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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本大学文学部論叢から

2021-05-18 14:11:06 | 論考

 外は早い梅雨入りで大雨だし、図書館も閉館中だし、コロナ禍で時間をもてあましていると頼みはWEBで史料をあさる事である。
今日は、熊本大学の学術リポジトリから「文学部論叢」の一覧を、総チェックしている。
その内に細川家の歴史に関するものをとりだして、ご紹介しようと思っているが・・・

 2018年の109号の三澤 純准教授の「熊本藩明治三年藩政改革の再検討ー新出の道家家文書を手がかりにー」を見付け、これが大変面白く、プリントアウトして精読している。
道家家から大学図書館に寄贈された膨大な資料は、平成27年「貴重資料展」で一部公開された。
この史料がもたらした成果は、今後明らかにされていくものと思われるが、いわゆる徳富蘆花の「肥後の維新は明治三年に来た」という文言の呪縛から解放されそうである。
蘆花のこの表現も約半年間のタイムラグがあることを、三澤准教授は指摘されている。

随分以前、「平成肥後国誌」の編者・高田Drと、史談会の若い友人N君と三人、金峰山山中の民家の敷地内にある「道家之山」のお墓を訪ねたことが在る。
なぜこんな処にと思わせる場所だが、道家家の在宅ででもあったのだろうか?
峠の茶屋から下る道筋で漱石の句碑なども拝見した。木瓜咲くや 漱石拙を守るべく とあった。

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■山吹のはなし

2021-05-18 07:13:28 | 徒然

 一昨日「山吹」のことを書いた。                       
そして、有名な句「七重八重花は咲けども山吹の蓑(実の)一つだになきぞ悲しき」を思い出した。


                   やまぶき 和算と歴史随想
 雨が降り出したなか、鷹狩りのかえりでもあろうか通りがかった武士が蓑を借ろうと苫屋に案内を乞うと、女性が八重咲の山吹の花を差し出したというものである。
武士は何のことか訳も分からずに、蓑も借れずに立ち去ったが、その意味が理解せずにいた。
後、この武士・太田道灌はこのような歌が在ることを知り、自らの無学を恥じたというのである。
苫屋の女性も大変な教養人であったようだ。

 「貧しい暮らしで、貸して差し上げる蓑の一つさえ御座いません。お恥ずかしいことです」という意であろう。

山吹には見事な種子がたくさん付く。
私は、まだ実が付く時期ではなかったのだろうと思い込んでいたが、八重山吹には実が付かないというのである。

いろいろググってみると、興味深い記事がたくさん見つかった。冥途の土産にまた一つ賢くなった?。
    ・近辺の花と実
    ・実のならない八重山吹
    ・レファレンス 宮城図書館
    ・やまぶき 和算と歴史随想 やまぶき
    ・日々是好日「太田道灌 蓑を借るの図に題す」 

                      証拠写真 本日午後撮影  

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■将軍秀忠の遺金配分と忠利・忠廣

2021-05-17 08:50:46 | 歴史

 「細川小倉藩」のご紹介が終わって、5日たった。
寛永9年暮れの肥後移封までの約1年をいろんな資料からまとめてみようと頑張っているが資料が少なく中々前に進まない。
この時期、記事にもあるように将軍秀忠は病の中にあるが、翌9年の1月24日死去する。
森田誠一氏著の「歴史的滴録」にその秀忠の遺金配分の事が書かれていた。
「その金額は小判換算で563,568両になる」とあり、縁戚に連なる加藤忠廣と夫人、細川忠利と夫人も受領している。
よくよく考えると、忠利夫人・千代姫も忠廣夫人・崇伝院も秀忠の養女であるから義理の間ながら姉妹故、忠利・忠廣も義兄弟の間柄ではある。
出色は何といっても親父殿(忠興・三齋)である。親藩同様の外様と言われた実力者ぶりがここにも見える。
家光の時代となり、家光の強力な意思が発揮されていく。

