スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

令和6年能登半島復興支援・ウィナーズカップ&真理のしるし

2024-03-25 19:28:46 | 競輪
 取手競輪場で行われた昨日の第8回ウィナーズカップの決勝。並びは北井‐深谷の南関東,窓場‐脇本‐古性の近畿,清水‐河端の山陽で坂井と伊藤は単騎。
 古性がスタートを取って窓場の前受け。4番手に清水,6番手に北井,8番手に伊藤,最後尾に坂井で周回。北井は残り2周のホームを出てから上昇。窓場も突っ張っていき打鐘から先行争い。北井は窓場を叩けず,脇本の外で併走しましたが,脇本が窓場の番手を守りました。この間に伊藤が単騎で発進。窓場を叩いて先頭に出ました。窓場が叩かれたので脇本は自力で伊藤を追い,さらに外から清水の捲り。伊藤が先頭のまま直線を迎えましたが,すぐに脇本が差してそのまま優勝。最終コーナーで北井を弾いて脇本に続いた古性が4分の3車身差の2着で近畿のワンツー。外を捲り追い込んだ清水が4分の3車身差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は昨年4月の武雄記念以来の優勝。ビッグは一昨年のグランプリ以来となる10勝目。このレースは前受けをした窓場が北井に叩かせなかったので,展開は有利になりました。かなりごちゃついたレースになりましたが,脚は最後まで残していたようです。昨年後半は負傷の影響もあり,本人としても不本意な成績だったかと思うのですが,この開催はよい内容のレースが続きました。復調してきているとみてよいかもしれません。

 たとえばデカルトRené Descartesは,明晰判明であるということを真理veritasのしるしsignumであると措定しています。しかしそれが本当に真理のしるしであり得るのかといえば,そうではあり得ないと國分は指摘しています。前述したような真理のしるしの無限遡行は,真理のしるしをどのように措定したところで,成立するといえるからです。この場合でいえば,明晰判明であるということを真理のしるしと措定するのであれば,それが確かに真理のしるしであるというしるしが必要で,明晰判明であることを真理のしるしと措定できるような何らかの事柄についても,確かにそれが明晰判明であることを真理のしるしであると措定しているしるしが必要だという具合に,無限に連鎖していくからです。
 スピノザの哲学で真理のしるしとされているのは,真理それ自身です。スピノザの哲学でいう真理とは,真の観念idea veraの総体のことを意味するので,このことは第二部定理四三から論証することができます。知性intellectusは自身が真の観念を有すると知っていれば,それを真理であると知ることができるので,それ以上のことは何も必要とされないからです。
 真理のしるしが真理それ自体であるということは,すでに『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の中に示されています。第三三節がそれに該当するのですが,そこでは,私すなわちスピノザが,何かを知っているということを知るためには,必然的にnecessario何かを知っているのでなければならないといういい方で示されています。これは『エチカ』のように,真理のしるしとされるものをはっきりと措定しているとはいえないかもしれませんが,自分が何かを確実に知っているのであれば,それだけで確実性certitudoは担保されているのだから,それ以上に何かを知るという必要はないという意味に解せます。したがって,何かについて確実であるということはそのものの真の観念を有するということにほかなりません。これはそのものの真の観念を有するということが真理のしるしなのであって,確実性のためにそれ以上のことを知る必要は何もないということになりますから,確かに『知性改善論』を執筆している時点で,スピノザは真理のしるしというのは真の観念自体であると考えていたのです。
コメント
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