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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生 第99講

2014-05-16 08:48:11 | 史料

                                  旧細川刑部邸(熊本城公式ホームページ)
                                  熊本城三の丸に移転した 大名屋敷 旧細川刑部邸 - YouTube

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■お金にまつわることいろいろ

2014-05-16 07:08:22 | 史料

明日の史談会例会では「三貨制度」についても勉強することに成るが、いろいろ本など読んでも理解が出来ないでいる。
雑事紛冗解に、
「天明元年(1781)丑八月、御祝ニ付惣御役者江被下候分 五百貫文 金ニ〆八拾両ト弐貫文程」という短い記事がある。
重賢公の時代であるが、御能が催され役者たちに下し置かれた金額が示されている。五百貫文は単位から「銭」であることが判るが、498貫文が80両だというのだから、
当時1両が6.225貫文であることが判る貴重な史料である。

熊本県史料・近世編二から、お金にまつわる色々なことをピックアップしてみた。  

■寛永六年(1666)八月十一日、忠利から浅山修理・田中兵庫への書状(p158)
       借銭之當年の積書付可越由申候つる何とそ調不申候哉 七月までの借銀之高千八百廿貫目有之由京より申越候様子急便ニ可申越候 

■寛永八年十二月廿九日付、三齋から忠利宛書状(p46)
       飛鳥井殿ニ御入候御姫之金小判貮千両誰ニ成共かし度由候 家中之者共ニ成とも御かし候者京にて渡可申候 利ハ惣様之借候なミ
           た
るへく候 返事ニより期日便宜在之候間可申遣事

■寛永九年二月八日、忠利より松平右衛門・伊丹播磨守宛て 「忠利公江従 台徳院(秀忠)様為御遺物被下候銀子也」 (p351)
       五千枚之銀子今日請取頂戴仕候忝次第御座候 可然様御取成頼入存候 恐惶謹言

■寛永十年正月廿九日付、酒井讃岐守宛忠利書状 江戸御屋敷御類焼ニ付御拝領之事(抜粋)  (p355)
       態以使者申入候 我等屋敷火事付而為 御使柳生但馬守殿早々被下銀子三百貫目拝領仕候 忝仕合可申上様も無御座候(以下略)      

■年代がはっきりしないが、文中に「稲葉丹後(守)殿御煩」とあるから、寛永十年の書状と思われる。忠利から松野織部・町三右衛門宛書状
       其元作事ニ金子大分入候由金子ハ無之拝領之銀子ハ候へ共今程小判ニ高直(値)ニ候故小判之代ニ銀子拂候事如何
       丹後殿(老中・稲葉正勝)ニ而當分かり候て京ゟ金子下次第拂可申得其意候事      (寛永十年)六月廿日

    後の記録によるとこれは江戸城の作事に係るもので5,000両をどこからか用立ててもらっているが、春日局やその伝手を頼りびくにん(比丘尼)
      衆
からでも借りたらどうかと指示している。(p137)

■寛永十一年十二月八日の書状によると、忠利は馬を買い入れている。(p176)
       六鴇(とき)毛之駒壹疋代金貮拾七両ニ取候由得其意候事

■寛永十二年正月廿一日付、忠利より松野織部・町三右衛門・田中兵庫・横山助進宛書状
       旧冬 上様ゟ女共(正室保寿院・秀忠養女)ニ歳暮ニ銀子五十枚・綿百把拝領春日殿ゟ美濃帋三拾束・白鳥給候就其判紙にて
       春日殿まて礼可申遣由尤候事 

■寛永十二年九月七日付、忠利より河喜多五郎右衛門宛書状
       禰ゝ長崎にてのかい物之代銀拾貫目程入申由にて取替遣由重而目録可差越由得其意候事 

■寛永十三年八月三日付、忠利より小笠原備前・浅山修理・横山助進宛書状(p177)
       新銭之儀六月朔日ゟ取遣可仕由被 仰出候へ共于今然〃取遣無之由得其意候事 