加藤忠廣は、四か月後罪を得て除封となり出羽庄内に配流となった。そして忠廣にかわり忠利が肥後国の太守として入国することになる。
あわただしい、寛永9年の一風景だが新しい時代の夜明けともいえる。


         小笠原秀政
             ‖-----千代姫
 徳川家康----+---- 信康----●   ‖
      |          ⇓
      |     +====千代姫 (金100枚・銀1,000枚 小判換算1,860両)
      |     |    ‖
      |     |  細川忠利 (銀5,000枚 小判換算4,300両)
      |     |  父・忠興 (金500枚  小判換算5,000両)
      |     |
      +----秀忠----+----家光
      |     |
      |     |  加藤忠廣 (銀5,000枚 小判換算4,300両)
      |     |    ‖
      |     +====崇伝院 (金200枚・銀1,000枚 小判換算2,860両)
      +----振姫        ⇑
         ‖--------------崇伝院
        蒲生秀行
      

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■白山吹、間違いなし

2021-05-16 16:44:05 | 先祖附

 散歩の途中で、広い農園をお持ちの花畑に可憐な白い花を見付けた。白い山吹だ・・・(自信がないが?)
葉っぱはまごう事なき山吹の葉である。花は一・二輪ほどしか見えないが、種子がたくさんついている。
四つが一塊になった特徴的なものである。写真左端の中ほどからやや上に種が見える。
帰ってWEBで調べてみると、私の勘も捨てたものではなかった。種子の形状がぴったり・・・どうやら花の季節は終わったようだ。
写真はすごい風の中で揺れ動くのを、連写で取ったものの中からえらんだものです。

           

          

 WEBで「白山吹」と検索したら、ウイキペディアにある写真が三点、右上に紹介されている。
実はいま一つ、白い可憐な花をつけた野草、15センチほどの高さのものを数株抜いて持ち帰ったのだ。
名前なんてとんと判らない。
偶然とは恐ろしいもので、「白山吹」の下に四点の別の植物が写真で紹介されており、その右端の「ミヤマセンキュウ」が全くよく似ていて驚いてしまった。
葉の形もよく似ているが、説明によると高山植物らしく背が高くなり花も大きいらしい。違うか?
ヒントにはなりそうではある。

            

                                   おまけ・・てんとう虫が二匹、親子か?    

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■地図散歩・八代

2021-05-16 08:34:25 | 地図散歩

 随分以前の事だが、「八代御附衆」のリストをご紹介したことがある。

■八代御城附衆(1)

■八代御城附衆(2)

■八代城御附衆(3)

処が御約束の、「肥陽諸士鑑」を調べて、八代御附衆を引っ張り出す作業をまだ終えていない。
これは御約束したことだから、近々チャレンジしてご報告したいと思っている。

(1)については、写真でご紹介する松井文庫所蔵の「八代町図」があり、諸家の場所が明示されており大変有難い。
(2)(3)については、このような資料が存在するのかどうかさえ、よくわからないでいる。一度八代にお邪魔して伺ってみたいと考えている。

 熊本史談会の会員のK氏のお宅もそうだし、物故会員のS氏のお宅も八代御附衆であったとお聞きした。
K氏のお宅の場所はよくわからないが、S氏のお宅はご自身も住んでおられたらしく場所ははっきりしている。
彼にいろいろ聞く間もなく病の床に就かれてコロナ禍の中御見舞いも出来ないままお亡くなりになり、お別れした。
私も少々お手伝いをしたが、S氏は10年以上にわたり見事なご先祖様の調査をされて「S家累代の歴史」を物にされた。
その最後の取材に八代を訪ねるといわれるから、同行し、お宅が在った場所などをみてまわった。
1,000坪ほどの大きな屋敷であったらしい。

