津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■霊樹院(古屋姫)さま

2023-03-18 06:47:51 | 人物

 「西の武蔵塚」とよばれる処に、三卿家老有吉家五代(源有吉を初代とする有吉家の系図による)英貴室・霊樹院(古屋姫)の墓地がある。有吉家ではなく細川家が建立したものだと伝わる。??
有吉家の代々の墓地は、坪井の「峰雲院」であるが、英貴室・霊樹院さまとそのお子達だけが特別扱いされている。
実は20代・有吉立礼が明治36年に当時の大蔵大臣曽禰荒助に提出した「家記概略」に「霊樹院さまは豊臣秀頼の娘」だとしたことから、いろいろ議論がなされている。
国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏が、著書「大阪落城異聞‐正史と稗史の狭間から」に「熊本藩細川家家老有吉家と秀頼息女霊樹院伝承」で取り上られた。

 有吉英貴は3代・立行(平吉・四郎右衛門)の二男だが、嫡男・興道が元和4年に36歳で死去したため、本家5代目となった。
元和8年(1622)5月14日の忠利宛三斎書状に、二人の結婚に関する記事が現れる。
つまり、前の奥方(朽木六兵衛女)が亡くなって十日後の話である。
   (前略)有吉平吉(立道=英貴)女房共煩候て相果候、然者、薮小吉(正直)所へ遣候伊賀殿(三淵好重=幽齋末弟)
   むすめ之いもと(妹)候て、それを遣度候
そして当人たちには全く話してはいないし、同心してくれたら「来冬之時分可申出候」としながら忠利に報告している。

 英貴は正保2年(1645)2月に46歳で亡くなっているから、この時期は24歳くらいであろうか。
一方秀頼の死は元和元年(1615)であるが、当時このお子秀頼娘だとされる古屋姫は何歳であったろうか?
またこの姫は加藤清正の伝手で九州に入っているが、いつの時期細川一族三淵氏の許に入られたのであろうか。
正史では語られることのないこの姫様のことは、ただ憶測の中で不思議な存在としいぇ語り継がれていく。

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・4

2021-12-17 06:54:47 | 小川研次氏論考

     第六章 林外記

    一、林外記の出自

寛永二十年(一六四三)二月二十一日(鴎外・四月二十一日)、阿部一族は誅伐されるのだが、外記は新藩主光尚の寵臣とされ、この年の四月二十七日、「一月に一度宛人を派遣し、隣国の様子を見ることを林外記に命ず」(『熊本藩年表稿』)とあり、千五百石の大目付役であった。(「真源院様御代御侍免撫帳」*真源院は光尚)

大目付は家老・中老・惣奉行に次ぐ重職であるが、この頃の細川家では奉行と同格であったようである。
外記は細川家文書に散見されるが、出自は不明である。その系図は当然だが、阿部一族と同じく抹消されている。
「於豊前小倉御侍帳」、「真源院様御代御侍免撫帳」に「林」姓の家臣は多く見られるが、千石以上の者はいない。突然、召し出されたとも考え難い。推定生年を元和六年(一六二〇)生まれとしたら、父親が小倉藩時代から仕えていたと考えるのが妥当であろう。まず、可能性のある「林」なる人物探しをしてみよう。

一つ考えられるのが、「利根川道孝」(一五六一~一六四一年)である。外記からすれば、祖父の年齢であるが、養子も考慮してみよう。

豊後国主大友義鎮(宗麟)(一五三〇〜一五八七年)の二男親家のことであるが、慶長十四年(一六〇九)より百石三十人扶持で細川忠興に客分格で招かれている。(「於豊前小倉御侍帳」) 天正六年(一五七八)、親家は元服した時に、同門名跡「林家」の「林新九郎」と名乗る。(外山幹夫『大友宗麟』) 又、この頃に正室を迎えているが、宗麟の継室となった「ある高貴な女性」(ルイス・フロイス『日本史』)の娘であった。

天正六年(一五七八)早々、宗麟が奈田夫人と離縁し、臼杵城を出ていった時に連れ出して再婚するのが(八月二十八日)、夫人の侍女頭であった「高貴な女性」であるが、前夫との間に娘がいた。前夫は耳川の戦いで戦死する大友家重臣・吉弘鎮信(一五四四~七八)とされる。側室であったが、離縁して奈田夫人に仕えていたのだろう。

「国主(宗麟)がこの女性に愛情を寄せたのは、彼女はすでに四十歳(一五三八年生か)を数えていたから、その愛らしさによるのではなく、国主の意にかなった別の面を有していたからである。すなわちこの女性は、つねに病弱である国主にまるで奴隷のように奉仕していた。彼女はそのほか器用な才覚のす持主で、家事を司ることに秀で、しかも国主の次男(親家)は、この女性の娘と結婚していたから、実のところ息子の義母に当たっていた。」(ルイス・フロイス『日本史』)

「新たな奥方と、国主の次男の妻であるその娘が、キリシタンの教えについて話をすべて聞き終わると、国主はフランシスコ・カブラル師に、臼杵の教会は遠いから、妻は病身で、目下、自由に尊師らの司祭館まで出向いて受洗するわけにはいかぬので、彼女たちに洗礼を施すために来訪されたい、と伝えた。」(同上)

