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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (2)

2023-05-08 08:20:21 | 史料

忠興文書-元和四年(1618年)

162、六月二日書状
 ・来年江戸城本丸普請ノ延期、献上石ハ廻送ス
 ・馬島大法院ノ療治ヲ受ケテ症状悪化ス、再ビ大坂ノ眼醫師ヲ招ク
 ・田中忠政(柳川藩)家中ノ紛争ハ別儀アルマジ
 ・堀親良ゟ竹五十株ヲ贈ラル

163、六月廿六日書状
 ・小倉・中津両城ノ普請ノ許可ヲ受ク
 ・秀忠来年上洛 ・牢人衆赦免ノ書立、石川康長ハ除外
 ・福島正則廣島城普請
 ・島津義弘危篤
 ・曽我尚祐煩散々
 ・木下延俊江戸著ノ由
 ・普請奉行山岡景長・小澤忠重改易・・秀忠上洛ノ宿割ノ不首尾
 ・再来年江戸城本丸普請
 ・大坂ノ眼醫師ノ治療ニテ験ヲ得

164、七月朔日書状
 ・忠興母光壽院病ム・・くるしかるましきやうニ
 ・忠興ノ眼病験氣ヲ得
 ・秀忠光壽院ノ病ヲ問ハシム  (光壽院ハ江戸證人である)

165、七月十日書状
 ・忠興母光壽院ノ病気見舞ノタメ十三日出立ノ予定
 ・秀忠ヨリ病気見舞ノ御内書ヲ受ク
 ・中務(忠興弟・孝之)早出立ス
 ・自身病気ノタメ道をはやくありき候事成間敷候、光壽院ノ病状報知ノタメノ早打ヲ下ス

166、七月十日書状
 ・筑前往還ニツキテノ書状ヲ土井利勝ニ示スベシ

167、七月廿五日書状
 ・十三日小倉ヲ出船ス、仕合悪風むかひ風ニテ難渋、十六日二中国地ニ取付ケドモ室マデ参事不成躰
 ・母ノ臨終ニ間ニ合ハズトモ訃報アル迄ハ下向セン
 ・葬禮ノ指示
 ・眼病再悪化

 (7月26日忠興母光壽院(沼田麝香)死去、77歳)

168、八月二日書状(曽我又左・谷羽州・内記・玄蕃・木右衛門太 宛)
 ・光壽院危篤ノ報 七月廿九日京都吉田ニ到着(下々一人モ著不申)
 ・土井利勝忠興ニ帰国ヲ指示ス
 ・我等心中御推量候而可被下候

169、八月十八日書状
 ・光壽院没す
 ・秀忠光壽院ノ死ヲ弔シ且ツ御目見衆ノ對面ヲ止ム
 ・弔問ノ諸家ヘノ挨拶
 ・光壽院殿大事ノ物御入候長持ニ鍵
 ・光壽院ノ画像ヲ描カシム
 ・法事後上洛シ吉田ニテ眼病ノ治療セン
 ・来年秀忠上洛ニツキ替米ヲ望ム者アラバ才覚スベシ
 ・再来年江戸城本丸普請ノ石ノ用意
 ・小判五百両ヲ使者ニ託す

170、八月十八日書状
 ・秀忠光壽院ノ死ヲ弔シテ七日間碁将棋ヲ止ム
 ・弔問ニ一色範勝ヲ小倉ニ遣ス

 

 

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■肥後熊本藩士中村家伝来 頭立付越中具足

2023-05-08 06:22:09 | オークション

   肥後熊本藩士中村家伝来 頭立付越中具足 陣羽織・陣笠付き *兜鎧甲冑武士戦陣弓刀鞍鐙鍔目貫縁頭大名侍

                                     

 このオークションはすでに終了している。時間切れか?出品者の言い値は1,800,000円とあり、それが肥後細川藩士・中村家の者と有るから驚いてしまった。
この家紋(丸に毬挟み紋)からすると、この中村家は、幽齋公から幼い忠興を預かり京に身を隠して育てた中村新助夫妻を祖とする200石取りのお宅である。
奥方は乳母であり、後には「大局」と呼ばれた。
まさに由緒あるお宅の甲冑一式、又時間をおいて出品されることであろう。

 中村新平  【青龍寺以来】(南東29-17)
    1、新助  
妻・忠興公御乳母(父藤孝公、義昭公御漂伯御供の折、町屋に隠れ御育永禄十一年
           御感賞、御乳を大局被仰付新助知行百五拾石、妻に百石被為拝領、二人共豊前病死

           
末娘ごう・・坂根長右衛門室    (綿考輯録-巻9 P6~)
    2、茂助 (養子 実・坂根長右衛門嫡子・茂介) 
           御馬廻組 二百石 
           
岐阜戦功吟味--首取申候衆次第不同  (綿考輯録-巻14 P257)
             与一郎様衆・中村茂助 新助子、忠興君御乳おとゝい也

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■地図を書く

2023-05-07 14:39:16 | 創作

             

 数日前から小説を書こうと思い立ち、原稿用紙に書きつけるではなし、直接パソコンを叩き始めようかと考えた。
ある若侍が歩いていると、右手の坂を赤い布を首に巻いた飼い猫が下ってくる様子をトップシーンにした。
桜が咲いているとか、菜の花や水仙が咲いているとか書こうと思うが、さてこれらの花はどんな順番で咲いていくのだろうと疑問に思ったら、これは途方もなく難儀な作業であることだと感じ始めた。
そして、主人公が歩く道筋や取り込む景色を理解するために周辺の簡単な地図を書いてみる。
遠くに見える小さな天守を持つお城の方角や、そこへ至る道筋、街の中に入り込むが街道の有様や侍の町、商人の町などをああでもないこうでもないと、書き始めるとタイピングどころの話ではなくなった。
ふと、藤沢周平の「海坂藩」の小説の「散策地図」を持っていたことを思い出し、まだダンボール詰めを免れている本棚をあせって何とか発見した。
いわゆる鶴岡の城下町が「海坂藩」な訳で、沢山の小説の舞台の場所が地図にプロットされている。
私が書こうとしている町は全くの仮想の世界だから、熊本の城下町をベースには出来ない。
海にも近いご城下で、何となく宇土の城下町が浮かんだりしてくるが、これとも違う。
前作の「桜守」のイメージも地図の中に入れなければならない。
ベッドに入るとこんなことばかりが頭をよぎり、眠りに就けない。なんとか地図が出来るころには、粗方の筋書きは出来上がればそれからようやくタイピング開始という感じである。
来月11日は引っ越しもせねばならぬ。さていつ出来上がるかはとてもお約束できるような話ではない。

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■松平播磨守宛細川綱利書状

2023-05-07 08:24:44 | オークション

          細川越中守書状幅

        

 宛先の松平播磨守とは松平頼重・水戸光圀の弟松平頼隆のことであろう。
細川綱利夫人・久姫は松平頼重女と紹介されるが、本当は実妹で養女である。つまり綱利は実質的には徳川頼房の聟であり、光圀・頼隆は義兄弟、光圀兄の頼重は養義父ということになる。
そういう間柄の中での書簡のやり取りである。「壽光院」とは綱吉の側室・大典侍(おおのすけ)のことか?お内証の使いという文言が気にかかる。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (1)

2023-05-06 09:36:26 | 先祖附

忠興文書-元和四年(1618年)

148、正月九日書状
 ・閏三月頃小倉ヲ出立セン
 ・肩衝ノ掘出物                                                           肩衝=肩が張った茶入れ                                                              
 ・竹千代西丸移徙ノ祝儀ト継目朱印ノ禮
 ・曽我尚祐煩気遣千萬ニ候

149、正月九日書状
 ・江戸屋敷ノ路地ノ植木

150、二月十九日書状
 ・拝領ノ若鷹ニ鶴ヲ鶴ヲとらせ献上
 ・忠興ノ眼病本復ノ望半バナリ

151、三月十九日書状
 ・忠利室(千代姫)ニ服薬ヲ勧ム

152、三月廿五日書状
 ・忠利室不食、吉左右待申候

153、閏三月二日書状
 ・二月七~八日時分ゟ目煩出
 ・同廿日時分ゟ両眼共ニ見え不申候事
 ・大坂ノ眼醫師ヲ招く
 ・京都ノ眼醫師ノ下向ヲ板倉勝重ニ依頼す
 ・江戸へ上ル覚悟候処ニ迷惑事付、京都ニテ療養セン
 ・先月廿日比迄ハ寝間ヲ出候事ナク、醫師サへモ寝間ニ呼申候コト、顔面腫ル
 ・(病の原因)今迄身ヲあらくあつかい聲高ニ候
 ・癪ヲ併発ス
 ・(母)光壽院ヘハ(病状を伏せ)本復ノ旨申送ル
 ・中津城石垣ノ修復

