津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

肥後国分寺データ

2013-12-06 09:30:48 | 保存

先に熊本地名研究会の「砂取・出水」散策の催しに参加した際、国分寺を尋ねた。また七重の塔の心礎を熊野坐神社で拝見した。
幼少期近くに住んでいたことも有り、それぞれの存在はよく承知をしていたが、詳細はと言われるとまったくうとい。
ウェブで検索していたら【 国分寺塔跡および概要 】という素晴らしいサイトをみつけた。全国各地の国分寺のデータの中に「肥後国分寺跡」がある。
その内容量がものすごいのでアドレスをご紹介するだけにしようと思ったが、該当項をコピーしてご紹介しようと思う。

                                

国  分  寺  の  塔  跡  及 び 概  要国  分  寺  の  塔  跡  及 び 概 

肥後国分寺跡

心礎の長径は2.7m、高さ1,2m、径76×9.6cmの円穴を持つ。(長径2,6m短径2,4m高さ1,8mとの記事もある。)
 ※「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収)の注に記載資料 より:
   大きさは9尺×6尺6寸、径2尺5寸4分深さ3寸2分の刳り込みを有す。
心礎は現在地より西側にあったが、明治期に熊野権現の境内に移されたと云う。また礎石が1箇、心礎南すぐ猿田彦碑の根元に残存する。
金堂跡には中世、曹洞宗国分寺が再興される。周辺には「門前屋敷」「伽藍」などの地名が残ると云う。
2009/09/20追加:
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
現国分寺(曹洞宗・医王山)付近が国分寺址であり、現寺は本堂(本尊薬師如来)と庫裏を備えるのみである。
現境内の南14間許に門あり、その門前の東西に通じる道の東30間に東門があり、西45間に以前は西門を開いていた。門前の南50間に東西道があり、その地域と「門前」と云う。「門前」と正門間の東に心礎と云われる礎石がある。大きさは9尺×7尺・高さ3尺5寸で、表面に径2尺5寸4分深さ3寸2分の円孔を穿つ。
「寺の左後方40歩許の畠中に大石11個あり、柱居を彫る所謂七層塔軸柱の礎なるべし」(「肥後国誌」)とあり、当時寺は西面し、この付近が塔址であったと推測される。また現境内に大石1個あり、床下にも2分割した礎石を使用する。以前にはもっと多くの石があったと記録される。
 肥後国分寺址平面図:および心礎実測図     肥後国分寺心礎
2009/09/20追加:
○「熊本市文化財情報サイト」 より
心礎は現位置より西側にあったが、明治の頃、熊野神社の境内に移された。心礎は長径270cm、地上からの高さ120cm、中央の柱穴の径は76cm、深さ9.6cm を測る。礎石は心礎のすぐ南側に1箇、境内の猿田彦碑の根元に1箇あるが、心礎と同様に安山岩の塊石である。
金堂の跡に中世曹洞宗国分寺が再興され、周辺には「門前屋敷」「伽藍」などの地名が残る。
2009/09/20追加:
○「サイト国府物語」→「肥後国」・「肥後国分寺」 項 より
昭和56年本格的な発掘調査を実施。その結果、寺域は約220m四方で、伽藍配置は金堂と塔を東西に並べ、奥に講堂を配する法起寺式伽藍と推定されるにいたる。
 肥後国分寺伽藍配置図:推定     肥後国分寺塔院配置図:推定
2012/01/20追加:2012/05/05追加修正:
○「肥後」松本雅明(「新修国分寺の研究 巻5下」角田文衞編、吉川弘文館, 1986-1997 所収) より
肥後国分寺の範囲・伽藍構成などについては、近年まで移動しているしている心礎のほかには何も分からなかったのが実態であった。
 大正15年の「熊本県下に於ける古代礎石と瓦」では「心礎は東西7尺南北8尺<最大径9尺>高さ4尺で、中央に径2尺5寸4分深さ3寸2分の円孔がある。心礎は最初現国分寺本堂の正面に位置し、隣の林田家の庭にありしものを、今より約30年前熊野権現の境内に移すといい、尚この付近に多くの大石ありたるが、皆追々と取り去られしと云う・・」(大意)と云う。
 現在国分寺付近は社寺を除くと住居商店が密集し発掘の余地は皆無である。しかしながら、熊野権現境内のトレンチ、最初の心礎位置北の現国分寺参道の発掘から、塔を囲む廻廊跡と考えられる遺構を検出する。
同時に狭い露地であったが最初の心礎位置と伝える付近を発掘する。その結果心礎抜取穴を検出する。
 肥後国分寺心礎図:心礎現位置図・心礎実測図
基壇規模は上記の露地の発掘では捉えられず、庭先などのボーリングで探査し、試掘の繰り返しの結果、基壇は一辺およそ60~65尺程度と推測可能となる。この塔は廻廊で囲まれた塔院とも云うべき遺構であった。東西の廻廊基壇外側間は57.5m(唐尺180尺)となる。
 肥後国分寺塔院復原図: 講堂及び塔復原図、塔阯は東西57.5mの回廊に囲まれ塔院を成す。
 昭和12年の「滅び行く史蹟」(下林繁夫)では現国分寺本堂床下には原位置を保つ礎石があることまた木山街道の東の町裏には築地跡が残っていたということが述べられている。 以上などから現国分寺本堂床下には礎石があることが知られ、国分寺遺構の把握のため、昭和46年本堂床下の調査を決行する。その結果巨大な礎石7個が遺存し内6個は動いていないことが確認される。 調査の結果、詳細は省略するが、次のように講堂は復原されるべきものと判断される。
 肥後国分寺講堂復原図:礎石1・2・3・5・6・7は原位置を保つ。礎石1・3・4・5・7は周囲などが破砕される。4は動くも大きさから見て、4は5の西半分である可能性がある。なお東隣民家庭には多くの礎石と思われる石があるが全て動いている。
以上の結果や「肥後国分寺推定伽藍配置」から肥後国分寺の伽藍配置は以下のように想定するほかはない。
 肥後国分寺地割:類例のない珍しい伽藍配置であるが、塔と金堂を入れ替えれば、近江甲可寺に類例を求めることができる。
 甲可寺伽藍復原図:8世紀中葉  → 近江国分寺跡(近江甲賀寺など)
2013/01/21追加:「九州の古瓦と寺院」九州歴史資料館、1974 より
 肥後国分寺心礎
2013/03/10撮影:
心礎原位置の特定は、それらしい「狭い路地」らしきものはあるが、位置特定は困難である。
 肥後国分寺心礎1     肥後国分寺心礎2     肥後国分寺心礎3     肥後国分寺心礎4
 肥後国分寺心礎5     肥後国分寺心礎6     肥後国分寺心礎7     肥後国分寺心礎8
 肥後国分寺礎石1     肥後国分寺礎石2
 肥後国分寺山門      肥後国分寺本堂

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