津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

荒木村常消息

2009-05-11 20:57:35 | 歴史
 大日本近世史料-細川家史料(-1289-)忠利より肥後(光尚)宛て書状

(頭注)烏丸光廣荒木村常ノ召出ヲ肝煎ス、光廣死去ノタメ忠利ヨリ松平信綱へ依頼ス

荒木左馬殿之事、内々烏丸大納言(光廣)殿御肝煎候へとも、御死去二候、肥後ニも内々御頼候へとも、大納言殿御座候間可被候とて、ひかへ候へとも、大納言殿御はて候へハ、可被使用無之候ニ付、申候、一筋にても候條、いかようの躰にても、御奉公成事ニ候ハゝ、御肝煎被成可被候由、松伊豆(松平信綱)殿迄書状遣はづニ、此方申合候、其方と談合之上可申候へ共、其元へ申遣、其返事之間候へハ、伊豆殿御番はつれ候故、加藤勘介(重正)殿と申合、如此候、其方判紙にて状を調可遣候、遣候ハゝ、留を見せ可申候、恐々謹言
   十二月廿                     越中
                             忠利(花押)
     肥後殿
       進之候

 東大史料編纂所による、荒木村常についての説明
【十二郎。左馬助。荒木村次二男。浅井長晟に扶助せらる。有馬陣にて光尚の陣に属す。
 寛永十九年十一月廿九日松平信綱の取持により家光に初見、廿年正月十九日召出さる。
 五百石。正保元年五月養母の事に連坐し光尚に預けらる。】
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再び・・赤穂義士切腹の図

2009-05-11 17:31:15 | 歴史
 資料を整理していたら、平成11年12月14日付熊本日々新聞の切り抜きが出てきた。当時島田美術館で「安兵衛の従兄弟・堀部家資料に見る--元禄事件と熊本」展が開催されており、丁度赤穂義士の吉良邸討ち入りの日にあわせて、島田美術館館長・島田真祐氏の「元禄赤穂事件と熊本」という文が掲載されている。中に「御預人切腹之図」もカラーで掲載されている。さて其の文中に「その図様(切腹図)は「御預人記録」切腹の条の文言や配置図にほとんど一致し、一種の記録図として見ることができる」とある。私はいささか意見を異にする。

 私は細川家下屋敷の図面と、安場家や島田美術館の「切腹の図」があまりに違う事に疑問をもっていた。詳細な「場所之圖」(赤穂義士史料・所載)を見るに及んでは別物である。「日本歴史」2008年12月号に、大野瑞男氏の「大石内蔵助ら切腹の図の原図新出」が発表された。ここに掲載された一枚之絵図は、これぞ「本物」と思わせるもので、下屋敷の間取り図や「場所之圖」にまったく合致している事が判る。

 切腹の場所として設えられたその空間は、大広間(檜書院)の前庭である。その先には泉水が見える。左手には能舞台があり、その空間はさして広いものではない。下屋敷の間取り図からすると場所はここしか考えられない。舞台左奥にある「お役者の間」あたりから、薄縁が敷かれ切腹の場所へ誘っている。そして切腹の後の様子は三曲六双の屏風で仕切られ、上使・検使からは直接窺えないようになっている。(切腹の際のみ開かれていたと思われる)既に切腹を終えた遺骸は戸板に乗せられ運び出されるが、その後の始末が見えないように鉤の手に柴垣が設えてある。替えの畳が置かれ、撒き砂が用意されている。これが本物である事は間違いない。

 現在熊本県立美術館・永青文庫展示室で催されている、「忠臣蔵と武の心」を展観した際、そのことをお尋ねしたら態々東京の永青文庫にお問い合わせをいただいた。お答えは
「後の絵師がその場の雰囲気を出すために書いたもの」ということであった。

 「一種の記録図」は、これらのことを承知した上で拝見し、これが本物と思い込まないようにしなければならない。

      参考 「御預人記録」抜粋
     切腹之場所、大書院前之庭に、白布幕三方に張之、通筋には薄縁三枚通敷之、
     縁頬に御徒目付居被申候所は、毛氈敷之、縁頬之白州御小人目付居被申候所は、
     薄縁を敷、切腹人之座所には畳三枚畳敷之、其上に木綿の大風呂敷をしき、十右
     衛門様、内記様、大書院縁頬之方に御座着之上、大石内蔵之介を初一人宛、小姓
     差添、介錯人跡に付罷出候、切腹人座に直り、介錯人左りに添直候時、三方に小
     脇差を乗、歩御使番持出、切腹人の前之前に置之、切腹人小脇差を取戴之、切腹
     仕、介錯済候時、検使方に白屏風追廻、死體不見様に仕、敷置候風呂敷にて死體
     を包、取除之、畳敷替、一人宛右之通にて、七時分より七半時分迄に相済候事
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落書(らくしょ)

2009-05-11 17:12:05 | 徒然
 図書館に出かける。長い間気になっていた文書がある。上妻文庫にある「肥後諷刺文学」三巻(138・139・140)である。これは肥後国内で書かれたいわゆる「落書」を集めたもので、時代の実相が垣間見えて大変面白い。小一時間読んでみたが、思いがけない人が攻撃を受けているのを発見して、これはサイトでご紹介するにはいささか躊躇せざるを得ない。コピーを取ろうと勇んで出かけたのだが・・・止める事にした。指摘は痛烈である。どういう形態であるのかは良くわからないが、どこかの壁にでも貼り付けられたものであろうか。処分される事なく、藩庁に届けられ、それが現在まで残されているのが興味深い。伏字ではなく、人物を特定しての攻撃だから、その背景は何であったのだろうかとの疑問が湧いてくる。誰か真剣に研究する人が現れないかと、相変わらずの「他力本願」ぶりである。そして、こっそりしゃべりたくなる話が沢山ある。
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坂崎三四郎なる人

2009-05-11 09:44:50 | 歴史
 「坂崎三四郎事、此前飛騨殿(立花宗茂)御詫候へとも、御誓文を御立、不被成御同心候へとも、當國を被成御拂からハ不入儀と思召候條、我等次第ニ可罷出候、無失念飛騨殿へ此通可申理由、奉得其意候、親道雲(坂崎成定)煩、以之外つまり候條、先御諚之通申聞候、難有可奉存候事」

 大日本近代史料-細川家史料の寛永九年十一月廿一日書状案(-549-)の抜粋である。頭注には、「坂崎三四郎ヲ追放構ナシトス」とある。
この書状にある坂崎三四郎なる人物は、坂崎家二代・清左衛門成定の息と思われる。細川家史料においてこれより外当該内容に関連する記事はなく、この内容が如何なる原因のものであったのかがわからない。坂崎家系図を見ると成定の跡は、忠左衛門成方が継いでおり、その弟に生田又助の養子となった生田三八がいる。三四郎については詳細不明である。

 清左衛門成定 
  (1)供之者・御扈従与也 千三百石 (於豊前小倉御侍帳)
  (2)御小姓組衆・頭    千三百石 (肥後御入国宿割帳)
  (3)二千石               (真源院様御代御侍免撫帳)
  初小早川秀秋に仕 慶長十年忠興に仕・千石 忠利代加増五百石・小姓頭
  島原陣後加増五百石 都合二千石 番頭・芦北番代 (以上、肥後藩主要系図)
  原城にて武功之面々御褒美被下候・寛永十五年九月朔日 五百石加増・本知千石
                         (綿考輯録・巻四十九より)
「道雲煩、以之外つまり候」とある成定は、病もすっかり癒えて島原一揆の原城攻めに於いては、小姓頭として五百石加増の働きをしている。

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