スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

よさこい賞争覇戦&記名

2024-04-15 19:14:09 | 競輪
 昨日の高知記念の決勝。並びは新山‐佐藤‐永沢の北日本,犬伏‐清水の四国中国,阿部‐大坪の九州で坂井と深谷は単騎。
 犬伏と阿部がスタートを取りにいき,犬伏が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,5番手に新山,8番手に深谷,最後尾に坂井で周回。残り2周のホームの出口から新山が上昇を開始。しかし犬伏が突っ張りました。この間に深谷が大坪の後ろに入り,坂井も続いたので,引いた新山が7番手になって打鐘。バックに入って深谷が発進するも,スピードが鈍く,前に届く前に犬伏の番手から清水が発進。清水マークのようなレースになった阿部が外から清水を差して優勝。清水が4分の1車輪差で2着。3着は接戦でしたが,深谷に乗る形になった坂井が1車身半差の3着。深谷がタイヤ差で4着。
 優勝した大分の阿部将大選手は2月の前橋のFⅠを完全優勝して以来の優勝。一昨年3月の土佐水木賞以来となるGⅢ2勝目。記念競輪は初優勝。犬伏が前で受けて新山を突っ張るというのは僕にとっては意外な展開でした。深谷と坂井が北日本ラインの後ろを回っていたのは,新山が先行するとみていたからだと思います。犬伏が突っ張ったところで上昇した判断はよかったと思いますが,事前の想定とは違った展開だったのではないでしょうか。清水にとっては有利な展開でしたが,高知は直線が長いので,自力があって清水マークになった阿部が絶好になったというレースだったと思います。GⅢの2勝がいずれも高知ですから,高知は得意バンクといえるのかもしれません。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが所持していた『エチカ』の草稿に,スピノザの名前が書かれていなかったのは,それが他者の手に渡ってしまったときの危険性を低下させるためではあったでしょう。ただスピノザは,『エチカ』を発刊することがあったら,著者名を付す必要ないと考えていたのも事実です。もちろんそれは,かつて『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を出版したときのように,作者を特定されない目的があったかもしれませんが,スピノザ自身の哲学的な考え方も影響しています。哲学のように真理veritasを明らかにすることを目的とするなら,著者名は不要というのがスピノザの考えだったのです。なぜなら,真理は唯一なので,それはだれが書いたとしても同じになるからです。スピノザの哲学の特徴のひとつとして,主体の排除というのがあるということは何度もいっていることですが,その主体の排除の考え方に従えば,『エチカ』に著者名は不要という結論になるのです。
                                   
 チルンハウスからステノNicola Stenoの手に渡った『エチカ』の草稿は,だれが書いたものであるという記名がありませんでした。ステノは中身を精査して,1677年9月23日付で,弾劾書を付した上でその手稿をローマの異端審問所に持ち込みました。この結果として『エチカ』は禁書目録に登録されました。それと同時にステノが提出した『エチカ』の手稿は証拠物件として異端審問所の文書保管庫に留め置かれることになったのです。前もっていっておいた通り,それは後にヴァチカン図書館に移され,2010年にスプラウトによって発見されることになるのです。
 ステノは内容を精査して『エチカ』の手稿を異端審問所に持ち込んだのですが,だれが書いたものか分かっていたのか分かっていなかったのかは不明です。ただ,ステノはチルンハウスがスピノザと親しいということはおそらく知っていたのではないかと思われますし,書簡六十七の二の内容から,スピノザがどのような思想家であったかということも分かっていたと思われます。ですからだれが書いたものであるのかまったく推測もできなかったということは僕には考えにくいです。少なくとも著者がスピノザであることに,うすうすは気付いていたでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする