平成23年12月、魚住右衛門兵衛のご子孫から御宅に遺されたいろいろな史料のコピーを頂戴した。
中には黒田如水から石垣原の戦いに於いての戦功に対しての次の様な内容の感状の写真も添えられていた。
一昨日之御働手柄
之段松佐州 有四郎右
御物語候 於拙者満
足不過之候 今日爰
元相済候て 明日其地江
参 面を以万々可
申入候 恐々謹言
如水軒 書判
九月十五日
魚住右衛門兵衛殿
参御宿所
大河ドラマで黒田氏が取り上げられたが、この石垣原の戦いはどうなるのだろうかという興味もある。
昨日の「松寿庵先生 第86講」では、細川家・黒田家の不和を取り上げたが、まさかこの時期(慶長五年)二家の間がそのような状態に陥るとは誰が考えただろうか。
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さて魚住家から頂戴した資料の中に、魚住家系 魚住勘右衛門家之写 という興味深いものがある。
平姓魚住系・興津家之系・續(次太夫)家之系・加々山(主馬)家系・大河原家之系・千原系・村中系といった、魚住家の姻戚によって広がっている諸家の詳しい家系図である。
我が「新・細川家侍帳」に反映させようと改めて眺めているのだが、思いがけない人物が登場したりして驚いている。
昨日は飽くことを知らず数時間を過ごした。
魚住右衛門兵衛(加賀)の血は、木村三郎右衛門家、服部武兵衛家、金守吉右衛門家、匂坂三右衛門家、山崎平助家、能勢小右衛門家、矢嶋平右衛門家、永松半右衛門家、
牧平助家、後藤善右衛門家、谷口七兵衛家、大野傳助家、北村善右衛門家、中嶋九兵衛家と大きな広がりを見せている。
興津家・續(次太夫)家・加々山(主馬)家・大河原家・千原家・村中家へのつながりも大変興味深い。
いつか改めてお許しをいただいたうえでご紹介したいと思っている。
細川家家臣にまったく出自が異なる二流の牧氏がある。こちらは牧市右衛門を祖とする牧家の話である。
下の記事は手討達之扣にあるものだが、目次には「安永三年八月廿二日・荒瀬忠治手討」とあるが、これは牧忠次のことである。(荒瀬家から牧家に入った)
忠次の娘・か免が病乱にて忠次の実兄・荒瀬秋蛍の妻に切りかかったため、忠次がこれを手討ちにしたという不幸な事件である。
八月
西山大衛組牧忠治儀宇土郡浦手永里浦村え在宅仕居候、荒瀬文次郎隠居荒瀬秋蛍儀も右忠次近所ニ在宅仕居申候、
秋蛍儀は忠次実兄ニ而御座候、秋蛍妻ハ文次郎方へ幼年之孫共居申候ニ付一所に罷在、折々秋蛍方へ罷越申候事ニ
御座候、然処當月十九日秋蛍妻在宅所え参居候、去ル廿二日忠次宅え罷越彼方ゟ帰候節、屋敷内ニ而嫡女か免後ゟ
切懸申候、既ニ切害仕候と相見候ニ付、忠次儀娘ヲ早速打放申候、左候而秋蛍妻は郡浦村え居申■醫師江口玄球、松
倉村え居申候江本多仲右両人を呼療治仕せ手疵之様子吟味仕候得 は、長サ五寸深サ六分程之儀ニ而、命分ニ懸り申
候程之儀ニ無御座候、追々快方ニ相成申候由ニ御座候、右か免當年廿七歳罷成申候、秋蛍妻ニ對し何ぞ意趣ケ間敷儀
無御座候、右之通儀ニ御座候得共病乱之様子ニ相見申候由、忠次親類中ゟ申聞候段、牧才次郎ゟ相達候ニ付、■昨日
御奉行所え持参相達置申候事
養子・荒瀬氏
・市右衛門--八郎右衛門--作太夫--七右衛門--八郎右衛門--忠次--兵九郎(九郎太夫・九郎左衛門)--一郎右衛門--禮助--仙次郎--市之助(市太) 貮百五十石
・市右衛門--八郎右衛門--平助--市九郎--八太夫--八右衛門--源太郎--小源太(市右衛門・伴鴎) 百石