 現在残る八代城も見事なものだが、これは本丸のみであり、三斎が入城した八代城は二の丸・三の丸・北ノ丸がある、広大な城であった。
三斎の死後筆頭家老・松井氏が預かることになったから、松井家家臣と「八代城御附衆」と呼ばれる人たちが、混在して侍町を構成した。
当時の大手門は、現在の松井神社の大鳥居がある当りである。クランク状になっている正面の大通りは昔も今も変わらない。
大手門前の大きな屋敷は、松井家・家司の山本氏、そして「八代城御附衆」の備頭・高見氏のお宅である。
二家の御子孫ともに、ご厚誼をいただいているが、100石取の当家にとっては過分なことではある。

 車の免許を返上してから、八代の地は大いに遠く感じられるようになった。
ゆっくり、この地図をもって八代の街を散策したいと思っているが、これも秋風がそよぐ頃を待たねばならない。

   

 

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■Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助

2021-05-15 18:25:10 | 人物

                   

 わずか一年数カ月信長に仕えた、黒人弥助を取り上げた著書だが、今迄日本人でチャレンジする人がなく日本在住の英国人日本大学講師のロックリー・トーマス氏が上梓された。
非常に興味深い著書だが今一つ満足できないのは、如何せん弥助本人に係る資料が少なくて、これは著者の責任ではないだろう。

 今晩のTVで「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」が取り上げられるみたいで、大いに楽しみにしている。
アメリカで映画化の話があるようだが、この著書がヒントになったのだろう。
今日のTV(BSプレミアム 9:00~10:30)で詳細を知ることが出来そうで楽しみにしている。
遅ればせながら皆様もご覧ください。

追記:5/16 AM9:10~
非常に興味深く拝見した。上記著書は初版が2017年2月の事だから、その後の弥助に関する研究は一段と進んでいることが感じられた。
最近の外国文書の解析から、加藤清正に関連する記述に「くろほう(黒坊)、妻子・・」云々という記述が発見されたという。
私は今、加藤家の侍帳に「弥助」の名前がないかどうかを、チェックを始めた。(無駄だとは思うが?)
そして、伊藤なお枝氏著の「清正公の南蛮服」を本棚から引っ張り出した。つながりを求めての事である。
清正のもとに「弥助」が在ったと考えると、清正のルソン交易などの発想におおいに関係するのではないかという思いである。
こうしてみると、誠に歴史は面白くロマンに満ちていることを感じざるを得ない。

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■地図散歩・京町

2021-05-15 16:43:05 | 地図散歩

 コロナ暇にまかせて、熊本城下町図(所分絵図)をにらみつけている。
実はデスクの近くの床に積み上げた資料類を片付ける中で、久しぶりに吉田如雪(鳩太郎)に関する史料が顔を出した。
何といっても彼の「明治十年日記」は興味深い。
如雪は薩摩の熊本進軍の報に接し、熊本城炎上の前々日二月十七日から日記を書き始めている。

十九日の朝食後、如雪は京町の風呂屋・浜田屋に出かけている。風呂に入っていると亭主が火事だと告げに来る。
亭主は山崎(花畑邸がある一角)ではないかという。
如雪は風呂屋を出ると加藤神社へ駆け出している。ここで熊本城本丸近辺からの火災であることを確認して呆然とするのである。

