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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■勝海舟熊本から長崎へ

2025-06-10 06:25:03 | 歴史

 先の「須賀廼舎日記抄」元治元年二月二十日の項では、「公儀役人衆」が大津に止宿したことに触れている。
実際にはまだ文久四年である。まさに熊本入りした二月廿日に元治と改元された記念すべき日である。
著者はこれが「軍艦奉行・勝麟太郎一行」であり「坂本龍馬」などを伴っていたことは理解していないらしいことが文章からは読み取れる。一行は50人ほどとある。以下「勝海舟日記」から18・19両日の様子を見てみよう。

「勝海舟日記」文久4年(1864年)
 2月18日
久住に宿る。細川候の旅邸。惣体、葺屋、素朴、華美の風なく、庭中泉を引き、末、田野に流る。七里地は、久住の山脚にして、殆ど高峯、地味可なり。山泉を引きて左右に導く。小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み橋杭なし、導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、栗、皆実るべし。その高名、尽力の至る処殊に感ずべく、英主あらざれば、この挙興しがたるべし。他領、公田の雑る所、熊領に及ばず。また聞く、この地の南方、導泉の功、この地の比にあらず。或いは山底を貫き、高く噴出せしめ、或いは底なしの深谷に帰さしめ、皆田畑の用に応ぜしむと。山上より阿蘇嶽をみる。この嶽に並び立ちたる高峰あり。猫が嶽(根子岳)と云う。人跡至らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。妙義山に比すれば、更に一層の奇峯なり。

 2月19日
(久住から)八里 内の牧に宿す。この地もまた山中山泉自由なり。惣て鶴崎より此地まで土地厚、熊領は大材甚だ多し。此地より街道杉並木、数十年の大林、左右に繁茂す。我、此地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこと、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にて素朴、他国の比にあらず。内牧より二里的石村あり。爰に領主小林の亭あり。素質、底は山泉一面に流る。夏に宜し。北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚甚だ広く田野あり。また一里半にして二重の峠あり。甚だ高く、峠の道十八・九町、最難所、路、山の脚、殆ど頂上をめぐる。峠を下り少々行けば、大石直立、大斧壁をなせし所あり。侘立十丈ばかり、横また同断。路を挟みて左右に直立す。これを過ぐれば大杉、山脚に並し、山腹鬱として殆ど唐画と一況。大津宿に至る。五里。大津宿より、熊城下までは少低の路、左右大杉の並樹、この中、桜の大樹十四・五町の並樹あり。道中甚だ広し。熊城を路二里より望む。天守孤立、築制他城の比にあらず。外周最大なり。武士屋敷その中にあり。郭畳高く堅牢おもうべし。熊城下新町の本陣に宿す。矦より十文字の鑓刃を賜う。我が門の藩士、数人来訪。横井先生へ(坂本)龍馬子を遣る。

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 この年の5月神戸の海軍操練所が設立されると横井小楠の甥、横井佐平太・太平兄弟は入所している。二人は勝海舟の家来扱いとなっており、海舟と小楠の濃密な間柄が伺える。坂本龍馬も海軍操練所では海舟の片腕として操練や仕官の育成などに努めた。翌慶應元年3月9日には閉鎖され、海舟は軍艦奉行の辞任を余儀なくされている。
案外2月19日竜馬が沼屋津の小楠邸を訪ねた時に、二人の海軍操練所入所の話が決まったのかもしれない。

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