ヤフオクにガラシャ夫人の最期を伝える侍女・おしも(霜)のいわゆる「おしも覚書」の写しが出品されている。
当然のことながら本物は細川家が所蔵するところである。
写しといっても、ただ文章を写したものであり、霜の筆跡まで似せたものではないことは当然である。
日帳(寛永六年閏二月)十五~十六日
|
| 十五日 加来二郎兵衛
|
家老奉行ノ談合 |一、御家老衆ゟ披仰越候ハ、談合仕事とも御座候間、御両人ともに御越候様ニとの儀にて、則両人と
| も参候事、
| (田川郡)
下関ノ傾城朝顔馳 |一、下関ノけいせいあさかほと申女を、当町少間居候而、商なと仕居候もの、去年盗候而、伊方ノ御
落ス | 金山ニ居候つる由、其後京都郡へ参り居候を、下関ゟ見届候て、御年寄衆へ申入候付、男女共ニ
| (生)
| とらへ、正源寺一兵衛ニつれさせ、下関へ送被遣候事、
|
| 十六日 安東九兵衛
|
焼土払切ル |一、上林甚助申越候は、焼土之事被仰候へ共、仕置候分は、去年不残払きり申候而、少も無御座候
| 間、唯今やかせ可申候や、得御意候由申越候、林隠岐ニ被相尋、をき被申次第ニ仕候へと返事候
| 事、
月行事 |一、余田兵右衛門尉登城にて申候は、当月は私月行事前にて御座候、左様ニ御座候ヘハ、田川郡用水
田川郡用水普請ニ | 之御普請ニ、新参の御鉄炮衆之内五拾人遣申筈に而、其通申渡候処ニ、小頭とも申候は、私共も此
新参ノ鉄炮足軽五 | 儀
十人ヲ命ズ | 二三日御給知を請取申様ニ御座候、用水御普請ニ参候而、根付仕礑不罷成候、何とも迷惑之由申
根付ナラズ迷惑ス | 可被下候、
| 候、御奉行衆と御相談被成候而〇自分からにても御座候間、根付をも仕候様覚悟仕度候との申様
二十五人宛交替セ | にて御座候、私存候は、田川郡へ五拾人被遣候内、先弐拾五人被遣、替/\に罷帰、根付なと仕
シメム | 候様ニと存候、左様ニ仕候内ニ、御材木出シニ方々へ被参候御鉄炮衆可罷帰候間、其時御かわし
| 被成候而可然存候由、兵右衛門尉被申候、返事ニ、其通不被成候はなるましく候間、可然様ニ御
| 斗候て、可被仰付之由、申渡候事、
|一、生源寺市兵衛今朝下関ゟ罷帰候由にて、登城被仕候、昨日のけいせい、幷搦者召連候而渡申候、
| 御
傾城欠落者ノ処分 | 先々にて申候は、被仰聞候けいせい幷同心仕候者をも同前ニ召連候、請取可被成候、同心仕候
| もの成敗し、其しるしをも可懸御目候へとも、別而得御意候上は、其元にて被成御成敗、御国の
| 御仕置ニも可被成ためニ搦進候間、如何様とも可被仰付由申候ヘハ、御懇之被仰分、別而忝候、
道ノ者故一年ニ二 | さりなから、道ノ者故、か様之儀は一年ニ二度も三度も御座候儀にて候故、仕置ニ可仕様も無
三度モアリ | 御座、其まゝたすけ置申様ニ御座候間、被成御送けいせいは前かとのことくニ申付候、御国のも
同心者ヲ返サル | (毛利秀元)
| のハ唯今かへし進候間、御成敗をも不被遊、其まゝ御国ニ被召置候は可忝之由、甲斐守殿御家老
| よりの口上ノ御使にて候故、ともかくも御意次第にて候間、御意ニまかせ候由、申候而、搦者召
町牢ニ入ル | 連、罷帰由被申候事、則町籠ニ入置候事、
湯治願 |一、北村次右衛門尉煩于今然々無之候、豊後別苻へ湯治仕度由■松崎弥兵衛を以被申候、正源司一兵
| 衛なとを以、御年寄へ被申可然候由、申候事、
史談会の若い友人N君が所蔵する、米田是容の御嫡女・御豊様の縁談にかかわる文書である。
沼田勘解由との婚約が調い結納から婚禮に至る膨大な記録文書である。N君と電話で話す中、この文書の話が出て、是非見せてほしいと、今日の史談会会場に持ってきてもらった。
15歳の御姫様だが、米田家は二の丸の北、二の丸御門を守るような形で百間石垣を背にした位置に屋敷がある。
御嫁入とはいっても、沼田家は同じく二の丸内の、西大手門前に屋敷があり、200メートルほどしか離れていない。
そんな中での細川家重臣の両家の儀礼にかかわる文書で、大いに興味があるが、40数葉という大部であり、これを読み下すには相当な労力を要する。
「新・肥後細川藩侍帳」の改定作業を数日休んでいるので、明日からでも再開させなければならないが、しかし随分面白そうで早く読みたいという想いが強い。どうしたものかと思案中である。
日帳(寛永六年閏二月)十三日
|
| 十三日 安東九兵衛
|
| (三淵重政)
江戸ヨリノ書状 |一、夜前夜半ニ、長岡右馬助者ゟ 御書持下候、
忠利書状 | 一、三斎様へ 御書壱通被進候、則亥刻ニ中津へ差上候事、
| (松井興長室、三斎女)
| 一、御こほ殿へ 御書壱通 松本九左衛門へ渡、(花押)
| (南条元信室、細川興秋女)
| 一、御なへ様へ 御書壱通 遠藤吉右衛門ニ渡、(花押)
| (長沢顕長室、沼田清延室) (黒印)
| 一、いよとのへ 御書壱通 大嶋喜右衛門ニ渡、〇
| (浅山)(田中氏次)
| 一、修理・兵庫へ被下 御書壱通、
| 一、同 御自筆 御判にて御符を被遊候、御書付壱通、
| (波多) ( 交 趾 船)
忠利交趾船舶載ノ | 一、中庵ゟ奉書被差下候、かうちふねニ参候むくげ花さき申候時、其花大サ・色、其様子不違様ニ、
槿ノ花ノ真写ヲ命 | 絵書ニ被仰付、御かゝせ候而、江戸へ可差上旨 御意之由、被申下候事、
ズ |
| (元高)
氏家元高ノ川口女 | 一、氏家志摩守被差上候川口女出切手壱枚、 御印成候下候事、
出切手 | (幸長)
| 一、式ア殿へ、野田小左衛門尉かたゟ参候状壱つ、式ア殿内松本九左衛門尉ニ渡ス、(花押)
| (元五)
| 一、志水伯耆殿へ、北原新十郎ゟ参候状壱つ、
| 一、吉田縫殿所へ、野田小左衛門尉かたゟ参候状壱つ、
| (米田是季) 八兵衛
| 一、長岡監物殿へ、飯銅上右衛門尉かたゟ参候状壱つ、
| 〃〃〃〃〃
| 右之前、右馬助殿者持下候事、
| (主水) (沼田述之)
|一、寺嶋方ゟ、切帋ニ而被申越候ハ、右馬助殿・勘解由殿■ものを御国へ被成御下候間、御小早可申
| 付旨、江戸ゟ披 仰下ニ付、差下候由、被申越候事、
|一、白井兵助・かゝみ善右衛門ゟ披申越候ハ、大坂ゟ御小早夜前罷下候、明日又壱艘上せ可申と存
| 候、御用御座候ハヽ、可被仰付由被申候、御用も可有之候間、明後日上せ可被申由、申渡候事、
| ニ居申
町人闕所 |一、東魚町三町めかすや新三郎借や〇吉右衛門、去八月ニ御闕所被成候、かし付の借状・日帳、金子
貸付ノ借状幷日帳 | 喜左衛門ニ渡申候也、
ヲ奉行へ渡ス |
|一、式ア殿へ、皆川治ア所ゟ参状、修理・兵庫者ニ持せ進候事、
|
| 十四日 石本三助
| (ママ)
|一、江戸ゟ御飛脚ニ、大学殿南野九郎兵衛所参候状壱つ持せ遣候、兵庫ものニ持せ遣候事、
| (可政) (可慶)
|一、かゝ山主馬所へ、かゝ山権左衛門・八木木工ゟ状持せ遣事、両人ともニ持遣事、
|一、白井兵助・南次兵衛所ゟ状持せ遣事、同人者ニ遣、
江戸金銀米ノ相場 |一、江戸金銀米ノ双場付、野田小左衛門ゟ壬弐月十三日ニ着鐘楼ヲ、惣積ノ衆へ渡ス、
付ヲ惣積奉行へ渡 |
ス |
|一、御小早ノ御船頭田辺長助夕ア罷下候、中津へ被遣御鉄炮衆両人と 三斎様御屋敷ゟ御鉄炮衆壱人
| (社埼ヵ、規矩郡)
| と参人のせ下候、三人ノ衆ハ見崎ゟ上り候而、陸ニて参候由被申候事、
地震 |一、夜前亥ノ刻、なへゆり申候事、
| (志摩答志郡) 千手新左衛門与伊藤喜左衛門尉・寺本八左衛門与下野壬右衛門、
九鬼守隆ヘノ飛脚 |一、伊勢ノ鳥羽へ被遣候御鉄炮衆〇江戸へ罷通、唯今罷下候由申候、幷去年より江戸へ被遣候御鉄炮
| 衆佐分利兵太夫与広吉半助、古川源内方煩ニ付、有馬へ湯治被仕候、それニ御付候而被成御上せ
| 候由、同前ニ罷下候事、
| 二月十七日、八日ノ比
守左太夫理由ナク |一、森左太夫方江戸にて何の子細も無之ニ、〇切腹被仕候由、右御鉄炮衆申候事、
切腹ス |
|一、吉田縫殿助登城にて申候は、拙者登城にて申上儀にてハ無御座候へとも、拙者を頼申ニより如此
| (規矩郡)
| 候、様子は、馬寄村ニ拙者知行御座候、其わきニ原町と申在所御座候、彼在所ニ又八と申百性御
百姓女房小姑ト諍 | 座候、かの女房年比十九ニ罷成候、こしうとゝいさかひ申候而、門司口より小倉へ入申よし申
イ出奔ス 所々改 | 候、方々相尋申候へとも、行衛知不申候、私百性之儀にて御座候ヘハ、所々を尋可申様もム御座
メドモ行方不明 | 候間、御町中を御せんさく被成候而可被下之由申候間、御町中不残改申候へとも居不申候、此上
家中ノ捜索ヲ願ウ | は、若御侍衆中ニ居申様なる儀も可有御座候間、成申儀にて御座候ハヽ、御触状を御まわし被
| 成候而被下間敷やと披申候、御家老衆へ御申候て、与頭衆改被申候様ニ被仰可然候由、申渡候
| 事、
日帳(寛永六年閏二月)十二日
|
| 十二日 加来二郎兵衛
|
河口ノ行燈風ニ破 |一、河口ノ御番上林二郎右衛門尉登城仕申候ハ、河口ノあんとんを今夜ノ風ニ吹破申候、其上一方ノ
損ス | (桁)
| けたをふきおり申候、繕申付候様ニと申候、心得候由、申候事、
鉄炮足軽ヘノ知行 |一、金子喜左衛門登城にて被申候ハ、御給知取之御鉄炮衆ニ渡申知行わり之儀、吉志ヲ百四十石惣高
割ノ裁定 | 之内ニわり入候ヲ、御鉄炮衆吉志ヲ少にても請取申儀不成候間、上ヶ申由申候ニ付、喜左衛門ニ
吉志村ノ請取ヲ拒 | (加藤)
ム | 其通申候ヘハ、喜左衛門ゟ新兵衛ニ談合被申候処ニ、新兵衛被申分ニも、吉志ヲのけ申儀ハ不成
知行方奉行如何様 | 候間、渡申上ハ、たといいかやうニ成候とても渡シ申由、喜左衛門被申候、新兵衛・喜左衛門談
ニナルトモ割渡ス | 合之上ニ而返事被申候事、
客人屋ノ茶釜購入 |一、武藤加右衛門登城にて被申候申候ハ、御客やの茶釜無御座候間、壱つ御渡可被成由、去年九月ニ
| 〃〃〃
買物奉行ヨリ渡サ | 惣積り之衆ニ申候ヘハ、壱つかい可渡由被申、御かい物奉行衆ゟかい被渡候、直段いまに不究候
ル 闕所奉行ニ釜 | 故、御かい候釜ハ売主へ返し、御けつ所の内ニ有之ハ請取可申と、御闕所奉行衆ニ相尋候ヘハ、
アルモ余リニ良シ | 釜壱つ有之候ヘ共、あまり能候間、如何可有哉と披申候由申候、此方ゟ、去年九月ニかい候て、
| いま本主へ返し申儀ハ売主めいわく可仕候由申候、惣積り之衆ゟ銀子請取切手調、被相渡候ニ
| 付、かい申ニ究り候、乍去、去年九月之事ニ而候間、 御印帳ニハ付不申候、相談之上かい申、
| 御きやくやニ渡置申候事、
鉄炮足軽ノ給知割 |一、御給知取之御鉄炮衆ニ、規矩郡中御百生上申田地之内にて、新兵衛・喜左衛門割苻候て、被相渡
| 候処、御鉄炮衆申候ハ、悪敷田地を御切米三石分ニ七反、八反、壱町、又ハ壱町余もうけ取申様ニ
| (米脱ヵ)
| 御座候、か様ニ御座候ヘハ、種子作飯大分入申候而、御切米三石分ニ一石七、八斗、人ニゟ弐石
望ノ村カ或ハ蔵米 | ゟ外、今迄取不申候間、作り申儀不罷成候間、望之村にて被下候か、さも無御座候ハヽ、御蔵
三石ヲ願フ | 米ニ而三石宛被下候様ニと申候へ共、莵角唯今割苻之村にて渡候ハて不叶由、喜左衛門・新兵衛
鉄炮足軽ノ申分ヲ | 被申候ニ付、我等共申候ハ、御鉄炮衆申分尤候間、七百人之御鉄炮衆ニ、規矩郡ニ而御割苻ノ由
尤トス | 地之内にて、望次第ニ可被相渡由、度々申渡候へ共、望之儘ニ渡候儀不相成由、達而被申候ニ
| 付、御鉄炮衆書物にて申候ハ、左様ニ御座候ハヽ、御切米三石ニ弐石宛御城近所ノ村にて御割
| 余ノ
| 符被成下候様ニと申候、それも成不申候ハヽ、吉志村百四五十石儀ハ請取置候ても、根付可被申
| 〃
蔵納ノ百姓ニ根付 | 候ヘハ、 公儀如何ニ奉存候間、田地を上申由申候、左候ハヽ、御蔵納之御百性ニ、根付可被申
セシムルヲ奉行へ | 付由、金子喜左衛門ニ申渡候処、一度渡申田地之儀候間、此方ゟ根付申付候儀罷成間敷由被申
命ズ | 候、さ候而、被荒置候ハヽ、各越度ニ成可申候間、急度根付可被申付由、堅申渡候事、
昨晩はどうやら史談会の資料作成に目途がついて、10時過ぎにシャワーをかぶって就寝。目がさえて眠れない。
原稿に書き忘れたことを思い出し、起きだして該当資料を取り出して明日書き加えようと付箋を付ける。
うとうとするが眠りが浅い。夢を見て目をさまし、またあれをしよう、これをしなければと何度もそんなことばかり繰り返し考えて今朝は6時前に起床。眠い・・・
顔も洗わず、タイピングにかかる。史料を読んでいるとこれが面白く、ついつい深追いしてしまう。
奥方からそくされて8時前に朝食、近所のコンビニに出かけてA3コピー40枚。
会場で城下町図を掲げたいと思い、7分割の絵図を張り合わせる。微妙にずれがあるがこれはご勘弁願う。
会員の皆さんにはすでに配布済だが、新入会員にも「入会お祝」としてお配りしようと思っている。
唯今10時半、どうやら準備はすんだ。
扨今から20部ほどの配布資料をコピーしなければならない。A3原稿はべつに、A4原稿が9枚ある。