■寛永十四年正月十日付、忠利より有吉頼母佐・長岡監物宛て書状(p266)の猶々書
       にせ銀子仕候ものせんさく相極必定ニおゐてハ其身ハはつゝけにかけ申候 妻子ハ不残成敗可申付候 科の様子ニより妻子共ニ
       はつゝけニかけ可申により候而國のおさめに成候様ニ可申付事干要候以上

■寛永十九年閏九月十一日奉行中宛 (p365)
       大鷹之兄を壹居西郡要人者うち上候為褒美銀子三枚可遣也

■寛永十九年十二月廿九日奉行中宛 (p371)
       天草・島原へ遣百姓百人ニ銀子貮拾貫目遣候間可相渡者也

■寛永貮拾年三月十四日奉行中宛 (p385)
       金大判壱枚勝千代(忠利末子)南條大膳所へ馬代ニ遣候(以下略) 

■寛永貮拾年(1643)三月十五日奉行中宛 (p386)
       古勘解由(沼田延元)豊前ニ而銀子七貫目借り年々相残テ四拾四貫九拾目余勘解由ニ遣候事 

■延宝二年(1674)六月廿五日付 生駒新九郎江戸御用被仰渡覚書(p314)
    一、京・大坂・境又ハ御國内ニ而も日田銀之ことく當分銀子を差上五三年過候而元利ともに一度ニ拝領可仕と申者候ハゝ少々ハ高利
       ニ當り候へとも役人共内々讃段仕置可申候事
    一、當年御借被成候三百三拾貫目之元利三百九拾六貫目并御郡用米之利分同元之内六拾貫目余都合五百九拾貫目取立五百貫目
       ハ當暮之御積ニ加可申候九拾貫目ハ三井銀三百貫目之利銀ニ拂可申候 

 

 

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■田中左兵衛のこと (二)

2014-05-15 10:53:30 | 人物

先に田中左兵衛のことを書いた。「福岡県史料・近世編 細川小倉藩(一)」の奉行所日帳、寛永四年二月七日条に若いころの左兵衛の記事がある。 

   田中猪兵衛(左兵衛)大坂へ罷上候、就夫、手前不罷成候間、御米拾石被借下候様ニと、彦進・甚丞を以被申理候、
   旅へ被遣衆と候て、御借米不納有之衆ニ、左様ニかし候ハゝ、れいニ可成候間、如何之由候事

後には島原の乱の原城攻撃で高名を上げ、4,150石の禄を食み初代の熊本城代になった人物だが、この時期は100石取の身分である。
大坂へ罷上るにつき、米拾石を借りたいと申し入れるが、すでに借りている借米がまだ返されていないので、そんな人たちに貸すという事は「前例」になるのでまずいというのである。父親(養父)は当時の惣奉行・田中修理亮である。

同九日
  田中勘丞被申候ハ、猪兵衛(田中氏久)事、上方へ被遣候ニ付、国東ゟ出船仕候、左候ヘハ跡の仕置□之様子をも承置、
  見立旁々罷越度候、爰元御用之儀は、相使ニ具ニ申置候由、被申候間、被参、早々仕廻可被罷戻通、申渡候事
 

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■磯部長八郎消息

2014-05-15 09:58:06 | 人物

 磯部長八郎は我家初代・庄左衛門の実兄である。
以下の史料から、長八郎がこの時期江戸詰であることが判る。

 寛永六年二月十三日、奉行所日帳(福岡県史・近世資料編 細川小倉藩二 p160)

   一、御鉄炮衆町田吉右衛門・田宇右衛門、今日江戸江遣候、御能衣装并五つ持せ遣候、言上其外状とも相渡候
      一、磯部長八郎へ野田源四郎ゟ、御硯のよしにて壱包遣候を相渡ス
     (以下七項目 略)
     右之分、飛脚ニ相渡候也

尚、同十日の項には
   一、野田源四郎方ゟ御硯壱つ、江戸へ便御座候ハゝ、御上可被成と申、飛脚ニ持せ被越候、請取置申候

          野田源四郎  (1)供之者・御扈従与也・四番 百五十石 (於豊前小倉御侍帳) 
                    (2)御小姓組衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)
                    (3)御馬廻衆九番・松野右京組 百五十石
                       細川忠利公判物(寛永二年)百五十石--豊前 

