唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (16)

2015-08-19 22:23:24 | 初能変 第二 所縁行相門



 昨日朋友からラインをいただきました。そこに綴られていたのは非常に感銘の受けるものでありました。私は常日頃あたかも仏法を知っているふりをして語っておりますが、仏法はこういう風にして生きているんだなと教えられました。私の語りは机上の空論であり、親鸞聖人からは、「善悪の字しりがおは、おおそらごとのかたちなり」と教えられていることだなあと、頭を打ち付けられたような衝撃を受けました。友は介護の仕事をされているのですが、介護を通して触れられたことなんです。
 「その方は、交通事故に巻き込まれて、下半身不随になり、余儀なく車いす生活をなりました。その方と買い物やランチをご一緒させていただいてます。僕が(今の現場を)退職することを聞いて、その方が「某さん、あのね、もし、僕が、不慮の事故に遭わなかったら、もしかしたら、某さんに出会うことがなかったかもしれませんね。車いす生活になって、しばらくふさぎこんでましたが、某さんだけでなく、たくさんの方の優しさに触れました。某さん、、短い間でしたが、楽しい時間をありがとうございました。」
 とお礼をされました。思わず、涙が出てきました。悲しい現実から育まれた優しさと温かさに触れることができました。・・・その方は、決して聞法をされている方ではありません。しかし、その方のおっしゃる言葉には、法の風が吹いていると思いました。。ほんとに介護を通して、聞法させていただいてます。」
 このお話を聞いて、「この身がありがたいのです。この身が仏法にあわさせていただいた。この身がなかったなら、ほんとに大事なことを知らないで一生過ぎたと思います。」と語られた先達のことを思い出しました。私は、いつも不満足で、どうしたら満足がいくのか、闇の中でダイアモンドの原石を探すような愚かさを、真面目な顔をして日暮しております。
 亡き父は、死の間際に「俺の人生一体何だったのか」と私に問いを投げかけました。それは「今満足しなかったら、いつ満足するんや」と云っているように聞こえました。仏法の課題は、今在る身をいただけるのかどうかなんでしょうね。いつも不足ばっかりなんですが、不足の根拠はどこにあるのでしょうかね。どうも比較の上に成り立っているように思えます。私にとって、が中心ですね。いのちあるものは、つながりのなかでいのちを支えあい、育みあって生かされている存在ですね。そこに縁起が語られるのですが、縁起を無視した在り方が、「私にとって、都合のいいことには、とことんむさぼり、都合の悪いことには、怒りをあらわにする」、出所は「私にとって」という愚痴でしょう。縁起を無視したことによる有無の見ですね。
 先程の車いすの方は、ちゃんと縁起された身をいただかれています。それまでの道のりは大変だったとは思いますが、そんな自分を支え、励ましてくれる周囲の温かい眼差しに触れられて、出会いの素晴らしさを体感されていらっしゃるのでしょうね。
 昨日のブログでの言葉でしたら、「現縁の力の撃発するに随って」ですね。身はいただいているんですが、この身をいただけるかは「今」にかかっているんですね。縁起を無視した業力によって引きずった身をいただいているわけです。それが縁起の身を生かされている視点に変わる時、つながりを生き得る存在に変革されるんでしょうね。
 「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と。

 もう一つ昨日の会話の中から思い出されたことが、『歎異抄』第九条のお言葉です。
 「「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。・・・」

 彼女の問題は、執着する自分が居て苦しんでいる、ということなんですが、執着する自分を作り出している「私」がいるんですね。この私が、執着は悪だと裁いている。裁きている私が見えたなら、それは「煩悩の所為なり」と教えられていることです。執着(煩悩)を縁(手がかり)として念仏に触れていく、そこに広
大無辺な世界が開かれてあったことに頷きを得ることができるのでしょう。
 
 「悩みは覚りの一里塚、握ったら執、放したら覚」

 

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (15) 前後しますが (10)

2015-08-18 23:13:59 | 初能変 第二 所縁行相門
  

 「色を厭離したる故に業果の色は無し。定果の色有りと云うことは理に於て違すること無し。彼の識は亦此の色を縁じて境とす。」(『論』第二・三十二左) 『述記』には「前に已に弁ずるが如し」と。定力所変という問題ですね。
 業力所変は決定しておりますが、定力所変は決定していない、作り変えていくことができると云っているわけですね。現行の果は引業のかですから、過去の行いによって自ずから決められていくわけですね。これはl覆すことはできませんが、現行そのものを定の力によって変えていくことができると教えているのです。どのようにして変えていくのかと云いますと、「現縁の力の撃発するに随って」。今何をしているのかに関わってくるのです。現行(即)熏種子です。どのような種子を植え付けるのかが未来を決定します。今は未決定ですが「即時」が大事ですね。
 仏教で大事な指針の一つに「彼岸」が語られますが、確かに彼の岸ですから未来です。しかし未来が「現縁の力」によると云われているのです。今が問題だと。彼岸が「即時」に関わってくるのですね。明日の問題ではないということでしょう。そして聞法。一度聞いたらそれでいいというわけにはいきませんね。種子生現行という生の間に「衆縁」が隠れています。現行熏種子の熏習される種子、どのような種子が熏習されるのか。それが「現縁の力の撃発するに」随うわけですから、いかに今が大事であるのかが知らされます。
次科段は「不可知」について述べられます。不可知を説き終わって『成論』巻第二が説きおわり、巻第三に入ります。第三・第六義、心所相応門が説かれます。
 今日は、ある人との会話から問題をいただきました。「執着する自分をどうしたらいいのか」という問いです。執着をしているから悩んでいるのはわかります。でもそこから抜け出せないで苦しんでいます。どう解決したらいいのでしょうか、という問いなんです。皆さんも考えてみてください。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (14) 前後しますが (9)