180枚我が家のくたびれコピー機で無事終えることができるかしら・・
そんな中、会員以外の自由参加者の方の電話も入ってくる。顔を洗って散歩に出ようと思ったが、コンビニ往復7~800mでまずは帳面消しにして、夕方落ち着いてからフルコースに出かけることにしよう。
史談会の資料を作っているが最後の悪あがきをしている。
いろいろ文章化して、典拠を明らかにしようと思っているが、さてどこに書いてあったかなと思い出すのが一苦労である。
数冊の資料をデスクの横に並べて悪戦苦闘している。このほかにも「地名辞典」だとか「熊本藩年表稿」「フォトグラフ熊本城」「古写真に見る・熊本城と城下町」「マンスフェルトが見た長崎・熊本」「熊本城下町絵図」数点など、床の上に足の踏み場もない。今日中に何とかまとめてこれらを本棚のもとの位置に戻してやらないと、わが部屋は歩くにも難儀する有様である。
レジュメ5頁、絵図7枚ほどでなんとかおさめををつけようと思う。明日は200枚ほどのコピーが待っている。
最近肺活量がめっきり落ちている爺様、しゃべれるのかしら、90分ほどでご勘弁願おうと思っている。
日帳(寛永六年閏二月)十二日
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| 十二日 加来二郎兵衛
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河口ノ行燈風ニ破 |一、河口ノ御番上林二郎右衛門尉登城仕申候ハ、河口ノあんとんを今夜ノ風ニ吹破申候、其上一方ノ
損ス | (桁)
| けたをふきおり申候、繕申付候様ニと申候、心得候由、申候事、
鉄炮足軽ヘノ知行 |一、金子喜左衛門登城にて被申候ハ、御給知取之御鉄炮衆ニ渡申知行わり之儀、吉志ヲ百四十石惣高
割ノ裁定 | 之内ニわり入候ヲ、御鉄炮衆吉志ヲ少にても請取申儀不成候間、上ヶ申由申候ニ付、喜左衛門ニ
吉志村ノ請取ヲ拒 | (加藤)
ム | 其通申候ヘハ、喜左衛門ゟ新兵衛ニ談合被申候処ニ、新兵衛被申分ニも、吉志ヲのけ申儀ハ不成
知行方奉行如何様 | 候間、渡申上ハ、たといいかやうニ成候とても渡シ申由、喜左衛門被申候、新兵衛・喜左衛門談
ニナルトモ割渡ス | 合之上ニ而返事被申候事、
客人屋ノ茶釜購入 |一、武藤加右衛門登城にて被申候申候ハ、御客やの茶釜無御座候間、壱つ御渡可被成由、去年九月ニ
| 〃〃〃
買物奉行ヨリ渡サ | 惣積り之衆ニ申候ヘハ、壱つかい可渡由被申、御かい物奉行衆ゟかい被渡候、直段いまに不究候
ル 闕所奉行ニ釜 | 故、御かい候釜ハ売主へ返し、御けつ所の内ニ有之ハ請取可申と、御闕所奉行衆ニ相尋候ヘハ、
アルモ余リニ良シ | 釜壱つ有之候ヘ共、あまり能候間、如何可有哉と披申候由申候、此方ゟ、去年九月ニかい候て、
| いま本主へ返し申儀ハ売主めいわく可仕候由申候、惣積り之衆ゟ銀子請取切手調、被相渡候ニ
| 付、かい申ニ究り候、乍去、去年九月之事ニ而候間、 御印帳ニハ付不申候、相談之上かい申、
| 御きやくやニ渡置申候事、
鉄炮足軽ノ給知割 |一、御給知取之御鉄炮衆ニ、規矩郡中御百生上申田地之内にて、新兵衛・喜左衛門割苻候て、被相渡
| 候処、御鉄炮衆申候ハ、悪敷田地を御切米三石分ニ七反、八反、壱町、又ハ壱町余もうけ取申様ニ
| (米脱ヵ)
| 御座候、か様ニ御座候ヘハ、種子作飯大分入申候而、御切米三石分ニ一石七、八斗、人ニゟ弐石
望ノ村カ或ハ蔵米 | ゟ外、今迄取不申候間、作り申儀不罷成候間、望之村にて被下候か、さも無御座候ハヽ、御蔵
三石ヲ願フ | 米ニ而三石宛被下候様ニと申候へ共、莵角唯今割苻之村にて渡候ハて不叶由、喜左衛門・新兵衛
鉄炮足軽ノ申分ヲ | 被申候ニ付、我等共申候ハ、御鉄炮衆申分尤候間、七百人之御鉄炮衆ニ、規矩郡ニ而御割苻ノ由
尤トス | 地之内
北九州在住の「小倉葡萄酒研究会」の小川研次さまから、この郷土史誌をご恵贈たまわった。あつく御礼申し上げる。
氏は九州でおひとりの名誉ソムリエである。細川小倉藩で作られた「日本初の葡萄酒」についてのご研究や、細川家関係のキリシタンに関するいくつかの論考は、冊子にされたりまた原稿をお送りいただき当サイトでもご紹介してきた。