長八郎は御扈従組・一番で番違いではあるが同僚である。仲がよかったのだろうか?
たったこれだけの事だが、身内の消息と言うのは大変興味深い。 

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■利銀月ニわり

2014-05-14 18:11:06 | 史料

奉行所日帳・寛永元年八月九日(福岡県史・近世史料編 細川小倉藩一 p9)から

 長崎にて御売(買)物之代銀、長崎ニ而御借銀可成之由、中野権佐御請相仕候へ共、相違候而、御借銀不成候、
 就夫、末次平蔵(政道)・足立や才覚ニて銀子可有候間、式ア殿加判ニて借状御調給候へと申候て、則りうや者
 を指上せ候、平蔵ゟ式ア殿へ書状参、権佐所ゟ申越候、御奉行衆へ権佐・銅飯(飯銅庄内)・石寺(加兵衛)ゟ書
 状参候、右之かね、一ケ月ニ二わり付之銀にて御座候、左候ヘハ、利分も高ク候間、いかゝニ候間、大坂へ銀子
 取ニ可被遣と、式ア殿も御登城にて御談合相済、明日小早ニ住江孫右衛門御奉行にて、被指上せ候事

 長崎での買い物をつけにしようとしたが断られたのであろう、同地で借銀が可能なる旨長崎から熊本の奉行の所
 へ書状が届いた。しかしながら利息が一月に二割という高利であるから(松井)式部も交えて談合の結果、大坂へ
 小早で取に行くよう決定したというのである。

この時期細川家の財政は火の車である。長崎への買い物と言うと、将軍家や幕府関係者への音信物(贈答品)の買い付けであろう。
相当な金額で有ろうと思われるが、もうつけが効かなくなっている。月二割は流石に高い、ならば大坂へ銀子をとりに小早を遣わそうというのだが、こちらは即決で翌日には廿丁小早にて、中津海三右衛門が出発することに成る。

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■米田與右衛門殿

2014-05-14 09:21:58 | 人物

細川家家老米田家の二代目是政の弟に、與右衛門是門がいる。藤十郎とした方が通りが良いかもしれない。
青龍寺城で生まれ幽齋に可愛がられた。幽齋の田邊城籠城の際には共にしている。

寛永元年忠利は小倉大橋架橋を命じた。
  ■八月二日 林弥五左衛門登城ニ而、大橋作事ニ近日取付申候間、小屋かけ申ニ・・・・(以下略)
  ■八月四日 大橋御作事今日ゟ被仰付候、御奉行ハ遠坂関内・町市丞・高田十兵衛・窪田與介・今日ゟ小屋かけ申事
  ■八月十五日 河田八右衛門・(林)弥五右衛門登城、大橋之板出候儀、町人出可申旨 御諚ニ候へ共、其節ハ大坂御普請衆罷下申間敷故ニ、
           町人ニ出せ候へとの 御意候、御普請衆も罷下候間、町人ニ出候儀成間敷之由、米田與右衛門被申候由、八右衛門申候、左候
           ハゝ、御家中御役人ニ可申付候哉との儀ニ候事
     (途中経過略)
  ■九月九日 大橋普請相済候て、人返候様ニと、被申付候事

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

その後又この橋の普請が行われているようだが、破損などの修復でもあろうか・・・、しかしその着工などについて日帳では確認できない。そして工事の経過も判らないが、事は意外なことに発展した。

   小倉大橋御普請之儀、林弥五右衛門被仰付置候所、人足出し候様ニとの儀を弥五右衛門より与右衛門に申候由、然処御印を以不被仰出にハ
   人足出し申間敷旨、兼て被仰付置候二付、その段申聞、人足出し不申候、忠利君御帰国之上、大橋御普請遅滞之儀を被仰出候得は、弥五右
   衛門右之訳を委細に不申上、与右衛門人足を出し不申故、御普請出来不申と申上候ニ付、御機嫌損し、御役被差除、御知行も被召上候と云々