2015-08-17 21:24:56 | 第二能変 所依門



 「爾らば諸仏は遍智に非ざるべし。」(『論』第二・二十二左)
 諸仏の智慧は遍く現象的存在を観察して、「我は無い」と覚られている。遍智です。遍智でなかったならば、仏とはいわないんだと。「無は是れ無なるを知る」智慧を備えたお方が仏様ということですね。それが大円鏡智であると云われているわけです。
 無漏位のことは簡単に述べられまして、最後に結ばれます。

 「故に、有漏の位の此の異熟識は但し器と身と及び有漏種とのみ縁ず。」(『論』第二・二十二左)

 阿頼耶識は何を対象とするのかが、最初の論題でしたが、縷々述べて、阿頼耶識の所縁は種・根・器で有ることをはっきりさせたわけです。それは因縁変によるわけです。

 「欲・色界に在って三の所縁を具す。無色界の中には有漏種のみを縁ず。」(『論』第二・二十二左)

 三界の境の別を明らかにしています。阿頼耶識の所縁は有漏種と有根身と器界ですが、欲界と色界においては三の所縁すべてが備わっているけれども、無色界に在っては有漏種だけである、と。私たちはどう考えても欲望渦巻く世界を徘徊しています。しかしどこでどう間違ったのか、私は正しいという立場をはずしません。なんという愚かしい事でしょう。私は正しいという立場が欲界の特徴なんでしょうね。何を語っても、「私にとって利益あること」が最優先なんです。その代表が財欲であり、名利心であり、慢心ですね。これらを着飾ることに奔走しているのが私の姿そのものです。そして、これらを求めるのが何故悪いのかということがありますが、悪いのではないのですね。これらに執着する心が問題だと指摘しているんです。
 少し前に戻りまして、業力所変、定力所変という問題が提起されていました。そこを読んでみます。

 「前来は且く業力所変の外器と内身との界地の差別を説けり。若し定等の力による所変の器と身とは、界地自他に於て則ち決定せず。所変の身・器は多く恒に相続せり。変ぜらるる声・光当は多分暫時なり。現縁の撃発(きゃくほつ)するに随って起こるが故に。」
 
 業力所縁は、因は是れ善か悪の結果としての対象を持っている。それが有漏種と有根身と器界なんです。阿頼耶識が変現したところの三つを所縁として見分の内容としている。これは動かすことができないものである。自分で自分の世界を作ってきた、そして今も作っているということなんですが、ここに定力所変という自己変革の鍵が提起されてきます。「果是無記」です。業の流れを受けて未来を切り開いていくチャンスが与えられているわけです。
 ここで非常に大事なことは、法に触れるということなんです。
 『三十頌』第二十一頌と第二十二頌を読んでみます。
   
   依他起の自性は、分別の縁に生ぜらる。円成実は彼が於に、常に前のを遠離せる性なり。(第二十一頌)
   故に此れは依他と、異にも非ず不異にも非ず。無常等のごとし。此れを見ずして彼をみるものには非ず。(第二十二頌)
 
 多川俊映師の現代語訳を引用します。
 「(第二十一頌)私たちの日常は、さきほどみたように、遍計所執の世界ですが、つぎに一般的にみて世界というものはどのようにして成り立っているのかを確認しましょう。むろん、勝手な思い計らいや執着はいけませんが、そういう世界も、ある絶対条件の下、単独に在るわけではありません。やはり、さまざまな原因が一定条件の下、一時的に和合しt成り立っています。つまり、元来は、縁起(さまざまな縁によって生起する)の性質のものです。唯識ではそれを、依他起(他に依って起こるもの)というのですが、どのような世界であれ、この依他起(えたき)ということが在り方の基本です。
 さて問題は、私たちが真に求めるべき世界です。唯識ではこれを、円満に完成された真実の世界という意味で、円成実(えんじょうじつ)といいますが、これも、依他起の性質がベースになります。ただし、その上によからぬ思い計らいや執着を一切加味しない、というよりむしろ、つねにそうした遍計所執の無縄自縛を隔絶した世界――。それが円成実の世界です。
 (第二十二頌)したがって、円成実と依他起との関係は、異なっているのでもないし、異なっていないのでもない。――という、はなはだ微妙な関係です。つまり、円成実と依他起とは、別のものでも同じものでもないのです。
 それはたとえば、無常という事実と真実のようなものでしょうか。すべては無常だという事実も、勝手な思い計らいや執着が加われば、たちまち事実無根の遍計所執に成り下がります。そうならないためには、それがまず、曲げようのない真理・真実だと深く心に刻むことではないでしょうか。すなわち、円成実という真実を見ないかぎり、依他起の事実もみえてこないのです。」

 聖書(ヨハネによる福音書・序・賛歌 神である言葉)に、「初めにロゴスありき」とでてきますね。原語はヘブライ語ですが、現代語訳では「1初めにみ言葉があった。み言葉は神と共にあった。み言葉は神であった。 2このみ言葉は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4み言葉の内に命があった。そしてこの命は人の光であった。 5光は闇の中に輝いている。そして、闇は光に打ち勝たなかった。」