今般のこの郷土史誌にも「田川郡キリシタン小史~キリシタン史料による一考察」を出稿されている。
これは当ブログでもご紹介したことが有るが、このような立派な冊子となると、改めて読み返すにあたり身じまいを正す感じがする。
ほかにも、全国かくれキリシタン研究会会長の安東邦昭氏の「香春キリシタン史私考」、上野焼宗家12代の渡仁氏の「上野焼物やまとその周辺に伝わるキリシタンの考察」など素晴らしい内容で盛り沢山である。
昨夕拝受し、就寝時間を少し延長して読了した。
現在私はこのブログで「細川小倉藩」をご紹介しているが、これは元和末期から寛永初期(現在二年)までであり、
この冊子で紹介されているような濃密なキリシタンの匂いは伺えない。
しかしながら、細川家にはキリシタンの匂いはついて回っているように感じられる事柄も見受けられる。
先に熊本の某お寺から見つかった御位牌などは、明らかにクルスが認められたが、胡粉で塗り隠されていた。
細川九曜紋が見受けられるが、戒名からもどなたであるか解明に至っていない。
家臣団には転び切支丹の数も多く見受けられる。
熊本においては、細川氏のキリシタンの歴史はあまり語られることはないが、小倉時代のキリシタンの歴史の多様さを感じざるを得ない。
勉強不足をおおいに気づかせてくれる佳書であった。
熊本日々新聞のOBであられるTI様から、同僚であられた沼田家の当主の沼田富士彦様の訃報をご連絡いただいた。
熊本大地震では甲佐のご自宅が被害をうけられ、怪我をされたと人づてにお聞きしていた。まだ67歳というお若さである。
富士彦様は嫡家のご当主だが、私は高祖父の関係で分家(門太家)の血をわがDNAの中に少々持っている。
親しく御目にかかりお話をしたことはないが、奇妙な親しみを感じてきた。
沼田家は遡ると平の将門を討ち取った藤原俵太秀郷に遡る。後裔支族が大変多いがその中に相模国に沼田氏の名を見ることができる。
近世沼田氏と細川家のかかわりは何といっても細川幽齋公の夫人・麝香が際立つ。父・光兼に至る数代は若狭の熊川の城主であった。光兼は足利将軍家に仕えていたから、ここで幽齋とのかかわりが見えてくる。嫡男・光長が足利義輝生害のときに討死しており、沼田家は弟・清延が当主となり義昭に仕え(詰衆)たが、後細川家客分となり丹後中山城を預けられた。
まさに細川家を支える根本家臣である。そのことは、その屋敷が城内二の丸の、熊本城の西大手門の目の前にあることをして、三卿家老に続く細川家重臣として認識されていたことを物語っている。
初代・清延は通称・勘解由左衛門、その後の嫡家当主は代々勘解由を名乗っている。
2代・延元が忠興に仕え高麗陣や岐阜城攻めに活躍、忠興の豊前入国後は門司城を預かり5,000石を拝領し長岡姓を賜った。
この時代に表された「沼田家記」は、剣豪宮本武蔵の真の姿を知るうえでの貴重な資料として知られている。
3代・延之は家老職を勤めたが、若くして亡くなった細川光尚の子・六丸(綱利)の54万石の家督相続について松井寄之と共に江戸へ下り、幕府に対して尽力し、細川家の継続を勝ち得た。延之は松井寄之の生母(忠興側室・真下氏)を妻に迎えて居るという奇縁でもあるが、継室ででもあろうか。
嫡子・延将は別録500石を拝領して江戸證人となったが、後嫡家4代目当主(5,000石)となった。
次弟・延晃も兄同様江戸証人となったが明暦三年に帰国の上、別家(清人家)を興した。
三弟・延春も二人の兄同様江戸証人となっているが、延將の分知を受け、これも別家(門太家)を興した。この家の9代目九八郎女が我高祖父・上田久兵衛に嫁いでおり、長女・晩稲が我が家の曽祖父に嫁いできた。
以降夫々が明治に至っている。
長い藩政史上においても家老職や備頭など重要職について細川家を支えているが、現代においても沼田家のご当主として毎年七月六日、熊本安国寺で挙行される恒例の「四つ戦難供養供養」の法会には必ずご出席されていた。
■有馬陣戦死各霊之墳(島原の乱)
■上総沖溺死者供養塔(ハーマン号沈没)
■小倉陣戦死者供養塔(第二次征長戦争)
■東国戦死之碑 (戊辰戦争)
常に細川家を温かく見守る本当の意味の根本家臣としての沼田氏を感じている。
拙い小文を富士彦様のご霊前に呈す。合掌。
