スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

燦燦ダイヤモンド滝澤正光杯&謬見

2024-08-04 19:17:46 | 競輪
 松戸記念の決勝。並びは平原‐阿部の東日本,新村‐深谷‐岩本‐和田の南関東,取鳥‐清水‐月森の中国。
 清水がスタートを取って取鳥の前受け。4番手に平原,6番手に新村で周回。残り3周のホームから新村が上昇。平原が一旦は牽制しましたが,コーナーで新村が外を乗り越え,バックで取鳥を叩いて前に。取鳥は後ろまで引かず,深谷の内での競りを選択。その後ろも清水と岩本の競りになりましたが,この競りはホームであっさりと清水が奪い,岩本は後退。バックに入ると平原が踏み込み,打鐘で新村を叩いて先行。ずっと取鳥の外を並走していた深谷がバックから発進しようとしましたが,さすがに力が残っていませんでした。競りの後ろにいた清水が深谷の外から捲っていくと,楽に捲り切り,後ろを突き放して優勝。マークしきれませんでしたが何とか追ってきたマークの月森が3車身差で2着に流れ込み,中国ラインのワンツー。月森を追うような形になった和田が4分の3車身差で3着。
 優勝した山口の清水裕友選手は2月の静岡記念以来の優勝で記念競輪12勝目。松戸記念は初優勝。このレースは新村の先行が有力。経験は浅い選手なのでうまく駆けられるかが不安だったのですが,叩くことには成功しました。取鳥は前受けが作戦だったようですから,飛びつきは予定だったのでしょう。これで隊列が短くなったのですが,平原が打鐘から叩いて先行していくのは意外でした。清水はあくまでも取鳥マークのレースを続けていましたが,バックで見捨てて自力で発進。脚力は深谷と並んでこのメンバーでは上位ですから,深谷が脚を使ってしまった以上,快勝になったのも自然だと思います。南関東ラインを苦しめるような作戦を選択したのもうまくいきましたし,簡単に岩本の位置を奪えたことが最大の勝因となりました。

 『国家論Tractatus Politicus』の第七章第二七節では,人間に内在する様ざまな悪徳を庶民だけにみられるものとしている人びとが批判されています。これは人間の共通の本性essentiaという観点からの批判です。すなわち人間に共通の本性はひとつですから,それは本当はすべての人に共通するのです。したがって様ざまな悪徳が帰せられなければならない人びとと,そのような悪徳を帰さずともよい人びとが存在するわけではありません。もし庶民に悪徳がみられるのであれば,庶民を支配する支配者にもそうした悪徳はみられるといわなければならないのです。ところが僕たちは,たとえばXをなすことはAという人間には許されるけれどBという人間には許されないという見方をします。これはなす事柄が異なっているからそういわれるのではなく,なす人が異なっているからそのようにいわれるということは明白でしょう。支配者には傲慢がつきものなのであって,そうした傲慢さからこのようにいわれるのだとスピノザは指摘しています。
                         
 人間は理性的に生活するのが好ましいというのが『エチカ』の結論のひとつです。これと同じように,国家Imperiumも理性的に統治されるのが望ましいというのはスピノザの政治論の結論のひとつです。ですが,だから国家は常に理性的であるとは限りません。スピノザがいっているのは,国家が理性的に統治されることを目指すべきであるということにすぎません。なので,第二章第六節でいわれていることを,人間を国家と同様に理性的であるとみなす謬見を糾そうとしていると読解することは誤りerrorなのです。人間は常に理性的であるわけではありませんから,人間を常に理性的なものとみなすのが謬見であるというのは事実です。しかし国家が理性的なものであるとみなすのも謬見なのであって,それは国家の統治形態の目標であると解さなければなりません。
 ここで國分の考察を進める前に,僕の方から指摘しておきたいことがあります。國分が引用した『国家論』の第二章第六節では,多くの人びとは愚者は自然の秩序ordo naturaeに従うよりもこれを乱す者と信じているという意味のことがいわれていました。僕はこの部分だけを抽出していっておきたいことがあるのです。

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