上記理由に寄り、寛永六年五月與右衛門は知行を召し上げられている。奉行所の「日帳」(福岡県史・近世資料編「細川小倉藩二)からその後の経過をたどってみる。

  ■五月二日 米田與右衛門尉知行を被 召上候間、御代官ニ引渡可申旨、御年寄衆迄被成 御書候由、御家老衆ゟ被仰渡候事
  ■五月六日 米田與右衛門殿ゟ、吉田縫殿を以被仰越候ハ、私知行被 召上候、左様ニ御座候へハ、私家を上ケ申度候間、御年寄衆談合仕、
          請取候儀ニとの儀候、篠崎三ノ丸辺にて候ハゝ、か様ニハ申上間敷候へ共、御本丸同前之やしきにて候間、上申度と存候との事
          也、(田中)兵庫返事申候ハ、修理ハめしをたへられ、登城被仕筈候、上り被申次第、其通可申候、先心得申候と申候事
  ■五月七日 米田與右衛門尉方ゟ被申越候ハ、御用之儀被仰付候書物なと入候たんす壱つ、并目安箱壱つ上ヶ申候、御用茂不承候ニ付、右
          之通ニ候間、御請取置被成候へ之由、申来候ニ付、則こま物奉行ニ請取せ候也
  ■六月十日 米田與右衛門尉殿家上ヶ申度由被申通を、江戸へ申上候へと、式ア殿にて三人之御年寄衆被仰渡候事
  ■八月五日 米田與右衛門殿ゟ、吉田縫殿を以被仰越候ハ、家屋敷相渡申度候間、請取候者申付候様ニと被仰候間、得其意申候、請取せ可
          申通申候事

これを以て與右衛門は米田家当主で甥の是季のもとで入道し宗伯と名乗った。三年後の寛永九年八月二十五日没・62歳。実直な人柄で有ったろう事がが伺える。 

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■あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

2014-05-13 09:22:21 | 俳句

 もうずいぶん前の事に成るが、近所にある大きなグリーンショップに出かけた折、可愛い山野草の鉢があった。「黄連」と名前が記してあり、スタッフの方の話では「根は漢方薬として使われている」とのことだった。「うん聞いたことあるなー、これがそうか」位で忘れ去っていた。

後年、種田山頭火の句に、あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ という句があることを知った。
情景が目に浮かぶ美しい句である。いろいろ調べていたら細川家ゆかりの豊前香春に於いての句だと分かった。
更に調べていたら、サイト「福岡県香春町の山頭火句碑」に出会った。山頭火が香春で詠んだという12(+1は木村緑平)の句が句碑や主題となった風景とともに紹介されている。ところが上記の句を あるけばきんぽうげすわればんぽうげ と紹介してある。句碑の写真を見ると「きんぽうげ」のような気がする。紹介文の方が間違いなのだろう。ついでに「こんぽうげ」を調べて見ると、「キンポウゲ科のコンポウゲ」とある。そして「コンポウゲ=黄連」であることを知り、数年前のグリーンショップで見た鉢物の山野草を思い出した。キンポウゲはよく承知しているが、黄連の方は御目にかかったことは無い。

さて香春の句碑の真実はどうなのか・・・コンポウゲもありかなとも思うのだが、やはりキンポウゲの可愛い花が道脇にづっと続いている風景が優っているように思える。

                                         香春をまともに乞い歩く                                        
                                         寸くひあげられて小魚かがやく              
                                         谺谺するほがらか
                                         登りつめてトンネルの風
                                     香春晴れざまへと鳥がとぶ
                                     香春見上げては虱とってゐる
                                     鳴きかはしては寄りそふ家鴨
                                     枯木かこんで津波蕗の花
                                     みすぼらしい影をおもふに木の葉ふる
                                     あるけばきんぽうげ すわればこんぽうげ
                                     ふりかえれば香春があった
                                     そこもこゝも岩の上には佛さま 

                                     香春へ日が出る雀の子みんな東に向く (木村緑平)


