「色を厭離したる故に業果の色は無し。定果の色有りと云うことは理に於て違すること無し。彼の識は亦此の色を縁じて境とす。」(『論』第二・三十二左) 『述記』には「前に已に弁ずるが如し」と。定力所変という問題ですね。
業力所変は決定しておりますが、定力所変は決定していない、作り変えていくことができると云っているわけですね。現行の果は引業のかですから、過去の行いによって自ずから決められていくわけですね。これはl覆すことはできませんが、現行そのものを定の力によって変えていくことができると教えているのです。どのようにして変えていくのかと云いますと、「現縁の力の撃発するに随って」。今何をしているのかに関わってくるのです。現行(即)熏種子です。どのような種子を植え付けるのかが未来を決定します。今は未決定ですが「即時」が大事ですね。
仏教で大事な指針の一つに「彼岸」が語られますが、確かに彼の岸ですから未来です。しかし未来が「現縁の力」によると云われているのです。今が問題だと。彼岸が「即時」に関わってくるのですね。明日の問題ではないということでしょう。そして聞法。一度聞いたらそれでいいというわけにはいきませんね。種子生現行という生の間に「衆縁」が隠れています。現行熏種子の熏習される種子、どのような種子が熏習されるのか。それが「現縁の力の撃発するに」随うわけですから、いかに今が大事であるのかが知らされます。
次科段は「不可知」について述べられます。不可知を説き終わって『成論』巻第二が説きおわり、巻第三に入ります。第三・第六義、心所相応門が説かれます。
今日は、ある人との会話から問題をいただきました。「執着する自分をどうしたらいいのか」という問いです。執着をしているから悩んでいるのはわかります。でもそこから抜け出せないで苦しんでいます。どう解決したらいいのでしょうか、という問いなんです。皆さんも考えてみてください。
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