津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■けしつぶの中くりほぎて・・・・・・・

2024-05-30 06:58:25 | 人物

  先にご紹介した宝暦期の大奉行志水才助は、師である片岡朱陵の塾においてある日朱陵の講義も聞かずに縁側で寝こんでいた。
この様なことに意を介さない朱陵も、講義が終わると共に寝ころんだ。突然才助は「学校を作りましょう」と言い出した。
「それは良い」と朱陵とその門人たちは、計画書をこしらえて江戸にある秋山玉山に知らせた。
江戸では秋山玉山が藩主・重賢から学校建設の計画を持ち掛けられており、玉山は余りの偶然に驚き重賢に報告し計画は一気に実現へと向かった。
これが藩校時習館建設の逸話として語り継がれている。
秋山玉山が時習館の初代教授になった。ところが朱陵には不満があったようだ。
開講習討論という一文のさいごには「縦令賜由同此席、大息焦心應失明」とある。
そして次のような歌を作った。
    けしつぶの中くりほぎて館立て 一間/\に細注を讀む
    時習館きうりかづらのはびこりて 十三經の置所なし

 朱陵はもともとは、細川家直臣・藪氏の家来であった。重賢はこれを召し出したわけだが、時習館の二代目教授は藪孤山が就任している。
朱陵は重賢の侍講に任ぜられるが、その時間を忘れるほどの異風者であったが、重賢はそんな朱陵を愛したという。
孤山(茂次郎)が若くして江戸へ遊学してきた折、「聖賢の學は、身を修るを大切と仕る」と諭すと、「此朱陵は片時も身を修むると云事は出来ませぬ」と答えたという。茂次郎としては、旧主として朱陵の放埓な行動が心配であったのだろう。

 宝暦の改革に尽力した人々の中には、朱陵門下の人が多い。
堀平太左衛門の後大奉行についた志水治兵衛(才助)や、村山九郎次郎、蒲池喜左衛門、吉海市之允などを輩出している。

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