 「ロゴス」は「言葉」と翻訳されますが、「理性」、「論理」、「概念」などの意味も含めて、それらを統一して初めて理解される概念であって、「言葉」に意味を限定されてしまうと、ここでヨハネが言っている意味そのものが理解されないのではないかと思います。ドイツの哲学者ヘーゲルは、世界をロゴスの現れ、ロゴスの歴史的展開だというふうに見ました。これが、「初めにロゴスありき」の意味です。ヘーゲルは、ロゴスを「あるがままのものとしての観念」と定義し、あるがままのものとしての観念が、非本来的な姿すなわち物質世界としての世界として現れてる、それがこの世界だと意味づけているようです。
 意味はともかくとして、洋の東西を問わず、真理において在る者、それが命ある存在だということでしょう。キリスト教は原罪として神の許しを乞うことに信仰の在り方を見出したのでありましょうが、仏教は自身の中に、真理に反逆する心を見出し、断煩悩の道を歩むことになったのでしょう。断煩悩も真理に触れたからこそ求むべき方向性が見出されたものだと思います。そして、この真理に、真理そのものに能動的な働きを見出したのが他力回向の概念だと思います。ただ他力回向の概念は自己と離れているものではなく、自己自身の内に、煩悩と倶に歩んでいる根本の純粋意識に触れたんだと思います。なにものにも穢されることのない無垢なる識の発見が浄土の真宗として開顕されたのではないでしょうか。
   


 

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (13) 前後しますが (8)

2015-08-16 20:25:55 | 初能変 第二 所縁行相門



 お盆休みも今日で終わりました。明日から後半戦突入です。今日はもう一題ブログ更新します。BGMでも聞きながらお読みくださいm(__)m

 「無漏の位に至る時には、勝れたる慧と相応す。分別無しといえども而も澄浄(ちょうじょう)なるが故に。設ひ実用(じつゆう)無しとも亦彼の影を現ず。」(『論』第二・三十二左) 
 
 本科段は先月の考究会において問題となったところでもありますので、まず『述記』の釈から伺ってみます。

 「述して曰く、無漏の位においては勝れたる慧と相応す。籌度(ちゅうたく・思慮すること)して相を取る分別は無しと雖も、而も澄浄(ちょうじょう)なるが故に、有漏の体是れ滓濁(しだく・にごり)なるが如きには非ず。今設ひ実用無くとも亦彼の影を現ず。即ち無と及び心等の影と無為の影等とを縁ず。無漏は親証(しんしょう・真理を直接にさとること)なるを以ての故に。無をば是れ無なりと知るが故に無等をも縁ずと云う。」(『述記』第三本・八十七左)

 無漏位に至る時、漏れるものがない澄んで浄らかな世界に至ると、勝れたる智慧と相応する。この勝れたる智慧とは、転識得智した大円鏡智のことであると『述記』は記しています。迷いの識が転じて智慧に変わるんだと。ここで思い出されることは、曽我量深先生のお言葉ですね。
    
  「浄土は言葉の要らぬ世界である。人間の世界は言葉の必要な世界である。地獄は言葉の通じない世界である」
 
 有漏の世界は言葉が必要な世界なんですね。言葉を媒介として理解しあう世界ということでしょう。ですから言葉を失ったら、対話が崩れてしまったなら人間界といえども、地獄の形相を呈するわけですね。まさに現今の安保法案の与党の姿勢は地獄そのものを演出しているかのようです。
 曽我先生のお言葉でも、先ず「浄土は言葉の要らぬ世界である」ここが起点なんですね。「言葉の要らぬ世界」は分別を超えています。無分別智の世界です。無分別の世界から、言葉を必要とする人間界が照らし出されて、言葉を超えた世界に触れていくことができるんだと教えられているわけでしょう。有分別から無分別へではなく、無分別から有分別への働きかけが、阿頼耶識を転換させる原動力になるわけですね。
 無分別ですから、実際の働きは無いんですが、智慧が鏡のようにすべてを映しだしていく。鏡の中に映ったものは実用は有りません、やはり影なんです。影なんですが「無をば是れ無なりと知るが故に無等をも縁ずと」。無なるものは無なるものであると判る智慧が備わっている、影が影であると判る智慧が大円鏡智なんですね。私たちは無を無として捉えることができず、無なるものを有として捉えてしまいます。無我なるものを有我として、無常なるものを常として執着をしています。ここから離れることができません。
 失いたくない。壊れることのないように。いつまでもこの状態が続くように執着しています。ここが紙一重だと思いますね。欲求というか、願いは染汚と浄慧の分水嶺ですね。執着は一分真実に触れている。この一分が阿頼耶識に無漏が依附していると云われていることではないでしょうか。我執が覆って闇の世界を作り出しているけれども、夜は明けているんだと。だから、仏法は生活そのものなんですね。生活の中に仏法はいつでも働いている。私たちは仏から願われている存在だということでしょう。
 仲野先生は聞法は資糧位だと、よく云われておられました。求めるに応じて出遇いがマッチングする時がある、思慮分別を捨てて聞法することが大事なことなんでしょうね。
  
 

 捨てられん自分と出遇うんですね。我が強いことが仏法を求める原動力になるんですね。我が強いことに有難さを感じた時、仏法の華が咲き誇るのでしょう。

 

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (12) 前後しますが (7)

2015-08-16 14:06:25 | 初能変 第二 所縁行相門


  「故に異熟心は心等を縁ぜず。」(『論』第二・三十二右)

