(元治元年)
八月十三日 八月二日異国船長州へ押寄せ、台場等打ち崩し候由評判御座候。七月二十日ころより御差し上しに相成候御人数呼下しに相
成候由にて昼夜下り之れ有り候。八つ頃大早二駕下り候。
参考:下関戦争
十四日 夜五つ大早二駕上り候。七月二十一日より御差し上しの御人数皆々に御呼び下しに相成り、十八日朝溝口殿御下りに相成る。
聴衆に押寄せ候ヰンギリス、台場打崩し上陸致し候処、地雷火をもつて1に致し百人余生捕り、軍艦も奪取に相成り候由評
判仕り候。且つ又長崎異国の屋敷地等肥前侯より残らず焼き捨てに相成り異人も打取りに相成り候由評判之有候。肥前の人
数四十人余打死致し候由。
十七日 上田一郎左衛門養子右田山三郎大筒手にて小倉に出陣仕り候。当手永町村江藤久兵衛、南方紫藤寛次郎同様出立仕り候。
十八日 大早駕三棹下り候は江戸飛脚の由、アメリカ将軍家に仕掛け候に付き大早下り候由申し候。
大矢野権助小倉に出立にて案内御座候。御守、樽等を遣し候。大塚武兵衛伜も出立致し候。
夕方薩州の大早二駕下り候。肥前家中の由乗馬三匹人数二十人余上り候。
十九日 鶏鳴頃下り多く之れ有り候。此の十五日より御人数小倉に御上しに相成る。
二十日 夜五つ頃大早二駕下り候。夜九つ頃大早駕二棹上り候。近頃は一日越、二日越に大早通行多し、近国諸藩中通行多く候。
上野堅吾先生着、右は去る八月二十五日より出京に相成り居り候処此の節御下りに相成る。
(鉄砲小路殆んど出陣)
鉄砲小路の儀は子弟に至るまで残り少々、此の節小倉に御差し候由。
今度御郡筒三百余人無寸志に召し出され候。御郡屋淳平弟新太郎御筒に召出され候。苗字帯刀御免、足軽段の動向の様仰せ
付けられ候。
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