   二月十九日 晴
  朝飯後四時過(10時過ぎ)京町浜田屋の湯に行く。然れども戸を閉して寂然たり。亭主言う「湯は有り入浴せよ」と、よって湯に浴す。
  亭主云う「火事あり急ぎ出て見よ」と、予裸体のまゝ三階に上り之を見るに辰巳の方向に当って黒煙天に沖す。亭主云う「山崎なるか」。
  予云う「然らず下ノ通丁方角なるべし」と。然れとも寒風猛烈裸体に堪へず、又入浴す。既にして亭主大声にて予を呼んで云う
  「火事は御城」と、予狼狽楼に上って見ると雖も確定に見えず、依って出て加藤社に至る。城中東南の隅(本丸なり)より天守際にて
  火焔天を突く、今日西北の風烈しく飛火草葉丁水道丁辺に吹き落して所々に火を発す、其の勢い惨然として消防の人なく只火勢に任す。
  遂に九時頃(12時)より天守に火懸り八時(2時)に至り只天守台を見るのみ。加藤清正公造築以来連綿として西国の名城と称する城
  今日一炬の火を以て
灰燼に属す。加藤社の神慮如何ぞや。
  本丸一宇も残さず、独り宇土櫓のみ祝融を兎る。今日鹿児島征討の勅旨鎮台に下る。

加藤神社はかっての、氏家家があった広大な屋敷の跡にあった。現在は京町台から熊本市役所方面に至る道が貫通している。
ここからみれば、本丸は北方向500mにもならない。出火から数時間で燃え落ちている。

さて本題・・浜田屋はどこにあったのだろうかと色々調べているが、とんと判らない。町家が並んでいたのは、現1丁目から2丁目の一部までの両側である。
如雪の家は、赤坂口にあったから、約1~1,2キロほどを風呂屋通いしていたことになる。湯冷めなさいませんように・・・

  

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■地図散歩・上通

2021-05-14 10:23:30 | 地図散歩

 平成28年11月の熊本史談会例会で「熊本城下を古地図で散歩する」という企画をした。
その時、14枚の「熊本所分絵図」を配布して、私の独断と偏見をもってご説明をしたことを思い出す。
その折の絵図を二つ折り糊付け製本をして、外出の折はリックに忍ばせている。
過日上通りに所用が有って出かけた折、この地図を取り出して散策を試みた。  

    
                                                                                                      我が家検索リスト・4 (68-4 熊本所分絵図 手取之絵図)



上通り入口の右角に熊本日日新聞+ホテル日航があるが、ピプレス広場がある当りが「貴田権内邸」そして手取り神社(旧・長安寺)の参道までの広大な敷地が「清水数馬邸」である。
綱利の生母・清高院の実家とされる家である。
参道を入ると左手前角に絵図では「手木之者」と書かれた一角がある。いわゆる「十手者」の詰所でもあったのだろうか。
参道入り口右手角は「白木五兵衛邸」続いて先の清水数馬の下屋敷が神社の前まで至っている。
境内を通らせて北側の道路へ出るとこの道がいかにも雰囲気がよい。
現在上通郵便局がある当りが「土山権太左衛門邸」その右隣りは弁護士さんの緑豊かな屋敷があるが、ここを含め国道3号の大きな通りまでが「高見権右衛門邸」である。
御子孫とは大変ご厚誼をいただいている。
郵便居の前(南側)は大きなマンション「上通セントラルハイツ」加藤清正公以来の「桜の井戸」がシンボリックに残っている。
通り丁アーケード迄「内藤勘左衛門」「宮原平右衛門」「小堀清左衛門」「関勘兵衛」「佐野権之助(借置)」「松野七蔵(借置)」などの各屋敷があった。
「松野邸」の道挟んで反対側は大きな屋敷の「谷内蔵之允邸」があった。

こんな所を地図を広げて歩いていると、興味深げに近寄ってくる人がある。
「江戸時代の絵図ですよ」と説明すると、驚いた様子だったし、ホテルの裏手でもあり外人さん迄「何事?」という形でのぞき込んできた。
同伴の若い女性が説明をされていたが、「Great !」と一声発して去って行かれた。