154、閏三月二日書状
 ・角石献上
 ・石灯篭献上
 ・黒田長政来年江戸城天守普請ノコトヲ内聞シ石ヲ献上ス

155、閏三月廿四日書状
 ・秀忠使者ヲ小倉ニ遣シテ忠興ノ眼病ヲ問ハシム
 ・推量之外草臥

156、四月朔日書状
 ・尾張馬島ノ大法院ヲ眼病治療ノ為招ク
 ・秀忠ヨリノ見舞ニ禮使ヲ遣ス
 ・秀忠へ袷ヲ献上ス
 ・寺澤家中ノ眼醫師ハ唐津ニ戻ス

157、四月朔日書状
 ・小倉・中津両城大雨ニテ破損ス
 ・溜池ノ石塘等事之外損

158、四月朔日書状
 ・忠興、江戸光壽院屋敷ノ土居ニ小唐竹ノ薮ヲ仕立ントス・・いかにもやせたる小藪か能
 ・土居下ノ水付ニハ柳ヲ植ウベシ

159、四月三日書状
 ・曽我尚祐ノ病ハ半井驢庵ノ薬ニテモ験ナシ
 ・全齋ノ投薬ニツキ懸念ス

160、四月廿三日書状
 ・忠利室千代姫快方ニ向フ

161、五月廿一日書状
 ・千代姫懐妊、京都ノ産醫板坂大膳亮ヲ同船下向スベシ

 

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■「肥後の西郷」は池辺吉十郎には非ず

2023-05-06 07:25:52 | 人物

                   
 司馬遼太郎は「大兵」ぶりから、池辺吉十郎を「肥後の西郷」と呼んだらしいが、それは間違いだとされている。
       ■司馬遼太郎が間違ったと思われる一節

昨日図書館で見つけた「池辺吉十郎の写真」だが、「大兵」という印象は薄い。
身体がでかく、京都公用人(留守居役)を勤めたのは上田久兵衛だとされるのは、鈴木喬先生や西末喜先生である。
司馬先生は事実誤認をしておられるというご指摘であった。だからと言って、上田久兵衛を「肥後の西郷」と呼ぼうというのではない。
久兵衛はとばっちりを受けて、西郷の一味扱いにされて首を跳ねられた。


              
          各藩の京都留守居の宴会の席で、裸でつっ立っているのが上田久兵衛である。

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■街角の風景ー家族が増えた鯉のぼり

2023-05-05 18:40:05 | 熊本

              

 先に健軍川の鯉のぼりを御紹介した。今日は図書館に出かけようと、ここを通りかかって「おっ」と思わず声が出てしまった。
10疋ほどだった鯉のぼりが10倍以上に増えていた。
もう少し早く気付いていればTV局か新聞社に連絡できたのに、もうニュースソースとしては遅かった。
帰りがけに写真を撮ろうと思いながら、違う道を帰ったために忘れてしまい、帰宅後気付いて慌てて出かけて陽が沈む前に何とか撮影。
子供さんを連れた方が見入って居られたので、離れられたタイミングで撮影しました。

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■今日は子供の日ですから「たった一枚の写真」

2023-05-05 16:44:24 | 自分史

                  

 昭和28年の熊本大水害で、大切な写真のほとんどが流失した中で、私の手元に唯一現存する、生地・東京市小石川区高田老松町69番地、広大な細川邸内の職員住宅(?)あたりでの写真である。昭和19年に熊本に帰る直前でもあろうか?
東京市から「健康優良児」で表彰された「ううあたま(大頭)」の私だが、身体が大きくなるにつれて頭も同様に育ったらしい。
引っ越し荷物を整理している中で見つけ出し、スキャンして保存した。

 

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■吉原実氏論考御紹介ー『隔冥記』に現れる勧修寺家と飯山佐久間家の交わり(2)

2023-05-05 16:12:35 | 先祖附

寛永二十年(一六四三)
 正月二十日

「今日江間紹以依赴河内北條久太郎公、而書状言傳也。伊藤長兵衛筆書扇子一本、投于北久太公也。」
 河内に江間を遣わし、北条久太郎に正月の礼として伊藤長兵衛筆書の扇子一本を贈る。
(伊藤長兵衛は当時の著名な絵師である)

寛永二十一年・正保元年(一六四四)
 三月二日

「今曉自江戸、書状來、予姉光壽院殿之訃音、驚肝膽也。光壽院逝去之儀二付、自新庄新三郎殿、飛脚來。」
 朝早く、江戸よりの書状が届く。姉、光寿院殿の訃報なり。肝が潰れるほど驚いた。新庄家よりも書状が届く。
(我が家の菩提寺である近江高島・幡岳寺の過去帳には寛永二十年二月二十日が命日と書かれている。一年の違いがあるが、過去帳の写し間違いと考えられる。東京高輪・広岳院の過去帳には、正保元年二月二十一日と書かれていて、この日記と一致している)

 三月十五日
「光壽院殿之儀二付、佐久間備前殿之息女池田下總殿之後室乾徳院殿之飛脚也。昨日飛脚今日於晴雲軒、認返翰、渡飛脚也。」
 光寿院殿の儀に付き、佐久間備前殿息女、池田下総殿の後室、乾徳院殿の飛脚が来る。晴雲軒で返書を認め飛脚に渡す。
(姪からの書状への返書を書いた。晴雲軒は相国寺内の庵)

 五月二十三日
「加州前田肥前守殿之内、宮木内贓允書状來、藜杖壹本被恵之也。自芝山内記公、被相届也。」
 加州前田肥前守殿の家臣、宮木内蔵允から書状が来る。藜杖一本を贈りたいとの事。芝山内記が持参する。
(加賀藩四代藩主・前田光高の家臣の手紙で、アカザの茎でできた杖を贈るとの事。アカザの茎は硬く丈夫だが大変軽いもの。そのゴツゴツした形状が胡桃のように、手の神経を常に刺激して中風の予防になると信じられていた。宮木内蔵允は光高の御傍衆で五百石取りの者)

 六月十三日
「明智日向守秀岳居士諷経、如例年。」
(明智光秀の為の読経を例年この日にしているそうである。光秀の命日であるが、何か特別な所縁でもあるのであろうか。本能寺ノ変の時に現場にいた父である晴豊の意向だったのかも知れない。晴豊は本能寺ノ変の後、光秀の娘を匿ったと言われる)

 六月十七日
「自河内、北條久太郎公之内、佐久間晴左衛門書状來、品川海苔壹箱恵之也。」
 北条久太郎の家臣である佐久間清左衛門の書状が来て、品川の海苔を一箱贈るとの事。
(江戸品川の海苔は高級なものだったのか)

 七月九日
「光壽院殿之被召使古川仁左衛門、自江戸、上洛仕。爲光壽院殿之吊、登高野山也。其次光壽院殿之爲遺物、三色自江戸也。江間紹以爲案内者、古川仁左衛門來于晴雲軒、相逢也。於芝山大膳公娣、而自光壽院殿之遺物來。蒔繪文箱壹ケ・物語料紙貮部來。爲持、相届也。明朝於北山、來古川仁左衛門可振舞之旨、申談也。予今晩歸山也。」
 光寿院殿の召使古川仁左衛門が江戸から上洛。高野山からの帰りに来訪。光寿院殿の遺物を持参する。相国寺の晴雲軒で会う。芝山大膳公とも会う。遺物は蒔絵文箱一個、物語料紙ニ部也。仁左衛門を振舞う。
(高野山にある光寿院の墓に参り、その帰りに家臣が和尚に会いに来た。光寿院の形見分けをして行ったようである。芝山大膳とは、和尚の兄・光豊ので勧修寺。光寿院の甥。芝山家は、この宣豊を初代として代々歌道の家となり明治維新後に子爵となる)

