小山を為している史料の山を整理していたら「早船の規矩」という「海事史研究第三十号・抜刷」と「同三十一号・抜刷」の合本が出てきた。
このような史料は「熊本藩関係の史料」を収集しておられる方でも、そうそう所蔵されている方はいらっしゃらないだろうと自負している。
これは「波奈之丸」を築造したことで知られる熊本の船大工竹内家の「船造りの秘伝書」のようなものである。
しかしながら、文章の羅列で図版などがないため、まったく理解に苦しむ。解題を読むと専門家の先生が「初めて聞く文言」だと記されるものがあり、素人ではとんと判らない。
初代波奈之丸は元和九年(1623)から寛永元年(1624)四月にかけて、細川忠興によって中津で建造されたと伝わる。熊本藩年表稿-万治三年項p80)
二代目は万治三年(1660)に、波奈之丸は熊本の水軍の拠点・川尻で建造されている。その折には竹内家初代の弥右衛門が携わった。
貞享二年(1685)、三代目となる波奈之丸は大阪で造船されることに成った。その折藩の重役は、当時の竹内家の三代当主・次左衛門に対し忰・茂兵衛を、大坂天満に在った将軍家の船づくりにも携わった船匠善左衛門に弟子入りを進めている。
処が、次左衛門は「善左衛門が知っている早船の造り方は自分もとくと知っているからその必要はないと断った。すると、御大家の棟梁役を勤めるもどの者はかくありたいものだと褒められた。」とあり、波奈之丸の出来映えも見事なものであった。
その次左衛門によってこの資料の元である「万寸法之覚」が記録として残され、その後子孫によって増補されている。
(4代・5代については不明、御存じの方が居られましたらご教示ください)
その後は熊本藩領、豊後の鶴崎で建造したというが、ここに竹内家がかかわっているかどうかは良くわからない。
鶴崎における資料によると、「天保五年(1834)に第6代の波菜之丸が焼失(10月5日)し、細川10代細川 斉護( なりもり)が再建しました。その焼失の際には熊本藩の鶴崎番代以下鶴崎詰めの役人は全員それまでの役目を取り換えられたといわれています。第7代波奈之丸は天保八年(1837)年に起工し、天保十一年(1840年)三月に竣工しました。」とある。
「波も之(これ)を奈何(いかん)せん」という波奈之丸だが、火災はどうにもならなかったようだ。
その間の参勤は別の船で行われたのだろうが、そんなことの詳細は判らない。
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