たったこれだけの範囲だが、小一時間を要したが、またどこかを散策したいと思っている。

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■辻堅め、取りやめ

2021-05-13 16:26:19 | 歴史

 過日ご紹介した「細川小倉藩・567」の記事に、「辻堅め」という言葉が登場している。
志摩守(氏家元高)の祝言が行われるにあたり、この「辻堅め」を行うかどうかの議論が、筆頭家老松井興長の元に惣奉行が呼ばれて行われた。
「辻堅め」とは、「貴人の外出の際などに、辻々に立って道筋を警戒すること。また、その役。」とされている。
この氏家元高とは美濃三人衆と言われた、氏家卜全の孫にあたる。(織田軍の伊勢攻めの折殿軍を勤め戦死)
大阪の陣において父・元政(行継)は西軍に属したが、高野山に退去、家康の内書を以て赦免され、慶長六年に忠興に召し寄せられて3,000石を給せられた。元和元年に55歳で死去した。娘が細川興秋に嫁いだが、興秋死後飛鳥井中納言に再嫁した。嫡男元高は父・元正の死去後わずか4歳で跡目している。
そして記事のごとく、寛永8年の暮れにこの祝儀が行われた。氏家家の記録によるとお相手は槇嶋昭光(云庵・1,000石)女である。
槇嶋昭光は元足利将軍に仕え、秀吉の命を受け最後の将軍・義昭の葬儀を葬儀を取り仕切った。
大阪の陣では西軍に属し、後出家、細川忠興らの歎願により除名され、細川家に召出され終始忠興(三斎)に仕えた。
そんな由緒ある両家の婚儀故「辻堅め」が論議されたのであろう。

細川家記録はほかにも、家臣である立(楯)岡氏や平野九郎右衛門の祝儀の際には辻堅めが行われたとしている。
二家とも細川家古来の家臣ではない。
記録の頭注によると楯岡氏を光直としているが、この人物は配流された人であるとともに、高齢であることから間違いであろう。子息・孫一郎の事であろうが、尾藤金左衛門女を娶っている。寛永5年の事である。

一方、谷内蔵丞・加々山主馬の祝儀については、辻堅めを行わなかったと記している。

江戸の歴々の祝儀においても辻堅めは行われていないし、将軍秀忠が病の床にあり美々しいこの様な儀礼は抗議に対し憚れることであるとして、取りやめが決定された。
何れも細川家におけるいわゆる「着座」という身分以上の人達(約80家程)の祝儀であるが、権威付けとも思われる儀式がこの時期に消えた。

 

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■梅雨入りまじか

2021-05-13 07:22:10 | 徒然

 散歩道の所々に紫陽花の株がみられ、花が大分色づいてきた。そうなると梅雨が近い証拠だ。
一昨日南九州は梅雨入りしたが、熊本も昨日は雨、今日は一休みして、明日から又雨らしく梅雨入りも近そうだ。
例年だと6月上旬だと思うが、20日ほど早くなるのではないか。長い梅雨はうっとうしいものだ。
紫陽花と言えば雨が似合うが、私は傘をさしかけられた芍薬も思い出してしまう。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というが、あまり見る機会がないから、私はどつちがどっちか判らない。

明治9年に来日したフランスの実業家エミール・ギメという人は日本訪問記を残している。
その中では「座れば芍薬、立てば牡丹、歩く姿は蓮の花」とあった。
子供を望む夫婦が上野の弁財天に祈りつづけて、美しい娘が生まれた。長じて娘の廻りには若い男が押し寄せるが、かえって娘は気鬱になっていくという。
不思議に思った夫婦が時折出かける娘の後を追うと、それは白い龍の化身であった。
驚く夫婦の前に白い龍の背に乗った弁財天があらわれ、夫婦の末永い幸せを約束して天に上ったというのだ。

これは、ギメが記録している逸話だが、どちらが立つのか座るのかはべつにしても、芍薬や牡丹といった花は、当時の日本の女性の美を表す最高の言葉であったことは間違いなさそうだ。
牡丹に傘をさしかけるというのは、どういった理由からなのだろうか?