  太田久紀師の講義より学んでみましょう。(奈良薬師寺唯識学寮で講義された『成唯識論抄講』p100~101より)
 「無為等を変ずるも亦実用無くなんぬ。故に異熟心は心等を縁ぜず。」とありまして、心を対象としません。その前に「無為等を変ずるも亦実用なくなんぬ。」無為は真理の世界。無為法は永遠の真理の世界。有為法は生住異滅する世界です。生まれてやがて死んでいく。生滅をするこの現実の世界。詳しくいえば、生まれてだんだん状態が変わって滅んでいく、生住異滅、簡単に云えば生滅、生まれて滅んでいくものです。これが有為法だと。私共の世界の総てのものは有為法だと、形あるものは滅していく、これが有為法。それを超越した真理の世界が無為法です。これは不生不滅、生じたり滅したりしない、真理の世界。或は真如というようないい方をします。信心的には仏様、永遠の真理のままに生きておられるのが仏様です。ここで無為法とは、永遠の真理とは「変ずるも亦実用無くなんぬ。」無為法の真理、或は仏様も私共が捉える、そうしますとそれは心の対象になってしまいますね。これが仏法だと云った時には、仏様とという永遠不滅の真理である仏様が自分の心の中の対象として小さくなってしまいます。それを「識変の無為」。ここが一番大事なところです。心で捉えた真理、心で捉えた仏様は自分の心の影にすぎない。無為法とか仏様、永遠の真理というものは人間を超えたものなんです。永遠の真理なんです。それを、識変の無為に対して、「法性の無為」といいます。ところが私共が知るのは、心で捉えてみなければ判りません。自分の心で捉えてみる。自分の心で仏様というのは、こういうものかと捉えてみなければ判らない。それしか道はありませんから、まず仏様とは何だ、心理とは何だ、とまず言葉で捉えていかざるをえないのです。その時既に自分の心で捉えてますので、それは自分の心によって変えられてしまった仏様を見ているわけです。識変の仏様です。ですから仏様それ自体
ではないではないわけです。心を対象化すればその心は死んだ心しか見られないのと同じで、真如とか仏様、無為法とか永遠の真理も自分のこころで捉えたときには、やはり影になっていると。これも先程申し上げました最後のほうで仏様と出会うことも心で出会うしかないというところにつながるのです。心で出会った仏様は本物ではない。ですから思慮分別を捨てて、捨てて、捨てて、そして仏様と出会わなかえばいけないんです。・・・「捨ててこそ」・・・ところがそれがなかなかできないんです。自分のよくで塗りたくってしまう。識変の無為ですね。心で変えた仏様、自分勝手な仏様。」
 ここまでが有漏位について述べられているところです。

 「述して曰く、此れは総結なり。問う、若し有漏の識は因縁なるを以て相有り。分別の相は未だ必ずしも体有るものにあらず。(第八阿頼耶識)は無漏の位に至る時は無分別の故に、応に無を縁ぜざるべし。因縁より生ずる故に、皆応に実を縁ずべし。」
               因縁変 ・ 第八識、前五識 (無分別)
 有漏の転変(識変〈
               分別変 ・ 第七識。第六識 (有分別・計度分別を指す)

 阿頼耶識は因縁変、種子生現行で、種子より、何の分別も加えず任運に、ものそのものを与えている。現行そのものが識変なんですね。しかし第六意識は表層意識、表層意識は現行したそのものの上に解釈(自我分別)を加えたものなんです。この自我分別が問題なんですね。自我分別は瞬間沸騰だと思います。考えるといいますが、考える余地のない、考える隙間を与えない自他分別なんでしょうか。種子から現行は因縁変ですが、現行熏種子される時に第七末那識による自他分別の働きが即座に加わって識が染汚されるのでしょう。第七末那識が任運に働くとといってもよいのではないでしょうか。
 種子生現行は因縁変として任運、現行熏種子は分別変として任運、これが有漏識の構造になり、第六意識は五十一の心所と相応すると教えられているのではないかと、勝手な解釈です。種子から生じるわけですから、種子が私の内容となるわけですね。心・心所が変現されたのが種子、種子が自己内容となるわけですから、阿頼耶識が心心所を対象としない、「能縁に不ざるが故に」です。対象化されたものは能縁の働きを持たないからですが、能縁の働きのある転識(現行熏種子)は阿頼耶識の種子から生ずるということになるのでしょう。
 本識と転識との関係は、
 転識(具体的な働き)は熏種子され、種子として所縁(相分)になるわけです。

 ここに問いが出されまして、無漏位においては勝慧と相応することを明らかにされてきます。


初能変 第二 所縁行相門 不可知について (11) 前後しますが (6)

2015-08-15 11:36:54 | 初能変 第二 所縁行相門


 (昨日FBにも紹介させていただきましたが)八尾市本町・真宗大谷派聞成坊坊守の前田智子さんに昨日お伺いして、『AKANE』(交通事故で亡くなられたお子さんの名前)の表題のある作品が世に出るまでのいきさつを聞かせていただきました。
 不慮の事故は、ある日突然の出来事でした。お父さんが今日は魚釣りに行こうと家族を誘い出かけられたのですが、その現場で酒気帯び運転(当時18歳の少年)のバイクが幼い子供の命を奪ったのです。即死だったそうです。ご両親の真横で、悲惨としてしか言いようがありません。ご両親は失意のどん底で生きるすべを失い、死ぬことだけを考えておられたそうです。周りの人たちが支えとなり、なんとか自殺だけは思いとどまられたようですが、飲酒運転あってはならないことですね。自分だけは大丈夫という過信が事故につながります。そのことは自分も他人も巻き込んで悲惨です。どうか、このような事故は偶発的ではなく、必然する結果です。「飲まない飲ませない」を合言葉に、酒気帯び運転撲滅の一助になればという思いでこの作品ができあがったようです。前田さんの優しい眼差しが旋律の中にほとばしっています。どうぞ、寄付だと思ってお買い上げください。よろしくお願いいたします。
 売り上げは交通遺児財団に寄付され、酒気帯び運転撲滅のキャンペーン及び残された家族の方々の心のケアのために使われるとお伺いいたしました。
 どうか、皆様方のご協力、よろしくお願いいたします。
 CD定価2,500円です。お申し込みは、前田智子オフィッシャルHP
           http://maedasatoko.main.jp/
 若しくは、小生のメルアドまでよろしくお願いいたします。
          anjali.tutomu@tune.ocn.ne.jp
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  「関西発!合奏団「鼎」の演奏による前田智子作品集

