唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (51) 中随煩悩 無慚・無愧 (17)

2015-08-07 23:18:07 | 第三能変 随煩悩の心所


 本科段の意味するところは、諸論書で無慚・無愧が仮法として説かれているのは、癡の心所と相似しているところから、癡の等流であると説き、癡の分位であると説いているのである。ここで大切な言辞は「相似」です。相似は等同流類(同類等流)という意味で分位と述べているのであることが解ります。
 「然るに五十五に説くて、実有と為す。他の分とは言わず。此の文を正と為す。」(『述記』第六末・七十七左)
 『述記』の記述は、無慚・無愧が実物有であると説かれているのであり。他の分という、無慚・無愧を仮法としての分位等流の意味で説かれているのではない、と説いています。
 以上で、中随煩悩の二つ無慚・無愧について説き終りました。次は小随煩悩の説明に入りますが、しばらく休憩をいただきまして、初能変の心所相応門について考究をさせていただいきたいと思います。
  
 これは仏教からは離れることかと思いますが、日ごろの仕事から教えられることを述べてみたいと思います。愚痴です。私は研磨加工業を生業としておりますが、新しいアイテムの仕事が飛び込んでいますと、材料がないんですね。本社の担当と相談しながら作業を進めるのですが、今日は、とても検査が厳しい仕事があり、一旦納入したのですが、全品返品をくらいました。理由はきれいすぎる(光っていてはアカン)ということなのです。これには困りました。専門用語ではHR、ヘヤーライン(表面にわざと傷つける作業)といいますが、髪の毛が整然と整えられているところから、筋を真っ直ぐに通す作業なんです。本社には材料があるんですが、担当者が持ってこないんですね。持ってきますと言って持ってこない。とうとう今日は持ってきませんでした。納期は月曜日午前中、納期中に納品できなかったらペナルテーが発生します。まあこちらには関係のないことなのですが、何故持ってこれないのでしょうかね。「今為すべきことは何か」この問いに敏感に対応しているのが一流企業人といわれる人々なんでしょうかね。この本社の担当者の対応において私の仕事はストップしたままに週明けを待つわけですが、仕方ありません。条件が整わなかったということです。ただそれだけです。
  私の仕事は、最終作業に検査がありますから、仕事中は息抜きが許されないんです。「頭燃を払うが如くせよ」、仏教徒は息抜くことを許されない厳しさが求められているのでしょう。生死解脱の道を求めるのが仏教徒の本来の在り方です。「往生極楽の道を問う」このこと一つなんですね。世間のありとあらゆる事に左右されず、ひたすら道を求め歩む存在が、人間として人間の本来の在り方、菩薩的人間像なんでしょう。そこから思えることは、世間の仕事というのは甘いということです。
 仏教徒よ、貴方は何を求め、何を問い、何を依り所として、この迷妄の中で清閑することができるのか。
 仏教徒よ、貴方は世間の中に在って、光を放つ存在であることに誇りをもつべきであり、
 仏教徒よ、求める姿勢を失ったら、それは死を意味し、生きる屍は、死より深く人々を傷つける。
 仏教徒よ、獅子吼せよ。法を説け。寸暇を惜しんで聞法せよ。
 仏教徒よ、末法濁世の自覚を持て。時と機を失った仏法は生きた教えにはならないことに目覚めるべきである。

 「三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。」(『教行信証』化身土巻・本)