 十日
「朝、自江戸、來古川仁左衛門振舞也。爲案内、江間紹以亦招也。於書院、相伴、點濃茶、而歸。則返書共遺渡之也。其次、袴・肩衣壹具遺古川仁左衛門也。仁左衛門今日赴西賀茂之北川左兵衛所。依然、案内者相添、遣也。自西川忠味、索麺一折五把、爲盆之柷儀、被恵之也。黄昏能喜來過。自懐中、小食籠取出、持参雲門・肴被恵之。乗月、而擧一盋、打談也。」
 仁左衛門に返書と袴、肩衣一具遣わす。仁左衛門今日は西賀茂の北川左兵衛の所に逗留。
(和尚は祝儀や、色々な土産を持たせ楽しい時間を過ごしたようである)

 九月十七日
「予所持之貫之筆之大色紙之掛物、北條久太郎公借用支度之由、依懇望、令許借也。卽於江間紹以所、而爲持、遣之也。自江紹以、於北條久太郎公、而相届也。掛物之箱者、不遣也。」
 明日の北野での能会の為に、北条久太郎公に江間を通して紀貫之筆の大色紙を貸す。
(紀貫之の色紙とは、佐久間将監が大徳寺の塔頭・寸松庵に持っていた物と関係あるのであろうか)

 十月二十七日
「晴天、風吹也。天壽院殿贈内府路岩眞徹尊儀之三十三白之遠辰也。予家兄也。大納言光豊卿也。於晴雲軒、小齋也。」
(和尚の兄、大納言・勧修寺光豊の三十三回忌の法要を行ったようである。光豊は父である晴豊の後を継ぎ、後陽成天皇の武家伝奏を務めていた。は神事の一つ)

 十二月八日
「晴雲院殿之正當之月忌故也。」
(和尚や光寿院たちの父である勧修寺晴豊の正月命日。我が家の菩提寺である近江高島の幡岳寺の過去帳にも八日と書かれている。慶長七年十二月八日五十九歳で亡くなっている。後陽成天皇の叔父で、誠仁親王の義兄にあたる)

正保二年(一六四五)
 正月十六日

「自豊後之久留嶋丹波守殿、書状來。大竹壹本來、花筒之竹也。至河内之北條久太郎公、而來、自北久太公、竹被相届也。江間紹以相届也。於晴雲軒、見之也。大竹壹尺一寸九分有之也。」
豊後の来留嶋丹波守から書状と共に大竹が一本送られてきた。花筒用の竹なり。河内の北條久太郎からも竹が来る。江間が届けて来た。
晴雲軒で見ると、一尺一寸九分の大竹なり。
(三十五センチ位の竹だから大竹とは太さの事であろう。丹波守は佐久間安政の娘で、和尚の姪が嫁いでいた豊後森藩二代藩主・通春のこと)

 二月二十一日
「光寿院殿之小祥忌也。北条久太郎公内梶原大學、佐久間清左衛門兩人上洛被仕。」
(光寿院の一周忌。河内狭山藩・北条氏の二人の家臣が上洛。命日には幡岳寺の過去帳と一年と一日のずれがある。過去帳の写し間違いだと思われる)

正保三年(一六四六)
 正月十二日

「北条久太郎内、自佐久間清左衛門方、守口漬香物一桶被恵之也。」
北條の家臣・佐久間清左衛門より守口漬を一桶戴く。
(当時より守口漬は河内の名物だったようである)

 七月二日
「中和門院十七年之御忌御正之月也。」
(中和門院の十七年の正月命日。中和門院は後水尾天皇の母で、後陽成天皇の女御。近衛の娘の前子。和尚の母・寿光院は前久の姪にあたる。しかし、この時代の女性は名が付けられていないのか記録や系図を見るととだけ書かれている事が多い。武家などは院号(戒名)しか判らない。高貴な公家などの娘には名が与えられていたようであるが、それも父からの一字を取って付けられている。この場合も、サキコかゼンシと読むようである)

正保四年(一六四五)
 五月八日

「嵩陽寺殿秀山大居士例年経詠。今年至大坂陣、三十三年也。内大臣秀頼公三十三遠忌也。今年牌前盛物十六ケ也。
(大坂ノ陣から三十三年。豊臣秀頼の三十三回忌の供養を行っている。公家多数と狩野探幽も列席している)

 十一月八日
「自芳春院、能登干瓢一折十把被恵也。名物也。白玉椿一輪是叉被恵之也。」
(紫野・大徳寺の加賀藩所縁の塔頭・芳春院の二世である玉舟宗番から、能登名物の干瓢と椿の贈答品。宗番は慶安三年二月には大徳寺の住持となる)

 十二月二日
「今日、於大徳寺延壽堂、有切腹之者也。長岡三齋公之者、三齋公之追腹也。三齋公大祥忌也。浮津彌五左衛門云仁也。」
(細川忠興の三回忌に、家臣だった者が墓前で殉死したようである。寛文三年(一六六三)に武家諸法度により殉死は禁止されたが、その後も見られたので、天和三年(一六八三)には完全に禁止された)

慶安元年(一六四六)
 四月五日

「池田新太郎殿金閣為見物、當山來過之由、為案内者、出宗閑也。」
(新太郎は備中・岡山藩主・池田光政の事である。和尚の姪(安政・光寿院の娘)が備中・松山藩主・池田長泰の後室だった)

慶安二年(一六四七)
 正月二十八日

「江戸北袋・市袋・桑山修理太夫殿江遺書状、江間紹以所迄遺之也。如例年、年玉共遺之。」
(姪やその子への例年の新年の挨拶とお年玉を江間に持たせている)

慶安三年(一六四八)
 十一月二十九日

「自江戸、書状來、如例年、従北条隋光院、綿子、従毛利清光院、絹一疋幷白綿子百目被恵之也。」
(安政と光寿院の娘で、北条氏宗の母と毛利高直の母から贈り物があった様子。どちらの名も判明していなかったが、今回初めて院号を知る事ができた)

 十二月十日
「河村源介相尋。扇子二本入箱恵之。予相対。以錐亦被出、被逢、吸物浮盃也。源介今者浅野内匠頭殿之内奉公仕之由也。先年佐久間日向守小性也。」
(佐久間日向守とは飯山二代藩主の安長。三五郎安次の父である。安長は寛永九年四月に二十二歳で亡くなっている。その小姓をしていた源介は、播州赤穂藩の浅野内匠頭長直に再仕官したようである。寛文元年(一六六一)の赤穂城築城の折りの奉行に、その名が見られる。この後に、三代藩主の長矩が江戸城内・松ノ廊下で刃傷事件を起こすのである。以錐とは相国寺の住持・)

慶安四年(一六四九)
 正月十日

「今日英春院殿光月如心大禅尼五十年忌也。予娣、号御才也。」
(和尚の妹との注記であるが年代的に合わない。他の呼び方のである正親町三条室の五十回忌の日であろう)

 六月二十四日
「江戸着。北条久太郎殿、乗馬侍共々高井戸迄來。自戸塚四郎左衛門先鋒遺江戸。久太郎家老・寄船越外記長屋、至久太郎屋敷。有随光院振舞。」
(和尚たちが江戸に着いたようである。河内狭山藩主・北条氏宗の江戸屋敷に泊まり、姪たちの振舞いを受けたようである)

 十二月八日
「晴雲院殿儀同三司贈内相府孤月西圓之五十年忌正當也。」
(和尚の父、勧修寺晴豊五十年目の命日。我が家の菩提寺である近江高島・の戒名は、晴雲院殿義同三司孤月西円大居士となっている。
三司とは、で左・右・太政大臣のことを表す。義(儀)同でそれに次ぐ位の高い地位を表し、内相府は内大臣の事である。晴豊は亡くなった後に内大臣になったそうなので、幡岳寺のものは、贈内相府が付いていないので亡くなってすぐの戒名なのだろう。晴豊の死は慶長七年で内大臣の位が贈られたのが慶長十九年である。唐名とは中国での官職の呼び方である)

承応二年(一六五三)
 二月二十三日

「今朝招板倉周防守殿之内家老渡部十右衛門尉・大須賀九左衛門尉・金子十郎左衛門尉、而出茶之湯、而振舞也。」
(和尚の日記に度々出て来るのが、当時、京都所司代をしていた板倉周防守重宗。その家臣たちを招いたようである。重宗とは公私共に親しく付き合いがあったようであるが、飯山藩主だった佐久間安政の兄にあたる盛政家の名跡を継いだと多くの史料に書かれている佐久間重行を食客として迎え、尾張藩に推挙したのも重宗であった。重行は盛政の妻の兄か弟にあたる奥山重昭の子・重成(虎姫従兄弟)の子である清兵衛だと史料に残る。重宗に対する承章や光寿院の尽力があったのではないだろうかと推測する。重宗は寛永十四年十一月に弟・重昌を島原ノ乱で亡くしている)