 関西を拠点に活動する和楽器合奏団「鼎」による前田智子作品集。不慮の事故で亡くなった女の子に捧げられた表題曲を尺八・箏四重奏に改訂、CD化。楽譜「和楽器で奏でる ステラオブあかね.M.エンジェル」も同時発売(No.5521)。「綺羅」 は合奏団創立30周年記念に作られた大合奏曲。この他、懐かしい日本の歌3曲を箏・十七絃・尺八四重奏で。」
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今日は、「識変の無為・法性の無為について」考えます。
 2015年3月3日の投稿より
 「無為等を変ぜば亦実用無くなんぬ。」(『論』第二・三十二右)  
 無為とは、為作。造作が無いものと定義されます。因縁によって生ずるものでない非現象的存在。非現象的存在とは、真理・空を表す言語です。
 「若し第八無為を縁ぜば、無為は用無し、・・・」(『述記』)
 無為は生滅変化しないもの、不生不滅の真理を表しています。、有為は生滅変化するものです。盛者必衰の理は有為法を表していますし、生は必ず死を待つ、生まれて滅んでいくものです。形あるものは必ず壊れる、作り上げてきた者は崩壊するのが理なんです。ですから有為を依り所にすると人生そのものが空虚に終ってしまう。
 「変ぜば」は「変ずるも」と読んだほうがいいのかも知れません。無為法は対象化とすることはできないと云っているのですね。対象化してしまいますと、有為法になります。仏教を学ぶ、仏法を学ぶ、仏像を学ぶ、写経をするということも無為の世界の事柄ですが、私が学ぶと云った時に、対象化されます。自分の心の影なんです。仏教を学んでいることが、私の心の影を学んでいることになります。外い向いている眼を内に見れば、自ら自分の捉えた仏教を学んでいるkとに気づかされます。しかし、仏教を学ぶことはこの方法しかないんですね。直接触れるわけにはいきません。神秘主義ではないんです。
 自分の心が捉えた無為なんですね。無為を自分の殻に閉じ込めて学ぶんです。よくいうでしょう。「仏教とは」・「南無阿弥陀仏とは」とね。「とは」が付きます。「とは」は自分が立場になっているんです。仏教より、お念仏より、自分の方が偉いんです。これを「識変の無為」と呼んでいます。しかし、仏教に触れるのはこの方法しかないんです。ですから聞くことが大事、聞いて聞いて聞きまくる。聞熏習がやがて転ずる時が来る、その時を以て、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時、即ち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」。主客が逆転するわけでしょう。南無阿弥陀仏が主になる。法が主になって、初めて仏法が聞こえてるんですね。これを他力というんでしょう。ですからね、自力聖道門といってもですね、他力でないと救済されないんです。主客の逆転に「嗚呼そうだった」と頭が下がる時に廻向が輝くんですね。
 仏教とは修行の是非をいっているのではないと思いますね。紙一重を超えるか超えられないかは「自らの力を頼りとする自力の執心が離れた時」なんでしょう。」

 学問的論文として、龍谷大学の多田 修氏が『印度学佛教学研究第四十七巻第二号』P574~P576に『円成実性の有為・無為をめぐる問題考』として論文を発表されています。インターネットでも検索できますので参考にしてください。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (10) 前後しますが (5)

2015-08-14 12:32:11 | 初能変 第二 所縁行相門
  我が心の成り立ちを探求すべく命がけで西域に経典を求められた玄奘三蔵。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして」親鸞聖人を訪ねてこられた関東の御同行の方々の思いと通ずるところがあるのではないでしょうか。ひるがえって、命がけで聞法しているのかが問われてきます。 
  「彼は実用あるを以て別に此れ従り生ずることを須ゆる。」(『論』第二・三十二右) 「彼」は八識以外の心、七識のことですが、この七識は「此れ」第八識を支えとして動いているということんですね。第八識を依り所として動いていく心には実際の働きを持っている。しかし対象化した心には実際の働きはない、それは影の心であって、心に似て現れているけれども、心が動かない限り、影もまた動かない。つまり、影は心の本体に依存しているということですから、実際の働きはないということなんです。
 私たちはこの影に怯え、むさぼりと怒りの渦の中に自分を閉じ込めているのではないでしょうか。
 自分の思い通りに事が運ぶと(順境)むさぼりの心が生じ、思い通りにならない(逆境)と、むさぼりが一転して怒りに早変わりします。何故このようなことが起こるのかですが、阿頼耶識と意識との交流がないからですね。意識はすべての心所と相応しますから、その時々の状況によって変化します。何が変化させるのかといいますと、分別心ですね。「こんなことでは駄目だ」或いは「よかったよかった」という心の対象化です。生きた心ではないということなんです。対象化された心は分別心ですね。本当の心(生きた心)は因縁によって変化するものであって、阿頼耶識を依り所として動いている、今ここにこうして動いているのは阿頼耶識を依り所として動いているんだということなんです。
 第二能変をみますと、「彼に依って転じて彼を縁ず」という一句にあたります。第七末那識は何に依って、或いは何を対象として動いているのかを示している一句ですが、「彼」は第八阿頼耶識のことです。第七末那識は、第八阿頼耶識を依り所として転変した転識、そして第八阿頼耶識を認識の対象とし、ひとえに阿頼耶識を不変なる存在として、そこに実体的な自己を重ね合わせて一途に自分が存在すると思い量る識なんですね。
 ですから、第七末那識が動くというのも因縁変なんです。自己執着心の奥深くに、第七末那識が執着を起こす元である阿頼耶識の存在があるわけですね。
 本識と転識の関係の中から見えてくる二重構造があります。
 阿頼耶識を本識として ――→ 転識

