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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■預り人・斎藤伊豆守利宗

2019-10-14 08:43:03 | 歴史

 細川家では罪を疑われたり、罪人となったりした人を多く預かっている。
赤穂浪士などが最たるところだが、最上騒動や越後騒動、また家光の弟・忠長の不行跡にかかわる事件や等、枚挙にいとまない。
一次的には大塩平八郎の乱、桜田門の変の関係者も預かっている。
次回史談会では二三の事件を取り上げ、預り人のその後の生きざまを追うことにした。

下に春日局にかかわる一族の相関図を示したが、細川家とは明智の縁をもっての親しい関係が見て取れる。
永青文庫には春日局と細川家との間に交わされた多くの文書が残されているし、局は250両のお金の利殖を頼んだりしてさえいる。

   +---明智光秀------玉(ガラシャ)
   |         ‖------------忠利
   |        細川忠興
   +----妹
      ‖---------斎藤利三---+----藤伊豆守利宗立本)
   斎藤伊豆守利賢       |          
                 |  稲葉正成  (前室の娘の子が、老中を勤めた堀田正成である) 
                 |              ‖    
                 |     ‖---------+----稲葉正勝(老中・小田原藩主)    
                 +-----於福(春日局
                                                                          +----稲葉正利(徳川忠長臣・細川家御預)    

 春日局の二男・稲葉正利は徳川家光の弟・忠長の家臣であり、忠長の不行跡による連座の罪により豊後府中に流罪されるにあたり、細川家に預けられた。
その死まで許されることはなく40年という長い年月が流れた。
縁とは不思議なもので、春日局の兄・斎藤利宗も罪を疑われ秀吉により細川家に預けられている。この時期春日局はまだ10歳の少女であり、不遇の時であり、その後の権勢など考えられない時代である。この事件が罪人を細川家が預かった最初ではないのかと考えている。
細川家は春日局の兄、および二男を預かったことになる。
その斎藤利宗の罪(?)の経緯について、綿考輯録は次の様に記する。

   今年(天正十七年)斎藤伊豆公義の囚人と成、忠興君御預り被成候て、河北石見に御預ケ被成候処、無程御免ニ而加藤清正江被下候、
   伊豆ハ明智光秀の家人斎藤内蔵助か子なる故、秀吉公をねらひ鉄炮にて打可申と謀候由、秀吉公の御馬廻に伊豆か甥有之候而密訴いた
   し候ニ付、早速伊豆を召籠られ、御穿鑿有之候、伊豆申候ハ、父にて候内蔵介明智殿への届けに君へ御敵仕殺され候、私儀何とて御懇
   可申上様無之候、彼者浪人の私を失、御褒美にも預り可申と拙き底意より、現在の伯父に無実を申かけ、無是非仕合ニ候と申、双方証
   拠なき事故分明ならす、先忠興君へ御預け被成候、依之忠興君の仰を蒙り、河北石見方にさし置候、此比の風俗にて公義よりの御預ケ
   人と云なから召籠置、張番等附置候儀も無之由、石見申候ハ、貴方仮令逐電めされたりとも、上よりの御尋ものニ候ヘハ、日本の内に
   隠れ所は有ましく候、卒爾に逃隠れ、我等に皺腹切せ候様には努々いさるましく候、自然気違ひ如何様の事故とも其時迄と存候間、
   寛々と居られ、用事は遠慮なく被申聞候へと、殊の外深切にいたし候置、扨或日北野にて双方共鉄火を取せ、邪正御糾明有へきに究り
   候ニよつて、其前日石見、伊豆を同道ニ而北野の天神の天神に立願のため参候処、石見平生の真信私なき故にや奇瑞なと有之候と也、
   翌日双方出合、役人も数多被指出、其外見物夥敷中ニ而長サ四寸程之鉄を焼、かなはさみにて挟ミ差出候を、一番に伊豆罷出、両手の
   上に紙一帖敷き、熊野の牛王を一枚置、右の鉄火を受て向の棚に直し、手を引と其儘牛王紙青竹の棚焼貫、鉄大地に落し也、其跡に相
   手の者罷出、件の様子を見て早顔色変し、如以前牛王を掌に置、鉄火を受ると其儘牛王焼貫て、鉄火を地に落しけれハ、役人其者をと
   らへ忽磔にかけられ候、伊豆は御赦免にて清正へ被下、追々取立られ士大将ニ成候、松井・有吉木付籠城候時之書通ニ立本斎と有之
   ハ、此斎藤伊豆守事なり、肥後守忠広領国被召上候以後、将軍家光公ニ被召出御取立被成候、斎藤佐渡守と被改候、忠利君とハ御再従
   弟也 忠利君之譜寛永十三年之所詳に出

       考ニ、天正十七年十一月五日、肥後天草ニ而木山弾正と合戦の時、清正旗本備の内ニ斉藤立本と有、清正へ被下た
       る事夏秋の間たるへし

 斉藤利宗は嫌疑が貼れると加藤清正に仕えたが、忠廣の改易に伴い牢人を余儀なくされた。幕府の熊本城受取りの大役をになった稲葉正勝は春日局の嫡男であり、利宗にとっては甥にあたる。この時期二人が親しく面談したこともあったであろう。正勝は老中まで上り詰めたが、若くして亡くなった。
利宗も幕府に仕える身となったが、甥・正勝の死後、その子等が幼かったため春日局の乞いをうけ後見している。

                    

                                                                           

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