「カブラル師は、二、三名の日本人修道士を遣わして、奥方の部屋のなかに、運搬できる祭壇を設置させ、臼杵の司祭館にあった最良の祭具を彼女の洗礼の為に運ばせた。国主は満足そうに、天蓋を作ったり、祭壇を設けるように命令しながら活発に振舞った。このようにして奥方と娘両名は受洗し、奥方にはジュリア、娘にはコインタの教名が授けられた。」(同上)

実はこの時、宗麟はまだ洗礼を受けていなかったが、その年(一五七八)七月二十五日に受洗、洗礼名はフランシスコである。(同上)二男親家は本人の強い希望で天正三年(一五七五)の十四歳の年にすでに受洗しており、ドン・セバスチャンの洗礼名を持つ。受洗したコインタは十六歳だったと思われ、親家は十七歳となり若き夫婦であった。

さて、三年後の一五八一年のフロイス『日本史』に興味深い記録がある。もう一人の「林」である。
イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが臼杵を訪問している時に、事件が起きる。

「夜明けの一時間に、林ゴンサロと称するキリシタンの貴人の家に火災が発生した。彼は国主フランシスコの娘婿、すなわち国主の二度目の奥方ジュリアの連れ子と結婚しており、臼杵の重だった人物の一人であった。(中略) 彼の妻はコインタと呼ばれていた。彼は二十五歳、彼女は十九歳を数えた。」(同上)

『イエズス会日本年報』(一五八二年二月十五日付、長崎発・ガスパル・コエリョ)によれば、「ゴンサロ林殿と称し、年齢は二十五歳で、夫人は十五、六歳に過ぎなかった」とあり、コインタの年齢が若干異なるが、母ジュリアの年齢(四十三歳)から考えると「十九歳」の可能性が高い。
親家の妻コインタと同一人物であろうか。そうであれば、親家は数年後には離縁していたことになる。

「林ゴンサロ」は志賀親成(ちかしげ・一五五六~一六二二)で林与左衛門宗頓(むねはや)とされ、豊後国のキリシタン柱石となる岡城城主志賀親次(ちかよし)の実兄とされる。また、細川家に仕えた清田鎮乗(寿閑・浄閑)も兄弟とされる。(『戦国武将出自辞典』)

親成は文禄二年(一五九三)の大友家改易後に立花宗茂、加藤清正らを頼り、その後は長崎へ行き、浦上村淵庄屋志賀家の始祖と伝わる。(長崎市指定史跡志賀家墓地墓碑より) 典拠は文政四年(一八二一)に編纂された『志賀家事歴』(長崎歴史文化博物館蔵)と考えられるが、親次の息・親勝を養子とし淵村庄屋初代としている。しかし、宝暦年間(一七五一〜六四)から明治まで編纂された細川家『先祖附』に親勝は「加藤忠広御代新知二百石」から浪人となり「細川入国時沢村大学方より御連召出二百石」とあり、細川家に仕え、志賀家は江戸末期まで続いている。(「新・肥後細川藩侍帳」『肥後細川藩拾遺』)

ここから考えられることは、親勝も叔父の親成と立花家、加藤家と同行していた可能性がある。加藤家改易の年寛永九年(一六三二)、同年、親勝は移封後の細川家に召し抱えられのだが、この時、親成は長崎に向かったのだろうか。

さて、親家がコインタと離縁していたと考えられるのは、宗麟の臨終の時のことである。

天正十五年(一五八七)五月六日(日本側史料によると五月二十三日『大友宗麟』)、イエズス会司祭フランシスコ・ラグーナは宗麟の死を悟り、「私は奥方のジュリア様と、その長女および息子のドン・セバスチャンをそっと呼んで彼らに事情を打ち明けました。すなわち私はその時からは、もうこれ以上、国主の生命を長引かせることでは祈らないことにしていました。それのみか国主はお亡くなりになるでしょうし、また多くの理由から、国主にとってはそのほうがむしろよいのだ、ふさわしいのだとの確信を抱くようになっていたのです。」(『日本史』)と打ち明けたのである。

「その長女および息子」は宗麟の長女ジュスタと次男親家である。

「国主の臨終に立ち会った子女は、ドン・セバスチャン(親家)、ジュスタ、レジイナ、モニカ、ルジイナ、それに久我殿に嫁いでいる異教徒の娘、および奥方ジュリア様でした。息子の嫡子(義統)とパンタリアン親盛(宗麟三男)は、当時、日向での戦いに参加していましたので、その場に居合わせませんでした。」(同上)

長女ジュスタは豊前小倉藩で仕えることになる清田鎮乗(寿閑・志賀家)の義父鎮忠に再嫁する。
レジイナは伊東義賢の妻だが、「モニカ、ルジイナ」は宗麟とジュリアとの間に生まれた娘とされる。(同上)

「国主は年老いてから生まれ、娘たちのうちではなくもっとも年下のモニカとルジイナという教名の二人の娘をこよなく可愛がっておられた」(同上)

つまり、親家の妻コインタは宗麟臨終の場にいなかったことになる。しかし、親家には、男子がいた。母はコインタなのか不明だが、慶長十七年(一六一二)、細川家に五百石(のち千石)で仕えた大友親英、のちの松野親英(織部・一六四七年没)である。