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近世大名家臣団の社会構造 (文春学藝ライブラリー) |
文藝春秋 |
内容紹介
史料を渉猟し、身分内格差、禄高、結婚、養子縁組、相続など、藩に仕える武士の内実に迫る。
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同人(大村源内カ)曰、牧伊之助と云し士高麗門内土井(居)際の屋敷ニ居たり、毎日御寺 御参拝之節は御道筋ニ出、櫓座ニ座而
相待御通之節下て 御目見申上られたる御供の人ニお熟見て少ニても餘所見様する人あれハ其後御花畑ニても途中ニても逢次第ニ此
間は御供ニ立て餘所見様被致あの通ニては自然變ある時甚た覚束なし、以後は謹しまれよと戒しとなん、又厳寒中様に人有て甚た寒
く候様云へハ、左候て御座候冬て御座候と云、又或時垣を結たるに人来て何を被成候哉と云しかハ、御覧の通と答たるとぞ、隠居して
後其嗣子江戸御供ニて出立たるに、程ニて一類中集り酒宴したる処に近所の座頭来りたるに三味線を引せしニ、伊之助是は如何ニと
云、親類共今日御出立を祝し幸座頭参候間三味線をひかせ候と云しかハ、今日は主君の御発駕ニて江戸御着座の御出来を聞迄は少
も安心ならす、豈我子立を悦とて如何なるや、座頭めニは米の一升もくれて早々帰し候得と云、何も奥を覚せし候、暫して伊之助か不居
間に密ニ挙を打たるを伊之助一間ゟ聞付、忽一刀を携へ来て障子の間より窺見る、一類是は不苦事ニて御座候、外向へは聞へさる様
ニ挙を打と云しかは、伊之助されはよ何か聲高なるに依て果してもすらんと思ひ来しに、手を出して■つはと云ハとて大ニ笑も同様ニ在
ると云わるとぞ
牧家
【先祖ハ敏達帝より出で橘の姓也、薬師寺次郎左衛門公儀末流にて、攝津国河辺郡富松の城主富松与一郎元亮男也、同郡牧村に住故、牧を以家号とすと云。(綿考輯録・巻十)】
+--新五(病死)
兼重 嫡男・興相 | 善太郎・四郎右衛門
牧遠江守---尉大夫---+--新五・左馬之允---+--平左衛門------------→(新五家)
| | 虎蔵
| +--藤左衛門------------→(藤衛家)
| 二男 1 2 3
+--五助---猪之助---五助---猪之助----------→(新二家)
|
| 三男(細川忠興軍功記編者)
+--丞大夫---+--権内 (病にて知行差上げ)
|
+--五左衛門---+--丹右衛門---→(市右衛門家)
|
+--丞大夫-----→(丞大夫家)
牧家は細川家根本家臣の一家であり、青龍寺以来の家格を持つ。
【牧丞太夫(兼重)ハ青龍寺より御奉公仕候、代々細川の御家臣筋目を以被召出、既ニ一色御討果の時も石川山にて狼烟を揚し役人也、其後小笠原少左衛門所にて黒川大炊と喧嘩 (中略)秀吉公より喧嘩は両成敗と被仰出・・(中略)立退・・夫より浪人して小西攝津守に奉公・・其後岐阜中納言殿ニも少の間奉公・・「今年(天正十九年)牧丞太夫・同新五父子帰参仕、聚楽にて御目見被仰付候」】
今月の史談会では「熊本城下の坂」を取り上げることにしている。
参勤交代の行列は花畑邸を出発すると、下馬橋から城内に入り慶宅坂から二ノ丸を経て北の御門から観音坂へと進む。
この観音坂が急な坂で約170メートルほどの水平距離で18メートルほど下っている(10.6%)。京町拘置所の所から下り始め、内坪井の丹後寺前あたりで勾配が終わるのだが、実際歩いてみると相当な勾配を感じ、御駕籠などどうやってかついのだろうかと不思議でならない。ダイハツのCM「ベタ踏み坂」(勾配6.1%)よりもすごいと思うけど?