              侍が 傘さしかける牡丹かな   一茶

              あじさゐのどの花となく雫かな  岩井英雅

 一両日の内には、熊本も梅雨入りの可能性がある。

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■細川小倉藩(568-了)寛永八年・日帳(十一月廿七日~晦日)

2021-05-12 06:49:37 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年十一月)廿七日~晦日

         |                                       
         |   廿七日  加来二郎兵衛河本瀬兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也
小倉長崎町ノ米引 |一、吉田縫殿助登城にて被申候は、長崎町ノ喜右衛門、昨日籠ゟ出シ申由、被申候事、
負ノ町人釈放   |
宇佐宮ノ宮成掃部 |一、宮成掃ア登城仕ニ付而、 将軍様ゟ、掃アへ銀子拾枚被遣候間、御横目ニ三輪権内申付、御銀子
へ将軍下賜銀ヲ渡 |  掃ア相渡申候事、
ス        |

         |                                       
         |   廿八日  河本瀬兵衛・奥村少兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也
         |                  (有清)
彦山有清仁保慰英 |一、佐渡殿ゟ、使者を以、被仰候は、彦山座主ゟ御状参候、就其、仁保太兵衛屋敷上り申候は、座主
ノ明屋敷ヲ乞ウ  |  拝領仕度由、被仰越候、上り屋敷ニ成申候は、座主爰元ニ屋敷無之候間、座主へ被遣候様ニ可被
         |                                   (ママ)
         |  仕候、兵庫返事申候は、未太兵衛屋敷上ヶ不申候、たとへ上り屋敷ニ成候さいわい座主此地ニ
         |  屋敷無御座候間、渡り申様ニ可仕候と、御返事申候事、
         |   (長氏)
平野長氏方牢人ヲ |一、平野九郎右衛門尉方ゟ、使者を以、被申聞候ハ、在郷ニ置申候牢人之儀、煩為養生、上方へ差上
療養ノタメ上方へ |  せ申度通、江戸へ得 御意申候ヘハ、上せ候へと、 御書成被下候間、上せ可申と存候、爲御心
遣サントス    |  得申入由候、得其意申候通、返事申候事、

         |
         |        奥村少兵衛                                       
         |   廿九日  河本瀬兵衛
         |        加来二郎兵衛
         |        〃〃〃〃〃〃

         |
         |一、助進・修理当番也、
         |                  (信茂)
新任ノ幕府横目大 |一、佐渡殿ゟ、使者を以、被仰聞候ハ、城織ア様ゟ夜前預御状候、御横目替之衆、今月廿七、八日時
坂乗船ノ用意   |  分ニ、大坂御出船之様ニ申来候、定而来月十日時分ハ、豊後可為御着と存候間、御乗上り被成候
         |  御舟廻シ申候様ニと、申来候間、去ル廿六日ニ、其地へ廻シ申由、御返事申遣候、爲御心得申入
         |  由、被仰聞候、得其意存候由、御返事申候事、
沢村吉重惣奉行等 |一、大学殿・我々共三人、今日御本丸へ談合ニ上り申候事、
本丸ニテ談合   |

         |                                       
         |   晦日  河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也
         |一、京・大坂へ被 召置候衆、御用調様之儀申上せ候状之下書、大学所にて被調、登城候て談合ノ上、
         |  書状調申候事、
築城上毛郡ニ毎年 |一、沢少兵衛・荒木善兵衛登城にて被申候ハ、築城・上毛両郡ニ毎年御種子米六百石被借げ候、来春
種米六百石貸下グ |  ハ三百石かり可申候、残ル三百石ハ、拾貫目御袖判ニテ被借下候代米ノ内を以、被借下、都合六
来春三百石分ハ拾 |  百石ニ仕度由、被申候、何も御米之儀候間、其分可然候ハん由、松丸衆談合之ノ上、右之分、申付
貫目ノ代米ヲ充テ |  候事、
ム        |

                          (了)