 六月二十三日
「未之上刻、禁中悉炎上也。驚嘆、而登山上、見也。而一刻之中、一宇之御殿亦不殘、炎上、四方築地・御門一時焼滅也。仙洞江進上仕菓子見合、伺候也。」
(内裏が大火災に遭った。三種神器は内裏の文庫に移され類焼を免れたようである。台所から出火したそうである。後天皇は仙洞御所に行幸しており、和尚がそこへ菓子を献上したのである。後光明天皇は後陽成天皇の第四王子。翌年の九月に痘瘡のため、ニ十二歳の若さで御崩御される)

 十月朔日
「木一折七十小原左近右衛門江令音信、遺状也。保科肥後守殿之内之者也。此前佐久間三五郎内之侍也。」
(小原は会津藩士のようであるが、飯山藩改易後に仕官したのであろう。和尚の口利きでもあったのであろうか。飯山藩の家老や、飛び地の近江・高島の代官に、佐久間氏親族の小原氏がいるが、その一族に小原左近右衛門久勝という人物がいる。滋賀県高島市今津におられる小原氏の御子孫の系図に、奥州会津・松平肥後守殿に仕えたと書いてあるので正にこの人物であろう。木さはしとは木目の箸(橒箸)の事でなかろうか)

明暦二年(一六五六)
 六月二十日

「久留嶋市兵衛今晩來訊也。市兵衛上洛者生來初而之事也。跡目被仰付、當年豊後國森云在所江之入部也。」
(久留嶋市兵衛とは久留島信濃守通清。豊後の所領初入部の途中に和尚の所へ寄ったようである。父は通春、母は佐久間安政と光寿院の娘である。豊後森藩三代藩主。和尚の姪の子)

 十二月十八日
「金森宗和老十五日之由、昨晩聞之也。」
(茶人で武家の金森重近の死。茶道宗和流の始祖。和尚が大変親しくしていた人物で、鹿苑寺にはその遺物が多く残る)

明暦四年(一六五八)
 四月七日

「佐久間左近右衛門初而來于當山、赴賀茂刻、於馬場、而初而相対也。扇三本入恵之也。佐久間九郎兵衛息、佐久間清左衛門婿也。毛利伊勢守者也。」
(佐久間左近右衛門は豊後藩主・毛利高直の家臣。和尚と初対面で、三本の扇を手土産に持って来たようである。飯山藩所縁の一族同士の婚姻関係のようである)

万治三年(一六六〇)
 正月四日

「相国寺方丈歳旦法、近年今日勤修。於菓子屋虎屋、而内々申付也。」
(相国寺での元旦祭祀が終わる。その祝いにお菓子や虎屋の饅頭を注文したようである。今も洋羹で有名な虎屋である)
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    頁数五〇〇〇に及ぶ日記『隔冥記』で、その内容には実に細かく当時の様子が書かれていた。鳳林承章の飾らぬ性格から来る身分を問わない人脈の広さにも驚く。
その中でも、実家である勧修寺家との繋がりを大切にしている様子がはっきりと判った。姉である光寿院や嫁ぎ先の飯山佐久間家、それから広がった姪達やその息子達との交流、その過程で多くの佐久間姓の家臣も判明した。それらは今後の佐久間一族研究の大きな課題となったのは間違いない。

参考文献
『隔冥記』鹿苑寺本
『隔冥記』思文閣出版本
『家光大奥・中の丸の生涯』遠藤和子著(小石川ユニット)
『新訂寛政重修諸家譜』(続群諸類従完成会)
『尾張群書系図部集・上』(続群書類従完成会)
『信濃佐々礼石・中』橘鎮兄著(會真堂)
『飯山町誌』(飯山市公民館)
『系図纂要』(名著出版)
『勧修寺系図』
『公家諸家系図』
『宮廷公家系図集覧』(東京堂出版)
『佐久間家法名』(広岳院過去帳)
『佐久間・柴田家法名』(幡岳寺過去帳)
『吉井藩領主系譜』小林外記良昌著(群馬県吉井町郷土資料館)
『飯綱の地を開いた‘殿様’佐久間兄弟と長沼藩・飯山藩』(いいづな歴史ふれあい館特別展図録)
拙稿「初代金沢城主・佐久間盛政の系譜」(同人誌「櫻坂」十四号)

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■吉原実氏論考御紹介ー『隔冥記』に現れる勧修寺家と飯山佐久間家の交わり(1)

2023-05-05 06:55:30 | 論考

         『隔冥記』に現れる勧修寺家と飯山佐久間家の交わり
                                       吉原 実 

『隔冥記』は名家で正親町天皇の武家伝奏を務めた公家・晴豊の六男で、京都にある臨済宗・の山外の一つである鹿苑寺(金閣寺)第二世住持であったが、寛永十二年(一六三五)八月二十一日から寛文八年(一六六八)六月二十八日まで和尚が四十四歳から七十六歳、死の二ヶ月前まで三十三年間に渡り書き続けた自筆日記である。
その寛永十三年以前の分は、『鹿苑日録』に含まれているが、当時の公家・武家、町人など、実に様々な人物との交流の様子が事細かに描かれており、江戸初期の京都における風物や文化を知る上での貴重な史料となっている。後の慶応三年(一八六七)に、鹿苑寺住持・憲道修により保存修装され、鹿苑寺開基の足利義満公の帰元五百五十年にあたる昭和三十三年に、当時の京都大学教授で日本中世史研究の権威であった故・赤松俊秀氏により新訂本として編纂され、鹿苑寺より発刊された。その後に、京都の思文閣文庫本も刊行された。
一方、私は先祖と伝わる佐久間久右衛門尉安政や、その兄である金沢城初代城主・佐久間盛政など佐久間一族の研究調査を続けている。
その過程で、安政と弟・勝之が婿養子となっていた佐々成政の研究者である富山市在住の遠藤和子氏より『隔冥記』の存在を御教示頂いたのである。
安政、勝之兄弟は、戦国の厳しい時代を生き抜き、江戸の初期にそれぞれが信濃飯山藩主と信濃長沼藩主の近世大名となった。
それはちょうど承章が生きた時代と重なっている。実は、安政が成政の娘と離縁した後に再婚したのが勧修寺晴豊の娘・光寿院であった。承章和尚の姉にあたる。この二人の母は従三位刑部卿であった土御門有の娘である。その様な関係もあり、私にとっても先祖に関する貴重な史料となるかと思い、県内の図書館を捜し回り、金沢大学付属中央図書館で借りる事ができた。しかし、当然内容は真名書きであり、内容も難解で読むだけで大変な思いをしたが、光寿院を通した安政が藩主を務めた信濃・飯山藩との深い関わりが方々に読み取る事ができたのである。
和尚が『隔冥記』を書き始めた寛永十二年には、飯山藩もすでに初代安政や二代藩主となった二男の安長も他界しており、三代藩主はわずか七歳の三五郎安次であった。その為に祖母にあたる光寿院が後ろ盾となり、藩の運営に努めたのである。
それゆえに『隔冥記』には、弟である承章和尚の所へ幼い安次を連れて光寿院が訪れる場面も出て来る。また、安政と光寿院の間には六人の娘があり、それぞれが大名の所へ嫁いでいるが、その嫁ぎ先との和尚を通した一族姻戚の交流の様子も垣間見える。特に、豊後・佐伯藩の毛利氏、河内・狭山藩の北条氏に嫁いだ娘たちから和尚に度々贈答品が送られて来る。その使いをするのが佐久間姓を持つ家臣達。娘たちが嫁いだ時に付いてきた一族の者達か飯山藩主から姓を賜った者達なのかは判らないが、父子世襲で仕えている者が多い。

今回は『隔冥記』の中から飯山藩・佐久間家改易の寛永十五年前後の事が書かれている第一巻から第二・三・四巻を中心に取り上げて、その時代の動きや交流の様子を描いてみようと試みた。

寛永十三年(一六三六) 
 正月十九日 

「自江戸之佐三五郎、為年玉、白銀貮枚給。江間紹以持参也。」
江戸の佐久間三五郎より、年玉として、白銀弐枚たまわる。これは江間紹以が持参した。
(江間紹似は飯山藩の家老。和尚に藩主の三五郎安次からのお年玉を持参した。白銀二枚は、現在の貨幣価値で三十五万円位ではなかろうか)