また、宗麟三男の親盛は慶長十一年(一六〇六)から細川家に千石で召抱えら、加賀山隼人亡き後の豊前キリシタンの柱石となる人物である。親盛は長兄義統の三男正照(右京)を養子に迎えている。

留意すべきは阿部一族上意討ちの時、藩主光尚が身を寄せていたのが右京邸であった。(『阿部一族』)

文禄二年(一五九三)、宗麟嫡子義統が秀吉により改易された時だが、フロイス『日本史』)によると、「国主の奥方であったジュリア、それに林殿の妻となっている娘コインタが、ごく少数の家来に伴われて、(中略) 毛利の国に旅立った。」とあるが、ゴンサロ林(志賀親成)の妻と考えられる。豊後国から、宗麟の娘マセンシアが嫁いでいた小早川秀包の領地筑後国へ入ったのである。この時、宗麟との間にできたとされる娘モニカとルジイナも同行したと考えられる。

多くの大友家重臣が細川家に仕えたが、オールキリシタンであった。このことが、後々に細川家へ重大な影響を及ぼすことになる。

    二、清田石見

大友宗麟の長女ジュスタ(前夫・一条兼定)の夫は清田鎮忠であるが、その娘(先妻の子とされる『大友の末葉・清田一族』)は涼泉院といい、慶長十四年(一六〇九)に細川家に仕えることになる清田鎮乗(寿閑、浄閑、志賀親成・親次兄弟)を婿養子として迎えていた。そして、二人の娘が幾知(きち)で、のちに忠興の側室となり、宇土藩初代藩主細川立孝と刑部家興孝の母となる。そして、宇土藩第六代立礼(たつひろ)の時、本家を継ぎ第八代熊本藩主細川斉茲となる。つまり、ガラシャ夫人の血筋は途絶え、大友・志賀家の血筋となるのである。

また、幾知の長兄の乗栄(のりひで・七助・石見)は大坂の陣で一番槍の功により、忠興より二千五百石の知行を得ている。(『綿考輯録・巻十九) 室は忠興の妹伊也の末娘である。(『綿考輯録・巻四十二』) つまり藤孝の孫であり、忠興の姪となる。

やがて三〇三五石の大身となり、島原の乱で胸に銃弾(矢)を受けたが、「寛文四年(一六六四)六月御侍帳」に「清田石見組」とみえることから、生存していたと考えられる。実は、『阿部茶事談』の作者(口述者)とされる栖本又七通次は「十挺頭二百石」として清田石見組に属していた。(同御侍帳)

ここで、この二人の不思議な縁についての記録がある。

栖本家は天草五人衆(志岐、天草、栖本、上津浦、大矢野)の一族であるが、天正十五年(一五八七)の豊臣秀吉九州平定の時、五人衆は島津に加担して一万田の小牟礼城(大分県豊後大野市)に籠城していた。その時に攻めてきたのが志賀親次である。

つまり、石見の父鎮乗の兄弟である。親次は城内にいる天草ドン・ジョアン(天草久種)をキリシタンのよしみで助命するが他の者は皆殺しになると伝えた。しかし、ジョアンは一人助かることを不名誉とし、「全員の命を助けて頂きたい」と返した。

「ドン・パウロ(親次)は、この願いを名誉ある良いものと認め、彼の願いをかなえてやり、ドン・ジョアンに対する愛から全員を許し招待して大いにもてなした。」(「一五八八年二月二十日付フロイス書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集第三期第七巻』)

五人衆は親次に深く感謝し、島民とともにキリシタンに改宗することになる。天草は三万人を超えるキリシタン島となった。

翌年、栖本親高は父鎮通と家臣らと受洗し、領民ともに二千二百名以上が入信した。(『フロイス日本史11西九州篇Ⅲ』)

親高の曽孫が又七通次である。又七は加藤家改易後の寛永十年(一六三三)九月から細川家に仕えることになるが(『肥後国誌』)、石見が栖本家の恩人である志賀親次の甥と知り感慨深いものを感じたであろう。また、親次の息・親勝もいた。

このような関係から、又七もキリシタンに理解があったと考えられ、『阿部茶事談』は水平思考によるアプローチが肝要である。また五人衆の一族である天草十太夫、上津浦六左衛門も細川家に仕えた。両人は寛永十三年(一六三六)にキリシタンから仏教徒に転宗している。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)

さて、宝暦年間(一七五一〜六四)から明治まで編纂されている『先祖附』に石見の嫡子「外記」が記されている。細川藤孝の曽孫にあたり、忠興にとっては姪の子で幾知の甥となる。この「外記」が「林外記」とは確定できないが、不可解な点がある。

石見の跡式相続は嫡子「外記」ではなく、二男の主馬(乗治)とあるが、「外記」は「病身ニ有之、御奉公難相勤候ニ付」とあり、主馬も相続を「御断申上、浪人仕」となり、病死している。帰農したとされる二人の兄弟に何が起きたのだろうか。