            今回を以て「福岡県史・近世史料ー細川小倉藩」は完了いたしました。
            細川家の肥後入国迄、約一年前です。

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■タイピング完了

2021-05-11 16:09:43 | 書籍・読書

 長い間ご紹介してきた「福岡県史・近世史料集‐小倉細川藩」三巻のタイピングがすべて完了しました。

             

今日すべてのタイピングが終わり、明日、最終回をUPして長い掲載が完了です。
もう、明日からタイピングしないで良いかと思うと、嬉しいやら淋しいやら複雑な思いです。
問題はその後をどうするかということで頭を悩ましています。図書館が休館していますから、資料の取得もままなりません。
当分手持ちの文書などをご紹介していこうかと考えていますが、出しっぱなしの本や資料の整理をしなければなりません。
どうなりますことやら・・・

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■街角の風景「取り残された・・ぼく」

2021-05-11 15:33:41 | 徒然

          

 東区山の神のあるマンションのフェンスに食い込んだ木が三本、残骸を晒していました。
本来の樹は伐根されたと見え姿が有りません。何の木だったのでしょうか。
そろそろ何かの方法で取ってあげたい気になりますが・・・・・

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■わらじとワラッチ

2021-05-11 13:25:39 | 徒然

 昨日の散歩は少々手抜きで3キロほどしか歩いていないので、今日は4.4㌔コースを歩く。
底が薄いドライブ用シューズがまずかった。右の足裏が痛くなり、しばらくすると左ひざ裏が痛くなり1時間以上かかってしまった。
両足を引きずりながら、昔の人は参勤交代などは草鞋で、一日10里(40㌔)程を歩いたというのだから、すごいな事だな等と考え始めた。
上り下りの坂道や、雨でぬかるんだ道や山中の石ころもあろう道を歩くのだから、草鞋の痛みも早かろう。
一日何足使ったのだろうか・・途中の海路は別として仮に二足つかったとして22・3日かかったとして40~50足になる。
多分個人の負担であったのだろうが、物入りなことである。

 草鞋は「わらじ」であるが、メキシコの山岳民族の履物で「ワラッチ」というものがある。
二つの名前が、いかにも同じに聞こえるのは偶然ではないような気がする。「草鞋」由来かもしれない。
その形状は少し違うが、この山の民はこの履物で、この地で行われる山岳マラソンで、世界のプロのランナーを交えてぶっちぎりの強さを示して上位を独占するという。

その賞金は貴重な現金収入であるという。
数十キロをこの「ワラッチ」で走り抜けるのである。身体能力も違うのだろうが、厚底シューズもここでは顔なしである。
   「走る民族、ララムリ」     

「ワラッチ」は「草鞋」のような二股の「緒」がない。「緒」は一本しかなく足首に幾重か巻き付けられている。
大変合理的な発想だそうで、最近は商品化されているものもあるようだ。
日本の「草鞋」わらから作ることにこだわり、随分長い間進化の跡が見られない。1,000㌔以上の道中を1,000人に近い大勢が往復するというのにだ。

そんなことを考えながら帰宅する中、足のゆびがからす曲がり状態になるし、ふくらはぎがつり始めた。
明日からはまたウォーキングシューズで歩きますよ・・・

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■細川小倉藩(567)寛永八年・日帳(十一月廿六日)

2021-05-11 06:33:00 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年十一月)廿六日

