津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

赤っ恥の記

2010-02-05 18:57:03 | 徒然
 昨日書いた「どうしても判らないこと」に、貴重なご指摘のメールを頂戴した。「史談会」の仲間F氏からのものであった。私が「七傳筵」とした「傳」は「嶋」であり、「七嶋筵」(シットウムシロ)だとのご指摘である。どっと冷や汗をかいてしまった。それというのもその行の下に、遺骸を「嶋崎邊へ葬ける」とある。その嶋崎の「嶋」と同様のくずし字である。何故気がつかなかったのだろうと、顔が赤くなるおもいでメールを読んだ。昨日のブログをコッソリ消去という訳にはいかない。「赤っ恥の記」を書きますと、メールのご返事をした。

 さて「七嶋筵」でぐぐってみたら、細川藩に関する資料がどっと出てきた。
あゝ知らなかった・・・・・・・・・・・・・・・

 不届きを働いた者を成敗したが、「帯刀の者の事故七嶋筵をかぶせ」たというのは、特別な筵を使っての死者に対するそれなりの配慮であろう。

 それにしても、「七傳者死」なる難しいものを見つけ出したのが拙かった。(言い訳だ~~)
今一つ、我が家の四代目さんの「病気ニ而寸七枚仕候事」とある一行は、熊本では高名な方の読みくだしであり、私とても確認できる文字である。これはどうなる・・・。

 「赤っ恥の記」を記しお詫び申上げる。
コメント (2)
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細川家家臣・熊谷氏 (早之允家)

2010-02-05 15:46:51 | 歴史
「細川家家臣略歴」によると、熊谷姓が三家ある。家紋(中陰地紙紋)あたりからしてルーツが同じであるようには見受けられない。今回は「熊谷早之允」家を取り上げる。
「細川家家臣略歴」では気がつかないのだが、「肥陽諸士鑑」をみるとこの家の遠祖を、熊谷内蔵允直盛としている。

 慶長五年豊後石垣原の戦いにおいて、安岐(アキ)城は城代熊谷外記が守っていたが、黒田如水の攻撃を受けて落城、外記も戦死した。この安岐の城主が熊谷直盛ある。細川家家臣・熊谷氏はこの熊谷直盛の孫・三郎右衛門直久を家祖としている。

 ウィキペディアによると、次のようにある。          
【熊谷直盛:豊臣秀吉家臣。文禄・慶長の役で軍監に任ぜられて活躍する。妻は石田三成の妹。
 後に豊後国安岐城主15,000石。関ヶ原の役で西軍敗戦後、大垣城内で相良長毎らに殺害された。】

 石田三成は妹婿の領地を、徳川家康が勝手に細川家に与えたことを大変いかったとされる。
そんな熊谷氏が細川家家臣となったという事も、歴史の不思議さを覚える。

      豊後安岐城  www.ne.jp/asahi/kokura/mcqueen/new_page_211.htm
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ブラタモリから

2010-02-05 09:04:00 | 徒然
 「私の好きなTV番組」に付け加えてもいいなーと思っているのが、NHKのブラタモリ
森田氏の視点がなかなか面白い。近代的たたずまいの中に、江戸の面影を探そうという試みは、私の趣味にあって好感度が高い。
         www.nhk.or.jp/buratamori

 今回は大久保・百人町、百人鉄炮隊や、大久保のつつじの由来を聞いてなるほどと合点した。
         www.edo-hinawa.com

 熊本に於いても細川藩葦北地筒の名残、芦北町の「葦北鉄炮隊」が結成され活発な活動をしている。昨年9月12日から13日にかけて、熊本県芦北町で「葦北鉄砲隊創隊5周年記念事業・全国火縄銃サミット」が開催され、新宿百人町の「江戸幕府鉄炮組百人隊保存会」など25団体が参加するイベントが催された。逆に新宿のビルの谷間での演武に、葦北鉄砲隊が参加したりしている。
         www.yoroi.co.jp/topics/2009/ashikita.html

 2009-10-15 のブログで「菊陽町・鉄砲小路」を書いたが、ここは現在鉄砲隊そのものは残されていないが、地筒鉄砲衆が住まいした集落がそのまま「鉄砲小路」の名のもとに残されている。
素晴らしい景観の中に大久保のつつじと同様、美しいつつじの生垣等も伺える。
         fureainosato.net/teppookoji.html

 江戸と熊本の共通項を感じながら、たのしく「ブラタモリ」を拝聴した。
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