日帳(寛永六年閏二月)十日~十一日
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| 十日 安東九兵衛
| (村上景則)
村上景則返納ノ借 |一、金子喜左衛門尉被申候は、昨日春木金太夫・沢治吉右衛門尉所より書状被差越候、長岡河内殿借
米ハ金山ニハモハ | 米ノ儀は、もはや御金山二御用ほとは御米納り申候間、御山ニは入不申候由、申越候由被申候
ヤ不用 | 事、
| (沢村大学)
清水社ノ修理作事 |一、河田八右衛門尉被申候は、清水ニ繕作事有之所御座候、尺ノ木なとも入候儀共御座候、大学殿被
殿様ノ木ノ取替 | 仰候は、尺の木なと入候は、先 殿様ノ木を取替候而つかひ、以来清水米を取候様ニ候ヘハおな
清水米ノ扱方 | し事にて候間、左様仕候而可然之由、大学殿被仰由を承及申候、是は悪敷ヵ有之かと存候、作事
| なとのためニこそ清水米有之儀ニ候間、右之米にて作事ニ遣候而可然存候由、八右衛門尉被申
| 候、一段其通にて候間、弥々大学殿へも被仰届候而しかるへく候由、申渡候事、
小倉領ノ米中津領 |一、塩飽や伝次中津ゟ罷帰候由にて、登城仕申候は、先日爰元御米、中津御領之廻船ニ御積せ候、御せ
ノ廻船ニ積ミシ故 |
詮索厳シ | んさく殊外きび敷御座候而、船頭ともをも長岡河内所へ被召籠、御せんさくにて候、 三斎様被
三斎誰ノ命ナルカ | 仰出候は、小倉ノ米を、中津御領の舟ニて、何かし申付候而つませ候やと 御意候、中津船頭と
ヲ尋ヌ 石舟ハ迷 | も申上候は、塩飽や伝次を頼申候而、江戸廻りの御米積申候由申上候、右ニ御石舟ニ参申事は迷
惑故米運送ヲ望ム | 惑之由申上候て、御米を積申候事、中津町奉行衆へも不相尋つミ申、右ニ江戸へ参申事迷惑と申
| 候儀偽ニ 思召候由 御意候、されとも、御米は積廻シ候へと、被仰付候而相済申候、前かと中
| 津舟ニ御つませ被成候ヘハ、到津善兵衛江戸にて小倉ノ御米五石借り申候而、小倉へ終ニ返上不
船帳 | 仕候ニ付、中津舟ニ御米御積せ不被成候ニ付、今度ハ中津町奉行衆ゟ、船帳を作り、添状被仕、
| 小倉へ被遣候ニ付、今よりハ船頭とも如在有儀候ハヽ、如何様ニも可被仰付候とのかたかき、中
中津領ノ船ニ小倉 | 津町奉行衆被仕候、中津御領分の舟ニ小倉御米御つませなきハ、到津善兵衛借り申米サヘ返上
領米ヲ積マヌハ到 | (故脱ヵ)
津善兵衛借米返上 | 不仕候、とかく御米つませてハ不入由、小倉御奉行衆被仰候通、中津船頭とも申上候ヘハ、是は
セザル故ナリ | 尤との 御意之由にて候、とかく善兵衛にくき者にて候との 御意候、今度江戸へ参候而、江戸
善兵衛ハ憎キ者 | 御屋敷御奉行衆へ相尋候て、舟不入候間、下り候へと 越中様被仰せ候ハヽ、其時は下り候へ、若
| 舟御用にて候ハヽ、居留り候て、御用きゝ候へとの儀、中津船頭ともニ 三斎様被仰付候由申候
| 事、中津船頭とも伝次ニ申候は、右之通ニ御座候間、今よりハ大坂上りノ御米も、小倉舟同前ニ
| 御つませ被成候様ニ、小倉御奉行衆へ被申候は、たまわり候様ニとノ儀伝次申候事、
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| 十一日 石本三介
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紫革杉原紙大坂ヨ |一、江口喜左衛門・古野大二郎大坂ゟ罷下候事、紫皮五枚・杉原壱束持下候事、
リ下ル |
沢村吉重知行所見 |一、大学殿ゟ、使者ニて被仰越ハ、当郡ニ我等知行少御座候、今日見廻、用水とも申付度候、判共
廻ノ通知 | 仕儀候ハヽ、今日差延可申候、又江戸へ便御座候ハヽ、二三日前ゟおしらせ被成可被下由、被仰
| 越候、返事ニ、差当り次而儀も無御座候間、御出可被成候、又江戸へ便御座候ハヽ、御左右可申
| 由申候事、
| (智仁親王) (長岡孝之)
八条宮ヨリ休斎へ |一、八条様御内山田将監ゟ 休斎様へ被進候大事の書物ノ由にて、しふかミ包弐つ参候、則古野十二
大事ノ書物来ル | 郎二持せ、差上申候事、
| (岐脱)
多賀不動院ヨリ音 |一、多賀不動印僧正ゟ 殿様へ被進杉原市束、江口喜左衛門被持下候、林隠へ被相渡候へと申渡候
信 | 事、