ところで内坪井の地図をながめていたら、この地で起きた不幸な事件の事を思い出した。
文化二年三月御中小姓佐藤喜三右衛門内坪井志賀太郎助門前(※)を通たるに、後ゟ坊主来て御免候とて刀の柄を取
引抜奪取て迯行、喜三右衛門うか/\と行処故手もなくとられ大ニ仰天し追懸持し傘ニてしらひ取かへさんとしたれ共、
手に廻らす土井(居)際の様に走行しか又取て返し西え迯候を、喜三右衛門追しかは向は足跣、喜三右衛門雪蹈故追付
ざりし中、坊主丹後寺(図・左上)え馳込ける、喜三右衛門内迄至り内の躰を窺ふに静なる様子故暫く見合居内、十三四
計の女庫裏の方ゟ出ぬ、其程ゟ又十七八計の女嬰児を抱出る、又暫くして三十計の婦手を切落され肩先も八寸計切破
られしか迯出たり、喜三右衛門警て堂の邊迄行内を窺へとも不知間庫裏へ入込見れハ、前ニ切られし女の手と見へ落て
あり、其時以前の坊主抜刀を提出て水場ニて血を洗て段々参とて、喜三右衛門方へ投遣、喜三右衛門早速取て鞘ニ納め
坊主ニ向ひ其元は如何成人ニて先刻よりしか/\の振廻被致候哉と尋たれは、私ハ當寺の住僧ニて御座候、妻儀不儀
を致候ニ付切申候、出家の事ニて刀所持不仕ニ付、御刀を拝借致候と云、其躰必定狂乱と見へ候間、其侭帰り候処門を
出る自分廻役三人連ニて入込候由、是喜三右衛門か或人へ咄候趣の由、此坊主は丹後寺の住僧ニて久敷乱心致し居
たる間刃物様取上置しに、其妻不儀せしと云て前の通喜三右衛門か刀を奪て切たる也、喜三右衛門ハ不覚悟之至ニ付
重き御咎被仰付たり
この悲惨な事件の顛末はよく判らないが、佐藤家の御咎めは厳しいものがあった。住僧やその妻のその後などは如何成ったのだろうか。
丹後寺の坊主が逃げ回ったこの道はまさしく参勤の道路である。この年藩主齊茲は江戸に在るが、世子・齊樹が4月3日に江戸を立ち、6月7日熊本に入っている。
畏友・近藤健氏からメールが届いた。新たにブログを立ち上げられた由、嬉しい限りでありお祝い申し上げる。
当方ブログでもご紹介してきた「Coffee Break Essay」の氏だが、これはお勤め先のサイトに間借り状態であったので、晴れて独立をされたという事に成る。エッセイばかりだと完成形でのUPになるのでそうたびたびとはいかないが、今回からは雑感などを交えていろいろお伝え戴けるものと期待している。
日本エッセイスト・クラブ編の「ベストエッセイ集」では、五回にもわたり掲載された実力者だが、これらを土台に新たな高みを目指される事を願っている。
皆様にも「Coffee Break Essay」と併せて、お楽しみいただければ幸いである。
又、氏の著作「肥後藩参百石 米良家」も是非お読みいただきたい。
この言葉の出処となった、節分の日に鰯の頭を柊に差して邪気払いとするという柊鰯の風習については、さすがに私は見たことがない。
熊本城下でもこのような風習があったのだろうか・・・・猫やカラスなどがたかって何やら不衛生な感じがする。
「つまらないものでも、信仰の対象となれば有り難いと思われるようになるというたとえ。」とあるが、頑固に信じて何事かを行う人にも例えられる。
漁村などでは今でもこういった風習が残っているのだろうが、頑固に残してもらいたいとも思う。
節分の時期に成ると思い起こされる言葉だが、これから一年間は使わない気がする。
(そういえばお正月に我が家では、生の鰯の尾頭付きを家族一人一人に飾ったりしていたが、母が亡くなってからはやらなくなってしまった。この由来が判らないでいる。)
先に「奉公人について口上書」を書いたが、二月二日は奉公人(男子)の出替りの日である。(女子は三月十日)
