遠山桜 忠利君
とを山の霞につゝむ桜花長閑にもふけ春の朝風
惜花 孝之主
散花を惜心もおしなへて豊なる世の程そしらるゝ
寛永三年三月廿五日、小倉城の本丸で花見の宴が催された折の忠利と叔父・孝之の歌である。(綿考輯録・忠利公--上、p127)
後には仲違いする歳が一つしか違わぬ孝之(休斎)と甥である藩主・忠利の蜜月の時代の話である。
孝之は幽齋公の四男で嫡兄の忠興公とは22の年の差がある。幽齋の隠居料の名目で豊前香春城(25,000石)を預かったが一国一城令により退身、京都へ出て幽居、甥である忠利から三百人扶持をもらっている。
幽齋が自分の隠居領を相続させようとしているようだが、実行されたようには見えない。
二人の関係が悪化すると忠利は、「我等おぢに休斎と申者御座候、不聞事候而中をたかい申候」と公言をはばからない。
熊本入国後も勝手な振る舞いが多く、忠利の頭を悩ませている。
孝之は熊本に入る事も、禄を忠利から受ける事さえ嫌い、忠興の居る八代で過ごしたようだ。
忠利は忠興に相談を持ちかけ、忠興の五男・立允(宇土藩祖)から扶持をもらうのはどうかとさえ申し出ている。
正保四年七月七日卒、享年63。京都の細川家墓所、大徳寺・高桐院に眠る。女子・小万は家臣・小笠原民部長之室。
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