 廿一日
「亡母多年召使老婦五六人、爲禮、來、向亡母遺像、焼香。例年明日廿二日雖來、明日予赴随菴公故、今日各來。」
 亡くなった母の遺像に、長年仕えていた召使の老婦たち五・六人が焼香に訪れた。例年は明日の二十二日だが、(空性親王)を訪れる約束があり今日になった。
(母は土御門有脩の娘・寿光院殿天長貞久大姉。空性親王は親王の第二王子である。大覚寺の門跡、四天王寺の別当で後陽成天皇の弟にあたる)

 八月十四日
「於等持院之内大圓院、有齋會、被招予。中川内膳正先考修理大夫二十五年遠忌之辰也。予未明赴等持院、予侍衣闇首座也。」
 等持院の大圓院で行われる中川内膳の父、修理大夫の二十五年遠忌を司る。
(等持院は足利尊氏や足利歴代将軍家の菩提寺である。中川内膳は豊後岡藩主・中川久盛。修理大夫は中川で、安政の兄の佐久間盛政の娘・虎姫の夫である。和尚は侍り首座は相国寺の三伊のようである。)

 十一月廿一日
 「自十塚、着江府。従佐久間三五郎・光壽院殿、追々迎之侍・摝酌來。於川崎、逢之。直到光壽院殿、有打付振舞。入浴室。三伊公其外供者。皆到光壽院。荷物者直遺于宿所、孫右衛門相添、竹子屋彌十郎所、有寄宿之由。通町日本橋南町一町目西カハ、自南、三間目、十左
衛門所、予寄宿也。」
十(戸)塚より江戸に着す。佐久間三五郎・光寿院殿より、追々迎えの侍・摝酌(六尺)が来る。川崎においてこれに逢う。直ちに光寿院殿へ至る。打ち付け(いきなり)振舞いがあり、浴室に入る。三伊公、その他供の者、皆光寿院に至る。荷物は孫右衛門相添え、直ちに宿所に遣わす。竹子屋弥十郎の所に寄宿これあるの由。通町日本橋南一町目の西側、南より三間(軒)目、十左衛門の所、予の宿所なり。
(承章たちが十日程かけ江戸へ行った時の様子。とは、駕籠かきや下男の事。光寿院は愛宕下の飯山藩下屋敷を住居としていたようである。現在の東京都港区虎ノ門一丁目の虎ノ門ヒルズの辺りである。とは江戸の町を南北に走る大通り。神田須田町から日本橋・京橋から芝の金杉橋に至る中央通り沿い。三伊公とはの事。相国寺・玉竜庵の・)

 廿二日 
 「光壽院殿之内土産遺也。土産遺亭主并内方、竹子屋彌十郎亦遺之。城古座頭來。齋了、到金地院、則康首座・教蔵主亦被來。酌酉水。則高薹寺今日下着、於金地院、對談。予到三五郎、晩炊有振舞。誾公同道、到光壽院。及深更、歸宅。」
 光寿院殿の内土産を遣わす。土産亭主ならびに内方、竹子屋弥十郎またこれを遣わす。城古座頭来る。斎が終わる。金地院に至り、即ち廉・教蔵主また来らるる。酉水を酌み交わす。即ち高台寺今日下着。金地院に於いて対談す。予、三五郎に到り、晩炊の振舞いあり。誾公と同道、光寿院に到る。深更(夜)に及び帰宅。
 (酉水とはお酒の事であろう。教蔵主は相国寺の僧。高台寺とは住持の三江紹益。翌日の二十三日には、幕府の年寄衆や奉行たちに挨拶に出向いている)

 十二月小四日
 「巳刻迄雨天、令門戸不出。於三五郎公、有傀儡棚見物。」
  巳の刻まで雨天、門戸を出ざさしむ。三五郎公に於いて、傀儡棚(人形芝居)あるを見物する。

 十一日
「午時於北條久太郎御袋、而有振舞、」
 北条久太郎母の振舞いを受ける。
(この北条久太郎とは、河内・狭山藩三代藩主の北条氏宗。父は北条氏信で、母は佐久間安政と光寿院の二女である。承章の姪の子にあたる。しかし、この本の久太郎の注訳が氏重となっていて大変疑問に思っている。父・氏信の三弟は氏重というが、長男が名乗るのが普通である太郎を名乗る訳も無く、『隔冥記』が書かれる前にすでに没している。下総・岩富藩二代目藩主も同じ北条氏重だが、河内の事や久太郎の母も後に何度も登場するので姪の子である氏宗に間違いは無いと思う。共に小田原の後北条氏の末裔にあたる。安政が北条氏政に仕えていた関係による婚姻関係だろうか。注記の事も確認したいが、この本を編纂された先生方がすでに故人となられているのが残念である)

 廿六日
「自佐三五公、為歳暮、小袖壹重給。」
 佐三五公より、歳暮として、小袖壹重を給わる。
(佐久間三五郎より、和尚が小袖を一重戴いたようである)
 
 廿七日
「自北條久太郎御母儀、爲歳暮、襦袢小袖壺・鼻紙五束給。自光壽院殿、爲小袖代、金子貮兩給。頭巾・帯・踏皮給也。」
 北条久太郎の母から歳暮として襦袢小袖壹、鼻紙五束戴く。光寿院殿より小袖代として金子二両、頭巾、帯、踏皮を戴く。
(襦袢小袖とは(繻子地の錦)で作られた襦袢の事。踏皮とは皮で作られた足袋の事である。金子二両は今の二十万円位であろうか)

寛永十四年(一六三七)
 正月九日

「今日於光壽院殿、初逢三五公母儀也。」、
 今日、光寿院の所で初めて三五郎の母に逢う。
(三五郎の母は、飯山二代藩主・佐久間安長の室で、遠江・横須賀藩主で老中であった井上正就の娘である)

 十日
「予今晩振舞光壽院殿也。奥之相伴十五六人、次七八人也。各爛醉、發歌聲、及半鐘。」
 夜、光寿院を振舞う。奥の者たち十五・六人、次席の者たち七・八人と、歌を唄い泥酔するまで飲みあかす。半鐘に及ぶ。
(半鐘(半宵)とは夜中の意味)

 廿四日
「晩於佐久間久助殿、有振舞。木下儉校・小槇后當・城志賀座頭來。有平家物語、有咄雑談、有三美線。及二更、而歸。」
 佐久間久助殿の振舞いを受ける。木下検校、小槇后當、城志賀座頭たちが来て平家物語を語る。雑談をして三味線まで楽しむ。二更に及び皆帰る。
(佐久間久助とは飯山・佐久間家の重臣だと思われるが、人物の比定が出来ない。とは、夜の時間を五つに分け(五夜)その二番目の時間。とも言い、午後九時か十時頃から二時間をさす)

 廿七日
「於三五公御母儀、有振舞。及深更、酌酉水、泥醉。臺物種々馳走也。木下左兵衛殿短尺拾枚被投予、請點愚筆。」
 三五郎の母の振舞いを受ける。深更まで及ぶ。泥酔する。数々の御馳走が出た。木下左兵衛殿から短冊拾枚を渡されて愚筆で応える。
(木下左兵衛とは豊後・日出藩の二代目藩主・木下伊勢守俊治。和歌でも楽しんだのであろうか)

 廿九日
「佐三五公振舞、有浄瑠璃操。及初更、小槇后當來、有物語。城志賀亦來、引三美線也。」
 佐三五公振舞い、浄瑠璃操りあり。初更に及び、小槇后當来る、物語あり。城志賀また来たり、三味線を弾くなり。
(初更とは午後七時から九時か八時から十時頃をさす)

 二月三日
「佐久間久助殿透引山住后當、而被來、挽三美線敷返。山住后當者、三美線當代名人之二人之内也。」
 佐久間久助殿の誘いで山住后富の三味線を聴く。山住后富は当代の三味線名人の二人の内の一人である。 
(后當とはの事だろう。盲官の役職の一つで、上位から検校、別当、勾当、座頭となる。山住后當とは後の八橋検校の事で、筝曲の基礎を創った人である)

 十三日
「狩采女同道、赴佐久間。監殿十五日御茶之禮。自其、赴松倉長州。」
 狩野采女と共に佐久間将監殿の所へ赴く。松倉長州殿へ赴く。
(狩野采女とは絵師の狩野探幽の事である。因みに、探幽は佐々成政の孫にあたる。佐久間将監は佐久間政(正)勝の事。尾張・佐久間氏の始祖である盛通の嫡男・盛明の曾孫に当たる。茶人としての方が有名である。十五日に盛大な茶会が開かれた。松倉長州とは肥前島原藩主の松倉長門守勝家のことであろう。和尚の兄・坊城俊昌の妻が勝家の妹にあたる。この年の秋に起こる島原ノ乱の原因である悪政の責任を取らせられ、翌年には大名に対する処置としては異例の斬首となった)