 つい最近、夏目漱石・没後100年を迎える2016年を前に、熊本県では「夏目漱石記念年100人委員会」が発足した。お歴々が顔をそろえていろいろ企画をされていくのだろうが、漱石フアンの意見も大いに取り上げていただきたいものだ。熊本に関係する漱石の句などを、関係する場所に句碑を建てるというのも良いではないか。句碑をたどるツアーなども結構だと思うのだが・・・・そんなことを考えていたら、香春のこのすばらしい取り組みを思い出して記してみた。

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■里程(江戸・・3)

2014-05-13 07:20:39 | 史料

 雑事紛冗解は細川重賢公代に作られたものである。この「里程書」を見ていると、先の老中・若年寄等は別に出掛ける先の人物が特定されて面白い。

     ・津軽出羽守様御屋敷西御門迄       目黒御門ヨリ 弐里八丁三十間
     ・松平讃岐守様向御屋敷御門迄       白銀御門ヨリ 壱里三十二丁拾八間余
     ・細川能登守様屋敷迄             河岸御門ヨリ 廿四丁
     
     ・松平遠江守様御屋敷前            裏御門ヨリ  廿六丁
逆ルートも有り
     ・木下左衛門様表御門ヨリ           竹御門迄   拾五丁余
     ・安藤対馬守様大塚之御屋敷表御門ヨリ  河岸御門迄 壱里六丁十間 
     ・小出伊勢守様御屋敷裏ヨリ         河岸御門迄  拾五丁拾四間 

 又、石小田御屋敷へ出かけられることが多いようで、これもいくつかのルートが記されている。

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■借り換え・・?

2014-05-12 10:16:48 | 史料

 寛永四年二月六日の奉行所の日帳に、ちょっと笑いたくなるような記事があった。(福岡県史・近世史料編 細川家史料一 p283)

一、御のり物かき両人、かたそろひ不申付而、御ふちを被放候、然共、被両人手前ゟ上納米六斗余宛有之ニ付、
   只今取立不罷成、しからハ別ニ仕様も無之候間、御長柄衆の明所両人有之儀候間、右之跡替ニ入、御切米
   御かし米を取せ、右之通上米をすまさせ可申ニ、談合相極候事

御駕籠かきの背の高さがそろわない人物を解雇しようという訳である。そもそも身長がそろわない人物を雇用したことが問題である。
ところが両人に上借米の未納があるがこれを収めさせる事ができないので、幸いにも明きがあった御長柄衆の跡替として、ここで御切米を前借させて上納米の不足分に宛てさせようというのである。なんだか現代でもあるような話だが、まずはご両人の再就職を喜ぶべきであろうか・・・・ 

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■お安く読む・中公新書「細川ガラシャ」

2014-05-12 09:49:24 | 書籍・読書
細川ガラシャ (中公新書)
 
中央公論新社

内容(「BOOK」データベースより)

明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻として非業の死を遂げた細川ガラシャ。神父に宛てた書翰をはじめ、海の向こうのイエズス会史料にも、彼女の記録は遺されている。本書は、それらの史料をひもとき、ガラシャの生涯に新たな光をあてる、意欲的な試みである。父光秀の謀叛、秀吉によるバテレン追放令、関ケ原の戦い直前に襲った悲劇。キリシタンでありながら最後に死を選択した、彼女の魂の真の軌跡に迫る。
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■お安く読む・中公新書 信長と秀吉が成し遂げた「革命」

2014-05-12 09:43:57 | 書籍・読書
天下統一 - 信長と秀吉が成し遂げた「革命」 (中公新書)
 
中央公論新社

 

内容(「BOOK」データベースより)

織田信長の上洛から二〇年、豊臣秀吉により天下は統一された。集権化や実力主義を推進した信長と秀吉の政策はまさに「革命」であり、他の戦国武将と一線を画していたのである。本書はさらに、足利と織田、そして織田と豊臣の各政権が併存したことを指摘しつつ、軍事革命にともなうスペイン・ポルトガルの東アジア進出といった世界史的視野からも戦国日本を捉え直す。旧来のイメージを大胆に覆し、「革命」の本質に迫る。
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■後藤又一郎のお墓

