大日本近世史料-細川家史料(-1289-)忠利より肥後(光尚)宛て書状
(頭注)烏丸光廣荒木村常ノ召出ヲ肝煎ス、光廣死去ノタメ忠利ヨリ松平信綱へ依頼ス
荒木左馬殿之事、内々烏丸大納言(光廣)殿御肝煎候へとも、御死去二候、肥後ニも内々御頼候へとも、大納言殿御座候間可被候とて、ひかへ候へとも、大納言殿御はて候へハ、可被使用無之候ニ付、申候、一筋にても候條、いかようの躰にても、御奉公成事ニ候ハゝ、御肝煎被成可被候由、松伊豆(松平信綱)殿迄書状遣はづニ、此方申合候、其方と談合之上可申候へ共、其元へ申遣、其返事之間候へハ、伊豆殿御番はつれ候故、加藤勘介(重正)殿と申合、如此候、其方判紙にて状を調可遣候、遣候ハゝ、留を見せ可申候、恐々謹言
十二月廿 越中
忠利(花押)
肥後殿
進之候
東大史料編纂所による、荒木村常についての説明
【十二郎。左馬助。荒木村次二男。浅井長晟に扶助せらる。有馬陣にて光尚の陣に属す。
寛永十九年十一月廿九日松平信綱の取持により家光に初見、廿年正月十九日召出さる。
五百石。正保元年五月養母の事に連坐し光尚に預けらる。】
(頭注)烏丸光廣荒木村常ノ召出ヲ肝煎ス、光廣死去ノタメ忠利ヨリ松平信綱へ依頼ス
荒木左馬殿之事、内々烏丸大納言(光廣)殿御肝煎候へとも、御死去二候、肥後ニも内々御頼候へとも、大納言殿御座候間可被候とて、ひかへ候へとも、大納言殿御はて候へハ、可被使用無之候ニ付、申候、一筋にても候條、いかようの躰にても、御奉公成事ニ候ハゝ、御肝煎被成可被候由、松伊豆(松平信綱)殿迄書状遣はづニ、此方申合候、其方と談合之上可申候へ共、其元へ申遣、其返事之間候へハ、伊豆殿御番はつれ候故、加藤勘介(重正)殿と申合、如此候、其方判紙にて状を調可遣候、遣候ハゝ、留を見せ可申候、恐々謹言
十二月廿 越中
忠利(花押)
肥後殿
進之候
東大史料編纂所による、荒木村常についての説明
【十二郎。左馬助。荒木村次二男。浅井長晟に扶助せらる。有馬陣にて光尚の陣に属す。
寛永十九年十一月廿九日松平信綱の取持により家光に初見、廿年正月十九日召出さる。
五百石。正保元年五月養母の事に連坐し光尚に預けらる。】