藩が元キリシタン(転びキリシタン)を監視するために作成した「私家来清田石見母転切支丹涼泉院系」(類族帳、『肥後切支丹史』)に石見は「寛永二十年(一六四三)死」と付記されているが、上述の「御侍帳」にみえること、また慶安四年(一六五一)以降に作成されたと考えられる「二ノ丸之絵図」(『新熊本市史、別編第一巻上』)に屋敷があることから、間違いであろう。

「類族帳」には石見、主馬、そして曽孫の宗也の名があるが、「外記」は記されていない。

宗也は主馬を相続したと考えられるが、不明である。宝永三年(一七〇六)に六十二歳で没している。菩提寺は流長院(現在中央区坪川)と記されているが、石見叔父の五郎大夫(五百石)も同寺に眠るとある。

主馬の室は重臣・沼田延之の娘であり、二男は延之の弟・延春の養子となっている。沼田家は忠興の母方(沼田麝香)となり、細川家重臣として中核を担っていた。

「外記」や主馬の母は細川家、弟は沼田家という名門「清田」家であったが、大身(三千三十五石)の石見の跡式相続はなされていない。つまり、事実上の御家断絶に等しいのではなかろうか。

「清田家」は寛永七年(一六三〇)から鎮乗(寿閑)の四男左近右衛門(石見弟)が三百石で仕え、主馬(石見二男)の息である源左衛門(養子)、そして甚右衛門(養子)と継ながる。この甚右衛門は松野親英(織部)の三男である。つまり、宗麟二男親家(林新九郎、妻コインタ)の孫となる。

左近右衛門は志賀親成(林与左衛門、宗頓、妻コインタ)の甥にあたる。先述の二つの「林」家が繋がっているのである。

推考として「外記」は清田家だが、小倉で生まれ(推定一六二〇年)、忠利により召し出され、江戸にいる光利(光尚)に付けられた。後に父・石見から分知し、同門名跡「林」姓を名乗った。肥後国へ転封後、島原の乱の功により知行加増し、忠利没後に光尚により千五百石の大目付の重職を担うとしたら、謬見だろうか。

    三、阿部一族と林外記

寛永十四年(一六三七)十月に勃発した島原の乱の様子である。二十六日、長岡監物(米田是季)が沼田勘解由(延之)を招き囲碁の会を催していた折に西南の方角から大砲の音を聞いた。翌日、飽田郡小嶋村より島原辺りから火が出ており鉄砲の音が聞こえてくると伝えたのが、郡奉行の阿部弥一右衛門と田中勘之助であった。(『綿考輯録巻・三十七』)

寛永十五年(一六三八)二月に幕府軍の総攻撃より反乱軍は壊滅した。終焉の地となった原城跡は二〇一八年七月に世界文化遺産登録となり、永遠にその悲劇を世界に伝えることになる。

さて、本丸一番乗りを果たした細川軍であるが、忠利は家臣らの功績を讃えている。

同年五月七日、花畠御殿(藩主邸)にて、忠利から三人が陣刀を賜っているのだが、「田中左兵衛」「林太郎四郎」「阿部市大夫」である。三人とも「光利君衆」、つまり、忠利の嫡子・光尚(光利)の初陣に伴ったのである。(『綿考輯録・巻四十九』)

左兵衛は先述の田中兵庫の養子(佐久間忠助)とされ、島原の乱で本丸一番乗りを果たしたといわれる。(公儀は益田弥一右衛門)(同上) 

元和七年(一六二一)十二月十四日、忠利は三歳の六(光尚)を連れて江戸に向かった。小倉藩藩主として初めての参府であった。
この時、左兵衛は光尚付きの小姓として随行したと考えられ、やがて新知百石を受けた。(「於豊前小倉御侍帳」) このことから他の二人より七、八歳年上だったと思われる。太郎四郎と市大夫は光尚(一六一九年生)とほぼ同じ歳と考える。
山本博文氏著『江戸城の宮廷政治–熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書簡』が左兵衛の一番乗りを詳細に伝えている。

「幻の一番乗り」として、「光尚の歩頭(かちがしら)田中左兵衛は、光尚に命じられ、志水久馬らとともに益田(弥一右衛門)より先に本丸への乗り入りを敢行している。海手の隅脇から堀のない石垣を上がり、一番乗りと名乗って本丸に入った。」しかし、「同じく乗り込んだ志垣小伝次らは討たれ、左兵衛も負傷した。」ここで後退するのだが、「のちに一番乗りと認定された益田弥一右衛門はまだ石垣の下にいた。」左兵衛は益田に「我は先刻より城中にて相働き、かくのごとく手負いたる故むなしく帰るなり、働きて高名せよ」と言い放った。こうして、益田は上使により一番乗りと認定された。その後、気遣った忠利は左兵衛に「手ずから金熨斗つきの陣頭を賜い」、「益田に倍々し御取り立てなさるべく候間、遺念あるべからず」との誓文を添えたという。知行五百石から千五百石に加増され小姓頭を拝命された。左兵衛は生涯「一番乗り」を口にしなかったという。

さて、陣刀を賜ったのは左兵衛一人ではなく、上述の三人である。つまり、他の二人は左兵衛に随い一番乗りを果たしている可能性がある。

「林太郎四郎」は林外記である。興味深いのは「市大夫」で、阿部弥一右衛門の三男である。(『阿部一族』) 三人の原城での様子が伝わる。

「田中左兵衛・林太郎四郎・阿部一(市)大夫三人共ニ堀ニ着働候と被遊、」(『綿考輯録・巻四十九』)とあることから、三人が一番乗りだったことは大過ないだろう。また、「馬乗手負」(『綿考輯録巻・四十八』)に「近習田中左兵衛」と「浪人分阿部市大夫」とあり、この時、二人は負傷したのは間違いないが、市大夫は浪人であった。

次に八月一日だが、島原の乱の武功により阿部弥一右衛門の四男「阿部五大夫」、九月一日は二男「阿部弥(五)兵衛」、十一月二十四日に三男・市大夫もそれぞれ新知二百石を拝領している。(同上) つまり、四男は年齢不詳だが少なくとも二男、三男は浪人であった可能性がある。

外記の加増の記録はないが、当然加増されたとみるべきであろう。

一方、弥一右衛門の長男権十郎(権兵衛)は藪図書組にいたが、「手負」(『綿考輯録・巻五十五』)で、「小姓組頭道家左近右衛門の組下で左手の指四本を打ちひしがれ、忠利・光尚の命令により小屋へ引き返して養生した。」(『真説・阿部一族の叛』)とあり、投石で負傷し功を立てることができなかった。同じく投石で脛を怪我し離脱した剣豪がいた。小笠原勢として参戦していた宮本武蔵である。(『宮本武蔵有馬直純宛書状』青梅市蔵)

また父・阿部弥一右衛門は知行方奉行沖津作大夫と共に、軍需物資の徴収と輸送を担当していて、戦線にはいなかったとされる。(「新撰御家譜原本真一」『真説・阿部一族の叛』)

さらに、「金子一枚御小袖二羽織一」が「従光尚」の田中左兵衛、林外記、和氣久右衛門に与えられている。「十一月二十四日従肥後守様御褒美御拝領御衆」(「拾集記」『肥後文献叢書第四巻』) 市大夫は浪人だったから外されていたのだろう。
「和氣久右衛門」は改名前は明石源左衛門であった。(『綿考輯録・巻四十九』)その姓から、宇喜多秀家・明石掃部の旧家臣であったと考えられる。
ちなみに、「清田石見」は「後御吟味役」として家老たちと並んでいるが、被弾したことは先述した。(『綿考輯録・巻四十八』)

また、「原之城御吟味之御奉行」に、忠利に殉死する寺本八左衛門、元キリシタンの奥田権左衛門(加賀山隼人甥)、須佐美権之丞も連なっている。権左右衛門と権之丞は島原の乱の前年に転宗していたのである。(『肥後切支丹史』) 

    四、大目付林外記

外記は大目付だが、家老らから外記宛の書状があり、あたかも藩主光尚の代理者の如くである。
外記に関する史料「覚書」を見てみよう。
まず、正保三年(一六四六)九月二十六日付けの細川行孝の書状である。
宛先は田中左兵衛と林外記であるが、連名されていることから、その重責を知ることができる。(「新・肥後細川藩侍帳」)

正保二年(一六四五)五月十一日、三斎(忠興)と幾知(石見妹)の子・立孝(立允)が三十歳で急逝する。八代藩の独立を夢見ていた父三斎(忠興)は愛息子の死が祟ったのか、追いかけるように、その年の十二月二日に逝去した。

立孝の遺児宮松丸(帯刀・行孝)は八歳であったが、藩主光尚は宇土藩立藩を江戸幕府に働きかける。やがて正保三年(一六四六)六月、行孝は宇土、益城郡に三万石の知行を領し、宇土藩が成立する。

そして、行孝は八月に将軍徳川家光の御目見となるのだが、この宇土藩立藩に関する報告を感謝を込めて光尚にしている。同日、外記らにも同一内容の書状を送っている。

次は井門文三郎・興津弥五右衛門・福知平右衛門の外記宛書状である。興津は森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』でその名は知れるが、翌年の正保四年(一六四七)、三斎(忠興)に殉じるために命日十二月二日に自害する。弥五右衛門の二男・小才次は清田五大夫(石見叔父)の曽孫・惣右衛門の養子となる。

書状には立藩のために尽力した三斎寵臣の長岡河内や立孝家老の志方半兵衛門の離職についても言及している。
長岡河内は村上景則のことで、父は慶長六年(一六〇一)に一万石で細川家に仕えた村上水軍備中笠岡城主景広である。景広はキリシタンであったことは先述した。
景則は大阪の陣において清田七助(石見)に次ぐ、功を挙げた。(『綿考輯録・巻十九』) 慶安二年(一六四九)、景則は離藩し長崎で浪人となったが、時の老中堀田正盛に召し出されている。

次は、松野親英は正保四年(一六四七)に没し、その相続に関する覚書が存在するのだが、宛先が林外記である。(『熊本縣資料近世編二』)
親英の知行千石を松野縫殿助(亀右衛門)と善右衛門で相続することの覚書である。三男は先述の甚右衛門で清田家に養子に入っている。

    五、光尚と外記の死

慶安二年(一六四九)十二月二十六日、光尚は三十一歳で急逝するのだが、嫡子六丸はわずか六歳であったことから幕府への封地返上を遺言していた。しかし、翌年の慶安三年(一六五〇)、国元家老らは六丸の跡目相続に尽くすことになる。

『熊本藩年表稿』から時系列に見てみよう。
「同年二月三日、稲葉能登守、跡目相続について幕府の動向の趣を林外記に伝う。是日、林外記、細川家の家老に伝言す(家譜続)」とあり、江戸にいた外記も相続に関して尽力していた。やがて、「四月十八日、幕府、遺領相続を命ず。長岡式部、同勘解由これをうく。光尚、遺言により封地返上を願うも特に許可さる。また政治は家老にて行わせ、幕府目付及び六丸の親戚小倉城主小笠原忠真をして監督させる旨を命ず。」
ついに、六丸(綱利)相続がなされたのである。伝えられたのは、松井興長と沼田延之であるが、幕府目付と忠利の義兄小笠原忠真の監督という条件が付いた。幕府目付に能勢小十郎頼隆、藤田数馬之助長広が任ぜられた。

「六月二十八日、幕府目付並びに小笠原忠真、熊本着」
この時、細川家家臣の佐藤伝三郎は目付の能勢小十郎に「御附」している。(「林外記討果之節書置」『真説・阿部一族の叛』)
そして、三日後の「七月一日、佐藤伝三郎、意趣ありて林外記討ち果たす」(『熊本藩年表稿』) 事件が起きるのである。(家譜続・八月一日としている)

林外記の家臣による緊迫した事件現場の状況が伝わる。
後藤市右衛門と原武左衛門の「御尋ニ付而申上覚」(『津々堂のたわごと日録』)である。伝三郎が朝五つ(八時)過ぎに外記邸を訪ねてきたが、二人きりで内密の話があるとのことだった。やがて刀がぶつかる音が聞こえてきたので、部屋へ行くと外記と伝三郎が差し違えたとみえ、二人の子(男子)と共に果てていた。(実際は伝三郎は生存) 
やがて市右衛門らは「女房衆居申候所江参」、「奥之口」を打ち破り、「外記女房衆召連明石玄碩所江参申候」とある。

さて、外記の屋敷が突然襲われたのだが、妻らは隣家の医師明石玄碩邸に逃げて助かった。八月八日に熊本を去ったとある。(「細川家日帳」同上) 母レジイナも一緒だったのだろうか。将軍家光に仕えていた兄弟政盛を頼ったのであろうか。いずれも悲傷の旅路に違いなかった。

また玄碩は万治二年(一六五九)に 「知行被差上候」とあり、六百石の禄を失っている。いずれにせよ、隣人外記家族とは何らかの関係があると考えられる。もし、南蛮医学を身につけた明石小三郎だったとしたら、そしてレジイナも一緒だったら隣家に妹と姪がいたことになる。
外記一家殺害の理由も明らかでなく、伝三郎は無罪という不可解な事件である。
光尚の死が契機であることは間違いないが、明らかに何らかの強い意志が働いていることを感じざるを得ない。

伝三郎「書置」(七月一日)によれば「病気で死ぬより、いっそ国家の大患である外記を殺して死ぬのが奉公である」と言い、家老の暗黙の了解と援助の下に行われ、家老米田監物、六丸の後見役小笠原備前の計らいで、お構いなしとされたという。(『真説・阿部一族の叛』) 
このことから、伝三郎個人の動機でないことはわかるが、家老らによる横暴な外記排除とも考えにくい。やはり、光尚の死と六丸相続に関係することであろう。
六丸相続の条件の一つに「明石狩り」があったのでなかろうか。そうすれば、黒幕は六丸相続のキーマン小倉藩藩主小笠原忠真が浮かんでくる。徳川家康の鬼孫と言われた人物である。

大坂夏の陣の折、忠真の父・秀政と長兄・忠脩は戦死している。つまり、豊臣方明石一族は敵となり、敵討ちの相手である。細川家中から排除しなければならない。
忠真は掃部の旧臣・島村十左衛門を召し抱えた時(一六三二年以降)から、明石一族のことは知っていたと思われる。
しかし、明石玄碩が小三郎としたら何故殺されなかったのか。それは独り身の高齢な医師であり、弟子らがいたからと考えられるが、消息不明となる。

『阿部一族』の結幕は一族上意討ちではなく、林外記一家の死を以って迎えたのである。ここに、『阿部一族』事件の真相の鍵がある。しかし、森鴎外『阿部一族』には林外記の討死についての記述がない。それは、依拠した資料に記載がなかったと思われる。長年、『阿部茶事談』は加筆修正されているからである。(藤本千鶴子「校本阿部茶事談」)

林外記の妻は明石掃部の孫である。それは、明石掃部一族との関係を意味する。

『阿部茶事談』の成立要因は「「阿部一族は明石一族」という史実を隠蔽するために物語化したことでなかろうか。しかし、忠利の死により「明石狩り」が行われ、光尚の死により完結されたと考えるならば、阿部弥一右衛門こそ、明石一族でなければならない。弥一右衛門は「初めは明石猪之助」であった。(『綿考輯録・巻五十二) 

    六、仮説

「此内明石掃部ハにけたると云説も有之」(『綿考輯録巻十九』)とあるが、同じく大野治長の次弟主馬(治房)にも伝わる。

大坂夏の陣直後の五月二十七日の細川忠興書状に「大野主馬舟にて西国表へ罷退候由」(同上)とあり、主馬が逃亡したということで、豊前領内で徹底捜査をし、主馬を捕縛するようにと命じている。

