津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■関ヶ原以後

2016-09-22 10:10:39 | 歴史

関ヶ原合戦に於いて細川忠興は黒田長政と共に石田三成の側近・島左近と対峙した。家康の側近・井伊直政の抜け駆け(?)で始まった戦いは、小早川秀秋の裏切等で西軍が大崩して敗走、九月十五日の内に決着した。
九月十八日、忠興は徳川家康から軍功を賞せられて丹後への帰国を命ぜられている。

一方父幽齋は前田主膳正(勝茂)の案内で、同十八日籠城していた田邊城を出て主膳正の亀山城へとむかった。
途中桧山(現・京丹波町)で一泊し十九日には亀山城の本丸に入った。すで忠興の情報が入っており、大津に在ることが伝えられた。
幽齋は翌早朝半里ほど東の馬堀(亀山市)まで出向き、忠興一行を出迎えた。
忠興は父幽齋が生きながらえて田邊城を出たことに得心していない。幽齋は「三度まで勅使を受けて下城せし者 我等ならで外には有間敷」と述べ、忠興は涙を流し平伏したという。
私はこのことは一方的な受け身の話ではないと考えている。■再び「慶長五年七月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」 でも見て取れるように、かなり早い段階でこの結末が予想されている。前年まで田邊城内には、天皇の勅勘を蒙っていた中院通勝が在城していたといわれ、その斡旋が有ったともいわれている。出来レースの感がある。

その後忠興は、田邊城攻撃の総大将・小野木公郷がいる福知山城をを家康の許可を得て攻めている。
公郷は井伊直政や前田勝茂らの斡旋で開城したが、忠興の強い申し入れによって切腹せしめられた。

忠興はその後豊前国を拝領することになるのだが、関ヶ原開戦前には但馬一国を進呈する旨を家康 から約束されていた。   
   今度上方鉾楯付而無ニ被迎合候儀祝着存候
   然者丹後之儀者不及申候 但馬一国無異議
   進置候 尚金森法印・津田小平次可被申候間
   不能具候 恐々謹言
     八月十二日
             家康(花押)
       丹後宰相殿

このことは結果反故にされたわけであるが、その要因は井伊直政にあるといわれている。
井伊直政が小野木公郷の助命を家康に強く進言していたことが受け入れられなかったことによるとされる。

老後も京都に大変執着していた忠興(三齋)であるが、当時この結果をどう受け止めたかを思うと少々興味深いものがある。
新暦・旧暦のちがいはあるが416年前の出来事である。

  

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■脳みそが痛い

2016-09-21 20:07:40 | 徒然

 地震後姿が見えなかった血圧計が一月前に荷物の山からひょっこり顔を出した。
残念ながら電池切れで作動しない。電池を入れ替えて毎日朝夕計測、記録を始めた。
それは良いが155とか160越えとか高血圧気味である。夏の時期頭がくらくらしていたのは暑さばかりではなかったようだ。
疲れも抜けきれずここ数日頭がくらくらして、耳の奥が痛い。私独特の症状かもしれないが、脳みそを左右から抑えるような耳の奥がいたい感じがする。
ここ10日の平均155/88、今日は晩酌もやろうという気がしない。医者嫌いな私が珍しく病院に行ってみようかという気になっている。

ところがどっこい、明日は秋分の日で病院はお休み、一日ゆっくり過ごすことにしよう・・・・・世の中なかなかうまくは参らぬ。

 

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■米田家息女尾藤家に嫁ぐ

2016-09-21 13:27:56 | 歴史

 これも肥後風刺文学にある落書(らくしょ)である。家老米田家是福の息女・類伊が尾藤助次郎知行に嫁いだことに対するものだが、落書とはいえなぜ木村(半平)氏が登場するのか、木村氏にとっては迷惑な話ではある。
15,000石の家老の息女を嫁にもらうについて、尾藤氏は格違いとでもいうのか? しかしご先祖は田原藤太にさかのぼる讃岐十五万石を領した末裔である。
西光坊主云々とあるのは、時習館惣教を務めた細川内膳家五代忠英の娘が蟄居処分となった有吉立邑と不縁となり西光寺に最嫁したことを云っている。
なかなかの博識ぶりだが、下世話なことを楽しむ御暇なお侍の仕業であろう・・・・・

