(慶應二年)七月
七月(日付けなし)
澄之助(護久)様御事おいおい御養子様に御願の筈との御達し。良之助(護美)殿御事御政治向き上聞仰付けられ御家老間
にも御出席との御達し。(津々堂註:慶應二年八月廿八日韶邦弟長岡澄之助護久ヲ養ウテ嗣トス)
当社拝殿屋根手入、四月二十九日より打つ立ち、七月二十日成就仕候、尤も梅雨長く雨勝ちにて大いに暇取候、左官は鶴口
の増平兄弟、塔迫の善四郎父子にて受け込み候、手水鉢屋根も同人共葺き替え候。
近日江戸下り多し、江戸詰の御人数一切御引き払との由評判御座候。
平野九郎衛門殿病気にて御中老御断りに相成り御留守居大頭列に仰せ付けられ有吉一左衛門殿御家老御断りに相成り同様仰
付けられ候段御達し御座候。
薩州より見悪しき金遣はし候に付よく/\御取り調べ受取り申す可き段内達御座候。
(津々堂註:幕末薩摩藩の贋金作りは有名である)
二十七日 夕方畝物引合相済み饗応の儀当拝殿にて相催し候。
米一俵二百参拾五匁、大豆百五十目、小麦百弐拾五匁、裸麦百拾五匁双場の由、白米一升六匁七分、上酒一升拾壱匁、醤油
一升四匁五分、引綿百目弐拾目五分、只々高値に相成り候。
二十七日 暁、長州勢押し渡り、大里より大炮打懸け候に付、小倉勢六百人許り、山手の様に逃げ退き候、御国勢合戦に相成り十分の
勝利の由、諸藩は皆々逃げ退き申候との事に候、長州勢引き退き申さず二十八日猶合戦に相成候由。
旅人御取締りの儀、当時の形勢にては、海岸受持ちの面々は別段心を用ひみ掛け致さば差し押え候様御達し。
良之助様、長岡帯刀殿下屋敷一月邸に御仮住居極められ候段、且又米田左馬助(是豪)方見習の為御家老中御同席に出方の
儀、監物殿(是容)より願の処、願の通り御免し仰せ付けられ候段御達し御座候。
小倉出張の御人数引払にて帰陣の由。
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松井家下屋敷一月邸とあるのは「一日邸」の間違いである。長岡護美が仮住まいとしてこの一日邸に入ったという事実をこの「須賀廼舎日記抄」で知ることができたのは大きな収穫である。
なおこの「一日邸」についてはご厚誼戴いているブログ「徒然なか話」に詳しい。ここにご紹介しておく。
熊本の風景今昔 ~ 一日亭の夢の跡 ~
又、青木勝士氏の論考ー八代松井氏下屋敷「一日邸」についてがある。ダウンロードしてお読みください。
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