| (正直) (慰英) (清忠) (重嘉) (成政)
朴西堂ノ算用皆済 |一、朴西堂ノ金銀米悉払、河喜多五郎右衛門・仁保太兵衛、西郡刑ア・横山助進・坂崎清左衛門被仕
借状ヲ取戻ス | 置候借状取戻し候て、粟野伝助・豊岡甚丞方へ、大坂ゟ下、右両人請取被申候事、
| (勝氏)
三斎へ米一万石ノ |一、中津へ被進候御米壱万石ノ御借状、平野治部左衛門尉ニ渡ス、(花押)
借状ノ請取署判 |
昨日は夕前病院に薬をもらいに出かける。
インフルエンザ予防接種は予約制だと思って申し込もうとしたら、今日いいですよとの事でお願いすることにした。
待合は大した人数ではないが、大いに待たされた。ほとんどの人が予防接種込みである。
代診の女医から、先月の検査の結果を報告される。お決まりの血糖値・HbA10・LDLコレステロール・クレアチン等々が高い。
「一向改善しませんね~」とずばり仰る。耳の痛いことだが、仰せごもっともと拝聴する。
そのご、予防注射をして、「お酒はだめですよ、お風呂はシャワー位が良いでしょう」と看護婦さん。
処方箋薬局に廻り、そのまま散歩コースを回って帰宅。
今日は左腕の付け根あたりが何となく痛い。手を回したら絆創膏が指に触れ、予防注射をして剥いでいないことに気づいた。
剥いでみると少々腫れている。痛みは是からきていてなんとも不愉快。
しかし、これでインフルエンザの方は一安心だ。
一方コロナの方は、ここ数日キャバクラや、会員制ラウンジでクラスターが発生、連日8・9名という人数だ。
そこで市内では警戒価がまた4に格上げとなった。
史談会の例会や、例年の忘年会をどうするか、会員の皆様に図って決めなければならないが、難儀なことだ。
図書館も今のところ開館しているが、こんな状況では又休館の可能性もある。
私の「新・肥後細川藩侍帳」改定の作業に大いに関係する、健康に大いに気を付けて頑張ろうと思っているのに・・・・
日帳(寛永六年閏二月)九日
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| 九日 石本三助
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| (長沢顕長室、沼田清延女)
|一、いよ殿ゟ、大嶋喜右衛門を以被仰越候ハ、江戸へ便御座候ハヽ、御ふミ上ヶ申度候由候、今ほと
| (御脱)
| 便無座候、便御座候ハヽ、御左右可申由申候事、
一代屋敷 |一、吉田縫殿助方登城にて被申候は、東小倉ニ一代屋敷御座候、此屋敷ニ居候者商場悪敷候とて、町
| ニ出候ニ付、彼屋敷をうり申候、其屋敷かひ申候もの、前廉のふるき家を退候而、新敷家を作り
家奉行一代屋敷売 | 申候処ニ、御家奉行被申候は、一代屋敷をうり申上ハ、其代銀被召上はつニて候間、唯今立候新
払代銀ヲ召上ゲン | 敷家ノ代銀を上納申様ニと、御家奉行衆被申候、おなしくハ、前廉うり申候ふるき家の代銀を被
トス | 召上候へかしと存候ニ付、加来様まて申上候、御相談■被成候而可被下候由、被申候事、
| (河喜多)
大坂惣銀ノ算用ニ |一、安東弥二右衛門・川北九太夫申候は、大坂惣銀の御算用仕候、家中ゟノ手伝終弐不罷出候、此段
家中ヨリ手伝終ニ | 中神與兵衛弐申候ヘハ、拙者かたゟ御家老衆へ申入事は惶多儀共にて候間、申候事はなるましき
ナシ | 由にて候が、如何各様ゟ御家老衆へ被仰遣候而可被下之由被申候、返事は、惣銀の何事も中神與
何事モ惣銀米奉行 | 兵衛次第にて候上は、此方ゟ申儀にて無之候間、與兵衛ゟ急度被申遣、手伝参候様ニ可被申之
次第 | 由、申渡候事、
力革ノ制作 |一、金津金次郎被申候は、去年 御上洛之時被仰置候は、なめしかわのきれにて、力革を幾筋も仕せ
鞍革ノ用 | 置可申由、御意候、就夫、なめしかわを改申候ヘハ、上垣京右衛門尉手前になめしかわのきれ御
| 座候、是にて可申付候哉、得御意候由被申候、返事ニ、其子細は大学殿へ御出候而、御尋あるへ
| く候由、申渡候事、
上野興国寺近辺ノ |一、田川御郡奉行釘本半左衛門尉被申候は、上野興国寺近辺ニ開御座候、 三斎様御代ゟ、右開ノ分
開分興国寺へ寄進 | 興国寺へ被下来候へ共、寛永三年ノ正月ニ、御礼ノ出入ニ付、興国寺の住持 御前をそこなひ申
