既成仏教の方々も、新興宗教の方々も、新宗教の方々も、親鸞会の方々も、足元を見直す為に、仏陀は何を伝え、何を教えられたのか、四諦八正道の意味を深く問い、生かされてあるいのちの根源を尋ねていただきたいと思います。法華講の信者さんからコメントいただきました。有難うございます。真摯にうけとめてブログ更新していきます。
非実有難(実有に非ざる難)
古説の主張であるならば、無慚・無愧が実有(実法)ではなく、仮法になるという点からの論破になります。
実有というと、実体的に存在するものというニュアンスが強いのですが、そうではなく、種子生現行のことで、種子より生じたものということなのです。他より生じたものではなく、他より生じたものは依他起性ですね。
「若し自と他とに待するを以て二が別を立つといわば、実有に非ざるべし、便ち聖教に違しぬ。」(『論』第六・二十七右)
待は、契機とすること。依存すること。
(もし、自と他を契機として、この無慚・無愧の二つが別々の存在であることが成り立つとすれば(古説側の主張のように)、そのような無慚・無愧は実有の存在ではなくなり、仮法になってしまう。すなわち、無慚と無愧は自ツ有であると説かれている聖教に違背することになる。)
自 ――→ に対して「恥じない心」 ――→ 無慚
} 古説側の主張
他 ――→ に対して「恥じない心」 ――→ 無愧
この論理を以て、古説側は、無慚・無愧は別個の存在であると主張して、護法の論破に対して反論をします。しかし、護法はその主張には誤りがあると指摘し、ものそうであるなら、実有ではなく、仮法になり、聖教に違背することになり、古い説の主張を破斥します。
護法の論破は
自に体する時は無慚
恥じない心 〈 〉 とすると、恥じない心の分位になり、それは仮法である。
他に対する時は無愧
ということなのです。
護法の主張は、
無慚は、「自と法を顧みずして賢と善を軽拒する」ことであり、無愧は、「世間を顧みずして暴・悪を崇重すること」、その結果が「恥じない心」を生み出してくるということなのです。
「聖教に違しぬ」とあります聖教は、『瑜伽論』巻第五十五(大正30・604b)を指しています。
「復、次に、随煩悩は幾ばくか世俗有、幾ばくか実物有なるや。謂く忿・恨・悩・嫉・害は是れ瞋の分なるが故に皆な世俗有なり。慳・憍・掉挙は是れ貪の分なるが故に世俗有なり。覆・誑・諂・惛沈・睡眠・悪作は是れ癡の分なるが故に皆な世俗有なり。
無慚・無愧・不信・懈怠は是れ実物有なり。
放逸は是れ仮有なり・・・」
と、古説の誤りを指摘しています。