かくいう私とてこんな落書を楽しんでいるのだから、ご同様のお暇な爺ということになる。

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■謎々

2016-09-20 11:24:19 | 史料

 整理中の史料の山から出てきた上妻文庫の「肥後風刺文庫」にあったものである。
天保十一年頃、御殿(花畑邸カ)の脇に落とされていたものを書き写したとある。時の殿様は齊護公、御家老以下は複数人になるので人物の特定はできないが、なかなか辛らつである。
「小麦と掛けて 殿様ととく その心は おまま(食事・・儘)にならぬ」 殿様の事だから「ままにならぬ」では失礼だと「おまま」とするところが面白い。
佐貳とは家老の公式秘書みたいな役職。お楽しみ下さい。
  

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■愛宕下藪小路御屋敷

2016-09-19 10:47:40 | 歴史

以前 藪小路 江戸名所図繪と浮世絵 で書いた御屋敷は、元禄十六年九月十九日に細川熊次郎愛宕下藪小路之屋敷御用に付差上、この屋敷は忠興以来今年迄持ちつたえたもの」として収公された。(熊本藩年表稿より)

いわゆる三齋公の隠居屋敷であるが、元和八年ころの家作とされ三齋死去後は宇土支藩の屋敷となった。
北野隆熊本大学名誉教授によると、建物は寛永十年ころ上屋敷・下屋敷その他に移築されたというから、敷地だけが宇土支藩の管理の元にあったという事だろうか。
熊次郎とは後の宇土支藩三代目の伊豆守(のち山城守)興生のことである。元禄十二年の生まれだが、十六年九月六日父有孝が病気のため隠居、弱冠五歳で藩主となった。そのわずか十三日後のことである。

国立図書館デジタルコレクション「芝愛宕下絵図」の「加藤越中守」とあるのが、かっての三齋屋敷であり、絵図の屋敷の下方には「三才小シ(三齋小路)」の書き込みが見える。そしてすぐ近所、毛利安房守屋敷の前に「細川豊前守」屋敷として、宇土細川家の屋敷が見える。

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■雨の中の例大祭

2016-09-18 15:25:35 | 熊本

                  「藤崎寓秋の例大祭」の画像検索結果 熊本県のHPより

 藤崎八旛宮の秋の例大祭は朝随兵は雷が鳴りあいにくの雨となった。35頭の飾り馬が勢子に囃し立てられる賑やかな祭りだが、少々水をさされたか(?)
夕随兵が藤崎八旛宮に帰り着くのは陽が落ちて暗くなってのことになる。大降りしなければよいが・・・・・

心配された台風16号の行方は、進路の予報円の下の方にずれつつ進行していて、随分南に下がり鹿児島あたりに進むようだ。
今年は熊本の地震をはじめとして、自然災害のなんと多かったことか・・・・ 
台風の進路には熊本人としてはほっとしているところだが、ただ被害が生じないようにと念ずるばかりである。
 

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■「神風連・血史:木村邦舟原著、影山正治監修、神谷俊司訳注」

2016-09-18 09:39:29 | オークション

                「神風連・血史:木村邦舟原著、影山正治監修、神谷俊司訳注」

                     「神風連・血史:木村邦舟原著、影山正治監修、神谷俊司訳注」

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■方丈記から 大地震=おおない

2016-09-18 07:10:08 | 熊本地震

方丈記にある元暦2年(1185年)7月9日におきた大地震(おおない)の記述である。
状況はまさしく熊本地震に相通ずる。月日が重なり年を経ても被災者の心に寄り添わなければならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                         

