出掛けたと読めるようになっています。ただ実際にそうであったかは分かりません。最後の部分は,アムステルダムAmsterdamから来た医師とスピノザのふたりだけがスペイクの家に残ったことを強調するためにこのように書かれている可能性があるからです。とくに,1677年に産まれた子どもというのがこの時点でいたなら,この子は乳吞児ということになりますから,いくら教会に行くとはいえそういう子どもを残していくのは考えにくいように思えます。
 スペイクの一家が礼拝から家に戻ると,アムステルダムから来た医師がスピノザが死んだことをスペイクに伝えました。出掛けるときは老いた鶏を調理したスープを食していた人が,礼拝から終わって帰ったら死んでいたのですから,スペイクにとって,あるいはスペイク家の人びとにとって,これは驚くようなことであったと思われます。医師はスピノザが机の上に置いておいた金貨ひとつといくらかの小銭,それから銀の柄のついたナイフをポケットに入れて,そのままその日の夕方発の船でアムステルダムに帰ってしまいました。二度とスピノザのことを顧みなかったとされていますので,その後の葬儀にも顔を出すことはなかったとスペイクはコレルスJohannes Colerusに伝えたかったのでしょう。
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北条早雲杯争奪戦&コレルス

2024-08-27 19:00:50 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは新村‐北井‐松井‐郡司‐和田‐松坂‐鈴木の南関東,脇本に阿部。
 郡司がスタートを取って新村の前受け。脇本が8番手で周回。残り3周に入って脇本が鈴木との車間を開けると新村も誘導との車間を開けました。バックに入って新村が徐々にスピードアップ。誘導が退避する残り2周半から全力で駆けていきました。相変わらず鈴木と脇本の車間が開いての一列棒状でそのまま打鐘。ここから脇本が発進していきましたが,ホームの入口では北井が番手から発進。脇本も内に入ろうとした阿部も苦しくなりました。バックの出口から松井が北井を抜きにかかりましたが,北井が抵抗したので前に出るのにやや苦労しました。直線の入口では松井が前に出ましたが,番手の郡司が差し切って優勝。松井が半車輪差で2着。直線まで内を閉めて回った和田が2車身差で3着。北井が半車輪差の4着で地元勢の上位独占。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は2走前の川崎のFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースは2月の全日本選抜競輪以来の優勝で記念競輪はその直前の川崎記念以来となる20勝目。小田原記念は2016年,2018年,2019年,2023年と優勝していて連覇となる5勝目。このレースはラインの厚みが違いすぎるので,いかに脇本の脚力をもってしても苦しそうだと思えました。先頭を回る新村が経験の浅い選手だった点は不安でしたが,しっかりと自分の仕事をしたので,地元勢の争いになりました。このように走れるのであれば,前受けできた時点で優勝は地元勢から出ることが決定していたといっていいでしょう。松井が勝ちにいったところで北井も勝つための抵抗をした分,松井マークに回った郡司が有利になったということだと思います。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaを扱うときには気をつけておかなければならないことがいくつかありますので,それを改めて確認しておきます。
                           
 コレルスJohannes Colerusは1679年にアムステルダムAmsterdamにルター派の牧師として派遣されました。そして1693年にハーグDen Haagに移っています。スピノザがハーグで死んだのは1677年2月ですから,コレルスがオランダに派遣された時点ですでにスピノザは死んでいましたし,ハーグに移った時点では16年が経過していたことになります。したがってコレルスはスピノザと面識があったわけではありません。ですからコレルスが書いているスピノザの伝記は,コレルス自身が見たことではなく,コレルスが調査をした結果がすべてだったことになります。
 ハーグに移った時にコレルスが住んだのが,ウェルフェという寡婦がかつて住居としていた家です。スピノザはスペイクの家に移る前に,そこに住んでいたことがありました。ただウェルフェはこの時点で死んでいたので,コレルスはウェルフェからはスピノザについて何かを聞くことはできませんでした。しかし牧師としてハーグで活動し始めたコレルスのところに,スペイクが説教を聞きに来たため,コレルスはスペイクと知り合うことになりました。スペイクはまだスピノザの存命中から牧師の説教を聞きに行くことがあったようですから,牧師がコレルスに変わっても引き続き説教を聞きに行ったということでしょう。スピノザはウェルフェの家を出た後はスペイクの家に間借りしていたわけですから,スペイクはスピノザのことをよく知っていました。なのでコレルスはスペイクからスピノザのことを聞き取ることができました。つまりコレルスの伝記の主要部分は,スペイクからの聞き取り調査によって構成されています。
 スピノザは遺稿集Opera Posthumaが即座に発禁処分を科されたことからも分かるように,無神論者として悪名高き人物でした。なのでハーグに移る以前から,コレルスがスピノザのことを知っていたという可能性はあると僕は思っています。ところがスペイクから聞いたスピノザの様子は,とても無神論者から程遠いものであったので,たぶんコレルスは意外に感じたのではないでしょうか。
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