2014-05-11 13:13:26 | 人物

 Dr.T先生から後藤又兵衛の子・又一郎のお墓に付いての問い合わせがあった。又一郎の妻は加賀山隼人正興良の娘・リユであり切支丹であったから、又一郎の菩提寺の過去帳には名前が残されていないという事だけが頭に残っていた。御寺の名前は記憶になかった。
これは加賀山家の一族でもあられる上妻博之先生の御著を見るのが一番だと思い、あちこちひっくり返す。
いわゆる切支丹や転切支丹の子孫を確認するために、詳しい系図が46家ほど残されているが、ここに後藤又一郎の六代孫にあたる新右衛門が「安養寺」に葬られたとある。かすかな明かりが見えてきた。
又片岡弥吉著の 「日本キリシタン殉教史」 の、「細川藩の殉教者」をみるとここでは確かに「安養寺過去帳に市十郎(又一郎)の名前があるのにりゆの名がない」と書かれている。
今度はその安養寺の所在を捜すがこれが見つからない。いろいろググっていたら、昨日の「坂崎家」につづいて、「武公伝」のサイトにヒットした。なんと偶然なことか。
                                            高田原之絵図 熊本県立図書館蔵  武公伝より引用

実は上図左の養寿院にかつて武蔵の位牌が残されていたという。そしてこの養寿院は廃寺となり安養寺に吸収された。
その後この安養寺も廃されて、現在は「泰巌寺」となって今日に至っている。ここに過去帳が残されているのか、お墓はどうなったのか現況不明である。 
即Dr.T先生にTEL報告、面目をほどこした次第である。

 

            小笠原少斎-------+---備前・長基(6,000石) 室・忠興姪吉田二位女・たね
                           |
                           +---宮内・長良(600石) 室藤孝女・千
                           |
                           +---与三郎・玄也
                                    ∥---------源八郎他八人
            加賀山隼人興長---+--------みや
                         |
                         +---------りゆ
                                  ∥
            後藤又兵衛-----------後藤又一郎       

 

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■坂崎清家の先祖附を読む

2014-05-11 07:44:55 | 先祖附

 先に「肥後讀史総覧」の「細川家主要家臣」にある坂崎家の系図に誤りがあることを指摘した。これを再確認するために坂崎清家の先祖附をご紹介したいと思う。 

                                     弐千七百石 坂崎清
                         一、先祖坂崎兵庫前廉川崎忠三郎と申候
                           池田勝入様江罷在其後蒲生飛騨守殿江
                           御備頭相勤其以後金吾中納言様江罷在
                           彼方ニ而茂御備頭相勤申候御暇申其以後
                           浪人ニ而播州尼崎江罷在候処ニ
                           三齋様被及聞召御家ニ可被召出候旨處ニ
                           被仰下候得共御断申上罷出不申候然處

             (初代)          嫡子坂崎清左衛門可被召仕由ニ而被召出御知行
                           千石被為拝領其後御加増五百石被為拝領候
                           兵庫儀茂一列ニ罷下候処ニ格別ニ弐千石被為
                           拝領候旨御座候得共数度御断申上其後
                           剃髪仕坂崎道雲と申候右弐千石御書出
                           其節頂戴仕今以取持仕居候右清左衛門儀
                           妙翁(應)院様御代御小姓頭役相勤            妙解院の間違い
                           真源院様御代御番頭役相勤申候処ニ年

                           罷寄申候付御役儀御断申上候処御免
                           芦北御番代ニ仰付十ケ年相勤彼地ニ而病死
                           右清左衛門有馬御陳之刻
                           真源院様江御附被成罷越申候彼地ニ而相働
                           為御褒美御知行五百石被為拝領候処ニ御断
                           申上候其節
                           真源院様清左衛門宅江被為掛 御腰候節成
                           御意候者有馬江被 召連働之趣