                  (相分) 第八阿頼耶識の影像
 第八阿頼耶識 = 第七末那識 〈
                  (見分)
 
 第七末那識の相分上に心を実体化して、心は有ると錯覚を起こしているわけですが、第七末那識の相分上に変現されたのは、第七末那識が転変した所の第八阿頼耶識の影像である、その影像を所縁として、見分が認識を起こしているという構図になります。しかし、この構図は水面下での動きであり、私たちには分かりません。それを意識下で理解しようと思っているわけです。意識で捉えた心をなんとかしようとあくせくしているのが現状です。
 影をいくら問題にしても解決のつかないことなんでしょうが、私たちには影を作り出している本体である第七末那識の存在がわかりませんから、意識の上で、心を実体化して、この心を何とかしようともがいているのではないでしょうか。悶々としているのは心の実体化ですね。影を本体と錯覚をして起こってくる、まさに顚倒です。
 「顚倒の善果よく梵行を壊す」
 つまり、四分義でいいますと、自証分がないわけです。自証分に相当するのが見分、見分に相当するのが相分で、外境が所縁と為る。この構図はよくわかります。私たちの意識構造はこのように働いていますからね。外界に存在するものを認識対象として了別しながら認識を起こしていますから、外界に左右されるわけです。これが顚倒の形ですね。
 外界に存在するものに執着をするのは、固定化と実体化だと思います。流動的であるのを固定化すると執着が起こります。過去の経験・情報の帰着点が今であり、今はまさに流動的であるわけですね。それは過去は固定化されるものではないということです。
 「仏法聞き難し、今已に聞く」
 仏法を聞くことがなかった自分が、仏法を聞く身に育てられたのは、すべての経験が無駄ではなかった、あり得ないことがわが身の上に起こってきたという証しなんでしょう。どうしても過去にこだわってしまうのですが、過去にこだわる、過去に縛られる、、過去に執われて後悔している自分は本当の自分ではないわね。「今已に」というところに意識構造がひっくり返るんです。阿頼耶識との対話はここから生まれてくるんだと思いますね。本当の自分に遇いたい、と。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (9) 前後しますが (4)

2015-08-13 22:10:23 | 初能変 第二 所縁行相門
  高光大船

  「異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。」(論』第二・三十二右)
  阿頼耶識の果相は異熟識。現行の果が生ずるのは因縁に随う。種子・生・現行です。生まれてきたのも、果として生まれたということでしょう。因は何かといいますと、種子。種子が因となって現行してきた所変の識には必ず実際の働きがある。
 「所縁の実種有って生ずるは皆因縁変なり。余は実の用無し。」(『述記』) 
 識体(八識それぞれ、阿頼耶識を本識として、阿頼耶識より転じた七識)のそれぞれにおいて変化したノエマとノエシスの関係はただ識が変化したもの、即ち唯識所変であると説いています。相分(認識される領域・客体的側面・種、根、器)と見分(認識する領域・主体的側面・了別)は本質より変化したものであって、因と縁によって生起したもの、任運に生ずるものであるということなんですね。
 「色等を変ずるは実種より生ず。故に所変の法は必ず体用有りと云うことを顕す。」(『述記』)

 「若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不るが故に。」(『論』第二・三十二右)
 「相分心の等きは縁ずること不るが故に」ということです。相分は縁ぜられるものであって、縁ずるものではない。縁ずるのは能変・縁ぜられるのは所変ですね。所変の中で、能縁が見分であり、所縁が相分であるということです。
 もし阿頼耶識が心を対象とするならば、という問いかけですが、この場合の心とはどういう心なんでしょうか。心が心を投げ出したのは、心の影ということになります。心は対象化できないもの、対象化できないものを対象化すると、考えられたものということになり、考えたものが心なんですね。考えられたものは外、考えたものは内、内なるものが本当の自分であって、外に投げ出された自分は自分の影ということになります。影には実用はありませんから、「心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ」と云われているのですね。
 心は本来識体ですから、能縁の働きを持つものなんです。その心が対象化されますと能縁の働きはなくなりますから本来性を失うということになります。どこまでも本体があっての影像です。私の影は私そのもではありません。私によって見つめられたものであって、見つめている私が本当の私ですね。
 阿頼耶識が心を対象化しないのは、何度も繰り返しますが、種子より生じたものなんです。種子とは何か。「本識の中にして親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。阿頼耶識は因縁変のものである、過去の経験のすべてを種子として蓄積し、その蓄積してきたものを対象として捉えていく。そこには思慮分別の差し挟む余地はないわけです。自然に、任運に、それが因縁変なんですね。
 ここは何を指し示しているのか、私は、私の積み上げてきた有漏の種子によって、私が翻弄されていることをはっきりさせようとしているんだと思います。苦悩している現実は他に因があるのではなくて、自らが自らため込んできた過去のすべてが凝縮した形で現在しているんだと。そうしますと、今何をしなければならないのかがおぼろげながら見えてくるわけでしょう。
 対象化した心を作り上げている自分が問題なんだということですね。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (8) 前後しますが (3)

