唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (10) 前後しますが (5)

2015-08-14 12:32:11 | 初能変 第二 所縁行相門
  我が心の成り立ちを探求すべく命がけで西域に経典を求められた玄奘三蔵。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして」親鸞聖人を訪ねてこられた関東の御同行の方々の思いと通ずるところがあるのではないでしょうか。ひるがえって、命がけで聞法しているのかが問われてきます。 
  「彼は実用あるを以て別に此れ従り生ずることを須ゆる。」(『論』第二・三十二右) 「彼」は八識以外の心、七識のことですが、この七識は「此れ」第八識を支えとして動いているということんですね。第八識を依り所として動いていく心には実際の働きを持っている。しかし対象化した心には実際の働きはない、それは影の心であって、心に似て現れているけれども、心が動かない限り、影もまた動かない。つまり、影は心の本体に依存しているということですから、実際の働きはないということなんです。
 私たちはこの影に怯え、むさぼりと怒りの渦の中に自分を閉じ込めているのではないでしょうか。
 自分の思い通りに事が運ぶと(順境)むさぼりの心が生じ、思い通りにならない(逆境)と、むさぼりが一転して怒りに早変わりします。何故このようなことが起こるのかですが、阿頼耶識と意識との交流がないからですね。意識はすべての心所と相応しますから、その時々の状況によって変化します。何が変化させるのかといいますと、分別心ですね。「こんなことでは駄目だ」或いは「よかったよかった」という心の対象化です。生きた心ではないということなんです。対象化された心は分別心ですね。本当の心(生きた心)は因縁によって変化するものであって、阿頼耶識を依り所として動いている、今ここにこうして動いているのは阿頼耶識を依り所として動いているんだということなんです。
 第二能変をみますと、「彼に依って転じて彼を縁ず」という一句にあたります。第七末那識は何に依って、或いは何を対象として動いているのかを示している一句ですが、「彼」は第八阿頼耶識のことです。第七末那識は、第八阿頼耶識を依り所として転変した転識、そして第八阿頼耶識を認識の対象とし、ひとえに阿頼耶識を不変なる存在として、そこに実体的な自己を重ね合わせて一途に自分が存在すると思い量る識なんですね。
 ですから、第七末那識が動くというのも因縁変なんです。自己執着心の奥深くに、第七末那識が執着を起こす元である阿頼耶識の存在があるわけですね。
 本識と転識の関係の中から見えてくる二重構造があります。
 阿頼耶識を本識として ――→ 転識

                  (相分) 第八阿頼耶識の影像
 第八阿頼耶識 = 第七末那識 〈
                  (見分)
 
 第七末那識の相分上に心を実体化して、心は有ると錯覚を起こしているわけですが、第七末那識の相分上に変現されたのは、第七末那識が転変した所の第八阿頼耶識の影像である、その影像を所縁として、見分が認識を起こしているという構図になります。しかし、この構図は水面下での動きであり、私たちには分かりません。それを意識下で理解しようと思っているわけです。意識で捉えた心をなんとかしようとあくせくしているのが現状です。
 影をいくら問題にしても解決のつかないことなんでしょうが、私たちには影を作り出している本体である第七末那識の存在がわかりませんから、意識の上で、心を実体化して、この心を何とかしようともがいているのではないでしょうか。悶々としているのは心の実体化ですね。影を本体と錯覚をして起こってくる、まさに顚倒です。
 「顚倒の善果よく梵行を壊す」
 つまり、四分義でいいますと、自証分がないわけです。自証分に相当するのが見分、見分に相当するのが相分で、外境が所縁と為る。この構図はよくわかります。私たちの意識構造はこのように働いていますからね。外界に存在するものを認識対象として了別しながら認識を起こしていますから、外界に左右されるわけです。これが顚倒の形ですね。
 外界に存在するものに執着をするのは、固定化と実体化だと思います。流動的であるのを固定化すると執着が起こります。過去の経験・情報の帰着点が今であり、今はまさに流動的であるわけですね。それは過去は固定化されるものではないということです。
 「仏法聞き難し、今已に聞く」
 仏法を聞くことがなかった自分が、仏法を聞く身に育てられたのは、すべての経験が無駄ではなかった、あり得ないことがわが身の上に起こってきたという証しなんでしょう。どうしても過去にこだわってしまうのですが、過去にこだわる、過去に縛られる、、過去に執われて後悔している自分は本当の自分ではないわね。「今已に」というところに意識構造がひっくり返るんです。阿頼耶識との対話はここから生まれてくるんだと思いますね。本当の自分に遇いたい、と。

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