                           妙解院様江 悪敷被仰上候哉と存御知行
                           御断申旨哉是非拝領仕候様被遊御意御腰物
                           御直ニ被為拝領候御知行之儀茂奉得其意候段
                           御請申上候
              (二代)      一、祖父坂崎清左衛門儀実父者城清助と申候右     祖父とあるのは先祖附の筆者が四代目で有る事による。         
                           清助儀若手之時分 秀吉公江為人質
                           罷越申候其後城隈部其外国侍
                           一揆之節右人質共御誅罰ニ相極候刻岡田

                           将監申上候者親共之不忠■(依ヵ)之為存儀ニ而茂
                           無御座候付一命可被相助旨御断申上城隈部
                           両家之人質同前ニ申請乍両人同名ニ仕候付
                           右清助名字を改岡田源大夫と申候右清左衛門
                           儀於豊前国
                           妙解院様江岡田将監奉願十三歳ニ而御家ニ
                        被召出御知行四百石被為拝領岡田虎之助
                           申候其後両度御加増被下之此節岡田内膳と

                           申候都合七百五拾石被成下曾祖父坂崎清左衛門
                        二従弟ニ而御座候右清左衛門養子ニ被仰付坂崎
                        内膳と申候御児小姓頭被仰付相勤其以後
                           御加増三百石余被下之都合千六拾六石五升余
                           被為拝領御小姓頭被仰付相勤居申候処ニ曾祖父
                           坂崎清左衛門病死仕候ニ付家督御知行弐千石
                           被為拝領其後内膳江被下置候御知行を茂直ニ
                           被為拝領都合三千六拾六石五升余被下置候

                           妙應院様御代千石御加増被下之都合四千
                           六拾六石五斗余被為拝領御側ニ召仕御備頭
                           被仰付其後御家老役被仰付相勤申候其
                           已後極老仕隠居被仰付栖山と申候 

 

坂崎家に関する情報は「宮本武蔵」というすごいサイトの、「武蔵伝記集・武公伝4」の中間くらいの処に紹介されている。これは「忠利下問に対して、武蔵は坂崎内膳宛に文書を提出して応答した」という事に対してである。
ここに記されている「隈部・城両家の人質も殺されることになったが、岡田将監が嘆願して助命し、身柄を引き取った。その時城清助は名字を岡田源大夫と改めた。(中略)さて、岡田源大夫の子・虎之助は、十三歳の時、岡田将監が豊前小倉の細川忠利に願い出て、召抱えられた。(中略)名を岡田内膳と改めた。その後岡田内膳は、坂崎清左衛門の養子になった。」とある。しかしこれとて正確さに欠けている。
これは厳密に言うと「城清助は岡田源大夫と名を改め、その男・某は将監が養子(二男)となし忠利に召抱えられ、岡田虎之助と改めた。両度の加増を受けたがその節内膳と名を改めた」とすべきであろう。その後主命により坂崎清左衛門の養嗣子となった。
これは坂崎家と岡田家が姻戚関係(二従弟)にあり、このことによる主命であろうと推察される。 

一方坂崎家は「坂崎出羽守直盛」の一族とする柳生家の史料が存在する。「玉栄拾遺」には宝暦八年、編者が細川家家臣鳥養市兵衛に聞いた話として、「目下細川家中で坂崎兵庫なる者が侍大将として禄三千石を食んでいる。これが出羽守成政(直盛)の弟にして元和のはじめに藩主に仕えたものである」とある。元和の始めの召出ということになると、初代・清左衛門(道雲)と考えて間違いないと思われる。 

 

                            

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■思いやり

2014-05-10 12:38:17 | 史料

 大日本近世史料・細川家史料24によると、寛永十五年九月廿一日、忠利は都合22通の書状を発している。当然のことながら祐筆が認めたものであろうが、指示・確認の作業を伴う重要な書状であるから、忠利の苦労もしのばれる。その筆頭に有るのが、九月九日烏丸光賢が亡くなったことに対して、妹・萬を思いやる忠利の心情が伝わる書状である。同文で淨勝院と秦鄰室に宛てた書状である。

