津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

久我美子

2011-01-25 11:46:08 | 徒然

 女優・久我美子(くがよしこ)は、清華公家・久我(こが)侯爵家のれっきとしたご息女である。本名も美子、ただし「はるこ」と読んだらしい。財政が破綻した久我家の為に女優になったとされるが、「こが」の名乗りを許されずに「くが」としたと伝えられている。

 前内大臣久我通明卿の御廉中も美子、この方は細川治年の息女・就(ナル、ナリ)姫である。こちらはなんとお呼びしたのか良くわからない。女優久我美子の名前も案外就姫さまから来ているのかもしれない。

 久我家は細川家とは大変つながりが深い。
            http://www1.parkcity.ne.jp/sito/k104.html

そのさきがけは、綱利女・具姫(初・鍋、常)が右大臣・久我惟通に嫁いだことによる。
実は綱利弟利重の息女であるが、綱利が養女とした。
惟通の孫通兄女・由婦姫が細川重賢の室となっている。就姫は重賢の孫娘である。

 八代古文書の会が発行した「熊本藩家老・八代の殿様 松井章之の江戸旅行日記」によると、天保十二年の参府のおり伏見(今出川)の久我家を訪れている。このとき就姫は「久々御不例」で「漸ク昨日迄ニ御櫛御ほとき仕舞被候得共、未タ御平常通り御仕舞不被出来候」状態で表向には出られず、のち御居間で久しぶりの対面を果たし「太守様え御伝言等」をお聞きし退出している。その際の部屋の間取りや出入りの状況などが記されていて大変貴重な記録とも言える。大変こまめな殿様であったことが伺える。このとき就姫様は54歳である。弘化四年四月61歳で亡くなられた。
「東路日記」「桂能里乃紀行」「散九良木集」などの優れた紀行文、歌集などが残されている。

        
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2 コメント

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久我美子 (光千代)
2011-02-10 00:06:22
津々堂さん、こんにちは。いつも楽しみに拝見させていただいてます。彼女は「近世の和歌」という本では近世女流歌人の一人として紹介されてるのですね。<よしこ>とルビがふってありました。詠み残した多くの和歌が『桜木集』と名付けて没後刊行されていたのですね。この中に幽斎200年の追善を営んだ時の詠んだ和歌も収められているとか…。
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就姫様 (津々堂)
2011-02-11 17:58:30
光千代様、コメント有難う御座います。
「肥後文献解題」によりますと、「散九良木集」とありました。2,107首だそうです。就姫様は桂離宮を拝観され「桂能里乃紀行」、江戸から京都への東海道紀行文「東路日記」などを残されているようですね。「桂能里乃紀行」など読んでみたいと思っていますが、活字化されているのでしょうか・・・
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