豊後路は熊本城から北へまっすぐ伸びている。その途中に宇土小路・山鹿小路といった一角がある。
加藤清正が小西行長(宇土)、立花宗茂(柳川)等の家臣を受け入れ住まわせた所である。立花家は改易となった大名として、唯一復活した家として知られる。唯一というと今ひとつあって、立花道雪は娘である千代に其の跡目を継がせたのである。そして宗茂を婿として迎えた。
そんな中柳川・立花家は改易となる。先に記したごとく、家臣は加藤清正に託された。千代も同然であるが後に県北玉名の地に屋敷を構えた。
そして大名家として復活することを知らないまま、改易から二年後この地で亡くなった。長洲町腹赤に「ぼたもちさん」と称して親しまれている千代のお墓がある。
何故このような形になったのか、不思議の極みである。
http://www.muneshige.com/place/botamochi.html
千代像
細川家と立花家の関係は大変良好である。忠興の弟・興元の継室は立花宗茂の養女(妹・高橋紹運女)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
柳川小路に在った柳川衆にとっては、立花家の再興は天にも昇るような慶事であったろう。
今静かなたたずまいを見せるこの界隈に、あるとき大歓声が起こったことを知る人は少なかろう。
改易(慶長五年)から二十年を経た元和六年(1620)のことである。
ちなみに千代のお墓がある長洲町腹赤とは、熊襲退治の折に景行天皇に「腹赤(はらか)=にべ」を献上した場所とされる。
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