 十六日
「為暇乞、赴金地院、夕飡、三五公母儀振舞。於光壽院殿、有振舞、酌酉水、到干撥明者也。」
 暇乞いとして、金地院に赴き夕食。三五公の母の振舞い。光寿院殿に於いて振舞いあり、酉水を酌み、発明に到るものなり。
(発明とは明け方の事。夜通し酒を酌み交わしたのだろうか。和尚はかなりお酒が飲めたようである)

 二月廿一日
「晴天。出江戸。佐三五公為送行、來于品川。於川崎、壹休也。高彌五佐・金太夫・幸琢被來。」
 晴天。江戸を出る。佐三五公送行として、品川まで来る。川崎に於いて、昼休みなり。高弥五佐・金太夫・幸琢が来られる。
(今回の和尚の江戸下向の目的は、将軍・徳川家光からの寺領安堵の継目御朱印拝領の為であった。前年の三月十一日、京都所司代・板倉周防守重宗の邸に高台寺・真乗院・曹源院と和尚を含む五山寺院など(御朱印之有衆)が集められ、この度「継目御朱印」が発行される事になったと告げられたのである。将軍が秀忠から家光に代わり、改めて御朱印を発行するというのである。幕府から下向せよとの指図は無いが、重宗の勧めにより下向したのである。前年十一月に京を発ち、この年の正月十九日に持参した朱印状を返納、二月十日新朱印頂戴、続けて両朱印状の請取状の加判となる予定だったが、幕府は朝鮮通信使への対応に多忙で朱印状交付に時間が掛かり、和尚たちの滞在が今日まで延びたようである。高彌五佐は高井弥五左衛門、金太夫は加藤金太夫)

 三月三日
「晴天白日。自草津、着京、於大津、晝休。昨日之牀達于北山、迎者共膳所崎迄來。雲峯・前渓・仁英西堂被來于北山。自方々、有使者云々。」
 草津を出て、京に帰り着く。途中昼、大津で休む。昨日の予の書状で膳所まで迎えの者たちが来ていた。北山まで僧たちも来る。
(和尚は四か月の間、京を離れていた事になる)

寛永十五年(一六三八)
 正月六日

「於晴雲軒、作善執行。齋僧十員斗。久昌庵大祥忌之辰正當也。」
 久昌庵、大祥忌を行う。
(久昌庵とは承章の乳母だという。その人の三回忌を相国寺の塔頭・晴雲軒でしたようである)

 二月十二日
「作三五郎之内、松本喜右衛門來。紹以同道。喜斎息勘兵衛亦來。於北山、振舞、點鳳團也。」
 佐久間三五郎の内、松本喜右衛門が来る。紹以が同道。喜斎の息子・勘兵衛また来る。北山に於いて振舞いあり、「鳳団」の団茶を点じた。
(団茶とは発酵させたお茶のようである。松本喜右衛門は飯山藩家老。喜斉は張付師・歯科医の親康喜庵と思われる)

 三月廿二日
「自作久間三五郎母義、為年頭之嘉悦、金子貮歩被恵之。當年初而給之也。」
 佐久間三五郎公母儀より、年頭の嘉悦として金子二歩これを恵まる。当年初めてこれを給わるなり。
(金子二分は現在の四万円位であろうか)

 十二月八日
「齋了、歸于北山。自江戸、書状來。佐久間三五郎訃音、銘肝膽、驚嘆者也。」
 斎が終り北山に帰る。江戸より書状来る。佐久間三五郎の訃音、肝胆に銘じ、驚嘆のものなり。
(佐久間三五郎安次は、十一月の末か十二月の初めに江戸で亡くなる。九歳だと伝わる。翌年には無嗣絶家と言う事で飯山・佐久間家は改易となる。母方である井上氏の意向により、八百石の幕臣として家は残るが、飯山・佐久間家としての名跡は、安政の娘が嫁いでいた長沼藩家老職の岩間市兵衛家が佐久間と改名して継ぐ。この家から幕末の学者・佐久間象山が輩出されるのである。三五郎の母であった井上氏は、この隔冥記では後に再婚し竹中式部の妻となったと書かれているが、他の資料すべてに丹波・綾部藩主の九鬼隆季の継室となったと書かれている)

寛永十六年(一六三九)
 九月晦日

「長井茶之壺今日初開口也。内々來月中旬雖可開口、來月五日自江戸、上洛仕佐久間三五郎家老四人依招之、今日吉辰故、開口也。餘之壺
未開也。」
 晦日、長井茶の壺、今日初めて開口なり。内々来月中旬開口すべきと言えども(思っていたが)、来月五日に江戸より上洛仕る佐久間三五郎の家老四人これを招くにより、今日は吉辰(吉日)ゆえ開口なり。余(他)の壺は未開なり。

 十月朔日
「佐久間三五郎家老三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛幷三五公守之片岡五郎兵衛自江戸、赴高野、自高野、依上洛、為音信、今日破木者馬場大木之枯木有之。則成破木、遺者也。自膳所、紅柿一折七十被恵也。」
佐久間三五郎の家老三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、ならびに三五公守役の片岡五郎兵衛が江戸より高野に赴く。高野より上洛により、音信として今日破木を十把づつ遣わす。破木は馬場大木の枯木これあり、すなわち破木となし、遣わすものなり。膳所より、紅柿一折七十これを恵まるる。
(破木とは薪の事。高野山の奥ノ院には飯山・佐久間家の墓所があり、初代飯山藩主・佐久間安政はじめ多くの供養墓が現存している。安次や光寿院の墓も残っていると思われる)

 五日
「佐久間三五郎家老共招之。三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、前嶋猪右衛門也。其他片岡五郎兵衛、惣十郎、加藤金太夫亦來。家田勘兵衛亦來也。江間紹以來。」
 佐久間三五郎の家老たちを招く。三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、前嶋豬右衛門なり。其の他、片岡五郎兵衛、片山惣十郎、加藤金太夫また来る。家田勘兵衛もまた来る。江間紹以もまた来る。

 八日
「今日佐久間三五郎家老四人・片岡五郎兵衛・片山惣十郎・加藤作右衛門・江間紹以、於玉龍庵、有振舞。袋茶遺之。大昔白遺之。」
(大昔白とは抹茶の銘である。昔ながらの茶葉を蒸す白製法で作った高級な濃茶。飯山藩佐久間家々臣の名が残る史料は初見である)

 九日
「江戸遺之状、今日爲持、遺。此夏北條久太殿給予膳所燒茶入、予不人気之故、返進也。片岡五郎兵衛下向故、言傳、遺北條久太殿也。」
 北条久太郎から夏に戴いた膳所焼きの茶入れを、家臣・片岡五郎兵衛に持たせて返却する。和尚は気に入らなかった様子。

 十一月十二日
「光壽院殿大津之家來玄助ト云。賣券之加判、吉權右衛門到也。」
 光寿院殿大津の家の買主・玄助が来て書面を整えた。
(江戸にいる姉・光寿院が所有していた大津にある家を、頼まれて処分したようである。その手続きをした吉權右衛門は、吉田權右衛門忠継といい和尚の使用人・妙清の前夫)

寛永十七年(一六四〇)
 正月二十二日

「靑天。齋了、如例年、老婦達爲禮、被來。乍次、御影之燒香也。神岡越中内・小坊黄門乳母・淸春・淸甫・神殿此衆被來、終日打談、喫
夕飡、而被歸。」
(例年のように老婦たちが訪れて、母の遺像に焼香する。小坊黄門とは公家の小川坊城俊完、和尚の甥)

 二月七日
「自光壽院殿、金壹歩貮丁來。每年、雖爲金子壹両、今年者貮歩也。自北袋、如例年、自市袋、金子貮歩來。毎年壹歩在之。自去年、貮歩
也。」
 光寿院殿より金一分二丁送られて来る。毎年の金子は一両。今年は二歩なり。久太郎の母より例年の通り二歩来る。森市三郎の母より二歩来る。
(お年玉を頂いたようであるが、細かく記載している。和尚の几帳面な性格が判る)