【21】また同じころとかよ、おびただしく大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず、山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
  土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ち処(ど)を惑はす。都のほとりには、
  在々所々堂舎塔廟ひとつとして全からず、或は崩れ或は倒れぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。

  また同じころであったであろうか、たいそう大きな地震が起こったことがあった。その様子は世のいつもの様子とはまるで違い、山は崩
  れて河を埋め、海は傾いて陸地に押し寄せた。
  土は裂けて水が湧き出て、岩石が割れて谷に転がり入った。なぎさを漕いでいる舟は波の上にただよい、道行く馬はどこに足を立てて
  いいかもわからないほどであった。
  都の郊外には、あちこちの寺の堂や塔が一つとして被害を受けなかったものはなく、あるいは崩れあるいは倒れた。
  塵灰が立ち上って、盛んな煙のようである。

 

【22】地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内にをれば忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、
  空をも飛ぶべからず。竜ならばや雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるはただ地震(ない)なりけりとこそ覚え侍りしか。
  かくおびただしくふることは、しばしにて止みにしかども、その名残しばしは絶えず、世の常驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。
  十日二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたその名残三月
  ばかりや侍りけむ。

 

  地が動き家の壊れる音はまるで雷の音と変わらない。家の中にいればすぐにつぶされそうになる。走り出れば、地面が割れ裂ける。
  羽が無いので空を飛ぶこともできない。竜であれば雲にも乗れよう。しかし人間はどうにもならない。恐れの中にも恐るべきものは、ただ
  地震であると、まったく思い知らされたことだった。
  このようにひどく揺れることはちょっとの間で止んだけれど、その名残はしばらく絶えず、いつもなら驚くくらいの地震が、一日二三十度揺
  れない日は無い。
  十日二十日過ぎると、やっと間遠になって、或は四五度、ニ三度、もしくは一日まぜ、二三日に一回など、だいたいその名残は三か月ぐら
  いであったろうか。

【23】四大種のなかに、水火風は常に害をなせど、大地にいたりては、異なる変をなさず。昔、斉衡(さいこう)のころとか、大地震(おおない)
  ふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこのたびにはしかずとぞ。すなはちは人みなあぢきなき
  事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

  地・水・火・風の四大種の中に、水火風は害をなすけれど、大地だけは、別段害をなさなかったのに。昔、文徳天皇の斉衡年間のころとか、
  大地震がおこって、東大寺の大仏の御首が落ちたことなど、たいへんな事が多くあったけれど、それでも今回の地震よりはひどくないという
  ことだ。
  直後は人はみな浮世の無意味さを述べて、少し心の濁りも薄らぐかと見えたものの、月日がかさなり、年が経った後は、そんなことは言葉
  にして言う人すらない。

 


参考:平家物語・巻12「大地震」

 

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■熊本史談会9月例会

2016-09-17 14:41:58 | 熊本史談会

 熊本史談会9月例会は歴史研究家にして、たまきな出版舎を経営されている平田稔氏を講師にお招きして講義をお聞きした。
「池部啓太春常」の取材・執筆で分かった大間違いというお話であるが、御著「池部啓太春常-幕末熊本の科学者・様式砲術家」の執筆に際しての御苦労やエピソード又啓太に関する市販本・論考の間違いなどを史料を示しながら指摘をされた。
まことに説得力のあるお話で、出席者一同大いなる関心をもって拝聴した。

一人の偉人についてのいろいろな著作や論考が、誤った言い伝えや風聞をもって語られてきたが、この著をもって認識を新たにしなければならない。
しかしながらそのような先行する間違った著作・論考も生き続けていく中、正しい評価が根付くにはまた長い時間を要するのであろう。
出典を表示すればよしとする安易な作業を現に慎まなければならないことをつくづく感じさせられた。