   からす丸中なこん殿之儀承、おとろき入候、ぜひなき仕合、申へきやうもなく御さなく候、
   萬こと長しゃうしん(傷心)なと仕、心悪候ハん間、はんし御いけん候て御心付なさるへ
   く候、侍従殿(烏丸資慶)ハわかく候間、まん十はう(途方)これあるましきとそんし、笑止
   成事申へきよう御さなく候、かしく

淨勝院は「しやうせう院」と表記されているが、萬の伯母(三齋妹)で吉田兼治室・伊也のことであり、秦鄰(吉田浄慶の子。字は有室。秦宗巴の養嗣となる。慶長十四年家康・秀忠に目見得、侍醫となる。法印。寿命院。寛文八年五月二十日歿。年四一。)室とは「壽命院(息・秦秦石)御ふくろ殿」と書かれている。

先にも記したが去る七月七日には烏丸光廣も亡くなっており、義父・夫を続けて亡くした妹・萬の傷心を心配し身近な二人の女性に対して配慮を頼んでいる。忠利の思いやりの書状に心をほっこりさせられる。 
そして昭和十九年、舅・姑そして夫の三人を病で失った、母の無念であったろう事に想いが及ぶのである。 

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■細川家家臣坂崎家系図(肥後讀史総覧所載)の疑義

2014-05-10 07:14:28 | 人物

 いろいろ書き込みなどをしているが、鶴屋百貨店が刊行した「肥後讀史総覧」の「細川家主要家臣」にある坂崎家の系図である。
前々からこの系図にいささかの疑問をもっていたのだが、新刊の「大日本近世史料・細川家史料24」を見るに及んで疑問が確信となった。

巻末・人名索引に坂崎成方と清左衛門が登場している。

   坂崎清左衛門  細川家臣。坂崎道運嫡子。忠興により召出さる。知行千石。のち二千石に加増。忠利代に小姓頭役。光尚代に番頭役を勤む。
            その後、寛永二十一年蘆北番代。承應二年同地にて没。 (先祖附・永青文庫「御郡方文書」・同「御老中より被仰出覺書」)
   坂崎成方   細川家臣。内膳。成政。肥後國衆城清助が男。初め岡田虎之助。十三歳の時、豊前にて忠利に召出され知行四百石。坂崎道運嫡子
            清左衛門が養子となり坂崎内膳、兵庫と名乗る。七百五十石、さらに千六十六石餘に加増。小姓頭。養父没後遺領二千石を継ぎ、清
            左衛門と名乗る。綱利代千石加増。備頭。のち家老職を勤む。天和元年隠居、栖山と號す。二年没。
                                 (先祖附・松井文書・熊本藩侍帳集成・永青文庫「御老中より被仰出覺書」・細川家記續編) 

この系図は、先年坂崎家の分家筋の方といろいろやり取りをする中で、随分親しんで来た。先祖附をよく読み付きあわせをすればよかったのだが、系図に疑問を持ちながらも今日に至った。今回「細川家史料24」を読み、改めて先祖附を読み直して、先の坂崎家系図は初代と二代が入れ替わっていることを確信した。 

                                                      肥後国一揆衆・城清助(岡田源大夫)男
    坂崎伝助     道雲          (1)          (2) 岡田善同二男(養子・虎之助)→坂崎内膳 
  藤原成基---+---成方------------成定==============(養子)成政・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→2,700石坂崎清家
          |              清左衛門・承応二年没             天和二年三月二十五日没
          |
          |  (1)                     (2)                  (3)
          +---勝定------------勝是------------勝秋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→御中小姓坂崎半兵衛家
          |
          +---基之原城にて討死(29)

(2)成政は肥後国一揆衆城清助・男であるが、秀吉の人質となり後岡田善同の乞う処により助命され養子(二男)となった。
その後坂崎清左衛門の養子となったが、これは善同の父・重善が小豆坂七本槍の高名者であるが、坂崎伝助も七本槍の一人だという説があり、その事をもっての養子縁組であるとするが定かではない。(小豆坂七本槍に坂崎伝助の名は見えないが・・・?) 

この坂崎家は坂崎出羽守直盛の一族であることは先に書いた。一層の調査を重ねたいと思う。

 

 

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