寛永十八年(一六四一)
   八月朔日

「甲辰日。靑天白日。自河内、飛脚上、自江戸之状來。自北條久太郎、亦書状來、河内道明寺糒三袋給之也。自此方、切形遺之、膳所焼之
茶入参丁入小箱、今日自北久太郎。雖然、茶入之薬悪、於不入予気、宣返納之由、自北久太、依申來、三ヶ之内内壹壺留置、而残貮丁者、
卽今令返進也。自河内之飛脚相留、卽今認返翰、先於河内、遺也。」
 河内から飛脚が江戸の北条久太郎の書状を届けて来た。道明寺粉が三袋添えられていた。
当方も借りていた膳所焼き茶入れ三個が入った小箱を返却する。
(茶入れの釉薬の塗りが悪く、和尚はあまり気に入らなかった様子。三個の内の一個をそのまま置き、後の二個を返してくれれば良いと氏宗から言って来ている)

寛永十九年(一六四ニ)
    六月十四日

「齋了、赴北條久太郎公宿也。昨日令堅約、今日必可赴北條久太郎公宿之由也。祇園祭也。江間紹以合聟所、見物之好處也。於其所、可令見物之由也。紹以合聟之所、御幸町三條通三條下町之角屋也。名道意也。北久太公令同道、到道意宿、山見物。於道意、切麥出、酌酉水、又歸久太郎宿、喫夕飡、而又赴道意、祭禮見物也。及晩、而予直到于相國寺也。今日、於北久太之内、佐久間清左衛門・田中權左衛門、始逢也。蒔繪師理右衛門亦、始逢逢也。桑山三右衛門是亦、今日始成知人。桑山修理殿表弟也。卽、娣聟也。桑山加賀守殿子息也。今者成町人、被居也。」
 祇園祭を観るために北条久太郎が昨日上洛した。江間の相婿の家が三条通りの角家なので見物に都合が良いと皆が集まった。麦切りや酒が振舞われた。今日の昼には、久太郎、佐久間清左衛門、田中権左衛門たちが蒔絵師の理右衛門と初めて会う。桑山修理殿の表弟・桑山三右衛門が町人になる。桑山加賀守の子息である。
(表弟とはの事。蒔絵師に弟子入りしたのだろうか。桑山修理は大和新庄藩三代藩主で父は一直。継母が佐久間安政の娘で後の真照院である。真照院は安政と佐々成政の娘輝子(岳星院)との間に生まれた娘であったが、故あって母が関白・鷹司信房の継室となり、自身も養女となった。因みに、信房と輝子との間に後に出来た娘孝子は、三代将軍徳川家光の正室・本理院(中の丸殿)である。一方、真照院は豊後岡藩主・中川秀成(ひでしげ)の継室(前室は佐久間盛政の娘・虎姫)となったが子ができずに離縁。その後、鷹司家に戻り、再び桑山家に嫁いだのである)

 十月五日
「予父租勧修寺晴秀公之御影、数年眞如堂内之内、東養坊有之由、常々老婦二位殿御物語有之、依然、以宥蔵主、賴眞如堂之蓮光院、而御影所望仕也。今朝宥公古御影一軸被持來也。開之、而見、則予亡父晴豊公面躰少不差、相似太奇太奇。卽、御影於此方、相留也。晴秀公薨、面到今年寛永十九年、而六十六年也。六十六年、而予對租父之遺像、感嘆有餘。」

 父祖勧修寺晴秀公の御影は、数年に渡り真如堂内の東養坊にあり、常々老婦二位殿が護ってきた。以前より、宥蔵主から真如堂内の蓮光院に置くように言われていたので、今日、軸を持参した。それを開くとすぐに、その姿が亡父晴豊と似ていると言われた。晴秀公が亡くなり、今年寛永十九年で六十六年なり。
(勧修寺晴秀はの事で和尚の祖父。天正四年、南都伝奏を織田信長により罷免され、蟄居させられたそうである。「晴右記」を著す。宥蔵主とは、豊臣秀頼の娘で千姫の養女と言われる、鎌倉・東慶寺の住持であった天秀尼の事かも知れない。太奇とは、はなはだ奇妙だという意味。真如堂は東山にある真正極楽寺の事)

 十一月二日
「冬至之行事如毎年也。自江戸、書状來。自北條久太郎殿御袋、爲音信、肌衣之小袖(股引之付白小袖)給之。珍敷物也。自光壽院殿、沈香買代金壹兩、今日來也。自河内北條久太郎公、書状來、薫物所望之由、申來。依然、我今日、於幡磿所、而薫物取遺、一香合、今日遺于北久太公也。」
 北条久太郎の母より書状と共に、肌着の小袖(股引付白小袖)を戴く。珍しいものである。光寿院殿より沈香を買う代金として一両戴く。河内の久太郎殿からの書状で頼まれていた薫物を播磨屋で買い求め一香合、明日の飛脚で河内に送ろうと思う。(沈香とは調合したお香の事)

                         (文字数が32,000文字を越えたため表示がうまくいきませんので、2回に分けることにしました) 

 

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■創作(ニ)完成をみず

2023-05-04 17:18:15 | 創作
 
■創作(一)桜守

 いつも散歩をしている自衛隊通りの桜並木の内のかなりの数が開花を待たずに切り倒された。根元は洞になっているが、殆どの木がその祠の中からだったり、脇からだったり新しい芽を吹いて......
 

 ちょうど一年前、こんな小作品を書いていた。読み返してみると「下手くそだなあ」とつくづく思ってしまう。
その後小太郎が成人していくさまを続けて書いてみたいと思うが、構想がまとまらず中々筆が進まない。
我が人生で一つくらい、何か書き遺しておきたいと思い続けてきたが、所詮才能がないことを思い知らされてしまった。
少し脱線した筋立てで、別の主人公を立てて、こんなところに小太郎がという具合にしたいと妄想している。
いつになったらご披露できるか保証の限りではないが、「いずれその内に」こっそり発表したいと思う。

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■徒刑としての入れ墨

2023-05-04 13:06:58 | 歴史

          身体髪膚之を父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり

 熊本でも外国人の居住者が多く見受けられる昨今だが、コロナ解禁による旅行者やバックパッカーなども結構多い。
そんな中で顕著に見受けられるのが、男女を問わないタトゥー(入れ墨)だ。
日本ではある筋の人たちが入れ墨を入れて異端視され、公衆浴場やサウナ、プールなどに類する施設では入場を制限する処がある。
一方、外国人に関してはどうするかという事になると、なかなか難しい話になってしまう。

 以前読んだ 橿原考古学研究所附属博物館発行の「海でつながる倭と中国ー邪馬台国の周辺世界」の中に、「イレズミからみえてくる邪馬台国」と
いう論考が有、縄文時代の顔に入れ墨をする黥面の分布やそのデザインなどが紹介されていたが、大変強烈な印象をもった。

そんな古い入れ墨の習慣はなくなってしまっているが、その復活は江戸期の侠客の世界ではなかろうか。
歌舞伎や浮世絵などで取り上げられると、比類ない日本独自のデザインの入れ墨の世界が確立されたようだ。
「身体髪膚之を父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり」というから、この行為は「不幸者」の為すところという事になる。

 罪を犯した人(不幸者)に対して入れ墨を入れるという考え方が、徒刑の一つとして享保の改革で現出する。
入れ墨は単独刑ではなく、「鞭打ち+徒刑+入れ墨」という風に複合刑であり八種類あるとされる。
入れ墨も「額」であったり、「右手首」であったりしている。
額には「➡剣先長一寸」(縦方向)、右手首には「同左、長さ一寸九分」または「字曲り三寸」である。
この刑は厚生上妨げとなるため、刑期を満了して5年経過すれば除墨したり、後には釈放の際消すことが許されたらしい。

 今でも入れ墨を後悔して除墨する人もあるようだが、私ら古い人間からすると「毀傷せざるは孝の始めなり」で「最初から止めときなさい」
と申し上げたい。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和三年」を読む 

2023-05-04 06:59:30 | 史料

忠興文書-元和三年(1617年)

134、正月晦日書状
 ・秀忠ヨリ鷹ヲ拝領ス
 ・忠利ヨリ早馬ヲ贈ラル
 ・不干(佐久間正勝)仕合無残所、八木・屋敷等被遣候事
 ・忠興二月二日江戸出立ノ予定
 ・秀忠ヨリ道中ノ鷹狩ヲ許サル