2015-08-13 00:15:26 | 初能変 第二 所縁行相門
 

 「初めのは必ず用有り。後のは但だ境のみと為る。」(「論」第二・三十二右)
  初は因縁変。因縁変には必ず実の体用がある。前五識及び第八識等の所変の境である。後のは、分別変。ただ境のみとなる。第六識、第七識である。体用は無い。例えば、鏡の中の火のようなものである。
 今は、第八識は心・心所を対象としない意義を明らかにしている。
 因と縁に随って変ずるのは「任運に随う義なり、種子に随う義なり」と『述記』は述べています。任運ですから、ごく自然にという意味になります。「おのずからしからしめる」、人間の計らいを加えず、所変の境(対象の世界)を阿頼耶識は変えていくということです。種子生現行、種子から現行を生むのは自ずからしからしめるんだということですね。
 種子をどこかから持ってくるんではなく、自らの阿頼耶識の中に蓄積されたものがですね。阿頼耶識には能蔵の義・所蔵の義・執蔵の義という三義があることが云われておりました。七転識によって経験されたすべてを阿頼耶識は熏習している現実があって、阿頼耶識が核として所変の境を変ずるわけです。種子から諸法を生ずるには、必ず用がある、と。
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 私たちの意識構造はどのように成り立っているのでしょう。たとえば五識は五根が依り所と成りますが、意識は何を依り所として意識されるのでしょうか。
 意識されるのは意識される根拠があるわけですね。意根ですが、一切法を根拠とするということです。これは何を意味するのか、私には全くわかりませんでした。こういうことなんだなと教えられたのは、友のメールでした。
 それは、私たちが意識することは、突然起こることではないということです。過去の一切の経験、一切の情報伝達のメカニズムが因となって今在る自分を限定していることなんでしょう。
 私が生きている、今ここにということは、過去の生い立ちそのものが、そのものとして現在しているということなんだと思いますね。
 つまり、過去の経験というか。過去の情報が無意識の領域に蓄えられて、様々な条件を伴って今の私を形成しているんですね。
 その過去の無意識の領域は純粋意識だと教えられています。即ち、私たちは常日頃純粋経験をしているんですね。にもかかわらず純粋経験が染汚されるのでしょう。私の心の深いところでは、私が知りえないことが起こっているのですね。
 純粋経験は直接、アーラヤといわれている心の深いところにインプットされます。善は善として、悪は悪として一類相続されます。しかし表面に現れる時には、瞬時ですが、ありのままの、分別を加えない状態で私そのものとして現れてくるのです。
 本当はこの状態が私の本来性として私が願っている世界なのでしょうが、ここに分別心が働くのですね。これが厄介なのですが、この厄介さ、自己執着心が、自己執着心を超えた世界を求める原動力、エネルギーになることを忘れてはならないと思いますね。
 いうなれば、私たちは、自分が自分を投げ出した影をみて生活をしているのでしょう。影はどこまでいっても本体ではありません。影には働きがないからですね。
 私たちは、無意識の領域にインプットされた情報を依り所をして生活をしていますが、その生活が自己執着心を経由し、色付けされているということなのですね。
 でも大事なことは、いかに色付けされていても、元は純粋意識かでた染汚性ということなのです。ここに苦悩の発生する要因があります。
 自分が自分の思いによって、自分が苦悩している現実を生みだしているということですね。
 苦悩している現実は、自分が自分の思いによって作り出した状況に翻弄されているということなのです。
 普通は他に転嫁して溜飲を下げようとするわけですが、それは道理に反したことになりますから、永遠に満足するというか、頷きをえることはありません。
 紙一重といわれることは、深層意識から発信されている、このままでいいんだよ、貴方は、貴方、貴方以外の貴方になる必要が合りません、というメッセージを聞き得るかどうかですね。
 深層意識から発信されてく声を、意識がどのように受け止めるのか、意識の在り方が問われてきます。
 貴方は。今ある状況に安んずることができますか?私はどう答えるのでしょうか。
 外界は衆縁です。内因外縁という言葉が響きます。様々な縁によって私が試されているんですね。幸せを求めながら幸せになれない自分のどこに原因があるのか、と。

