津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

南條氏のこと--(2) 南条元宅

2011-06-13 14:08:55 | 歴史

                         南條元宅のお墓(禅定寺)

 熊本における南条氏については、井上正氏の論考「南条元宅とその一族」に詳しい。

        http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%B4%A8%E5%85%83%E6%B8%85

  ウイキペディアが紹介するように「小鴨元清」とも呼ばれる。南条元次(続)の弟だが、小鴨氏に養われたことによる。ここでは井上氏も引用しておられる、宮村典太の「藻塩草」42巻所載の南条氏に関する記事からご紹介しよう。

 南条左衛門尉元宅は、伯耆國羽衣之城主南条伯耆守元次の弟ニ而、数度之武功を顕はし、名高強将之由申傳候 太閤之時兄元次死去ニ而嫡子幼年ニ付、舎弟元宅後見ニ而被居候處、元宅家中之不和成騒動ニ及しを太閤聞及ひ、領地を没収せられ幼子何某江御預被成、左衛門元宅は小西攝津守へ御預ケニ而、小西より六千石賜り、客分ニ而居候由 然処慶長五年(中略)此節元宅は宇土ニ居て留守たりしが、加藤清正関東の御味方たるにより、熊本より宇土の城に発向して是を攻らる。元宅は無双の強将にて能防戦す 清正之家来三宅角左衛門と云者、数度武功有る士なりしか、此比清正公之気色を損じ換気を蒙り居たりしが竊に寄手に加わはりぬ 元宅城外に出て防戦しけるを角左衛門是を見て馳向ひ鑓を合せしが、元宅角左衛門が持ちたる鑓を打落し、角左衛門同勢に隔てられ遂に引取りぬれば、元宅たたき落せし角左衛門が鑓元宅取ぬ 此事を清正公聞給ひ強将に向ひし志を賞し勘気を許し給ふ由云傳ふ 元宅無双の強力にて常に三間柄の大身之鑓ニ而向敵を毎打倒せしと云伝 右之持鑓并三宅が鑓共に南条家に持伝しに米田家に永く伝りて今に在之 宇土落城後は清正公へ六千石ニ而被召出相勤被居しが、慶長十九年寅十月二十三日元宅病死也 禅定寺に墓在り 跡式存生中に嫡孫藤八郎(後・元信)ニ譲り度由遺言有り、嫡子勘三郎ト申ハ病身ニ付右之通ニ候処、大坂に妾腹の次男作十郎とて有りしが是を取持つ人有て、跡式を作十郎へ被下候ニ付、家来之者共不同心之段々訴訟仕候得共、不相叶ニ付、福西九郎兵衛・成海次郎兵衛なと藤八郎幼年成を介抱し肥後を立退、豊前小倉に至り右之筋を三齋公へ申上候ヘハ、南条は名高き家ニ付藤八郎へ三千石可被下由ニテ被召抱候

この藤八郎が後細川興秋女・鍋を室とすることになる。以下次回・・・

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