さて、三十四年後の慶安二年(一六四九)二月八日付の京都所司代板倉重宗の触書(「森家文書」『大和下市史』)により、大野主馬一族の存在が明らかになった。

近江にいた主馬の嫡子宗室と母いんせい(主馬の妻)が捕縛されたのである。主馬の行方についてキリシタンと同時に厳しい穿鑿が行われたが、主馬は見つからなかったようである。

「箕浦誓願寺記」(『大阪落城異聞』)に詳細に記されている。

近江国坂田郡箕浦村の誓願寺の住職の妻が主馬の長女であったことから、主馬妻子の捕縛に繋がったとある。また主馬の二男三男もいたことが判明した。

板倉重宗の取り調べによると主馬は大阪城中で家族らと五月六日に今生の別れの盃を交わしたとあり、「定て主馬のこの世には有まし」と宗室は父の死を伝えた。落城の折、長女十歳、宗室八歳、二男六歳、三男二歳とあり、母が子供らに女性の衣装を着せて逃げたという。

幕府の沙汰は「男子皆打首、女子ハ助命」となった。三条川原での処刑には板倉重宗も立ち会ったという。

大野一件を阿部一族事件と重ねると奇妙な一致をみる。
ここからは大胆な推測による私見だが、被弾した明石掃部は大阪城で二男内記と水盃を交わした。そして内記は西国へ逃れた。

内記こと明石猪之助は宇佐郡山村惣庄屋与右衛門の養子となり弥一右衛門と改名した。中津にいた忠利の段取りである。元和二年(一六一六)の春頃であろう。宇佐郡の郡奉行だった宗像清兵衛景延は秘密裏に事を進めた。清兵衛は旧小早川秀秋の家臣であったが、小早川家改易後に細川家に仕えた。室は宗像大社大宮司宗像氏貞と大友氏系の臼杵鑑速の娘(大友宗麟養女)の末女である。

妹レジイナが娘と共に兄を頼って豊前へ入ったことや山村惣庄屋の「身内」が百人近いのも、旧臣や使用人がいたことを考えると納得できる。オールキリシタンである。
豊後との国境に位置する村々を管轄した与右衛門はキリシタン組頭であり、宣教師らを保護していた。また身体が不自由になった中浦ジュリアンも匿っていた。
隣接する日出藩主木下延俊の家老加賀山半左衛門は敬虔なキリシタンであり、小倉藩重臣加賀山隼人の従兄弟であった。中浦が籠で行き来していたことだろう。
特に延俊は豊臣方として戦った弥一右衛門と親交を深めた。

元和四年(一六一八)、忠興は忠利の家老久芳又左衛門を筆頭に多くのキリシタン家臣らを処刑した。また、翌年には加賀山隼人や日出藩の半左衛門父子らも斬首された。
しかし、忠利は棄教しなかった。元和七年(一六二一)、小倉城に入った忠利はキリシタン家臣を要所に配し、宇佐郡には側近の上田忠左衛門や河喜多五郎右衛門に当たらせた。
母ガラシャの菩提寺秀林院を建立し、毎年、司祭を潜伏させて追悼ミサを挙行し、忠左衛門の弟太郎右衛門に必要な葡萄酒も造らせた。

寛永九年(一六三二)、肥後国転封が決まった時に忠利は弥一右衛門を侍身分にし、同行させたのである。
妹レジイナと林外記の妻となる娘も従った。

翌年の春には小西行長の孫である司祭マンショ小西が熊本へ潜伏した。ガラシャの追悼ミサが行われたのは言うまでもない。

寛永十一年(一六三四)には、弥一右衛門の長兄小三郎が熊本へ入ってきた。兄弟の再会は三十数年ぶりであった。また、そこにはマンショ小西がおり再会を喜んだ。
南蛮医術を学んだ小三郎は明石玄碩と名乗る。やがてレジイナの娘と結婚した林外記と玄碩は塩屋町で隣人となる。

ここで、細川家家臣の屋敷地図「山﨑之絵図但二ノ丸塩屋町之内茂有之」(『新熊本市史』別編第一巻上)で、登場人物の屋敷を見てみよう。
絵図の成立は付箋で「明暦前後」(一六五五〜五八)とあるが、慶安三年(一六五〇)七月に討たれた「林外記」の名があることから、それ以前に成立と考えられる。おそらく正保年間(一六四五〜四八)あたりからだろう。
旧阿部弥一右衛門邸は斉藤文大夫となっているが、隣人は栖本又七である。忠利時代から大差はないだろう。

さて、寛永十二年(一六三五)七月十二日付の乃美主水と河喜多五郎右衛門への忠利書状に「竹の丸之広間秀林院ニ引候ニ付きて書中見候、こけらふきに申し付くべき候事」(「綿考輯録・巻三十六」)とあり、この塩屋町に最も近い「竹の丸」に母ガラシャの菩提寺を移すことにしたのである。命日の五日前であるが、柿吹きにしてほしいと命じている。