 友のメールは
 「小学校からの友人が大学生やフリーターでしたので、社会人だった僕よりは時間が自由でした。この時期は特によく遊びました。20過ぎの頃です。社会人、フリーター、大学生、置かれている環境、選んだ道は違えど今まで共有してきたものがありました。しかし環境が違ってくれば考え方も変化します。当時は気がつかなかったのですが、僕の立場からは、時間があり、羨ましいと思っていました。友人からすれば僕はどのように見えていたのでしょうか?当時は僕は完全に自分自身を見失っていたのでしょう。嫌な職業に就いていたから全てが嫌になっていました。嫌な職業なら辞めておけば良かったと、今でも思っています。まあ年齢的には簡単な事ではないでしょうが。もしかするともう嫌な職業という感情すら無くなってしまったのかもしれません。フリーターの友人にもフリーターをしなければならない理由もあり、大学生の友人にも行きたかった大学に行けなかったのですから。希望通りにいっていなかったのに他人は楽をしている。と思っていました。今でもそうですが。妬み僻みは生きている以上無くならないでしょう。 僕が今話した事は誰にでもあると思います。若い時は仲が良かったが、次第に疎遠になる。何故なのか? 同じ場所、同じ時間を共有することが無くなってきたから。と言うのもあると思われます。しかし一番考えられるのは自分自身という存在を時が経つにつれ意識するからではないかと。自分自身という存在を意識すればするほど他者との分別をする。分別は自分自身を中心において考える。このことにより、他者に対して妬み僻みといった感情が産まれるのではないかと。また自分自身の置かれている環境が影響力を持つと考えられるのではないでしょうか?善悪の判断、今僕の置かれている環境は平和な国です。これが平和でない環境、戦時下であれば敵を殺す事は善となってしまいます。確かに人は自分自身が一番可愛い、守ろうとする。戦時下の話をしましたが、人はいつでも他者を自分自身にとって味方なのか?敵なのか?の分別をしているのではないかと。会社の話になりますが、会社の人間を見ていていつも敵か味方か?の判断ばかりしている人間が多く感じられます。僕の妄想かもしれませんが。全体的な利益を考えず、自分自身の利益ばかりに執着していると感じます。僕はまあ多少の出世は欲しいですが、そこまでして、敵か味方の判断ばかりして働けません。それが出来るのは会社という存在があるからでしょう。会社や組織といったものからいずれは離れなければなりません。離れた時、独りになった時、どうすればよいのか?暗闇で迷子になってしまっては何故生きてきたのだろう?と思ってしまうでしょうね。僕は今が暗闇で死の間際少しでも光を見たいと思います。働かなければ生きていけませんし、全てを捨てて生きる気力なんて到底ありません。これからどのように生きていけばよいのか?自分自身の妬み僻みによって友人を無くした事は反省しなければと。勝手に友人を作り出していたのでしょう。自分自身の都合の良いように。

 河内 「よく話してくださいました。ありがとう。」


初能変 第二 所縁行相門 不可知について (7) 前後しますが (2)

2015-08-09 16:56:12 | 初能変 第二 所縁行相門
   

  阿頼耶識は有漏(迷い)の識ですが、この有漏の識が変化して現れてくる。その現われ方に二種類あって、一つは因縁変であり、一つは分別変である。初めのは、因と縁との勢力に随って変現するもので、阿頼耶識の具体相は任運の義だと教えられているわけです。種子生現行、種子より現行を生じてくることは、因が熟して果となる、異熟ですね。これには力用があって、任運である。意識的な分別ではなく、自然に因縁の力に由って識が変化することなんです。このような識の対象となったものには実際的は働き(実用)があるのです。
 「有漏の識の変に略して二種有り。一つには因と縁の勢力に随って変ず。」(『論』第二・三十二右)
  『述記』は、「因縁生というは、謂く先業と及び名言の実種とに由る。即ち要ず力有るなり。唯任運なる心なり。作意するに由って其の心乃ち生ずるには非ず。」と釈され、作意(思考・分別)をまじえなることなく、阿頼耶識が自然に対象の世界を変えていく、種子が現行を生む、過去の一切の経験が種子として熏習されているわけですが、私が生れてから現在に至るまでと言う時間経過をいうのではなく、不可知ですからわかりませんが、始めなき永遠の過去からの遺伝子情報が今、現行しているわけです。このような現行の在り方はごく自然であり、自ずから力と働きが有るわけです。これが一人一人の人格を形成しているわけですから、お一人お一人の唯識なんです。お一人お一人の阿頼耶識なんですね。三類境でいうところの性境ですね、これが因縁変になります。
 「ニに分別の勢力に随って故に変ず。」(『論』第二・三十二右)
  分別には私が入りますね。意識的な分別の力に由って変化することです。分別によって変化されたものには力用(実際の働き)がありません。考えられたものはすべて影像なんですね。影には実際の働きはありませんが、それと同じですね。詳しくは、独頭の意識の心心所の相分、第七末那識の心心所の相分、第八阿頼耶識の心所の相分をいいます。
 「作意して生ずる心なり」と『述記』は注釈しています。作意して生ずる心は、籌度(ちゅうたく)する心である。籌ははかいごと、策略という意味ですから、自分の思慮分別によって作り上げられていく自己になります。此の場合は、自分の都合のいいように策略を巡らして対象を自分で変えていくのが分別変になりますが、「籌度することのない心」が因縁変で、本当の心なんですね。
 籌度する心は、「思量し籌度して己が有と為さんと欲す」、自分の思い通りにしたいとする欲求が間違いを起こすことになるわけですね。
 『述記』はさらに「即ち六・七識が自の分別に随って作意して生ずるが故に。此れに由って六・七が無等を縁ずる時の影像の相分は実体有ること無し。」と釈しています。三類境では帯質境・独影境にあたります。
 「初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。」(『論』第二・三十二右)
  初めのは、因縁変。後のは分別変。分別変は対象となる、対象となるが力をもたない。つまり、考えられたもの、考えられた対象は任運ではなく、妄想ということです。
 随って、阿頼耶識の所縁、対象は外器・種子・五根が因縁となって現行が生ずる、心心所を対象とすることは考えられたものであって、考えられた心には、考えている心が変化したもので、考えている心には力用はありますが、考えられた心には力用は無いということになりますね。

     本則
達磨面壁す、二祖雪に立ち、臂を断つて云く、弟子、心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん。
祖云く。心をもとむるに了(つ)いに不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ。