何気に本棚を見回していたら渡辺京二氏の著「神風連とその時代」に何やら紙が挟まっている。
取り出してみると作家・小山寛ニの「哀愁の碑‐神風連の女たち」のB5判のコピー2枚である。
「日本談義」に掲載された記事だが、行方知れずの状態だった。
ああここに在ったかと思い、A4判に拡大コピーして別にファイルすることにした。
小山の母親の実家は八代龍峯の郷士・高田家で、男子がなく三人姉妹であったため、長姉が一族から婿養子を迎えた。
熊本の城下で神風連の一党が蜂起した時、その学統であった高田家の婿はこれに参加するではなく出奔した。
長姉は「ご同志の皆様に申し訳ない」と自刃して果てたという。その後高田家は次姉が林桜園の学統に連なる人を婿に迎えたが、この人は当時東京遊学中であった。小山はこの義伯父からいろいろ薫陶を受けたらしい。
この一文は、そんな小山の縁戚である高田家で起きた悲話からスタートしている。
神風連の挙は林桜園に連なる学統の絆が徒党を組んだが、その結末は自らの死に加えてその家族の身の上にも悲しく切ない悲話を生んだ。
小山はその一つとして、小林恒太郎の新妻の短い悲しい人生を取り上げている。
新婚四ヶ月での夫との別れ、望まぬ離縁、実家からの圧力による離縁・再婚・出産、さらなる離婚、小林家に対する悔悟、そして自刃と悲しい一生であった。
小山は最後に「かにかくに、わが火の国の神風連は、かぎりなく悲しい」と結んでいる。
これは封建時代の婦道感がもたらした一例にすぎず、神風連の挙はいかにも悲しい。
その後の当事者の家々の皆様の平安を願うばかりである。
ちなみに、小林家のご子孫にはご厚誼をいただいている。秀逸なWEBサイト小林党-小武士団の700年を主宰しておられる。