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■5ヶ月目

2016-09-16 09:22:05 | 熊本地震

 昨晩は中秋の名月、群雲に隠れていた月がきれいに姿を現したのは10時ころか・・・・
しばし高くに上がった月を見るが、乱視の私には名月もひずんで見えて形無しである。
そろそろ本震が起こった時間になるな~と思いながら就寝、秋の虫が忙しく鳴いている。

          未だ地の震うは止まず 螻蛄鳴く  津々

虫の声は誠に穏やかな日常そのものである。しかし陽が上がり周囲を見回すと、ブルーシートで覆われたお宅があちこちに見え、補修工事をする音が聞こえ現実に戻される。熊本市の最後の避難所も昨日で閉鎖となった。しかし益城や西原その他、まだまだ避難所暮らしの方は大勢居られる。
2、094回に及ぶ余震もまだ健在であり、とどまることを知らない。 

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■九代藩主・治年公逝去とその後継

2016-09-16 07:25:25 | 歴史

 天明七年の今日九月十六日に九代藩主治年公が亡くなられた。(実は十五日とする説あり)
この年は参勤の年で二月廿八日熊本発駕、四月八日江戸に入った。
同五月十五日には、「藩主吐血、其後浮腫生じ疲労加わる」状態となる。
九月四日になると、「藩主病篤きため、予め分家(宇土支藩藩主)和泉守立礼に相続許可の件」を願い出ることになる。 

治年公は宝暦九年四月廿五日熊本花畑館で誕生、生母は此井、虚弱な体質であったため世嗣となされたのは五歳になってからである。幼名胤次

治年公は若くして(29歳)で亡くなるのだが、三男二女を得られたがすべて側室の腹による。
度支彙函の「明和より天明迄法令條論」(藩法7・熊本藩)天明三年の項(354)に「若御前様八月六日御流産之段、八月廿五日御達」とある。(p626) 
若御前様と呼ばれるのは若殿の正夫人の事であるから、治年公夫人・埴姫であり、その埴姫が流産されたことを示している。
埴姫は宇土支藩藩主で名君として知られる興文公女である。三歳七ヶ月年上の姉様女房で、結婚は天明二年四月十一日である。わずか五年五ヶ月ほどの結婚生活であった。側室の男子も幼かったため、埴姫の実弟・宇土支藩藩主立禮を養嗣子とした(齊茲)。

家督後の「齊茲公天明八年御家督之上御書」の他に、「今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也」とする七月廿三日付の文書がある。(度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19)

    我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
    然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々之掟
    は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

家督の時期、先代治年の三人の男子嫡男年和は九歳、二男應五郎は五歳、三男淨丸はすでにない。上記文書には「應五郎成長迄之内は・・・」とあり、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆している。嫡男年和でないのが不思議だがその理由の詳細を知らない。年和は廿歳、應五郎は六歳でなくなり、次の代は実子の齊樹へ引き継がれることに成る。
齊茲の正式な文書として後継者を應五郎としている貴重な史料である。 

 


 

 

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■細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将

2016-09-15 17:25:37 | オークション

                 細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将 

                 細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将

出品者商品説明 

細川忠興の四男 細川立孝(初名は立充)書状一通 画像の花押コピ-は宮崎県史のもの 宛ての上林(藤村)三入は京都宇治の著名な茶商 細川立孝は晩年の忠興に溺愛され忠興の遺領である八千代城(七万石)を継承する予定でしたが父忠興に先立ち夭折したため子息行孝は宇土藩の藩祖となりました。江戸後期に本藩の忠利の系統が嗣子絶えた以降は現当主まで立孝系が元熊本藩主家として継承されております。
 
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細川立孝は立允と称していたが、寛永七年環俗して立孝を名乗った。正保二年五月に亡くなった。
一方上林(藤村)三入は「上林家文書」によると、初代幸盛であろう。寛永十五年二代目に家督を譲った折から「上林」を名乗ったといわれる。
仮にそうだとすると、寛永十五年から正保二年の間の書状となるが、藤村・上林両方を使っていた時代もあるようで、時代の特定は出来そうにない。
 