         |        (ママ)                                       
         |   廿六日  
         |
彦山本宮修繕見積 |一、彦山本宮御繕のもくろミニ遣候御大工弐人・小奉行一人、今日罷戻候、座主ゟも御状参候、御せ
リノ大工等帰ル  |  んくうの入目は、跡ニて積持せ可被越候由申候事、
長崎へ銀十六貫余 |一、井田小兵衛ニ、御銀子拾六貫目余持せ、長崎へ今日差下申候、御鉄炮衆三人差添、下申候事、
         |
幕府横目へ貸与ノ |一、城織ア様へかし被進之候御舟も、今日豊後へ差遣申候、御船頭ハ重田吉左衛門・手嶋茂太夫也、
船ヲ回漕ス    |  奉行ニハ、入江八郎兵衛被仰付、被遣候也、
         |               (長崎脱)
小倉町人借米ヲ引 |一、沢少兵衛登城にて被申候、小倉町喜右衛門と申者、御米を大分引負申ニ付、被召籠候、彼者之か
負入籠      |       (築城郡)
         |  し付米、宇留津村之久右衛門と申者、元壱石五斗かり居候間、元り取立候へと、被仰付候ニ付、
         |  申付候ヘハ、喜右衛門米をかり申たる儀無之由申候、左候ハヽ、こくらへ罷出、申わけ候へと、
         |  申付候ヘハ、はか不参候ヘハ、いかゝ候間、出し可申由申候て、元利三石ほと取立置申由、被申
         |  候也、
         |                           (氏家元高)
惣奉行松井興長邸 |一、御家老衆へ、三人共ニ御よひ候ニ付、■■佐渡殿へ参候、志摩守殿祝儀ニ付、辻堅等を申触候
ニ談合 氏家元高 |                                         (楯岡光直)
祝儀ニ辻堅ノ是非 |  而、可被成儀か、面々存寄次第ニ可有之儀■■か、又、無用かとの御談合にて候、前かと立岡殿
楯岡光直平野長氏 |      (長氏)                                           (暦)  
ノ先例アリ    |  祝儀・平野九郎右衛門祝儀ノ時、辻堅なと有之通、 殿様被 聞召届、江戸にて暦々衆之祝儀に
忠利無用トス   |  も、近年ハ辻かためなと無之、ひそかに相調られ候間、左様ニびゞ敷様ニ祝言なとを調候儀、曾
谷衛長加々山可政 |                  (衛長)(加々山主馬)
ノセザル例アリ  |  不入との 御意候ニ付、其以後、谷内蔵丞・主馬なと祝儀ニも、一人も辻堅めハ出し不申候、其
無用ト決ス    |     (徳川秀忠、この年発病、翌年1月22日死去)
         |  上、 上様御煩被成候間、公儀へ之憚かた/\ニ、辻かためなとハ不出か可然との、御談合ニ相
         |  極候事、
         | (筑紫重門室、細川幸隆女)
かねノ賄米不足ス |一、御かね様之御賄米不足之儀、御ましかし被成候事、皆共心得としてハ不罷成候、如何可有御座哉
増貸米ハ不可   |  と、御年寄衆へ申入候ヘハ、何共指図難成候、先慶徳院殿へ、佐渡殿能々可有御尋候、其上にて、
松井興長慶徳院へ |  可有御惣談旨候事、
         | (志水元五)(同恵重)
大坂蔵元ノ新規召 |一、伯州ゟ、新丞・隠岐を使ニ被差上、被申候ハ、大坂御蔵本新敷被 召立旨候、其ニ付、下津半左
立ノ命      |  衛門むこ、新左衛門と申もの慥成ものにて候、其上、手前も成申者にて候、御蔵本を望申候間、
質セシ上ニテ決メ |                                           (仁保慰英)
ントス      |  大学殿相談仕、申付候様にと被申聞候、然共、大坂之儀を、爰元ゟ居計ニハ成不申候ニ付、太兵衛
         |   (野瀬)
         |  ・吉右衛門見計、可然ものを申付、相定られ候へと申上候、江戸へも其旨御請仕候間、我等共は
         |  からいニハ不罷成由、返事仕候事、
鷹師家屋敷ノ変換 |一、御鷹師横山九介家屋敷、山本三蔵かへ被下候様ニと、御家奉行を以、書物差上候、御鷹師衆之内、
願     肩書 |  別ニ望而無之候ハヽ、遣被申候へと、かた書仕、遣申候事、

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