サル | ニ付、開ノ分を被召上候、左様ニ候ヘハ、ひらきの米御座候、此米は興国寺ノ作事なとも御座候
住持寛永三年年頭 | ハヽ、其入目ニ可仕候とて、年々ノ分集申候、然処ニ、寺も大破ニをよひ申候間、此米にて作事
ノ礼ノ出入ニツキ | 由、当住持申候、
召上ゲラル | なと仕度候〇如何可有御座やと披申候、此方よりノ返事ニは、右之様子はかりにてハ無御座候、
現住持年々ノ開分 | 何かと出入の事多有之ニ付、右之通かと覚申候、其上不得御意、下にて申付儀は不罷成候間、可
ヲ作事料ニ乞ウ | 有申付由、申候事、
| (田川郡)
銀子六百匁分香春 |一、釘本半左衛門登城にて被申候ハ、香春ニ御座候銅ヲ、銭下地ニ銀子六百目分鋳置申候、其まゝ置
ノ銅ヲ銭ノ下地ニ | 申候てハ、何之御用ニも立不申候、今銀子弐百目被遣候ハヽ、新銭ニ鋳立可申と申候、銭ニ仕候
鋳ル 新銭二 | ヘハ、弐百貫文御座候、左様に候ハヽ、元銀二八百め引、〆弐百めノ御とく参候、如何可被仰付
百貫文鋳造ノ差引 | 哉と披申候間、物積り之衆二談合被申候へと申候ヘハ、惣積之衆二談合仕候ヘハ、新銭に仕候て
二百目ノ利得 | 可然由、被申候由候事、
| (吉志村、規矩郡)
田作ノ鉄炮足軽ノ |一、田作り之御鉄炮衆ニ田地わりノ儀申度候ヘハ、きし・寺迫此両村わり内ニ入申候ヘハ、何共可仕
田地割ニ吉志寺迫 | (同郡)
村ハ作リ得ズ | 様無御座候、たとへ余の所にて三石米は弐石御渡候とも、余之處にて御座候ヘハ作り可申候、吉
| 志・寺迫にて候ヘハ不罷成候由、申きり候事、
今日の昼のTV「徹子の部屋」には、女優・名取裕子嬢(63)が出演されていた。相変わらずお美しい。
200匹のメダカを自宅のベランダで飼育し、その餌としてトイレではゾウリムシを培養していると仰る。
大女優のことだから、さぞ立派なアクアリュームかと思えば、発泡スチロールの箱に黒いビニール袋をかぶせたものがいくつも並んでいた。
又トイレの便器の廻りには、培養したペットボトルが10本ほど置かれていて、これらを公開されるというのがすごい。
徹子御婆さんも驚きのご様子だったが、なんだかそんな大らかなお人柄に好感が持てる。
私は以前ミジンコをメダカの餌にしたいと思い、大いなる興味を以てジャズサックス奏者の坂田明氏の著「私説ミジンコ大全」なる本を購入した。
坂田氏は広島大学の水畜産学部水産学科卒業で、「ミジンコ研究者」として名を知られている。
モニター付きの大きな顕微鏡を買い込み、ミジンコのお産を観察するという徹底ぶりである。
私は、小さな水盤に「沢潟(おもだか)」を植えているが、荒木田土を購入して植えたから、水を張ったらミジンコらしきものがうようよ発生した。
荒木田土に巣くっていたのだ。
私もなんとか坂田先生のお導きで増殖させてミジンコをメダカの餌にしたいと思ったが、そう簡単にはいかない。
今日の裕子嬢はゾウリムシを培養し、これをミジンコの餌にされているという。そんな話は大変参考になった。
今度は少々勉強して本格的にやってみようかと考えている。
WEBでは、元東邦大学理学部 生物学科の先生が、「ゾウリムシの簡易な培養法」というサイトを公開しておられる。
これならなんとかやれそうな気がする。問題はまずはゾウリムシを採取することと、「強力わかもと」という薬を準備しなければならない。
この薬は胃腸薬だと思うが、培養にこの薬を使うという発想がすごい。「日本イグノーベル賞」を差し上げてもいいような奇策に思える。
動画もあってまさにその効果のほども実証された。まずは10錠もあればいいのだが「108錠(9錠パック×12)500円」とある。
ドラッグストアで購入するときには、絶対ゾウリムシ培養の為に購入するのだということを明言しようと思う。
そして培養に使った後の残りは、時折痛むわが「胃」の薬として使うことになる。
メダカを飼うために裕子嬢をはじめ、皆さんおおいなる努力をされていることを実感した。
愛犬が死んでから、生き物を飼うことは「絶対いや」という奥方も、私のこの道楽には文句も言わない。
また世話を手伝おうという気も一切なく、わがビオトープを覗くこともしない。無視されている。
お互い干渉しないのが夫婦円満の秘訣である。
メダカ・・なんとも可愛いんですよ・・・200匹はいらないけど。