135、二月十八日書状
 ・十七日吉田ニ到着ス
 ・秀忠ノ上洛ハ六月ニ定マル

136、三月十六日書状
 ・忠利ヨリ栗毛馬ヲ譲リ受ル

137、四月十八日書状
 ・幽齋所持ノ萬代和歌集ヲ烏丸光賢ニ贈リタシ (長岡孝之所ゟ忠利所へ在之)
  日本唯一ノ珍書

138、七月十九日書状
 ・本多忠政父子三人伊勢桑名ヨリ姫路移封(七月十四日)
 ・小笠原忠眞信濃松本(8万石)ヨリ明石(10万石)移封(七月二十八日)
 
139、七月廿三日書状
 ・加々爪忠澄、伯耆・因幡両国受取ニ出立 (姫路城主・池田光政、因幡・伯耆ヲ與へラレ鳥取城ニ移ル)
 ・前田利家室・芳春院七月十六日江戸デ死去 (細川忠隆室・千世の母ー慶長5年6月6日江戸證人となる)

     芳春院

140、九月廿六日書状
  ・秀忠伏見ゟ江戸ニ歸ル
  ・竹千代ノ西丸移徏
  ・小判二百両ヲ江戸ニ送ル
  ・領国ノ作毛例年ゟ良シ

141、(九月)書状
  ・浅野長晟室(家康女・振姫)死去ニ付、浅野長重、加藤忠廣(室・浅野長晟女)ヲ弔問ス

      蒲生秀行
        ‖
            家康---振姫    
        ‖-------光晟     
      浅野長晟
        ‖-------●
        ●   ‖-------光廣
          加藤忠廣

  ・島津家久松平ノ姓ヲ賜リ薩摩守トナル
  ・忠利当年下國ノ賜暇アラン

142、十月廿八日書状
  ・藤堂高虎加封(伊勢度会郡田丸城5万石加増)ノ祝儀
  ・板倉勝重ヘノ御加増之儀は虚説
  ・竹千代西丸移徏ノ祝儀
  ・紫野之儀かたつき珎重
  ・秀忠ヨリ継目ノ領地判物ヲ下賜サル
  ・忠利六日ニ江戸到着、八日御目見珎重
  ・政宗祝言(池田輝政女=秀忠養女・振姫、政宗嫡子ニ嫁ス)ニ人ヲ遣ス
  ・阿部正次(8,000石)加増

143、十一月十八日書状
  ・秀忠土氣東金ニ鷹狩ス、進物ノ指図
  ・忠利、秀忠ヨリ米千俵ヲ拝領
  ・本多正純、忠利ノ為斡旋ス、又松井興長金子拝領ノ事取合候
  ・秀忠ノ上洛留守ニハ見舞ノ進物ヲ呈ス要ナシ
  ・曽我尚祐咳氣
  ・戸田康長松本移封
  ・秀忠ヘノ鷹野見舞ニ遅引セシコトヲ釈明ス

144、十一月廿九日書状
  ・秀忠ヘノ歳暮ノ進物ヲ曽我尚祐・伊藤康勝ニ内談スベシ 極上ノ錦ヲ江戸ニテ求メ土井利勝ノ差図ヲ受ケベシ

145、十一月廿九日書状   
  ・江戸屋敷ノ取土
  ・藤堂高虎へ返金ス
  ・東国衆(上杉景勝・佐竹義宣・伊達政宗・南部利直)ノ参勤
  ・江戸ニ茶湯流行ス 烏丸ノ墨蹟價四千貫
  ・竹千代西丸移徏ノコトハ土井利勝ヨリ報アラン
  ・忠利日光社参
  ・光壽院殿息災・・満足

146、十二月廿一日書状
  ・秀忠ヨリ鷹ノ鶴拝領
  ・荒川與三ヲ使者ニ遣ス 以前ニ城主(一戸城=荒川 中比菅野と号す 勝兵衛輝宗守之)タリシ者ノ子ニテ忠興ノ親類
   興三口上無調法、田中半左衛門こうけん仕候様ニ・・
        
寛永四年五月廿七日 荒川與三消息
           荒川與三国ヲ払ハル 母親ヲ残ス 
         一、荒川與三殿儀、筑紫大膳殿をよひ、様子申渡候処ニ、奉得其意候、いつかたへ成共、成次第他国
                         御頼候    
           可仕候、母儀ハ爰元ニ残置申候間、万事可然様ニとの儀、大膳殿使ニ〆被仰聞候、得其意申由申
           候事、
  ・竹千代西丸移徏

  ・土井利勝ト本多正純ノ不和
  ・曽我尚祐病ム

146、十二月廿一日書状
  ・曽我尚祐ノ病本復セズ
  ・半井驢庵ニ用談シテ養生然ルベシ
  

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■山東火が電車を止めた場所?

2023-05-03 08:54:20 | 熊本

    

     昭和4年に建設された熊本市公会堂

 以前■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走るで書いたが、熊本市電の開通は大正13年の8月1日である。
種田山頭火が泥酔して市電を止めたという話は有名な話として残されているが、はっきりした日時は判らないが「大正13年の夏」だとされる。つまり山頭火は開通早々の電車を止めたという事になる。
この事実が知られるようになったのは、昭和26年11月山頭火に関する座談会が催された際、元妻のサキノが発言したことによる。
木庭某なる人物が山頭火を助けて報恩寺につれて行った。その人物が特定されたのは平成18年に到り、同姓の木庭實治氏(熊本史談会会員)によってである。
そしてその場所は、現在の熊本市民会館がある辺り、かっての熊本市公会堂の前あたりだと言われている。
この表現はサキノの発言によるものだろうが正解とは言えない。事件当時熊本市役所がかろうじて建設されてはいるが、上の写真の熊本市公会堂はまだ建設されてはないから、「後に建設された熊本市公会堂の前あたり」としなければならないのだろう。
そんな場所に当時はどんな建物が建っていたのだろうか、またこれを調べてみたいという思いが沸々としてきた。

           参考:洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る・ルート図発見 

追記:05/06
   上記写真の熊本市公会堂が出来る前にはドーム付きの木造の公会堂+日本館がありました。
   左の建物は移築され日本館は昭和42年迄現存したと言いますが、私には記憶がありません。
   

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■亡き家臣の家族に対する想い

2023-05-03 06:27:27 | 人物

 細川家の歴史を振り返ると、一色義有のだまし討ちや、その遺児の誅伐事件などの黒歴史や、キリシタンの加賀山隼人正やその娘と聟・小笠原弦也一族の誅伐、細川興秋の老臣・飯河豊前‐肥後父子の誅伐、そして興秋の賜死事件など眉をひそめたくなる事件が枚挙にいとまない。 
忠興二男・興秋が元和元年六月六日生害にあたり、介錯役を務た松井右近(入江右近)なる人があり、事件後行方知れずになった。
この人物は異国人だが、忠興の娘(長)婿で、豊臣秀次の謀反事件に連座して罪を得た前野出雲守に仕えていたが、その身を忠興に託した。
関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。つまりその後、興秋に附けられたことになる。

細川家正史・綿考輯録は右近について次のように紹介している。

   初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲守禿童にして
   御つかひ候
しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之時出雲守殿より異国者ニ而候
   可愛からせ給へと忠興
君へ被仰進候者也


 元和九年、右近の行方が分からなくなってから三年後、そんな右近の遺児の縁邊について、三齋や忠利は心を砕いている。
右近とは縁戚の関係にあるという山路太左衛門なる人があるが、この人物に右近の娘を嫁がせようという訳だが、「熊本県史料・近世編(一)」に其のあたりの事情がわかる文書が残されている。

  一 松井右近女共山路多左衛門遠親類之由候幸ニ候間此女多左衛門所へ遣度候
    但其方ニさし相候ハヽ不及申遣間敷候 御返事次第ニ候 此儀多左衛門ニ
    一切不申聞候間さたなき様ニ可被仕候事
  一 多左衛門事於同心此方へよひよせ可進候可被得其意候 恐々謹言
     (元和九年)五月三日       三齋 (御判)
              越中殿 進之候
            ママ
  一 松井右近女之事山河太左衛門ニ可被遣由此方ニ申定儀少も無御座候
    何時ニても被召寄可被仰聞候  太左衛門ハ散々相煩候て湯ニ入申候事
            九月四日           (忠利)
              魚住傳兵衛殿

ところで興秋は天草に逃れたとする説があるが真実の程は分からない。もしこれが真実であれば、右近も共に天草に入っているのかもしれない。
忠興にとっては、自ら自刃を申し付けた興秋の死は、一代痛恨事であったろう。その側近・右近の遺族の処遇もまた気に掛けていた事をうかがわせる史料である。

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