歳序雑話は次のように記している。
二日定為従僕交代之期、兼為約束、有留有出、或以墨染鬢髪、
或以粉粧顔色、依容皃(貌)之美悪、求俸禄有差、以之男服紺衣、女
翻紅裏、或褰裳振椀、或広帯細腰、皆是求値之多也、可笑
二日定て僕従の交代の期となす、兼て約束をなす、留むる有り出だす有り、或いは墨を以て鬢髪を染め、
或いは粉を以て容皃貌之美悪に依て顔色を粧う、俸禄を求むるに差有り、之を以て男は紺衣を服し、
女は紅裏を翻す、或いは裳をかかげ椀を振い、或いは帯を広め腰を細うし、皆是値の多を求むる。笑うべし。
先の口上書に於いては、女子は三月三日としているが、歳序雑話が書かれた天和三年頃には男女共に二月二日に成っているように伺える。
二月朔日は初市がたつ。そんな賑わいの中に給金を頂戴して、自らの物を買ったりする有様が伺える。
旧暦の二月二日は新暦では三月であり、暖かさも増して新壱丁目の初市は大賑わいしたのであろう。
・宝暦六年閏六月廿二日 星野庄右衛門手討
・宝暦十一年三月廿九日 米田太次郎手討
・宝暦十二年七月十二日 鎌田小平太手討 十三才
・明和元年十月四日 永井弥五郎妻手討
・明和三年二月十日 米良左源太手討 ※
・明和六年七月十二日 久武権之助・仝金吾手討 宜敷トテ御褒詞 ※
・安永三年八月四日 佐藤右衛門八手討
・安永三年八月廿二日 荒瀬忠次手討
・安永三年十一月廿日 永井七十郎手討不首尾 扶持方召上ケラル
・安永四年七月四日 伴儀兵衛手討仕損シ 差扣
・安永四年十二月 狩野平太夫・西村角右衛門・木村武右衛門逼塞 (伴儀兵衛の事件に関連)
・安永七年十二月 奥村八内手討
・安永八年正月廿五日 松本傳蔵手討
・安永九年四月廿三日 郡 仙蔵手討
・安永九年九月十七日 可児才右衛門妻手討
・天明七年三月四日 右田蓮水手討
・天明七年五月廿八日 鎌田小平太手討
・寛政四年六月三日 安藤十郎右衛門手討
・寛政三年十一月十二日 三苫英助手討
・寛政四年■月九日 不破素太郎家来手討
・寛政五年十一月八日 伊藤権七、太田要蔵手討
・寛政五年十月廿七日 宇田安左衛門、栗原傳蔵手討
・寛政五年七月廿一日 緒方定八郎、松本信平手討不首尾
此条最長シ
・寛政七年二月十一日 林 弾八手討
・寛政七年五月十二日 久永小右衛門下女手討
・寛政九年二月■日 須佐美伴太夫妻ヲ手討
・寛政九年四月十日 上月 謙、坊主知海手討
・寛政十一年二月八日 門池弥五右衛門、大園村尉助手討
・寛政十二年九月七日 原田次郎助、多田村喜太郎手討不首尾
・寛政十戊年七月四日 岡 小平太、高森村文七手討
・寛政十二年二月十四日 蓑田乙次、勝木瀬助手討不首尾 ※ ※
此条最長シ
・文化八年閏二月廿四日 松岡文太夫母下女手討
・文化七年二月十日 清原寿吉郎、貴田小十郎手討不覚
・文化二年六月十八日 吉田卯三郎手討
・文化三年二月朔日 宗本文平下女手討
・文化二年六月■日 神邊岩男手討仕損御知行被召上
・文化三年三月七日 高田傳右衛門狂乱御知行被召上
・文化三年十一月廿一日 相良又左衛門家来手討
・文化九年正月廿五日 山崎勇次郎狂乱
・文化九年七月廿日 木庭勝次負傷
・文化九年七月十三日 枩田文左衛門家来手討
・文化十一年八月五日 山東弥源太盗賊手討
・文化十二年正月七日 駒井軍馬、絵師林文吾手討
・文化十二年三月十一日 河井三郎右衛門、薮田岩次決闘
以上
一本以下追加アリ
・文化十二年三月廿九(ママ) 横田一二三組縄田次郎兵衛弟手討
・文化十二年七月五日 永田蔵次手討
・文政二年十月 杉浦三郎
・文政四年二月 平野大助自殺
・文政四年五月廿二日 菅 庄司、妻を刺殺
・文政四年五月 宮部新太手討
・文化五年五月廿七日 続五郎右衛門喧嘩
以下紙切レ・・年代不明 近藤淳三郎
椋梨半兵衛
■木勘右衛門
山三郎
以上
(尚 ※印あるものは、風説秘録に記事有)
昔二月朔日は初市が賑わったらしい。「歳序雑話」を見ると次のようにある。
二月朔、以此日号初市矣、市鄽 (ミセ)之交易驚耳目、諸国七道之所産、悉持来而莫不売買也、諺曰、当市風者以無疫難矣、
以是府中郊外之幼童、莫不至也、雑遝(トウ)宛如織矣、市中無尺寸之明地矣、有往有帰、有首指作花矣、有手持吹矢矣、肩
蜻蜓(トンボ)網、被鬼面引雉車、求打駒(独楽)買造馬矣、錐根・長刀・張鼓・太鼓・鞨鼓・毬打・玉手毬・竹駒・皿駒等、随意求
之、費金銀不可勝計也、女子者求張箱、犬張箱以下雛之具等、又見物之老若、有被頭巾、傾編笠、曳手携杖徒行者、又有
為父母求几杖、為子姪求書筆者、又有求博奕之采(サイコロ)買淫泆之書、寔(マコトニ)其求異哉矣、蜀江之錦、呉郡之綾、至此
莫不得求焉、寛仁豊饒之所至乎
一方、番太日記(一名髭爺日記)には、新壱丁目初市之事として次のようにある。
前かとは伊藤屋表より飛人形・あやをうる。とふわ/\とゆふてうるなり。あやは一結四五文、飛人形は九文・拾文也。又それ
より先はかざりむま・いろ紙・唐紙にてかさり見事也。みな引馬也、拾四五間見せ(店)あり。五分位より三匁四五分迄段々にあ
り。むかへがわは人形ひいな(雛)見せ。京見せとてかみさし・はな紙入等小間物色々あり。吉文字屋表はみな茶店多く、みな
市茶とうふてかうなり。又内より袋持参者も多し。又花いろ/\菊・かきつばた・梅・桜・石竹花。其むかへたばこ見せなり。新田
たばこ・じや香たばこ・松尾・白石とていろいろあり。是も五六間見せあり。其時分のきくの花は寺(原-脱字)町に上手あり。迎
大工町にもあり。其時分の人形ははりぬきにて極々わろし。獅子がく(顎)にても極々ふできなり。今は下り人形よりもよろし。
此外は今にかわる事なし。池上せんだんきじも同じ。此時分とひ人形・あや、竹村より惣八とゆふ者、むすこにあやをとらせくる。
此むすこ、きりやうよく能わかし(若衆)なり。あやとる事極々名人なり。親父三味せん引うたふなり。
(歌の歌詞が書かれているが略す)
このように初市は、侍・町人分け隔てなく春の到来と共に待ち望まれたものであった。その賑わいぶりが目に浮かぶ。
上妻文庫に「手討達之扣」というものが残されている。宝暦六年(1756)から文政六年(1823)の67年の間の約50余件が記されている。
これらを読むと武士の特権とされる手討(切捨て御免)という行為を通じて、「武士の面目」が如何なるものであったのかを考えさせられる。
今回はその緒言をご紹介し、次回以降50余件のリストをご紹介しようと思う。
一本ノ緒言
手討諸達集録 内ニハ手討達扣トアリ
此壹冊ハ何某御番方組脇相勤候節役中之手扣より書抜所持有しを乞請て写之而巳
夫武士之朋輩打果下人を討捨候事ハ不珍事ニて当前之儀なり、是恥辱を受何分難差忍邊其侭に穏便ニいたし
置かたけれハ不得止事と云へし、しかし此冊之内伴儀兵衛・緒方定八郎・原田次郎助類ニ■而は 上より御察問ニお
よひ終ニ其答潔白ならすして御知行被召上或ハ士席を放たれ恥を■くにあらすして我身に恥を扣と謂つへし、平
息に主として守か処の物あらハ此類に至る儀し(?)慎へき事事(?)ならん、永子孫甥いまた幼稚若童なり、是等の事を
常に聞て心の守を放失して其身ならん、父祖親戚に恥を与ふる事なからん事を願ふ
七十翁許巳丑乃美写之