実は忠利は熊本入封間もない寛永十年(一六三三)二月、本丸修復のために花畑御殿に移っている。(『熊本藩年表稿』)
これは寛永二年(一六二五)六月十七日に起きた熊本大地震の影響で石垣などが崩れており、危険であったためである。余震も長く続いており、大雨でさらに被害が広がった。
しかし、翌年寛永十一(一六三四)八月、京都での将軍謁見から帰国して、すぐに「花畑館より熊本城(本丸)へ帰る」(『熊本藩年表稿』)とあり、修復したのであろう。

また、(加藤)忠広の時には花畑御殿は竹の丸と坪井川の上で廊下続きになっており、「それゆえ妙解院様(忠利)御本丸御住居内も」(『綿考輯録・巻三十六』)花畑御殿を行き来することができたとある。
その竹の丸に母ガラシャの菩提寺を建立したのである。花畑御殿にいる時にインスピレーションを得たのだろうか。

さて、この竹の丸に最短距離と言うよりも、ほぼ隣接しているのが林外記邸である。先述したが、隣人は医者明石玄碩であり、目の前が小笠原備前(小笠原玄也の兄、清田石見と義兄弟)、近くに清田石見と田中兵庫、阿部弥一右衛門と栖本又七は隣人同士である。
また、小倉藩で葡萄酒造りに関わった上田太郎右衛門の甥とされる忠蔵、『阿部一族』の竹内数馬も塩屋町である。
花畠御殿を囲むように配置されているこれらの屋敷位置は忠利の意向によるものだったと考えられる。
これは偶然ではなく、その深い繋がりがあるが故に「隣人」なのである。

阿部弥一右衛門の「隣人」栖本又七による『阿部茶事談』を成立させることにより、阿部一族上意討ちを正当化したのである。それは抹消しなければならない真実があったことに他ならない。

寛永十八年(一六四一)三月十七日、細川忠利は没する。十九人の殉死者がでる。
いわゆる「追腹」であるが、キリシタンは自死が最大の罪とされている。しかし、阿部弥一右衛門ことパウロ明石内記はその罪を越えても武士の義を通した。
黄泉の国でも藩主に仕えたいという「情腹」である。(藤本千鶴子『真説・阿部一族の叛』)
そして、忠利の三回忌の後に阿部一族は上意討ちとなる。徳川家による「明石狩り」である。
忠利の義兄小笠原忠真から忖度された忠興の命令により実行されたとみる。藩主光尚が逆らうことができない人物はただ一人祖父の忠興である。光尚はこの時、松野右京邸にいた。大友宗麟の嫡子義統の三男である。義統の弟である親盛(半斎)の養子となっていた。右京は寛永十三年(一六三六)、キリシタンから禅宗に転宗していたが、信仰は続けていたと思われる。しかし、なぜ光尚はここにいたのか。父忠利との約束があったのではないか。阿部一族を守ることである。それが不可能になり、絶望したのである。

先述の「第二章・阿部弥一右衛門」にて宇佐郡山村の弥一右衛門の墓の建碑時期を寛文九年(一六六九)以降としたのは杵築藩主松平英親がこの地を放した時であり、また英親は小笠原秀政の孫であるからだ。つまり忠真の甥である。
ところが、明石家の血は絶えなかった。掃部の孫と結婚していた林外記と子供らがいた。しかし、光尚の死により抹殺されたのである。
小笠原忠真から忖度され、家老政治となった細川藩は「阿部一族事件」の正当化のために『阿部茶事談』を成立させた。

阿部弥一右衛門と一族、栖本又七、林外記らを相反させ、歴史から「明石一族」と「キリシタン」を抹殺したのである。細川家存続のために当然のことである。
しかし、忠利と光尚は禁教令下であったが、キリシタン明石一族を守ったのである。ガラシャの御霊がなす業であったのか。
『阿部茶事談』の登場人物の魂救済のために隠れた真実を伝えることが、泉下の忠利と光尚の願いではなかろうか。

                      (了)

 

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■豊臣・日出シンポジウム

2016-09-25 18:13:35 | 講演会

 大分の日出町教育委員会から案内状が送られてきた。「えっ何故」と思いながら封を切ると、高橋敏先生・氏家幹人先生をお迎えしての講演会である。
日出の藩主・木下延俊が禄の内5,000石を弟に分知したのは、その弟成る人物が秀頼の遺児・国松だからではないかという話がある。
そのことを高橋先生が御著「大阪落城異聞」で取り上げられた。
これは出かけて拝聴したいと考えたところだが、日出は少々遠い。思案のしどころである。 

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■書評「大阪落城異聞」

2016-05-08 12:56:20 | 書籍・読書

 慶長20年5月7日、大坂夏の陣は大阪城の落城と、淀君・秀頼母子の死をもって終焉を迎えた。
勝者徳川方の視点で此の戦い顛末は伝えられてきた。著者・高橋敏先生は巷間伝えられている稗史を紐解きえhこの著を上梓された。
此の中で、細川家家老・有吉英貴夫人・霊樹院が秀頼の姫君であるという伝承を取り上げて居られるが、熊本人としては大変興味深いものである。
この書評がまさに大阪城落城の翌日であることも因縁めいている。(この日を狙ってのことではあろうが・・・・)ご一読をお勧めする。

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