よくよく花押を見ると「立允」とある。そうなれば寛永七年環俗前の書状ということになり、三入がこの頃にも「上林」と名乗っていたことになる。
                                        9・19 加筆修正 
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■松寿庵先生・第203講

2016-09-15 11:56:19 | 史料
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■南条元知、28年の永蟄居から解放さる。

2016-09-15 07:18:39 | 歴史

寛文九年十月細川忠利の末子長岡元知(南条元信養子)は、いわゆる陽明学徒の追放事件に関し、藩主綱利に対してその罪の軽からんことを諫言して不興をかった。
当時の奉行所日帳は「長岡左近(元知)殿儀、今日御前にて病気ニ御成候」と記し、後日の記録には「乱心・・・」とある。
家老職を解かれ、知行(5000石)を召し上げられ永蟄居となった。左近29歳、綱利27歳である。
この処分が解かれたのが元禄十年九月十五日だというから、28年のながきにわたった。この日綱利が左近の岳父・家老米田監物を訪れている。左近に直接あったかどうかは判らないが、綱利は「頭巾」をとどけたといわれ、これが永蟄居が許されたものと解されている。時に元知57歳、取り返しのつかない28年であった。
養父南条元信は、細川忠興の次男興秋の娘婿である。内室は家老米田是長女・吟、嫡子是庸はその米田是長の養子となって家を継いだ。



   細川忠興---+---忠隆               
           |                
           +-----興秋(与五郎) 
           |      ∥           
           +--忠利---------------+---光尚---綱利
                  ∥         |
                  ∥         +---元知 
                  ∥  南条元信室      ↓         
                  ∥---------鍋 =====元知   
                  ∥              ∥-----米田元庸・・・・→代々家老・米田家
   氏家卜全----元政---●     米田是長---吟     
                      室・南条元信女・伊千 

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■大日本史編纂記録を読む

2016-09-14 07:10:46 | 史料

 ■水戸徳川家と細川家 で書いたように、水戸光圀公の家来・佐々介三郎が大日本史編纂の為の調査に肥後に来訪した時、我が家の二代目が始終その道案内を勤めた。
この記事を書いた後、大先輩のM様から「神道古典研究所紀要・第七号」の 「大日本史編纂記録」に、佐々介三郎が国元へ送った報告書があるとお教えいただいた。
介三郎の来訪にあたっては、M家のご先祖様は細川綱利公の御使者を勤められている。
ぜひ読んでみたいと思っていたが、熊本県立図書館は再開の日程さえ明らかにされていない様な状況で閉館中、早々には読めそうにないと思っていた。
処が熊本史談会のお仲間K様が、これを地元図書館を通じ遠くS県の図書館から借り出された。
お二人のお力でこの「大日本史編纂記録」を早々に読むことができて感激している。

これは当家の二代目太左衛門が仰せつかったものであるが、佐々介三郎の書簡では「又市」と書かれている。
先祖附でも知りえぬ名前でびっくりしたが初名でもあろう。三代が又之允、六代も又之允、七代が又太郎であり、二代が又市と名乗ったことは大いにうなずける。

ところで肝心の書簡の内容だが、熊本に於いては阿蘇・大慈寺・成道寺・本妙寺・蓮台寺・妙解寺などを尋ねている中、大した収穫もないとしながら本妙寺で「日本紀竟宴和歌全二巻」(現・国指定重要文化財)を見つけ、「扨々見事成物ニ御座候」と大感激をしている。

介三郎には始終当家の又市を含め五人が付いて案内や馳走、国境までの見送りをしている。また熊本には縁故の人も多く、夫々の馳走に閉口しながらも旧交を温めたのだろう。
綱利公夫人が水戸光圀公の実の妹である故の厚遇であることも間違いないところであろう。

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